Tuesday, December 13, 2016

ウィーン世紀末の試み。

「装飾は犯罪である」と言ってのけたアドルフ・ロースに対し、同時代のヨーゼフ・ホフマンは装飾そのものは否定せずに、装飾にヴィジョンを持ち込もうとした。そのために設立したのが「ウィーン工房」。といっても個人アトリエではなく、正式名称は「ウィーン工芸美術家生産協同組合」。建築、インテリア、家具、照明、器など、それまでは富裕層しか買えなかったスグレモノを、さまざまなデザイナーと職人が協力して、安価で洗練された作品として生産することを模索した社会主義実験ともいえる。しかも、その製品を自分たち自身で販売するという、当時としては画期的な試みだったのだ。
 その母体となったのは1897年世紀末ウィーンの画家として有名なグスタフ・クリムトらが結成した「ウィーン分離派」と呼ばれる芸術家グループ。その立ち上げに参加したホフマンは「セセッション館」と呼ばれる、世界初のインディペンデントなギャラリーを開設する。制作から、販売、プロモーションまでを統一したいというヴィジョンだ。これは、同じくイギリスの「アーツ&クラフツ」から影響を受け、同じようなヴィジョンを持ったバウハウスが登場する以前だから驚く。
 「セセッション館」の比較的広い1階スペースは、あいにく何かの展示の準備の真っ最中らしく、資材があちこちに散らばっていた。ぼくらは地下にあるクリムトの壁画や、2階の企画展を観てしまうと、このこじんまりした通称”黄金のキャベツ”をあとにしようかと1階のエントランスに向かった。そして、準備中とおぼしき広いスペースの向こう側をドアのガラス越しにもう一度覗いてみた。すると、入り口から真正面、距離にして30メートルほど先にスッポリと開口部が見え、そこから庭の木々と明るい陽光が差し込んでいて、まるで写真だ。
 「やられた、これは作品なんだ!」
「準備中」に見せかけたスペースはまるごとマルセル・デュシャンのレディメイドやクルト・シュヴィッタースのメルツ芸術やダダイスム、そうそう、ドナルド・ジャッドのミニマリズムに大竹伸朗も紛れ込んだようなインスタレーションだったのだ。
 作者はベルリン在住でグルジア出身の女性アーティスト、テア・ジョルジャッツェ。彼女によって発見された日用品や廃棄物と、彼女が制作した作品が静かに再構成され、ジャストな位置に配置されている。しかし、どれが「ファウンド・オブジェクト」で、どれが「制作物」なのか判然としない。これは、さまざまな緊張関係の中で生きていかざるをえない現代生活への「気づかせ」なのか、それとも直感的で個人的なスタイルか?ネットで見つけたインタビューでのテアは、黒髪と黒い瞳にハッキリとした眉毛が印象的な美人(アッバス・キアロスタミが生きていたら、きっと映画に起用したに違いない)。ヨーゼフ・ホフマンが模索した「ヴィジョンとしての装飾」は、形を変えながらも、このセセッション館で今もなお「続行中」なのだ。ウィーンに行く機会があれば、ぜひ覗いてみてください。
ところで、日本に帰ってきてふとルーシー・リーを思い出したのは、彼女がウィーン出身だったから。急いで作品集を引っ張りだして拾い読みしてみた。すると、ルーシーがウィーンの美術工芸学校で初めて陶芸を学んでいたころ、その学校と関係の深かったヨーゼフ・ホフマンが彼女の作品を高く評価していたくだりが見つかった(実はアンダーラインを引いていたくせに、すっかり忘れていたのだけど)。そればかりか、彼が設計したブリュッセルのストックレー邸に、クリムトの壁画とともにルーシーの作品を配置し、もちろんウィーン工房でも販売し(ほとんど売れなかったらしいが)、その後ヨーロッパ各地の展覧会に出品して賞も得ている。つまり、ホフマンはルーシー・リーのスタイルを最初に発見した人。なぜかエヘン、と言いたくなった。それ以来、エンドレスな陶芸への道を歩むことになるルーシーにとって、「世紀末ウィーン」こそがスタートラインだったのだ。