Friday, December 24, 2010

Happy Xmas The War Is Over (If You Want It)

Img 2658 現在開催中のトランクショウには、それぞれいわくありげなモノが並んでいる。どれも、バイヤーである鄕古さんの目を通して選ばれた逸品だ。なかには、屋号である”swimsuit department"通り、古い写真でしか見かけないアメリカの水着なども出品されている。まるで女性が着るようなワンピース型で、素材はウールである。したがって、着るとチクチクするし、水分を含むとずいぶん重いに違いない。こんな水着を着て男が泳いでいた時代があったなんて、昔は案外ユニセックスだったのか。 他にも「ナニコレ?」みたいなモノが集まって興味が尽きないのだが、驚いたのはアメリカ軍、それも1940年代海軍のヴィンテージ・デニムのジャケット。コンディションも良く、なによりインディゴの風合いの、リメイクものには真似できない独特の質感が素晴らしい。
 そんな、軍の放出品であるサープラスなのだが、いったいいつ頃から僕らのワードローブの一部になったのだろう。 多分、1960年代後半にアメリカで起こったヒッピー・ムーヴメントあたりからだと思うのだけれど、僕が覚えているのはジョン・レノンだ。1969年、プラスティック・オノ・バンドとして平和活動を始めたころ、彼はカーキ色をしたフィールド・ジャケットを着てステージに立っていた。でも、戦争のためのギアを、戦争を否定するために着用し、挑発的なロックンロールを唄う彼のアイディアがすんなりと理解されることはなかった。当時のメディアの大半は「平和を利用した売名行為」とまで酷評したし、僕を含めたビートルズ・ファンも大方否定的で「ジョン、前みたいにちゃんと音楽やってくれよ」などと、不平を言ったものだった
 毎年この季節になると、僕の店の前にある私鉄駅地下のスーパーでは連日”Happy Xmas”が流れている。耳タコになっているのだけれど、良く聞き取れないフレーズがあるのでグーグルで歌詞を検索してみた。ところが、その部分にはふた通りの歌詞が存在していた。2番の中程なのだが、ひとつは”The world is so wrong”とあり、もうひとつには"The road is so long"とある。で、何回か聴き直してみたのだけれど、未熟な僕には、聴く度にどちらかに聞こえてしまう。多分、オノ・ヨーコさんなら正解をご存じなんだろうけど、どちらにしても「こんなにひどい世界」が変わるためには「とても長い道のり」が必要なことだけは確かだろう。そう、今日はクリスマス・イヴだ。

Friday, November 19, 2010

"MOBI BOOM"

Img 2566 パリでは、たまたま開催されていたFIACというアートフェアに行くことが出来た。マイアミやバーゼルと並ぶイヴェントで、世界中からギャラリーが出展している。そこでは著名なアーティストの作品が展示、即売されていた。僕の興味の範疇では、ハンス・アルプのコラージュや彫刻、コルビュジェのタブロー、チリーダのスケッチなんかが気になったところ。そうそうドナルド・ジャッドの作品も複数のブースで見かけた。値段は表記してないので、そのつど聞かなければならない。チリーダは小品だったので「もしや?」と思って聞いてみたが、やはり桁が違っていた。場所はグラン・パレ。1900年万博のメイン会場として建築されたもので、ガラスと鉄骨でアールデコ様式の壮麗なメインホールが会場となっている。各々のブースには商談用の椅子とテーブルが準備されているのだが、自分のギャラリーのセンス自慢とでもいうのか、まるで名作椅子のオンパレードだった。やはり、というかプルーヴェ率が一番高く、続いてイームズ、サーリネン、ヤコブセン、アールト、タピオヴァラ、そして柳宗理のエレファント・スツールも。フランスのものは、ピエール・ジャンヌレとピエール・ガーリッシュくらいだったか。近くでは、オークションもやっていて、ジャン・プルーヴェの「アンソニー」が目立つ場所に展示されていた。それに、ブランクーシもあった、やっぱり。
 装飾美術館では "MOBI BOOM" と題して、1945-1975年フランスの、いわゆるミッド・センチュリー・モダン展をやっていた。なにしろ、その時代のフレンチ・デザインは一般的にほとんど認知されていないのだから、これは嬉しかった。思えば80年代だったか、ジャック・タチの『ぼくの伯父さん』を観て、フランスの家具ってなんてヘンテコでカッコイイんだろー、と思ったのが最初。その後、パリへ行く度に、『2001年宇宙の旅』のオリヴィエ・ムルグによる近未来な椅子や、ピエール・ポーランの洒落たデスクなど、レアールの近く、ティケトンヌ通りにあった「シェ・ママン」という店で、随分夢中になって探したものだ。で、こうやって一同に集められた家具を見ると、やはり独特だ。ガーリッシュのプラスティック椅子にしても、イームズの完成されたプロダクト感とは違って、フォルムがずっと自由なのだ。アノニマスな美しさではなく、作家のデッサンをそのまま形にしてしまったような楽しさやユーモアが感じられる。だからなのか、フランスの家具は世界商品としては流通しなかった。というか、もともとそんな気もなかったのかもしれない、などと思ってしまうほど。それを物語るのが展覧会図録の表紙。アラン・リシャール、ロジェ・タロンをはじめ、コンテンツは素晴らしいのだが、これではやはり誤解されてしまいそうだな。

Thursday, November 18, 2010

アヌシーの教訓

Img 2366 リヨンからバスで2時間、黄色く色付いた谷間をぬってアヌシーへ向かった。スイス国境にほど近く、湖のほとりに別荘やオーベルジュが点在した風光明媚なところらしい。車中、「湯布院みたいなところだったりして」などといいながら、くねくね道に弱いウチの奥さんはいつものように寝る体制に入った。
 「フランスのヴェニス」などと呼ばれる旧市街を水路沿いに歩くと、目の前に、雄大なアルプスを背景にした湖の息をのむような景色が現れる。泳ぐ水鳥の脚先に、ゴミひとつない水底までがくっきりと透けて見えるほどの透明な水。「夏なら、すぐにでも飛び込むのに」とは、目を覚ました人らしい言葉。
 小型の遊覧船に乗って、1時間の湖水巡りをする気になったのには小さな目的があった。ずいぶん前に観たエリック・ロメールの映画『クレールの膝』の舞台となった湖面を、一度でいいからボートで走ってみたかったのだ。対岸に目をこらし、映画に出てきた石灰岩の山を眺めながら夢中になってi phoneで動画を撮った。名手ネストール・アルメンドロスが撮影した湖面には、いまも変わらぬ光がキラキラと輝いている。映画の中で、突然の雨を避けるためにボートを船着き場に止め、主人公がクレールの膝に不器用に手を置くシーンを思い出すと、今でもハラハラしてしまう。長年、付かず離れずだった恋人との結婚をいったんは決意しながら、10代のクレールに、それも”薄い皮膜にかろうじて包まれ、肉体の温もりが消えかけた「膝」”に恋した中年男。そんな、まことに「やるせない」映画が、いったい自分にとって”教訓話”として成り立っていたのか、はなはだ疑問だ。欲望から解き放たれることは、とてもむずかしいことだろう。

Friday, November 12, 2010

リヨンでブション

Img 2530 買付の旅では、食事は適当に済ますことがほとんどなのだが、今回は、リヨン=美食の街と聞いて、多少の下調べをした。すると、<ブション>と呼ばれる伝統的なリヨン料理を提供する店が良い、とあった。といっても大衆的な店のようで、いわゆるレストランってやつが苦手な僕でもOKそうである。
 到着した昼に、さっそくホテルの近くのブラッスリー“Le Sud”にランチを食べに行ってみた。ポール・ボキューズというヌーヴェル・キュイジーヌで有名な料理人が経営する店で、ブションではない。名前通り、南系の料理なので、クスクスとスズキのグリルを食べてみた。どちらも美味しかったが、味付けが甘めだった。しかし、スタートとしては申し分あるわけがない。その夜は疲れもあってメシ抜きでバタン。
 次の日は早朝からアンティック・フェアに出向き、フラフラの体で市内へ戻り、ランチを食べに、ガイドブックにあった近場のブション街へ。とりあえず一番それらしい構えの店に入り、虎の巻を出して品書きに見入る。壁中やたらに牛の剥製やらが飾ってあり、ここは元来肉屋だった様子。だから、多分肉を食べたのだろうが、記憶がない。つまり、そんな風。でも、バターと塩分が強かったことだけは覚えている。その後、やっぱりバタンで夜抜き(ま、ワインは飲んでたけど)。
 翌日は、蚤の市へ出向いたのでそこにあるカフェで昼の定食、シュークルート。ソーセージも名物らしいのだが、やはり塩分がきつい。酢キャベツが体に沁みたね。バイク好きが溜まる店みたいで、昼からみんな良い調子。僕も負けずにワインをピシェにていただく。夜は、調べておいた“Chez Paul"を尋ねて市庁舎付近をウロウロ。ようやくたどり着いたものの、予約で満員だった。もう一軒近くにリアル・ブションがあったはずと、疲れた足を引きずりつつ行ってみると、そこも満員御礼。予約という手間を省いた僕らが甘かった。美味しいブションの人気は予想以上のようである。そういえば、観光通りのブションにはなかった公認マークがあるじゃないの。コレ探してたんだよなー。
 続く日曜と祭日だった月曜は、どこも軒並みお休み。あきらめ切れず、最終日13時30分のTGVに乗る前、ランチに再トライ。12時開店と同時に席に着き、「タブリエ・ド・サプール(牛の内臓にパン粉を付け、衣を付けて焼き、クリームソースで食す。癖がなく旨し)」と、「クネル(魚のすり身をはんぺん状にしたものをバターソースで。これ又旨し。)」を急ぎ平らげる。もう時間切れなので、勘定をお願いすると「なんでデザートを食べないんだ!」と、丸々太ったオヤジに一喝されて、これまた手作りのプリンにリンゴソースとプラムジャムを、なんなく胃袋に治め、タクシーに飛び乗った。

Monday, November 8, 2010

リヨンの親切

Img 2253 パリからTGVで約2時間、その昔ローマ帝国がガリア地方を治めるために築いた街リヨンは、今ではフランス第2の都市。いつもパリばかりで、たまには違うフランスも探訪したかったのと、なにより大きな蚤の市が開かれていると聞き、訪れることにした。それに、YODEL次号がフランス特集ということも理由のひとつだった。そうそう、食べ物も美味しいってところも気になるところ。
予約しておいたホテルはローヌ川とソーヌ川に挟まれた中心街にあるベルクール広場の側で、すぐ裏通りは骨董屋街。昼前に到着後、さっそく探索。でもアンティック系が多く、フレンチモダンを扱う店は一軒だけ。ちょうどセルジュ・ムイユの展示会をしていて、本でしか見たことがない珍しいタイプのランプなどもあり、びっくり。聞くとヴィンテージではないらしく、正式なリプロダクトらしい。値段はIDEEのものよりかなり高め。もちろん、ヴィンテージほどではないけど...。美人のスタッフと少し話しをするうちに、お互い明日郊外で開かれるアンティック・フェアに行くことが分かり、ファイトが湧く。
 翌日、朝まだきの寒さの中、メトロとトラムを乗り継ぎ、最後は徒歩で空港裏手のエキスポ会場へたどり着くと、おじさん達が商品を並べ終わった頃だった。ウーンやっぱり骨董系が多い。そりゃそうだ、ヨーロッパだもの。でも、モダン一辺倒ではなく、古いものにももちろん面白いものがある。額縁や塑像、子供用の古いソリにスキー道具、ランプなどなど、どれも時間を経ているけど、まだまだ現役の顔をしている。そこかしこが欠けていたり、不完全だったりするところも、なんだか人間的で悪くない。結局、出口近くでシャーロット・ペリアンのダイニング椅子4脚を発見。けっこう遠くからやって来たらしいブロカンテなのだが、シッピングもやってくれるそうで、めでたく交渉成立。ほかにも欲しいものはあったのだけれど、なにしろ大きなものは買いにくい、ということでそうそうに断念。帰りの足がないのでバス停を尋ねているうち、太った赤ら顔のおじさんが「近くのトラムの駅までなら送ってやるよ」との申し出に、ありがたく便乗。こんな親切には、パリではお目に掛かったことがなく、いたく感激。ただし、車中、フランス語不案内な僕らにはおかまいなしに、ひたすらしゃべり続けるのには少し閉口したのだが。

Friday, November 5, 2010

RONSONの使い捨てライター

Img 2546 旅がいいののは、一日があっという間に終わることだ。朝早く起きて、仕事らしきことをイソイソとこなしてしまうと、もう夕ご飯の時間になっている。だから、日本にいる時よりタバコの本数は少なくなる。でも、吸わないわけではない。ホテルの部屋は禁煙なので、窓を開けて吸う。急いで吸うので余り美味しくはない。しかし吸う。そんな時、日本から持ってきたはずのライターが見つからないことがある。多分、毎回ある。したがって、ライターを買う。スーパーか、タバコ屋で。たいしたものはないが、ヨーロッパだと少し期待もする。最近日本では少なくなったビックはもちろん、クリケットなんていう愛らしいデザインのものがあったりするからだ。今回は、ちょっと珍しいライターに出会った。RONSONという名で、僕もタバコを吸い始めのころ"COMET"というモデルを使っていた覚えがあって、なんだか懐かしく、うれしくなった。三本パックで、色の組み合わせが5種類ほどあった。紫を除いて、グレイとネイビーが混ざっているヤツを2パック買った。外に出て、さっそく取り出して付けてみようとすると、点火スイッチの縁に赤いポッチがあった。ストッパーらしく、いったん内側に押し込んでからでないと点火しない仕組みになっている。使い捨てライターにしては、たいしたものだが、必然性はあるのだろうか。そういえば、リヨンの旧市街をウロウロしていた時、若い女性が火を貸してくれというから差し出しすと、案の定、点火できずに困ってしまった。恋人らしき男のアドバイスで無事着火できたので、僕が口を出す手間は省けたのだけれど。見ると、その男も指にタバコをはさんでいる。返してもらったライターを再度差し出すと、いらないと手振りして、彼女のタバコから直接火をもらうではないか。たくもう、いい光景だった。

Friday, October 1, 2010

dansko

Img 1990 モノ選びは、なにかと大変(だから面白い)。 なかでも靴選び。なにしろ「足元をみられる」という言葉があるように、仕上げは靴次第。どんなに服に気を遣ったつもりでも、足先に油断があっては台無しだ。なにも、高級な靴でなくてもかまわないが、出来れば出自が感じられるというか、まあトラディショナルなラインのほうが「地に足が着いた」感じだろう。だから、男の場合は、どうしてもイギリス製のベンチメイドと呼ばれる革靴などが気になってしまう。ところが、履き心地はなかなか窮屈である。ワイズが合わないと、外反母趾にもなりかねない。むかしの店員はジャストサイズを薦めたものだから、たまったものではない。その反動なのか、ここ何年僕はスニーカー党になっている。それも、あえてワンサイズ、デザインによってはツーサイズ大きめを選ぶことが多くなった。ところが、このダンスコのサイジングは不思議だ。つま先の余裕ありはもちろん、かかとも指一本の余地ありが良しとされている。じゃあ、どこで合わせるのか?あえていえば、甲らしい。つまり、サンダルみたいなものと思えばいいのだろうか?アメリカなどでは医療機関や調理人など、長時間立ち仕事に従事する人達に愛用されているらしく、ストレスも少ないとのこと。それに、形は伝統的な木靴っぽく、ヒールが高いので背が4cmは伸びた気分で視界が違って見えてしまうところも面白い。なにより、ワーキングらしい質実さが、今の気分にピッタリだ。

Friday, August 20, 2010

"FISKAS"の魚スープが恋しい

Images 暑気払いにサスペンス映画でも、と思ったのか奥さんが『マジック』という若きアンソニー・ホプキンス主演のDVDを借りてきた。1978年制作で、共演がアン・マーグレットとあり、興味が湧いた。なにしろ彼女はぼくにとって初のピンナップ・ガールだったわけであり、映画のストーリーそっちのけで、そんなに多くない出演シーンに見入ってしまった。1963年の映画『バイバイ・バーディー』で、歌って踊れるセクシー・アイドルとしてデビューした彼女は、(青臭い中学生にとっても)「小悪魔」だったのだ。でも、同じ頃見た『ラスベガス万歳』が、相手役(というか主役)のエルビス・プレスリーが苦手なぼくとしては、まるで楽しむことが出来なかったこともあって、なんだか急に熱が冷めてしまった。なにしろ、シルヴィー・バルタンやカトリーヌ・ドヌーヴなんていうヨーロッパ映画の、もっと手強い小悪魔が出現してしまったのだから仕方がない。で、その後忘れていた彼女に思いがけず再会したのはマイク・ニコルズ監督『愛の狩人』。ジャック・ニコルソンとアート・ガーファンクルが大学生に扮した、アイヴィー・ルック満載のなかなかやるせない映画で1971年制作、ただし、観たのは1980年代、ビデオだった。アル中のもとセクシー女優という「汚れ役に、体当たりしている姿(クリシェで恐縮)」は、ちょっとした感動もので、案外いい年の取り方してるんだ、などと思った。そういえば、この映画に出ていたもうひとりのヒロインがキャンディス・バーゲン。『パリのめぐり逢い』や『魚が出てきた日』(ともに1967年)なんていうヨーロッパ映画で、知的できかん気なアメリカ女を演じた大人な女優さんで、「ヴォーグ」や「ライフ」誌で活躍した写真家としても知られている。ところで、ウィキペしてみたら、ふたりともにスウェーデン人だという。ちなみに、グレタ・ガルボ、イングリッド・バーグマンという往年のスターや、近年ではユマ・サーマンなどもスウェーデン人である。だからどうだというわけでもないけど、ストックホルム、しばらく行ってないなー。"FISKAS"の魚スープが恋しい。

Wednesday, August 11, 2010

アントニオ・ヴィターリ 展

Img 1800 目黒区民センターといえば、たしかぼくがいたバンドがそこのホールでコンサートを開いたはず。大学2年の時くらいか。なんとか録り終えた初アルバムを発売した直後の、いわばデビューコンサートみたいな感じだった。連日のように、大橋にあったポリドールのスタジオでリハーサルを重ねて当日にそなえたはずだが、肝心のコンサートのことはよく覚えていない。でも、大阪出身のカメラマンだったマネージャーのNARUちゃんと一緒に写真をコラージュして作ったフライヤーだけは記憶している。そういうものだ。
 そんな場所を40年振りに訪れたのは、アントニオ・ヴィターリの展覧会のため。organで知育玩具を取り扱い始めた頃、小柳帝さんからの耳打ちで、このスイス出身の素晴らしい彫刻家の木製玩具に出会った。といっても作品集だったのだが、それでも彼の作品の魅力に触れるには充分なほど濃い内容だった。キツネや山羊、象などの動物、赤ん坊を胸に抱いた母とそのファミリーなどが、柔らかなカーブで表現されている。是が非でも実物を触ってみたいと願った。でも、子供の玩具というものは、成長する課程で破棄されてしまうものがほとんどなので、簡単に見つかるものでもない。で、今回ようやく、その全貌に触れることが出来た次第。まさに「子供が初めて手に触れる玩具はこうであって欲しい」と思ってしまう。モチロン汚れちまった大人達も。ちなみに、ヴィターリの作品はすべて廃盤だったのですが、最近ドイツで動物パズル3種類が再発されました。
「クルト・ネフ + アントニオ・ヴィターリ 展」  2010年09月12日まで
目黒区美術館 :目黒区上目黒二丁目19番15号 電話 03-5722-9300

Friday, August 6, 2010

Coper & Rie

Img 1760-2 猛暑の中、ハンス・コパー展を見るために東京へ行った。ルーシー・リー初期のカップ裏面に並んだふたつのモノグラムを見て以来、あの大きな目をした男が気になって仕方がなかったからだ。よく知られるように、1950年代のコパーはリーにとってなくてはならない存在だった。しかし、リーに比べると日本でのコパーの知名度は低い。
 1956年、コパーはパリにブランクーシを訪ねた(あいにく不在で会えなかったらしいが)。ジャコメッティにも傾倒していたという。なるほど、あのちょっと奇っ怪なフォルムには観念的なものを感じざるを得ない。しかし、実際に作品を目の当たりにすると、様々な技法を凝らしつつ、ほとんどが口と胴体を持っている。まるで、彫刻に肉薄しつつ、ギリギリのところで器として踏みとどまっているかのようだ。そのことを物語るかのように、各作品のキャプションは単に"Bowl","Pot",そして"Vase"となっている。
 見終わって、図録を買おうとしたらTシャツを売っていた。一枚は作品の写真、もう一枚のほうはリーとのツーショット。チョット迷った末、後者に決めた。自家用に使っていた中古のロンドンタクシーの運転席から顔を出したコパーにリーが何か話しかけているショットだ。マッシュルームカットのコパーはカメラを見つめ、リーの視線とは交錯していない。まさに、陶芸の世界へ誘ってくれた彼女と別れ、自身の道を走り始めようとするかのようにも見える。

Monday, August 2, 2010

"NO SHIRTS, NO FOOTWEAR, NO SERVICE"

Img 1182 マウイ島のワイルクというひなびた町にある”世界に名だたる”パンケーキ屋の入り口の窓に「シャツを着ていないひと、裸足のひとはおことわり」の注意書きがあった。そこは町の食堂みたいな場所だった。一方、高級リゾート地カパルアにある店のスタッフが着ていたTシャツの背中には、そんな人でも「ノー・プロブレム」とあった。その一帯がリッツ・カールトン・ホテルの敷地なので、ラフな格好の滞在客を意識したメッセージかもしれない。
Img 1291-1 島全体が観光産業で成り立っているのだろうが、大衆食堂にドレスコードがあって、洒落た店のほうがユルイというのも不思議なものだ。映画『ティファニーで朝食を』のホリー・ゴライトリー嬢なら、さてどっちの店を選ぶだろうか?と思ったらなんだか可笑しかった。アメリカって国は色んな試行錯誤で成り立っている。

Friday, June 18, 2010

地球が存在していれば

Img 1060 そういえば、dosaが2005年に出したカタログみたいな写真集も、今回の旅のきっかけのひとつだったのかもしれない。LAを起点に、アジアなど手仕事の美しさを生かした服作りをするクリスティーナ・キムの世界は、どのページも緑深い手つかずの森。ネイティブやヒッピーみたいな欧米人がドリフト・アウェイする様がとても魅力的だった。もっとも、その写真集が撮影されたのはカウアイ島で、今回は水先案内を引き受けてくれる友人がいるマウイ島上陸だったのだが...。
 マウイ島はアメリカ本土から直行便が出ているほどアメリカ人のフェイバリットらしく、確かにゴルフ場やコンドミニアムなど家族向けのファシリティが整備されていて快適なヴァカンスが約束されている。ビーチはゴミひとつなく、フナムシもおらず、磯臭さもなく、蚊もほとんどいないと来ている。もちろん貿易風が絶えず吹いているから汗もかかない。カナヅチで、海にはいるのがおっくうな僕みたいな人間も、木陰で本などを読むフリをしたりと、まさに言うことナシ(これでキツエンにもう少し寛容だったら、などというのは虫が良すぎる話)。そういえば、ハイウェイを時速45マイルで走っていて前方にとぐろを巻いたかのような物体を発見した奥さんは反射的に声をあげた「ヘビだ!」と。僕は冷静に(友人から聞いたとおりに)、ハワイにはヘビがいない旨を彼女に伝えた。案の定、それはロープだった。
 大昔、海底火山が隆起して出来たハワイ諸島には元来ヘビはいないらしい(時々外国船の荷物なんかに紛れ込んで侵入したヘビが発見されると、テレビで話題になるそうだ)。今でも、ハワイ島の南では海底火山が活発な活動を続けており、将来海上に隆起して島になると考えられている。ただし、それは数万年後の未来であり、地球が存在していればという条件付きである。

Saturday, June 5, 2010

HONOHONOすれば気分はALOHA,皆さんMAHALOです。

Img 1419 オアフ島へは随分昔に一度だけ格安ツアーで訪れたことがある。「ハワイなんて、どうせ芸能人御用達のパラダイス」とタカをくくっていたのだが、カラッとした空気と絶え間なく吹く風は、思いのほか気持ちが良かった。そもそもきっかけとなったのはスラッキー・ギター。ハワイアン・ミュージックでよく使われるオープンチューニングしたギター奏法である。なかでもサニー・チリングワースのCDには、仕事とプライベートの両方に行き詰まり、毎日酒浸りでくさりきっていた時期、いわば睡眠導入剤として随分お世話になったものだ。ゆるめのチューニングによる「ボヨーン」というレイジーな弦の響きと、ハワイアン・カウボーイらしい男気あふれる泣き節に、恥ずかしながら癒されてしまい、とりあえず現場を見たくなったのだ。とはいっても、3泊5日のオアフ滞在中には結局スラッキーのライブに遭遇することは出来ず、今回のマウイで初体験を期したわけなのである。
 事前の下調べでは、予約したコンドミニアム近くのホテルで毎週水曜日にスラッキー・ショーが行われているという。マウイにはスラッキーの名手が多いことは友人のKさんから聞いていたし、今回はまちがいなく生の演奏が味わえるはずだと胸が躍った。おまけにその友人が絶対食べて欲しいというランチプレート屋さんがあり、そのオーナー(サーファー&スラッキー奏者の日本人)に詳しいことを聞くように、と仰せつかってもいるので鬼に金棒だった。目印のピンク色のランチ屋台で総菜各種盛りのボックスをゲットし、翌日のショーの予約をお願いした。ショーのホストを務めるジョージ・カフモクさんはハワイを代表するスラッキーの名人らしいのだ。
 そして当夜、コンドからビーチを10分あまりHONOHONOして会場に到着した。この季節限定、パッションフルーツ入りの地ビールをひっかけて準備万端だ。入り口で予約の件を伝えようとしていると、恰幅のいいアロハ姿の男性から「ノブの友人か?」と 声を掛けられた。なんとカフモク氏本人である。そのうえに今夜は招待しますとのこと。ランチ屋台のノブさんの好意に甘えることにした。肝心のライブだが、12弦ギターによるゆったりとした演奏に夢見心地の気分。そのうちに、本当にコックリコックリとなってしまった。やっぱり睡眠導入の効果てきめんなのだ。でも、会場で購入した最新盤CDは、帰国しても連日のように店の中をALOHAな気分で満たしてくれている。MAHALOです。

Friday, June 4, 2010

カマイナ

Img 1345 少し前 kama Ainaという日本の音楽ユニットが好きで、マウイ島で録音されたというそのゆったりとしたサウンドを聴きながら、いつか行ってみたいと思っていた。だから、オアフ島から小さな双発機を乗り継ぎ、島に着いてまず友人に尋ねたことはその名前の意味だった。「波乗りをするために、ちょっとマウイへ行ってきます」といって福岡を出発し、そのまま住み着いてしまった彼と再会するのは20年以上振りのこと。「カマイナ? そう、地元の人っていう感じですかね」と教えてくれたその友人は、僕の記憶通りの真っ黒に日焼けした顔と人なつっこい笑顔だった。その昔, 捕鯨(食用ではなく、あくまでランプ用の油をとるためと聞き唖然!)で栄え、ハワイ全体を統治したラハイナという町をブラブラしながら、ふたりで少しづつ思い出話をしたりした。その頃の僕は、カウンターカルチャーみたいなものにあこがれを持ってはいたものの、サーファーには冷ややかだったと思う。ウッドストック派と呼ばれる内省的なミュージシャンとは違い、波乗り野郎なんてきっと快楽的なことばっかり考えている連中に違いないと、なかば反感さえ持っていた。そんな僕も、福岡へ戻って少しづつ友人ができ始め、若いサーファー達と一緒に酒を飲む機会が増えるにつれて考えが変わった。「結局、ヒッピー・ムーヴメントの正当な継承者はサーファーかもしれない」と独り合点したわけだ。
 彼が、最初はアメリカ本国へ行くつもりでちょっとマウイへ寄り道したところ、あまりに居心地が良くて「ここでいいか!」とアルバイトをはじめ、気がつけば2度の結婚を経てふたりの娘を育てる父となったことは、なんとなく知ってはいた。それにしても、イタリア系アメリカ人である最初の奥さんとの間の娘は今や海兵隊員で、死別した日本人の奥さんとの娘はもうすぐ高校生だと聞き、ビックリした。その娘はおばあちゃんがいる東京の学校へ進学するためマウイを離れるらしく、ちょうどお別れパーティーをやるから良かったら来て欲しいとのことだった。夕刻にマンションへ伺うと、リビングルームでは彼女の友人達が集まりワイワイやっていた。冬にはクジラが見えるというベランダに腰掛け、彼がポロッと独りごちた。「この島では混血が普通なんです。混ざってない方が珍しいかも...」。たしかに、娘の友人達の顔には色々なオリジンが透けて見える。日本、中国、フィリピン、スペイン、ベトナム、エトセトラ。しかし、ここではみんなカマイナ、国家なんていう括弧にはくくれそうにない笑顔がゴージャスだった。

Friday, May 21, 2010

「音のある休日」#24

TIMELESS / BOBBY CHARLESBobby2  " ミュージシャンズ・ミュージシャン " という言葉がある。「音楽家から愛される音楽家」という意味合いで、一般的には知名度が低い場合も多い。この遺作を聴き、ボビー・チャールズもそんなひとりだったと思った。
  1938 年ルイジアナ生まれ。ニューオリンズ音楽の作曲家としてレイ・チャールズなどにも曲を提供した白人ミュージシャンである。 70 年代にはウッドストックに移り、ザ・バンドのメンバーたちと発表したアルバムは「隠れた名盤」として聴き継がれている。その中の一曲「スモールタウン・トーク」は、はっぴいえんどで知られる曲「風をあつめて」の元ネタとも言われている。あの、くぐもった暖かいヴォーカルがもう聴けないと思うと、残念だ。
(西日本新聞 5 月 9 日朝刊)

「音のある休日」#23

The Fabric [Post Foetus]
 
Postfoetus2 曲を作り、人前で演奏し、CDを出すのはプロの仕事だった。ところが最近、あの急速に利用者が増えているtwitter(ツイッター)のように、自分なりの「つぶやき」がそのまま音楽となり、フツーに世界中の人と共有できる時代になってきたようだ。
 ロサンゼルス生まれ、4才の時からクラシック・ピアノを習得した青年が20才でデビュー。聴いてみると、自分なりの音を重ねるという、純粋な楽しさに満ちあふれた美しい作品だった。音を感じ取り、自分なりに表現する。そこには、様々なジャンルの音楽がちりばめられている。彼にとってのノートブック・パソコンは、受け手から発信者へ変わるための大切なプライベート・スタジオなのだ。
(西日本新聞 4 月 25 日朝刊)

Thursday, May 20, 2010

「〜も、カマタリ...」

Img 0957 「YODEL」という同人誌めいたフリーペーパーを始めたおかげで、毎日が加速度を付けた勢いで過ぎ去ってゆく。6月発行予定の次号でさえまだちゃんとメドが立っていないのに、気持ちは9月号に飛びかけている。コーヒーに関するコンテンツに決めてはみたものの、知らないことだらけ。焼き付けばでもいいから、コーヒーのイロハが教われないかと、休憩時間に「手音」を訪ねた。今年初のアイスコーヒーを飲みながら、村上さんに質問してみたくなったからだ。「”コーヒールンバ”で唄われる『〜モカ、マタリ....』っていう言葉だけど、モカはなんとなくコーヒーの品種だと分かるとしても、マタリもそうなんだろうか?」。僕が西田佐知子の唄ったこの曲にクラクラしたのは中学生だった頃。鼻にかかった独特の節回しが鮮烈で、リズムがエキゾチックだった。ところが、唄っている内容が摩訶不思議。まだ、ちゃんとしたコーヒーなどほとんど飲んだことがなかったわけで、まるで「判じ物」だったが、かえってそれも惹き付けられた理由だったような気がする。その頃日本史の授業で暗記したばかりの藤原鎌足(もしくは藤原釜足!)のせいなのか、「〜も、カマタリ...」と聞こえてしまったのも仕方がないことだった。「マタリっていうのは、コーヒーの原産地のひとつイエメンに昔あった港の名前です」と、村上さんから聞いて、積年の謎がようやく解けた思いがした。そのうえに「よかったらコレを読んで見てください」ということで、「こうひい絵物語」という本を貸してくれた。版画と文章でコーヒー小史を学べる本のようで、読むのが楽しみだ。

Thursday, May 6, 2010

久住登山

Img 0889 「一泊二日で久住登山をしよう」と最初に友人から誘われたのは確か去年だった。彼はそのコースを子供と愛犬を連れて踏破したばかり。僕も中学生時代に父と一緒に登ったことがある1786mの(ほぼ)九州本島最高峰という山である。さっそくENOUGHのみんなに提案したが、反応がはかばかしくない。ところが、その後同人誌を発行することになりタイトルを「YODEL」、第一号のテーマを「山」などとしたおかげで、少しずつ山への興味が芽生えかけていた。まあ、何事もタイミングが大事ってこと。晴れて今回、13才から61才まで総勢11名プラス犬二匹の即席パーティーで頂上を目指すことになった。
 朝6時半に福岡を出発、快晴の山並みを抜け、2時間くらいで6合目の登山口に到着。ここから自力で登る時間は片道4時間ほどらしい。前の晩ライブで一睡もしていないサックス青年は、なんとコンバース穿きで参加。再三にわたる友人の事細かな事前メールにも関わらず、みんな「まあ、なんとかなるさ」くらいの読みだったようだ。ところが、車を降り、いざ登り初めると早速心臓破りの急な坂。まもなく、キャドと格闘していたであろう夜型人間のひとりが早くも音を上げた。早速一回目の休憩。「こまめに水分を補給して下さい」というリーダーの言葉に、もはや汗だくのパーティー一行はゴクゴクと水を体内に注入する。もちろん、その後、いつ果てるとも知らない大小の石ころだらけで急峻な山道と格闘する羽目になるとも露知らず...。
 「神経を集中して歩いてください」との声に励まされながら、なんとかその日の宿泊地である温泉へたどり着いた時は、さすがにホッとした。もう、しばらく石は見たくもない気持ちだった。下りは特に膝に負担がかかるようで、たかだかの段差さえ、おっくうである。なんとか落伍者にならずに済んだのは、途中で足にしっかりテーピングをしてもらったおかげだろう。そうそう、軽量ステッキも貸してもらったし、なによりデイパックを替わりに背負っても頂いた。サイコーレーシャとして、遠慮なくご厚意に甘えたわけである。トレッキングシューズを脱ぎ、さて温泉に浸かって疲れを取ろうかと思ったら、膝から太ももへかけて派手に十文字に貼られたテープが現れた。バリバリと剥がしてヌル目のお湯に浸かると、山の夕暮れが、すぐそこまで迫っていた。

Sunday, April 25, 2010

「電波OKのところを見つけました」

武居さんLast Photo 今年の春は雨がちで寒かったり、なんだか憂鬱な天気が多かった。春って、実はとてもシンドイ季節だと思う。花咲き乱れ、希望に胸ふくらむ季節なんて言われるが一概にそうとはいえない。「春に逝く」という言葉があるように、いなくなってしまう人も案外多いからだ。父も母も亡くなったのは3月だし、友人の1人もそうだった。それなりの年齢だった父や母の場合は仕方がないが、僕より少しだけだが若かった友人の、それも突然の死はけっこう応えた。エッセイなんかで「親しい友が、先に逝ってしまうことの悲しさ」みたいな文章を知ってはいたが、いつしか自分もそんな年齢になってしまったのだと思い知らされた。ところが、あろうことか、その友人の4回忌に当たる日に、もうひとりの友人が逝ってしまった。二人はお互い友人で、病気が見つかったのも同じ3年前。2ヶ月とあまりに呆気なかった友人に対して、彼は3年間がんばったのだが、それにしても同じ命日になってしまうとは何とも不思議だ。カメラマンだった彼は旅とシャンペンが好きで、その柔らかい物腰で女性に優しかったし、パリではゲイにもモテた。20年以上前、初めてバリ島へ行ったのも彼の薦めがあったからだ。仕事をからめて旅をする名人で、「好きなことしかやらない」というスタンスがみんなからも羨ましがられていたものだった。そんな彼が手術も出来ないほどの病巣をかかえ、幼い子供達へ少しでも思い出を残そうとマウイ島へ行くと聞き、スゴイなーと思ったのは去年の夏のことだった。ほぼ毎日アップされる彼のブログからは、大好きだった海をじっと眺める様子がうかがえた。最後のブログは亡くなる一週間前。ちょっと不思議な言葉が残されていた。「電波OKのところを見つけました。ちょいと離れていますが、、、。とにかく、これでバッチ・グーです」。新しもの好きで、誰よりも早くi Phone を手に入れていた彼のこと、きっと彼岸でも素敵なWiFi環境を見つけたに違いない。まれに見るオプティミストよ、さようなら。

Thursday, April 22, 2010

「音のある休日」#22

「カーリ」 アレハンドロ・フラノフ

Alejandro Franov Khali インドのシタール、パラグアイのハープ、アフリカのムビラ(親指ピアノ)などを使い、アルゼンチンのマルチ・ミュージシャンが演奏するCD。しかし、一昔前の民族音楽とは一線を画している。いわば、彼の内なる世界を漂うような感覚といえばいいのか・・。時々聞こえる女性ヴォイスがある種の浮遊感をたたえていて、いつまでも浸っていたくなるようなサウンドである。
 フラノフの名前は、ファナ・モリーナという同じアルゼンチンの女性アーティストのアルバム制作でも知られている。マニアックなのに広がりがあって、様々な風景を連想させてくれるところが魅力。タイトル「カーリ」とは、フラノフの祖父の故郷クロアチアにある島名だとのこと。まるでロードムービーのようだ。
(西日本新聞 4 月 11 日朝刊)

Saturday, April 3, 2010

「ごめんやす」

Rimg0035-1 大阪はやっぱり濃い。又そこが面白い。それにくらべると、東京は一見アッサリ。でも、日本中の野心家が集まっているやもしれぬから、ちょっと用心しながら付き合う。大阪は地の人が多いせいか、初対面でもドンドンつっこんでくる。まあ、今さらの東西分析をしたところでしようがないのだが、今回の旅で、僕自身もやはり関西以西人であることを思い知った次第。
 午前中に着いて、まずは懸案だった家具屋を見学へ。京阪に乗って下町風の駅で降り、商店街をテクテク歩く。ユニークな看板が愉快。「頭のプロフェッショナル」って、脳科学系かと思いきや理髪店だし、「生まれたてのパン」ってのも言い得て妙。途中で地図を見るため立ち止まっていると、おばさんが「なんか探してはるの?」と親切な声かけ。くだんの家具屋を尋ねると「すぐ先にポリボックスあるから」と、パンクな返答。交番で地図を指し示すと「ああ、最近よーけ人が来てるとこやろ」と、お巡りさんも話が早い。目当ての家具屋は、カフェや自宅と隣接した一画を占めていてまるでちょっとしたコミューン。オリジナルの家具も良かったけれど、なによりもそのプレゼンスに驚いた。
 お昼はH氏に案内され、彼が20年前から通っているという梅田の商店街にあるお好み焼き屋へ。しっかりボディのトラッド味を堪能したのだが、焼きそばの食べ方がユニーク。それだけでも美味しいのだが、あえて溶き卵に浸けて食すのがH氏の定番らしい。もちろん、裏メニュー。まるですき焼きのようで、不味いわけがないが、ちとくどいかも。食べ終わり、狭い通路を出口へ向かう途中で店主らしきおじさんとすれ違いざまに聞こえたつぶやきが忘れられない。低い声でひとこと、「ごめんやす」。待てよ、これってパリで以前よく聞いた「パルドン」に近くはないか?最近はめっきり聞かなくなったけど・・・。

Thursday, April 1, 2010

念願かなう。

Rimg0192 大阪へ行ってきた。久しぶりだったこともあって、とても面白かった。信頼している友人達オススメのショップを訪れ、オーナーやスタッフと話をし、様々な刺激を受けることがとても大事なことだと、今さらながら思った。商品構成はもちろん、ディスプレイ、接客(というか、応対)、なによりもその店ならではの「視点」みたいなことなのか。ひとつひとつを挙げるときりがないのだけれど、たとえばgrafで見た岡田直人の陶器。以前から「一二三(ひふみ)」という、直火OKな調理鉢が好きでorganでも取り扱ってきたのだが、今回初めてテーブルウェアをまとめて見ることができた。ヨーロッパ陶器の影響下にあっても、どこか日本、もしくはアジア的な気分が感じられ、とても惹かれた。やはり、白い釉薬というのは奥が深い。白といっても、作家によってその白は自分だけの色なのだ。もうひとつ、やはり陶器作家なのだが、こちらはおもにオブジェ、それも鳥が素晴らしい。以前grafの壁一面を飾っていた鳥たちに魅了され、いつかorganでもぜひ取り扱いたいと片思いしていたRIE ITOの作品だ。北欧陶器に対するバランスの取れた姿勢が感じられ、そのうえに彼女が抽出した造形センス(それもやはりアジアの美意識といっていいような気がする)が加わっているのだからタマラナイ。また、陶器のボタンやブローチなどのアイテムにも確かな手の跡が残っていて、女性ならずともつい触手が伸びてしまいそう。念願だっただけに、取り扱いが始まりとても嬉しい。ただし、ひとつずつ手仕事ならではの作品だけに、店に来て手にとっていただければ、と思っている。

Monday, March 29, 2010

「音のある休日」#21

Shione 湯川潮音 / Sweet Children O'Mine 」
初めて湯川潮音の歌声に接したとき、我知らずドギマギしたことを覚えている。少女期には聖歌隊で歌っていたという彼女のたおやかな声が、明瞭な日本語となって真っ直ぐに耳に届くと、逃げ場がないような気がした。受け止めたいが、果たして自分に出来るのだろうか?という思いに駆られた。
 ミュージシャンの父のもと、幼少時からアメリカのロックなどに親しんでいた彼女は、今回初の英語によるカバー・アルバムを発表した。「ドント・ウォリー・ビー・ハッピー」など、いつかどこかで聞き覚えのある曲が、フォーキーな演奏をバックに伸びやかに響く。「自我を持ってしまった天使の声」とでも言えばいいのだろうか。癒されるのを待つのではなく、みずから癒す勇気がわき上がってくる。
(西日本新聞 3 月 28 日朝刊)

Monday, March 15, 2010

「音のある休日」#20

Kevin Barker Sleeve 「ユー・アンド・ミー」 ケヴィン・バーカー
 1967年、ニューヨーク近郊の芸術家村ウッドストックにある通称ビッグ・ピンクの地下室で、隠遁中のボブ・ディランはザ・バンドとセッションにいそしんでいた。この地が、その後行われる史上最大の野外コンサートで歴史に名を残すことになるとも知らずに・・・。このアルバムを聴きながら、そんなことを思い出してしまった。
 40年以上の歳月を経てまた、長髪にセルロイドの眼鏡をかけた若者の歌に音楽の力を感じている。その内省的な歌声は仲間と一緒だからこその響きなのだろう。コンピューターに頼らない生身の演奏だ。彼は、自分たちの音楽コミューンのツアー映画も撮っているらしい。観てみたいものだ。
(西日本新聞 3 月 14 日朝刊)

Friday, March 12, 2010

As is

Img 0184 パリでお世話になってるモダン家具店のピエールさんが、凄いコレクターが近くにいるから紹介しようか、と言ってくれた。ところが、あいにく今日は撮影があっていて、モデルやカメラマンそれにロシアのマフィアもいるヨ、とイタズラっぽく笑った。初対面だと構えてしまうに決まっているから、かえって好都合だと思いお願いすることにした。歩いて5分といっていたけど、最近足を痛めてしまい、杖をつきながらの彼と一緒だからか、けっこう歩いた気がした。着いてみると、雑然としたガレージみたいなところだった。フニャっと曲がったアルミ椅子を指さし、スタルクだとつぶやいた。奥に進むと、古びた壁一面に布袋(実はすべてセラミックで、誰それの作品らしい)みたいなものがかかっていて、その前に映画「トラフィック」に出てきそうなオモチャみたいな車が置いてある。ちょうどランチタイムなのか、化粧をした女性や、スタッフがプルーヴェのスタンダード・チェアに座ってお昼を食べている。黄色でかなり塗装が剥がれているのが5、6脚、無造作に置いてある。座っている人達は、この椅子がマニア垂涎の的だと分かっているのだろうか。すると、黒いスーツを着た2人連れのうちの1人が、突然話しかけてきた。「向こうにある椅子を見たか?あれは、とても珍しいフィリップ・スタルクの椅子だ」と言っているようだ。ロシアン・マフィアは椅子の買い付けに来たのだろうか?オーナー氏は「自分はディーラーではない。すべて見つけたときのままの状態である。リペアなどは一切しないのが主義である」、という旨をくりかえし説明してくれた。僕も"As is"が好きなので、まったく同感である。部屋のあちらこちらに見たこともないオブジェが散らばり、棚には資料や本がギッシリ。パリには色んな人がいるもんだ。次回は、ゆっくり会う約束をしておいとました。

Wednesday, March 3, 2010

「音のある休日」#19

Mulatu 「ニューヨークーアジスーロンドン」 ムラトゥ・アスタトゥケ
 エチオピアのジャズ、それも1960〜70年代に録音された音源である。様々な楽器をあやつるファンキーで土着的な演奏が、摩訶不思議な雰囲気を伝えてくれる。
 ロンドンやニューヨークへ渡り、当時最先端だったジャズやラテンを独自に吸収したはずなのに、彼のサウンドはなぜかオリエンタル。西洋音階から「ファ」と「シ」を抜いた「ペンタトニック」と呼ばれるメロディーは、我が演歌にも通じるもの悲しげなムードを醸しているようだ
 アフリカからアメリカへ連れてこられた黒人が生みだしたジャズ。それが逆輸入され、ふたたび現地の音楽と混交する。その時、起ち昇るルーツにはドキリとさせられる。
(西日本新聞 2 月 28 日朝刊)

「音のある休日」#18

「エブリボディ・ラヴズ・ユー」   ボビィ・アンド・ブラム

Bobby 「アンニュイ」という言葉ほど、このCDにピッタリのニュアンスはないだろう。歌っているのはスウェーデン人女性、演奏はドイツ人男性。ベルリン在住の静かな男女ユニットである。
 一見気だるそうなボーカルは、クセになる程心地いい。演奏はギターによるアルペジオと簡素なピアノやオルガン。そして密やかな日常音。いわゆる「エレクトロニカ」と称される音楽なのだが、実際には生音の響きを大切にした音作りがなされている。
 弱々しい音楽なのかもしれないが、「弱さ」というのも特徴であることに変わりはない。時には「強さ」よりも深い表現となる。まるで”つぶやき”のように、寄り添ってくれる音楽だ。
(西日本新聞 2 月 14 日朝刊)

Monday, March 1, 2010

スペインの焼き物。

Rimg0035 海外買付ツアーは、楽しいが、やはり疲れる。始終目がキョロキョロしているからだろう。道を間違わないよう、面白い商品を見逃さぬよう、はたまた犬の糞を踏まぬようにと、気を張って歩いているからかもしれない。歩くと言うことは、回りの景色が一歩一歩変わると言うこと。しかも、見たこともない景色が。したがって、常に目をカッっと見開いているのだ。試しに、隣を歩くウチの奥さんを観察すると、確かに目を開けたままひたすら前進姿勢である。しからば、意識的に瞬きの回数を増やせば少しは疲れが減るだろうか?そんなことを思いつき実行したけれど、長続きするわけがなかった。
 バスクの町は比較的のんびりだったと思う。それが、バルセロナにやってきた途端に目が開放状態に舞い戻ってしまった。スペイン第2の都市はやはり大きい。その上に、ガウディである。あのサグラダ・ファミリアの曲線だらけの構造物には少々グッタリした。もちろん、面白くないとは言わないが・・・。完成にはまだ100年以上はかかるとのこと。諸行無常の世の中で、回りを巻き込んでなんともな力業(ちからわざ)である。
 ところで、僕らのホテルがある旧市街は、例のヨーロッパ特有の狭い路地だらけ。どこも同じような景色で、夜戻るのに、道を間違わないようにするのも一苦労。ところが、犬も歩けばナントカで、帰りしな、ウチのホテルのつい近所に陶器屋を見つけた。いわゆる観光客向けなのだが、入ってみるとかなり広い。様々な意匠の焼き物が地下と、地上2階に渡りギッシリ。見るうちに、スペイン各地の陶器が集められていることが分かる。これはラッキーと、さっそく買付体制に入る。最初は、アレもコレもと欲張ってはいたが、よく考えると明日が帰国。郵便で送り出す時間もないし、手持ちといっても飛行機のマックス20kgにほぼ達している状況なのだ。泣く泣く、グラナダ焼と地元カタルニアのものに絞った。グラナダ焼の素朴な手描き模様は、フィンランドのアラビアを極ナイーブにして沖縄をまぶしたような、なんとも愛らしい風情が気に入ってしまった。イスラムの影響も感じるスペインの焼き物は、ちょっと面白い。

Sunday, February 28, 2010

Chillida Leku Museum

Rimg0491 サン・セバスチャンからバスに乗り、30分くらい走った丘陵地帯の一角にバスク人彫刻家エドゥアルド・チリーダの美術館があった。日本を出る前日に、たまたま福岡に来ていた編集者の岡本さんから耳打ちされ、俄然行きたくなったのだ。彼は日本で展覧会を観たらしく、作品はもちろん、美術館自体が素晴らしいようだから是非とも!、と薦めてくれた。始発地点ではガラガラだったバスは、途中大学らしいところから乗り込んだ若者達でいつしか満員。そろそろカナー、と思っていると、隣に座っていた小母さんが「次だヨ・・・」、みたいに身振りで教えてくれた。チリーダは有名なのである。それにしても、この親切、他者には嬉しいものだ。バスを降り、小さなトンネルを抜けると、まるで牧草地のような広い敷地が広がっている。受付のある建物を出ると、なだらかな斜面に点在する彫刻が見える素晴らしいランドスケープが待っていた。その先の細い道の向こうに遠く、目指す展示館が見えている。最早この段階で、チリーダの世界に入ってゆくわけである。当初建築家志望だった彼は、1950年にパリで開いた個展で鉄の彫刻家として高い評価を受け、その後ヴェネチア・ビエンナーレを始め、世界中の美術展で数々の栄誉を得ることになる。
Rimg0428-2 そして、1983年、故郷サンセバスチャンの地にあった古い農家を見いだし、回りの土地を少しづつ買い足しながら、世界中に散逸していた作品を集めて自身の作品を展示するスペースにしたということだ。1543年に建てられ、当時は廃墟同然だったという農家は、友人の建築家と一緒にまさに理想の空間となって生まれ変わっていた。石積みの壁に太い木の骨組みが露わな室内には、超ジャストな位置に作品が配置されていて、プライベートでコージーな空気が流れている。ちょうど「バッハへのオマージュ」と題された小さな企画展が行われていて、チリーダが書いた楽譜や文章が展示されていたのだが、その細かな筆跡は巨大な鉄の彫刻と同じ形状をしているように思える。帰り際、ショップでポスターを物色するのも一苦労。どれも素晴らしく、さんざん悩んでしまった。

Museo Chillida-Leku
Bº Jáuregui, 66
20120 Hernani
電話: 943-336006 ファックス: 943-335959
http://www.museochillidaleku.com/

Thursday, February 25, 2010

福岡一のバル。

Img 0646 今回の旅が天気に恵まれないことは、事前にインターネットの天気予報で予測できていた。実際、良くて曇り、たまに雨や雪に強風という悪天候だったのだが、気まぐれに雲の切れ間から差し込む太陽も、いかにも冬のヨーロッパという風情で案外悪くなかった。
 パリからイージージェットでビアリッツの小さな空港に降り立ったのは夜9時過ぎ。冷たい小雨に煙った瀟洒な避暑地は、閑散としている。例によって、荷物を置くのももどかしくホテルを出た。歩いて10分もかからず、町の中心であるレアール(市場)へ。ところが、その周辺に点在するバルがどこもクローズしている。海の方角へしばらく歩いたが観光客向けのバーが1、2軒開けているだけ。オフシーズンなのだと思い知る。コンビニみたいなものもなく、仕方なくホテルへ戻り、そのまま寝た。その反動もあって、翌日からは思いっきり食べた。そしたら、お腹を壊してしまった。海外では初めての経験である。丸ごとソテーした魚に、ガーリックバター・ソースをたっぷりかけ過ぎたかな、それとも旅の疲れが出たのかと考えて、薬局で下痢止めを買い、一晩寝た。翌日は何となく回復したので近郊のバイヨンヌへ行き、名物の生牡蠣を恐る恐る食べたが大丈夫だった。ところが、サンセバスチャンへ移動後2日目に、今度は奥さんが具合が悪くなった。彼女は回復に一日かかってしまったが、それでも昼間はめげずにチリーダ美術館見学に同行した。まったく見上げた根性だ。
 帰国してすぐに、福岡でガレットやシードルを出す店を経営しているマティアスさんと会い、そんな話をすると、「僕だってフランスへ戻ってレストランで食事をすると、一回はかならずお腹を壊すヨ。油分が多いからね」、と言った。多分彼は日本人体質になっているのだろう。バスク料理にしても、確かに旨いが、塩分や油分、乳分などは強いほうである。一昨日、天神へ出た際に「正福」へ立ち寄り、まよわず塩鯖定食を頼んだ。塩鯖といっても塩分はひかえめで、大根おろしが嬉しい。身体が喜ぶのが分かった。願わくば、閉店が20:00ではなく、せめて23:00くらいであって欲しいもの。そうすれば、ここはまちがいなく「Goiz-Argi」もかなわない福岡一のバルなのに・・・。

Sunday, February 21, 2010

少しだけパリと仲良くなれる気がした。

Img 0084 「なぜ旅へ出るのか」という質問には、「足があるから」と答えてみよう。ほぼ終日をかけ、自分の足で街中を歩き回る商売をしているから「足こそ命」なのである。ヨーロッパは凸凹の石畳が多い。そのうえにメトロでの煩雑な乗り換え時などは、イヤになるほど階段を上り下りしなければならない。時差をかかえたままノミの市などを探索し、小さなアイテムを見つけ、ついしゃがみ込んで子細に品定めなどしようものなら、立ち上がったときにクラクラと立ちくらみなどを起こしてしまう。で、それが苦痛かと言われるとそうでもないから不思議なものだ。なにせ、いいものを見つけたい一心なのだ。しかし、さしたる成果がないときなど、自然に足取りは重くなってしまう。それでも、限られた時間の中、また一歩足を踏み出さざるを得ない。そんなとき、人に会うとリフレッシュすることが出来る。今回は、ユカリンから紹介されたパリに住む若いアーテイスト達と、マレにあるカフェでランチを食べることになった。3人のなかで生粋のフランス人はひとり、革のアーテイスト、ジャック。フィレンツェで勉強した彼は、もとスケーター。最新の作品は自転車のフレームを丸ごと革でくるんだもの。実用というよりも、アルティザンならではのオブジェみたいな作品だ。NY育ちの韓国人ジンは画家。昨日朝まで飲んでいたらしく、気だるそうにハンバーガーを食べていた。韓国で個展を開いたら、作品が全部売り切れたらしい。後で、ユカリンに作品集を見せてもらったら、CGを駆使した近未来都市型カタストロフィーといった雰囲気だった。紅一点アメリは、日本人とフランス人のハーフで目下テキスタイルを試作中。ちょっと幽玄な手描き作品をファブリックに起こし、プロダクトとして発表する予定だとか。とても個性的な顔立ちで、お洒落な人。そうそう、ジャックのアトリエで土足について話していたら、突然自分のブーツを脱いでしまうという茶目っ気の持ち主でもある。短時間ながら彼らとおしゃべりをし、カフェから出ると、さっき店を覗いたときにはいなかったAnatomikaのムッシュー・ピエールが通りかかる。すかさずジャックが僕らを紹介する。前回買い求め、丁度その時ジャケットの下に着ていたシェットランドのセーターを見せるまでもなく、僕のことを思い出してくれた。なんだか、少しだけパリと仲良くなれる気がした。
(ちなみに写真右がジャック、左がジン、真ん中の人は無口な方で失念しました、スミマセン。)

Saturday, February 20, 2010

Donostia =San Sebastian

Rimg0336-1 サン・セバスチャンへ着いたのは夜10時を過ぎた頃だった。ビアリッツからバスに乗り、右に漆黒の海岸線を見ながら、1時間半くらい走っただろうか。バスターミナルで降り、タクシーを捕まえ、予約していたホテルへチェックイン。旧市街の入り口近く、ビルの3階フロアにあるペンションである。おそらく夫婦なのだろう、笑顔でレセプションをする小母さんと、重い荷物を運んでくれる伯父さんの、傍目にも仲が良さそうな様子がありがたい(夜遅く着き、あまり愛想の良くないナイト・ポーターに出会くらいツライものはない)。さしあたって必要なものだけをトランクから取り出し、とりあえず外へ出る。目的はただひとつ、バル。福岡にも最近チラホラ出来たバルっぽい酒場へ足を運んだものの満足できず、ここは本場へ乗り込むしかない!と、いうわけである。あらかじめ、見当を付けてはいたものの、狭い路地に点在するバスク語の看板をたよりに探し当てるのは容易ではない。気温は多分零下、海風が肌を刺す。ようやくたどり着いたのは「Goiz-Argi」という評判の店。すでに店内は満員だが、旅人は躊躇しない。「これだけは覚えておかねば」、と頭にインプットしてきた地ワインの「チャコリ」をオーダーし、目に鮮やかななタパスやピンチョスが並んだカウンターににじり寄り、やみくもに幾つかを指さして所望する。それにしても、このなごやかな雰囲気は何なんだ!常連、旅人を問わず次々に小皿をつまみ、コップを空けてゆく。サクッと飲んで去る人もあれば、延々とおしゃべりを続ける人もいる。カウンター内では、店主とおぼしき貫禄の伯父さんと、笑顔で客をもてなす小母さん(こちらも、まちがいなく夫婦と見た)が、頭の高さから小さいコップめざしてたえまなくチャコリを注ぎ込んでいる。まるで日本の立ち飲みが焼鳥屋、それに江戸時代の鮨屋と合体したかのような庶民的バイタリティにあふれている。おかげで、その日からの3日間というもの昼間からいろんなバル通い。最終日にマルシェの中を土産の生ハムを物色していると、「オーラ」というスペイン語の挨拶と共にポンと肩を叩かれた。振り向くと、そこに「Goiz-Argi」の店主の笑顔が在る。これで僕もいっぱしの常連だ。

Friday, February 5, 2010

鹿児島へ行ってきた

Rimg0043 鹿児島へ行ってきた。岡本さんの新しい本の出版記念パーティーへ出席するためだ。友人3名と一緒に高速を飛ばしてで3時間半。途中、人吉で休憩。旨いウナギと民芸店「魚座」で買い物をする。九州を縦に横断したわけだが、。気心の知れた仲間と一緒だと、あっという間だった。鹿児島に着くと、まず「菖蒲学園」へ。障害を持った人たちの施設なのだが、素晴らしい環境である。木工製品を買う。そしてパーティーへ。本でも紹介されていた13代沈壽官さんの話がとても面白かった。400年続く伝統を受け継ぎながら、新しい焼き物を目指す彼は、とてもチャーミングな人だった。夜は、前回同様「権兵衛」で湯豆腐と旨い芋焼酎。店内では三橋美智也がかかっていて、小学生の時に買ったドーナツ盤「古城」を思い出した。翌日は市内のお店を探訪。「AUL」という雑貨屋さんと「ZOOL」というDOSAが日本一たくさん置いてある服屋さんへ。途中西郷ドンの銅像の横を通った。頭にハトが留まっていて、とてもお似合いだった。

「音のある休日」#17

「ピザ・テープス」   ジェリー・ガルシア、デビッド・グリスマン、トニー・ライス
 
Rimg0047-2 ジェリー・ガルシアといえば70年代のロック・バンド、グレートフル・デッドを率いた反体制カルチャーのアイコン的存在。と同時に、アメリカン・ルーツ・ミュジックのよき理解者でもあった。
そんな彼がマンドリンのデビッド・グリスマン、ギターのトニー・ライスと即興的に録音した幻の音源がCDとなって陽の目を見ることになった。黒人、白人ブルースからフォークなど、いずれもリラックスした中にもコクのある演奏が繰り広げられている。
「天国の扉」、「朝日の当たる家」など、おなじみの曲もガルシアの温かい声で聴くと、あらためて胸にじーんと来る。ロックの歴史に刻まれたひだをかいま見るようだ。(西日本新聞 1 月 31 日朝刊)

「音のある休日」#16

ザ・ブライト・ミシシッピー / アラン・トゥーサン
 
Allen New2 ニューオリンズのピアニスト&作曲家アラン・トゥーサン。魂が解放され、天国へ行くことを祝う意味が込められた「セカンド・ライン」という、独特のファンキーなリズムを世に知らしめた名プロデューサーである。その彼がジャズの名曲をカヴァーしたアルバムを発表した。
 デューク・エリントンやセロニアス・モンクの曲が、流麗なピアノと味わい深いアレンジでよみがえる。泥臭さと洗練、古さと新しさの見事なバランスには、デキシーランドを好きな人はもちろん、ジャズ・ファン以外にも開かれた世界が感じられる。
 2005年のハリケーン「カトリーナ」の復興を支援するプロジェクトにも参加するなど、地元に根ざした音楽家らしい作品である。(西日本新聞 1 月 17 日朝刊)

「音のある休日」#15

「フロム・ザ・グラウンド」
 ヒザー・ウッズ・フロデリック
 
Heather アコースティック・ギターとつぶやきに似た可憐な歌声に、ひかえめなピアノやストリングスが彩りを添える。まるでクラシックとフォーク・ミュージックが密やかに融合したかのようなサウンドでデビューした彼女は、アメリカ西海岸ポートランドの出身。
 半導体、電子部品、情報産業の集積地として発展したこの町は、緯度がほぼ同じである札幌と姉妹都市。自然と調和した美しい都市計画でも知られている。そういえばこのアルバムにも静かだが熱い実験精神が流れているような気がする。
  「変えられるものを変える勇気と、変わらぬものを受けいるれ謙虚さ」とは、ポップスの世界にもある。さて、来年はどんな音に出会えるか?(西日本新聞 12 月 27 日朝刊)

Sunday, January 24, 2010

WOOD/WATER ZINE

Rimg0022 "WOOD/WATER ZINE"の第2号が届いた。Autumnleafというユニットで音楽をやっている石井君が仲間と発信しているリトル・プレスである。石井君には去年AU REVOIR SIMONEのコンサートが縁でorganに来てもらうようになったのだと思う。自分たちが気に入ったミュージシャンのコンサートも企画していて、先日住吉神社の能楽堂で行われたTim Kinsellaのライブは楽しみにしていたのだが、あいにく風邪を引き見逃してしまった。そんなことはさておきジン第2号。Kinselaのインタビューから始まり、うきはの山奥にあるスモーク・レストラン「IBIZA」、塩川いづみさんのイラスト、カルチャーマガジン「AFTER HOURS」の小特集、そして小生の恥ずかしインタビューなどで構成されている。地域のコミュニティの動きと、グローバルな好奇心がどうシンクロしてゆくのか、これからも楽しみ。

Friday, January 15, 2010

エリック・ロメール

Rimg0021-2 エリック・ロメールは生涯で25本の長編映画を残したが、観ることができたのは17本。最初の取っつきにくさが去り、好きになってしまうとほとんど中毒になった。初見は1982年に制作された「海辺のポーリーヌ」。「喜劇と格言劇」と呼んだシリーズの3作目。ヴァカンスを舞台に、延々と続くおしゃべりと日常のささいな出来事を、たまたまそこにカメラがあったかのように一見無造作に追ってゆく。それまで観たどの映画とも違うフランスだった。その後さかのぼって観た「六つの教訓話」シリーズの中の「モード家の一夜」では、煮え切らないジャン・ルイ・トランティニアンに我が身を置き換え、「クレールの膝」のエロティシズムにドギマギした頃にはすっかりロメールの術中にはまっていた。忘れられないのは1984年の「満月の夜」。ポンパドールがお似合いだったパスカル・オジェの実像さながらに不安定な様子と、エリ&ジャクノのキュートなエレポップ。丁度フラットフェイスのアルバムを作っていた時期と重なり、フラジャイルでルナティックだったあの時代の記憶と符合する。インディペンデントな動きが活発化した80年代、インディビジュアルな映画も元気だった。100才過ぎても、映画撮っていて欲しかった。

Thursday, January 14, 2010

「よし田」の鯛茶漬け

Rimg0007-1「よし田」は、天神にある割烹の店なのだが、ボクはもっぱら昼メニューの鯛茶漬けでお世話になっている。天ブラをして昼時になり、ふと思い出しては立ち寄ってしまう。「正福」の焼き魚もいいが、酒を飲んだ翌日に汁物が欲しくなった時に頭に電球が点くようにひらめいてしまうのだ。で、これが滅法旨い。どう旨いかというと、二度旨いのである。
 まず一度目は、秘伝のごまだれに浸され、海苔とワサビが載った鯛を良くかき混ぜたあと、箸でつまみ上げ、ご飯のおかずとしていただく。ここでは、いきなり茶漬けに行くことは、一応御法度なのである。ぷりぷりした鯛の切り身が、おひつの中で適度に水分が飛んだホクホクのご飯に突撃命令を下だす。もうこのまま食べ続けたいという衝動と戦いながら、あっという間に一膳目が終わる。二膳目のご飯は鯛がまだ半分以上残っていることを確かめつつ、かなりたっぷりめによそう。そして、未練がましくまたお刺身定食を続け、いよいよ鯛が残り半分になった頃合いを見計らって、急須に入った熱いお茶を一気に注ぎこんでしまう。これで安心、という感じで沢庵を一切れ口に入れた後、遂に決戦の時を迎えるわけである。まあ、実況中継はこれくらいにしよう。二度目の旨さは、もはやはいわずもがなだろう。どんなブイヤベースも相手にならない世界最強の”お米入り突然魚スープ”に我を忘れる至福の時間が約束されている。
 
Rimg0011-3 そうそう、「よし田」はこざっぱりとした店内のしつらえも魅力のひとつ。まるで小津安二郎の映画のセットのようにキチンとしていて、とても気持ちがいいことも書き添えておこう。

Wednesday, January 6, 2010

毛玉のシャギー

Rimg0021-1 確か中学生くらいの時だろうか、ご多分に漏れずアイビー・ルックの洗礼を受け、アメリカ東海岸の大学生ファッションに目覚めたわけだ。僕は、市内にあるアメリカ文化センターで開かれていた無料の英会話教室に、短期間だけ通っていた。先生は、まだその頃は存在していた春日原の米軍キャンプに所属する若い兵隊さんだった。ところがその先生、いまでは考えられないことだが、授業の途中でセーターの首に手を突っ込み、下に着ているボタンダウン・シャツの胸ポケットからやおらタバコを取り出して一服するのだ。それも、Vネックならまだしも、クルーネックなのだ。「なんて乱暴で、カッコイイ・・」、僕は唖然とした。それも一回ではなく、授業中多分3回くらいはその動作を繰り返していた。当然のようにセーターの首はちょっと伸びていたのだが、そこが又良かった。色は薄いグレーだったか、ちょっとダランとした感じはシェットランドだったに違いない。  
 その後、うっとりするようなアンソニー・パーキンスの着こなしや、いかにもニューヨーカーなウディ・アレンのシェットランド姿をスクリーンで見ることになったのだが、あの若い兵隊さんを越えるものではなかった。肘や脇の部分がすっかり毛玉になったセーターは、なんだか身体の一部みたいだった。そういえば、「シャギー」ってもともとシェットランド・セーターがだんだん毛玉だらけになった様子を指していたらしい。イギリスでは、そうやって親が子に伝えたものらしい。この冬は2枚のシェットランドを手に入れた。さて、立派な毛玉のシャギーに育てることが出来るのやら。その前に、問題は虫食いなのだが。