Saturday, November 30, 2013

惚れなおしだ。

バーゼルから西へ向かうフリーウェイは、しのつく雨だった。僕らが乗った小型のオペルは、カラフルな企業ロゴの幌をかぶったトラックを何台も追い抜いてゆく。まるで大きな「フライタグのバッグ」が走っているようで、見ていて飽きない。つい追い抜き際にiPhoneでパシャパシャやってしまう。しかし130キロで疾走する車からではうまく写るわけがない。そのうちにゆるやかな起伏がある田舎道へ降りてしまった。家々の雰囲気が色っぽいのでフランスだとわかる。めざすロンシャンの礼拝堂は近い。
 コルビュジェは、もちろん建築家として有名だけれど、初期にはダダイズムへも傾倒していて『エスプリ・ヌーヴォー』という雑誌を出したり、キュビズム的な絵や彫刻を志向していたアーティスト肌のヒト。駐車場からなだらかな坂を登り、突然「蟹の甲羅」をイメージしたという例の屋根が目に入った途端、そのことを思い知った。そして礼拝堂に近づくに従って、見る角度ごとに変化する塑像のような曲線立体物になかばあきれた。側面に回ると、まるでニューメキシコのタオス・プエブロにあるアドビレンガ造りの教会のようにプリミティブに見える。こんな前衛的な宗教施設が、1955年によくもまあ建てられたものだ、と施主さんというか神父さまの勇気に脱帽。
 
ずっと前、コルビュジェは無宗教だったと聞いたことがあった。でも本当にそうなのだろうか。たしかにロンシャンにはキリスト教を特徴付けるさまざまな「権威的装飾」はほぼないといっていい。代わりにあるのはオーガニックな曲線と、光と影を巧みに使ったセンシティブな空間。特に、対になった小礼拝堂の、採光を巧みに利用した神秘的な美しさには、おもわず息を呑む。ステンドグラスの代わりに自身で描いたイタズラ書きのような絵も素晴らしい。それらは、彼がデザインしなければこんな風にならなかったであろう、いわば「自己本意な美学」に満ちている。しかし、他者に迷惑をかけずに自己本位であることは、とてもむずかしいことであり、誰にでもできる仕業ではないだろう。建築中の写真からは、迷惑というわけではないが、なんだか戸惑いと好奇心にあふれる人々の様子がうかがえる。コルビュジェの「住宅は住むための機械である」という有名なフレーズを、「礼拝堂は祈るための機械である」と読み替えてみる。それは、悪しき常識に頼らない、自由な個人の試みなのだ。惚れなおしだ。
 

Wednesday, November 27, 2013

ヴィトラ・キャンパスへ足を踏み入れた我ら6名の見学ツアーを待ち受けていたのは、

 
 
通用門を抜け、さっそうとヴィトラ・キャンパスへ足を踏み入れた我ら6名の見学ツアーを待ち受けていたのは、まずバックミンスター・フラー考案のドーム。 1960年代に出版された『宇宙船地球号操縦マニュアル』でヒッピーたちの熱い支持を得た彼の伝説的構築物は、見たところ仮設のイヴェント施設のよう。と ころが中へ入ってみると、まさにSF異空間。外からの光にクッキリと浮かび上がる構造フレームの幾何学的美しさに、思わずブラボーと叫びたくなる。「化石 燃料や原子力に頼らずに、地球外から得るエネルギーだけで生きること」を提唱したフラーの、ある種楽天的な思想を思わせる「ぶっ飛び空間」なのだ。
 
つづいてはお目当て、ジャン・プルーヴェ設計のガソリンスタンド。1950年代に作られたという3つのうちのひとつをここに移設したものらしいが、すっか りペンキ塗り変え済みなのか、なんだかラブリー。しかし、そうでもしないと守衛さんの小屋と間違われそうだ。少しくらい薄汚れていても、 "As is"のほうがプルーヴェらしく迫力があって良かったのに、とひとりごと。その後、広い敷地を搬送の大型トラックに注意しながら、奥へ奥へと徒歩で移動。 行く手になんだかトンガッた建造物が見えてきた。
  案内役の女性の説明トーンがひときわ高くなったと思ったら、ザハ・ハディド設計とのこと。うー ん、たしか東京オリンピックへ向けた新国立競技場の設計コンペで選ばれた女性建築家だったはず。全然認識ないし、だいたい「ポストモダン」や「脱構築」さ れた建築はかなり苦手なのだ。それにしても、外部に劣らず内部がまたヤバイ。壁や天井が斜めってる。当初はヴィトラ敷地内の火災に対応するための消防署 だったらしく消防車5台だかを収納していたという。しかし、中で働いていると船酔いするようで気分が悪い、との苦情が相次いだこともあってか、現 在はイヴェント・スペースとして活用しているらしい。当日もパーティーのためケータリング準備がされていた。ワインと壁で悪酔いしなければいいけど。

  日本人建築ユニットSANAA設計による、デッカイ円形の工場施設の外壁の未来的な美しさを見たあと、最後は安藤忠雄設計のこじんまりしたコンクリート打 ちっぱなし建築で2時間のツアー終了。「タタミ・モジュール」という聞きなれないフレーズも飛び出し、「みなさん、ツアーの最後にこ のアンドーによる落ち着いた空間に来ると、ホッとされます」という説明に日本人として、なぜかうろたえる。
 最近、大好きなArtekがヴィトラに買収されたらしい。さすが”グローバル企業ヴィトラ”、世界の家具産業をけん引する勢いなのだろうか。そのうちに、ハーマンミラーも傘下に入ったりするのかな。以上、デザイン・テーマパークからの中継でした。

Thursday, November 21, 2013

チャールズ・イームズ通り1番地。


 引き続き、歴史の勉強を少し。 
 近代国家としてのドイツの誕生は1871年、意外にも明治維新より遅く、スイスとは違って「国語」の成立が重要な役割を果たしている。1534年、ルターがドイツ中東部地方の方言で翻訳した聖書を使って「宗教改革」を始めている。そのことが、ラテン語で書かれた聖書の一元管理を打破し、普通の人々が読める開かれた「テキスト」へとつながることになる。翻訳された聖書が、当時発明された「印刷術」のおかげで出版されると史上初のベストセラーとなったのだ。そのことで、それまでのドイツ各地の様々な方言を次第に駆逐して、現在の標準ドイツ語へと認知されてゆき、結果的にゲルマン民族のアイデンティティ確立に寄与することにもなる。同じようなことはイタリアでも起こっている。ダンテがトスカーナ地方の方言で書いた『神曲』がイタリア語の規範とされ、そのことがドイツと同じく小国の乱立状態だった国を束ねる「ナショナリズムの原動力」となった。以上、柄谷行人の諸作からの付け焼刃的要約でした。
 では、「日本はどうだったんだろう?」という疑問が起こるのだが、そんな片付かない話はさて置き、ここらで少しデザインの話題を。バーゼルでお世話になったゲストハウスから車で5分も走ったドイツ領に、ご存知ヴィトラ社がある。ひときわ目立つフランク・ゲーリーが設計したミュージアムでは、照明をテーマにしたエキシビショ ンが開催中だった。バウハウスから始まる家庭用の照明器具デザインの歴史は、大半がorganでも取り扱った経験があるもので、予想したよりオーセンティックな印象。僕のお目当ては敷地内の施設なのだ。しかし、内部を見るためには、2時間の英語解説付きツアーに参加しなければならない。12時に始まるということで、いそぎ申し込んだ。 
 のっけから背の高いハキハキした女性スタッフが飛ばすのである。「我が社は”デザインと建築”という今までの家具メーカーのイメージを超え、新たに”アート”という要素をプラスした製品を世界中に展開しています」と鼻息が荒い。もともとは"ドイツ的"堅実な家具メーカーだったというヴィトラが、大きく方向転換したのはチャールズ&レイ・イームズの家具に出会ってからとのこと。たしかに、ハーマンミラー社の製品をヨーロッパで展開するようにならなければ、今のヴィトラは存在しなかったのかもしれない。その証拠と言ってはなんだが、ここの住所自体がチャールズ・イームズ通り1番地だし、通用門脇の小道はレイ・イームズ通りと名付けられている。それにもまして、金網越しに見えるジャン・プルーヴェの小さなガソリンスタンドが気になってしょうがなかったのだが。

Tuesday, November 19, 2013

スイス?ドイツ?

    
 スイスは、れっきとした国家のわりには国語を持っていない。これは近代国家=国民国家としては、ちょっと異例だろう。”同じ民族が歴史と文化と国土を共有する"のが「国民国家」といわれ、なによりもそこに住む全員の意識の平準化が望まれている。そのためのツールとして自国語が確立しないと、教育や文学などを通しての「アイデンティティ刷り込み」がむずかしいのだ。しかし、いったい固有の言語を持たずに、堅固な国防とナショナリズムをキープできるのだろうか?
 スイスが神聖ローマ帝国から独立したのは1648年。歴史上、共和国の独立としては一番古い。なにしろフランス革命の100年以上前の話なのである。宗教革命の嵐も追い風となり、小国だらけで戦争に明け暮れていたヨーロッパの封建体制からいち早く抜けだそうとしたのだ。そのためにはゲルマン系、ケルト系、ラテン民族などの複雑なミックス群の差別をさておき、まずハプスブルク家の支配からの「自治」をかかげて、3つの州が同盟を結ぶことが大事だったに違いない。そのせいか、今でもスイスは、狭い国土に26のカントンと呼ばれる州が存在し、ドイツ語圏、フランス語圏、イタリア語圏、そしてロマンシュ語圏と、カントンごとの言語が偏在している。自治権は強く、消費税率なども州によって違っている。
 バーゼルはスイス北西部、ドイツとフランスと国境を接する商業都市だ。基本的には、街の真ん中を流れるライン川がドイツとの国境線なのだが、川を超えて、ドイツ側にはみ出す格好で少しだけスイス領が存在しているからややこしい。僕らが2泊したゲストハウスはそのライン川を渡った側にあった。夜遅くレンタカーでナヴィを頼りに辿り着き、シャキシャキしたマダムから部屋へ案内され、ホテルとは違う決め事について流暢な英語でひと通り説明を受けた。その時である。不意に僕は今自分がいる場所を俄然確認したくなってしまった。バーゼルにいるのだから当然と思い「ここはスイスですよね?」と尋ねるとそれまでニコニコしていた彼女は毅然となって、「ドイツです」と答えた。



Thursday, November 7, 2013

ゾフィー・トイバー=アルプ。

 
スイスの通貨は、EUに加盟していないので当然だけど、ユーロではなく自国のスイス・フラン。これが、ちょっと斬新なのだ。2000年に発行された紙幣は、日本や アメリカのように一般的な横使いではなく、表も裏も縦使いの構図をとっている。これは、世界中でいまのところスイスだけらしい。さすが、デザイン立国。さらに、6種類の紙幣に登場するメンツが興味深い。よくありがちな「立志伝中の偉人」ではなく、カルチャーやアート、デザイン寄りの人選で、野暮な政治家などはナシ。おなじみなのは、やはり10フラン札のル・コルビュジェか。そして100フラン札はアルベルト・ジャコメッティ。そのほかは哲学者、作曲家、 小説家で、いずれもタダモノではない気配。そんな中に、ただ一人女性がいる。ゾフィー・トイバー=アルプ。あのハンス・アルプの奥さんだった人である。  
 ハンス・アルプは「チューリッヒ・ダダ」の中核メンバーのひとりで、不定形でオーガニックな彫刻や絵は、たぶん何処かで目にした人も多いはず。第一次大戦という未曽有の状況下で、挑戦的な芸術闘争としてのダダイズムをトリスタン・ツァラらと始めたが、その後シュールリアリストとも交流を持ち、生涯に渡って独自の立ち位置を選んだアーティスト。元来は「詩」が得意なのだが、彫刻家のゾフィーと出会い結婚、二人で創作活動をするうちに彫刻へとシフトしていったようだ。アメーバみたいな形をした独特の彫刻作品は、そんなゾフィーとの良きパートナーシップの現れといえるのかもしれない。
 そんなゾフィーの作品の一端が、つい最近までパリのパレロワイヤルにある国立セーブル陶磁器製作所のギャラリーで展示中だったことを知った。初めて写真で見る彼女の家具は、二人が使うためにデザインされた1点もののシンプルな箱状の棚で、今回限定復刻されたものだ。ひとつでも、また積み重ねても使えるミニマルでモダンなかたちは、とても90年前にデザインされたものとは思えない。バウハウスから派生し、その後のプルーヴェ&ペリアン、ドナルド・ジャッドなどに連なってゆく、稀有な作家性みたいなものを、勝手に感じてしまう。
 写真は右端がゾフィー・トイバー=アルプ(左端にル・コルビュジェ、真ん中は作曲家アンテュール・オネゲル)で、帽子をかぶった思慮深そうな晩年の顔とは別に、若いころの写真を見ることができる。小さいのでわかりづらいだろうが、ボーイッシュで、はにかんだような表情がとても素敵なのだ。 

Monday, November 4, 2013

organの書体。



 そろそろスイスに入ったかなと思ったとたん、前方にゲートらしきものが見えたので、ここらには珍しく料金所かと思いきや、税関ではないか ! スイスは西ヨーロッパのヘソみたいな位置にあって、何故かEUに加入していない。だから国境には一応入国管理所があるわけだ。
 前の車に合わせるようにスロウダウンしてすり抜けようとしたら、制服の男が手招きをして車を脇へつけて停車するように指示するのでその通りにするしかなかった。すると、後ろに積んでいる箱には何が入っているのかと男が尋ねる。「衣類やおみやげなどだ」と通り一遍の返事をしたのだが、あきらかに納得していない様子だ。確かにオペルの小型ハッチバックの後席を占める大きなダンボール箱3箱のお土産物とは、ちと不自然か。中身を見たいというので、「やれやれ」と思いつつ、車を降りるしかなかった。一個目の箱を開けると、まず昨日ミュンヘンで見つけたカイザー・ランプが二つひょっこり顔を出した。これは日本から持ってきたのかというから、こちらで買ったものだというと、男の耳のピアスがキラっと光ったような気がした。なんだかやっかいなことになりそうな予感がしてきた。それにしても、制服、制帽でピアスである。つい、官憲に対する反抗心がムラムラと芽生えて、ワイルドになってゆく言葉遣いを奥さんから、小声で注意される。すると「外国からスイスに持ち込むのでなければ、通ってよろしい」とのお言葉。拍子抜けしたが、もちろん、さっさと立ち去った。
 スイスといえば「永世中立国」である。といっても軍備はバッチリ、徴兵制もある。なにより中世以来資源の少ないスイスの産業のひとつは「傭兵」。つまり、外国へ出かけて行って戦争をするプロを輸出する国だった。今では、九州くらいの国土に700万人の人口を、金融と精密機械と観光で養い、世界有数の国民所得を誇っている。EUに加盟しない理由も「足を引っ張られたくない」ことが理由だという。なんとも自己本意な国である。そんな国へやって来たのはほかでもない、デザインの国でもあるからだ。たとえば、日常で意識せずに目にするアルファベットで最もポピュラーな書体ヘルベチカはこの国から生まれた。というか、ラテン語で「スイス」を意味する言葉が、そもそも「ヘルベチカ」なのである。写真にある管理所のロゴはモチロン、我がorganの書体もそうである。

Wednesday, October 9, 2013

ハワイ島には、自然世界そのものがゴロゴロしていて、飽きることがない。

今回のハワイ島(オアフも若干)の旅を振り返っててみよう。
 まずは、食べ物。タロイモをすりつぶしてペースト状にした昔のハワイの主食とされる「ポイ」。通は、2日くらい寝かし、少し酸っぱくなったポイと、タロイモの葉っぱをくるんで蒸し焼きにした豚と魚「ラウラウ」を一緒に口に入れるとのこと。そのやさしい塩味は、ポリネシア、インドネシア、はたまた日本の田舎のお祖母ちゃんの味に通じるものだ。食のアメリカ化で、一時は忘れられていたが、最近はローカル料理として人気復活。元来、牛は食べなかったこともあって、豚や魚が旨い。オアフにあるHelena's Hawaian Foodsは19:30には閉まってしまうが、並び覚悟で(予約不可)、駆けつけるだけの価値がある食堂だ。
 
買い付け的には、ハワイ島のひなびた町や国道沿いに、アンティック屋が点在しているのがウレシイ。たとえばホノカアにあるHonokaa Trading Antiques。おなじみTIKIや、古いガラス瓶をはじめ、ガジェットからスーベニア、メインランドのものまで、もちろん玉石混交。ボクは、最近すっかり少なくなったニイハウ・シェル のブレスレットや、ハワイ固有の木「コア」のウッドボウル、それにオキュパイド・ジャパンの陶器の人形などを買ったが、店主のおばさまはなかなか手強い。でも、憎めない。そういえば、ハワイは沖縄と並ぶ米軍基地の島でもある。だから、サープラスものも多い。年代物のベーカーパンツやセイラーハットなんかが、ひっそり眠っているからあなどれない。
 

そして観光。まずは、やはりボルケーノ群に圧倒されたい。今も活発な活動を続けるキラウエア火山。そこから車で一気に海へ向かって下ると、溶岩流が海に到達して、道路に巨大なウンコとなって固まった異様な光景が待っている。Road Closedだ。そのほか、ワイピオ渓谷の神秘的な光景、オアフではダイヤモンドヘッド初登頂と、地球を相手に汗だくになってみるのもいい。そうそう、タブーを破ったり、戦いが苦手な人を保護したという、古代ハワイの不思議な神殿があった聖地プウホヌア・オ・ホナウナウの静けさも良かった。とにかくハワイ島には、自然世界そのものがゴロゴロしていて、そのことだけでも飽きることがない。


Saturday, October 5, 2013

ホテル・ホノカア・クラブでのこと、の終わりに。

以下のことは、日本へ戻ってきてから調べてみたことだ。
 Katsuこと後藤濶は、明治政府が募集した第一回の移民994名の中のひとりとして、1885年日本からハワイへ渡っている。そして、3年間の契約でプランテーションで働き、その間に蓄えたお金でジェネラルストアを開店したらしい。店も軌道に乗り、英語がしゃべれたこともあって、労働者と経営者とのトラブルや交渉事の世話をしたりしていた。そんな中で、リンチに遭ってしまったのは1889年、ハワイへやってきて4年。まるで西部劇の中の出来事のようだが、本当に起こった事件なのだ。
 
 写真の碑文では、後藤濶のことを「サトウキビ栽培労働者の人間としての尊厳と労働条件の改善を実現した労働運動の草分け的存在だった」とたたえている。

 ところで、19世紀なかばから”Go West”の掛け声で西部開拓に邁進したアメリカは、ついにメキシコからカリフォルニアを奪い、太平洋へ至る道を開いている。その後は、中国への野心をいだきながら、海路ハワイに進出、その後日本へ来航したペリーが開国を迫ることになる。その間、ハワイには多数の宣教師や入植者が移住して、当時アメリカで需要が急増していた砂糖製造のためにプランテーションを経営し、ついには島々の経済的実権を握ってしまう。そのままアメリカに併合されることを恐れた国王カラカウアは1881年、なんと日本を訪問し、内密に移民を要請している。その結果、ハワイに日本人が急増してしまう。そして、それが、アメリカにとっては面白くなかったことを想像することは難しくない。
 真珠湾アタックを待つまでもなく、明治時代のハワイにおいて「日米衝突」が起こっていたことを、ホノカアというちっぽけな町が気づかせてくれた。それにしても、アメリカにしろ日本にしろ、「国家」というワクグミからは、ろくなことは見えてこない。しかし、嘆いてみても、それが消滅する気配もまるでない。最後にひとつ、ジョリーが言ったことで記憶に残っていることがある。様々な民族がミックスするハワイだが、日本人の混血は少ないらしい。明治時代に移民した男たちは、ハワイで配偶者を探す気がサラサラなく、遠く日本からお嫁さん候補を船で呼び寄せていたそうである。

Friday, October 4, 2013

ホテル・ホノカア・クラブでのこと、の続き。

 ホテル・ホノカア・クラブのいい具合にくたびれたダイニングルームで、僕はジョリーに日本人移民の話をアレコレ聞いていた。それは、今回の旅の目的のひとつだったし、彼はそのことを尋ねる相手としてピッタリだと思ったからだ。
 唐突に「Katsuを知っているか?」と問われて、知らないと答えた。「随分昔、Katsuはこの先にある電柱に吊るされた。彼は砂糖きび畑で働く労働者の良い相談相手だった。アメリカ人とも対等に話ができる日本人だったんだ」。ショッキングな話だった。Katsuの記念碑が町のハズレに立っているから、もし興味があるなら、明日行ってみてはどうか、と勧められた。
  翌朝、ホテルの隣家の庭で育ったというマンゴーやバナナ、そしてパン&コーヒーという簡素だけど、そのどれもが滋味に満ちた朝ごはんを食べ終わった時にジョリーから声をかけられた。
「昨日話したKatsuの記念碑、もし良かったら僕のカートで連れてゆくよ、その前に郵便局に寄ってよければね」とのお誘い。ひょっとして、カートって、いつもホテル玄関で目印代わりになっているピンク色の、おそらくゴルフ場のお下がりらしきモノのことか? アレって公道を走っていいのか? 僕には断る利用は何もなかった。
 かくして、ホノカアのノスタルジックなメインストリートを、大人3人を載せたビークルが、爽やかな島風にあおられて疾走することわずか3分でまずはUSPSのサインがある建物へ到着。そして、今度は町の反対の方向へ走って、ホテルも通り過ぎ、間違いなく5分で記念碑の前に着いた。その間、ジョリーは知り合いの何人かと、あろうことか、すれちがったパトカーにも挨拶を忘れなかった。なにがリベラル左派なものか、彼は正真正銘ラブリーなアナキストに違いなかった。

Thursday, October 3, 2013

ホテル・ホノカア・クラブでのこと。




正式名を「ホテル・ホノカア・クラブ」という。砂糖きびプランテーションで働く日本人労働者たちのために建てられたのは、1903年。「クラブ」と付いているところに往時を感じてしまう、今年で110年という文字通りのヴィンテージな建物だ。現在のオーナー、アネリーとジョリーはオアフ島出身で、ここを買い取って経営をし始めたのは14年前。あちこち手直しはした のだろうが、建物を含め、できるだけオリジナルを使い続けていて、そんなところに感激してしまえる人にはおすすめのホテルだ。中国系のアネリーは、 テキパキとレセプションをこなす女将さん。その間、白人の旦那さんジョリーは玄関でゲストを相手にいつまでもおしゃべりをしている。ここは、そんな、ふたりの役割分担がかいま見える、気のおけない洋風の旅籠(はたご)といった風情だ。

 ホノカアはとても小さな町だから、夜になると食堂は早く閉まってしまう。しょうがないので、一軒だけあるスーパーマーケットで惣菜みたいなものを買ってきて、部屋で食べようとしたら、玄関のところでアネリーに呼び止められた。「カトラリーやお皿、必要だったらうちのを使ってね、よかったらこっちで食べたらどう?」。しからばお言葉に甘えて、ということで、たまたまダイニングルームでひとりハンバーガーを食べようとしていたジョリーと一緒のディナー・タイムとなった。
 ぼくらが日本から来たことを知ると、ひとしきりバブル時代のオアフや、マウイ島開発で、いかに日本のグローバル資本が派手なことをやったかを解説してくれた。つまり、バブル後がいかに不景気かということらしいのだが、いつしか話は健
康保険の事になった。「日本は皆保険だけれど、アメリカは個人加入なので、リッチじゃないと自分の健康も守れない」との言葉に、「でも皆保険はオバマの選挙公約でしょ?」と訊くと、「巨大な保険会社のロビー活動のおかげで、多分ムリだね」。そういえば、ジョリーはオバマと同じホノルルの高校卒だとも言っていた。アメリカが変になったのはレーガンが大統領になった頃からだ、なんてことも。どうやら彼はリベラル左派と見た。それは、その夜の最後に聞いた、ある日本人移民の話を聞いて、確信へと変わった。

Tuesday, October 1, 2013

”やさしい社会科 Vol.3” 「原発」


秋だというのに、サンマを食べるのにも躊躇する自分がいます。今の政府の安全宣言をうのみにできないからです。
ドイツは与野党を超えて、脱原発を成し遂げました。日本はなぜ出来ないのでしょう。「フクシマのあと、脱原発に踏み切った国は、核兵器を持っていない国だけです」と、柄谷行人さんは言っています。
三回目の「やさしい社会科」は、今、避けて通ることができない問題について、みんなで話します。
有識者はいませんが、有意識者はいます。たどたどしくてもいいんです、ぜひご参加ください。

10月8日(火)20:00-22:00 @albus Tel:092-791-9336 福岡県福岡市中央区警固2-9-14
参加費500円、飲み物、持ち込みOK。(席が限られますので、予約をおすすめします)
出席する人:石井勇(autumnleaf) ,酒井咲帆(Albus) ,武末充敏(organ) ,武末朋子(organ) ,野見山聡一郎(soichiro nomiyama design) ,あなた。

Friday, September 27, 2013

アメリカの一部。

 しばらく途絶えていたハワイアン・エアが去年だったか再開したおかげで、福岡から直接ホノルルへ行くことが出来る。自宅から空港までタクシーで20分、そこ から8時間半の楽園である。飛行時間はもちろん短いに越したことはないが、前回のマウイ島みたいに、成田での長い乗り継ぎ時間がないのが、なにより嬉しい。その時は、古い友人を訪ねることが目的のひとつだったのだけれど、今回はハワイ島の田舎町を訪ねながら、ビッグ・アイランドをレンタカーで走り 回るつもりだ。もちろん、途中で見かけたアンティック屋をしらみつぶしに襲うことは、言うまでもない。 
 初めての機内に乗り込み、席に着くと同時に気がついたことがある。前席シートの背に普通ならあるはずの個人用モニター画面が見当たらないのだ。ということは、そこかしこに設置された画面に向かい、せ~のでみんな同じ映画を観るということなのか? うーん、かなりローテクだが、楽園に向かうのだから文句は言えないのだと、いつものように酒の力を借り、うたた寝を決め込む覚悟をした。ところが、安定飛行にはいった途端、全員にiPadが配られた。なるほどこれならクッキリと好きな角度で自由に観ることができて案外悪くないかもしれない。映画のプログラムに『ホノカアボーイ』があった。今回はじめてホノカアを訪れる身としては下調べが必要なので、さっそく観ることにする。以前レンタルでなんとなく観たことがあるのだが、「倍賞千恵子はオバサンになってもラブリーだ...淡いミントグリーンの建物がなんてノスタルジックなんだろう」などと思っているうちにウツラウツラ、意識が遠のいた。
 目が覚めて時計を見るとホノルル到着まであと2時間強。さてもう少し時間を潰さねば、と今度は試しに"ハワイの仏教"を扱ったドキュメントを選んでみた。するとこれが面白くて、しばし目が釘付けになってしまった。日系人のために移入された仏教は、その人口がハワイ諸島全体の40%を占めるようになるに従い、独自の発展をとげたようだ。人々の寄付により、各地に建立された寺は当初は簡素なバラック建てだったが、徐々に立派になり日本の渋い寺とは違う奇異なデザインになる。それは「葬式と法事の為だけ」という形式だけの仏教ではなく、移民のキビシイ生活に寄り添う「ハワイ独特の仏教」へ変化したということか。この島々には先住民であるポリネシア系をはじめ、様々な人種が移民、入植している。イギリス人クック船長に発見され、その後ポルトガル人、中国人、フィリピン人、そして日本人などが上陸した太平洋のど真ん中にポッカリ浮かんだ火山島は交通の要所でもある。そしていわずもがな、ここが、まぎれもなくアメリカの一部であることを、着陸そうそう、否応なく認識させられてしまう。
 


Sunday, August 25, 2013

”やさしい社会科”

「国家」と「国」、どう違う?

さあ、そろそろ社会の話をする時間です。
難しそうだけど、実は面白い。
ひょっとすると、音楽や映画やファッションに負けず劣らず、あなたの想像力を刺激します。
2回目のテーマは、いつも当たり前に使う「国」と、つい構えてしまう「国家」という言葉。何がどう違うのでしょう。
「国家」は本当に「共同幻想」なのか?
セルジュ・ゲンズブールがテレビで500フラン札を燃やした意味。
「ローカル」と「グローバル」。
何故、聡明といわれる日本人が、ときどきひどい下痢をするのか? 
などなど、硬軟織り交ぜた話題を交えて、「国民国家」を考えましょう
たどたどしくてもいいんです、一度足を運んでみませんか。
9月6日(金) 20:00-22:00 @albus 福岡県福岡市中央区警固2-9-14 Tel:092-791-9336
参加費500円、飲み物、持ち込みOK。
(席が限られますので、予約をおすすめします)
出席する人:石井勇(autumnleaf) 、酒井咲帆(Albus)  、武末充敏(organ)  、武末朋子(organ)  、野見山聡一郎(soichiro nomiyama design) 、あなた。

Wednesday, August 21, 2013

さいたさいたチューリップのアナが…

    
 フィンランドの田舎道をレンタカーで走っていると、一瞬ポートランドの続きのような気がしてくる。つい一ヶ月前の出来事だからということもあるが、緑豊かな自然の中を対向車もなく、風景と一体となって走り続けていると、ついそんな錯覚に陥りそうになるのだ。でも、いったんフリーウェイに乗ると、事情は一変する。一直線の広い道を様々な車が100kmを超えるスピードですっ飛ばし、ひたすら目的地へ向かうだけの世界へ突入してしまう。時々、ガスステーションとサービスエリア、そしてショッピングモールがあらわれる。このシステムを世界中に広めたのはアメリカなのだろう。いや、最初のアイデアはアウトバーンだった。 国民がフォルクスワーゲンに乗って好きなところへ行けるというヒトラー総督のアイデアだったはず。ドイツ帝国が夢想し、アメリカ帝国が実現したものは、それ以外にもたくさんある。最悪なのは、原子爆弾。ナチスから逃れたユダヤ人科学者達が原爆開発を成し遂げ、日本が最初(で今のところ最後)の被爆国となった。なのに、なぜかそのアメリカの文化に憧れ続ける自分がいる。これは、ずいぶん居心地が悪いことである。
 フィスカス村で泊まったB&Bの女主人は、年のころ50歳くらい。庭の喫煙できるテラスでタバコをプカプカ吸いながら、「わたし日本のうた歌えるわよ。さいたさいたチューリップのアナが…」とぼくらを歓待してくれた。次の日だったか、彼女と若いボーイフレンドが表紙を飾るコミュニティ新聞をロビーで見つけた。どうやら彼女はこの辺りでは有名人らしい。ところで、彼女の足は車ではなくハーレーダビッドソンだ。そういえば、田舎道をドライブ中、 ハーレーに乗ったヘルス・エンジェルス風の人達をかなり見かけたっけ。この国にも、アメリカ文化に影響を受けて屈折してしまった人達がいることは、アキ・ カウリスマキの映画でもおなじみだ。ただし、「世界の警察」を標ぼうする、独善的国家としてのアメリカに批判的なのは言うまでもない。救いは、そんな政府のやり方に対して、色んな分野から「それは間違ったやり方だ」という自分なりの意見をいう普通の人々がアメリカには存在していること。これだけは日本がまだまだ真似しきれていない点だろう。写真は途中で立ち寄ったカフェ。まるでセルジュ・ゲンズブールの映画『ジュテーム』に登場する架空のアメリカン・ダイナーのようだ。

Friday, August 2, 2013

モダニストとは多かれ少なかれ社会主義者だったのです。


 フィンランドは、日本とほぼ同じくらいの国土なのに、530万の人間しか住んでいません。これは、大阪府全体より少ない人口です。ちなみに首都ヘルシンキは60万人だから福岡市の半分しかありません。したがって、マリメッコやアルテックの本店がある目抜き通りを歩いても、どうかすると天神より人が少ない。これで大丈夫なんだろうか、と余計な心配をしたくなるところですが、一人当たり国民所得はドイツ並なのです。その上に教育システムが整っていて、英語をはじめスウェーデン語など複数の外国語を話せる人も珍しくありません。長く実質支配していたスウェーデン、その後のロシア、ソビエト連邦から独立したのは1917年と、国民国家としては、実は新しい。その間、スウェーデンからは重工業を含めた資本制自由主義を取り入れ、ソビエトの国家共産主義、社会主義路線との間で微妙な舵取りをしながら、東西冷戦の時代を独自のスタンスで切り抜けてきたようです。そして、その姿勢はデザインの世界にも表れていると思います。それは、まるでバウハウスのように「資本主義経済がもたらした技術を受け入れると同時に、資本主義経済に対抗するという両義的な運動だった(K氏)」のかもしれません。アルヴァー・アールトの三本脚のスツールと、タピオ・ヴィルカラの精緻なガラス・オブジェが、どちらもこの国から生まれたことは、決して偶然ではないはずです。モダニストとは多かれ少なかれ社会主義者だったのだと思います。

Thursday, July 25, 2013

永久革命商品。


  フィンランドのデザイン、それも1950年以前の作品が、最近また新鮮に映るのは何故なんだろう? そんな疑問を持ちながら「ガラス街道」を旅してみました。なかでも、Nutuajarvi(ヌータヤルヴィ)という、今年220周年を迎えたフィンランド最古のガラス工房は、前々からぜひ訪れてみたかった場所。そこのミュージアムは創業時の工場をそのまま使ったもので、素晴らしいガラス作品はもちろんですが、木型を始め、様々な機械や道具が陳列され、当時の製作風景を偲ぶことができます。ちょっと化学的で硬質な印象を持つガラスが、実は働く人たちの汗と創意工夫でもって製品として成り立つという、いわばアタリマエのことにとても感心しました。そして、その労働者はきっと、ヌータヤルヴィの製品を日常生活でも使っていたに違いない、と思ったんです。なぜかというと、ハーマンミラー社の社員がイームズの家具を一番愛用していたということを聞いたことがあったからです。Kさんから教わったことのひとつに「労働者は同時に消費者でもある」というのがあります。自分が生産に携わった製品を、消費者として、いわば買い戻すという行為は、その製品への信頼がなければ成り立たないはずです。それからもうひとつ。以前マリメッコの作品集で、働いている人それぞれが、工場で好みの色のヨカポイカのシャツを着ているのを見て、フムと妙に納得したこともあります。その時はひょっとすると演出かな、と疑ったのですが、きっとそうではない気がします。世界中で見かける「ストライプ」は、伝統的な柄であり、時にユニフォーム的でもあります。そして、ストライプを直線ではなく、少し揺らいだ線にして色も多色を用意して遊び心を加味したことで、各人の好みを反映することができます。この先は、僕の独断なのですが、このことはフィンランドという国の成り立ちに関係しているのかもしれません。それは、経済的には資本主義だけど、一時的にせよ共産主義時代を経て、その後は社会主義福祉国家を目指していることと無縁じゃないと思います。シンプルで美しいデザインを実現すれば、余分とも思える意匠や機能を持たせた様々な商品に惑わされることも少なくなる、というわけです。そう、モダン・デザインという名前をした永久革命商品のようなものかもしれませんね。

Wednesday, July 24, 2013

フリマで見つけるアートピース。


   去年の冬にフィンランドを訪れた際、友人から紹介された「common」へ行ってみました。ヘルシンキで一番好きな地域FIVE CORNERSにある小さな店には、新旧を問わず日本の優れたアイテムが並んでいます。長崎出身の店主、中村さんは東京のBEAMSに勤務していて、北欧や民芸が好きになり、ついには奥さんと一緒にフィンランドへ移住したとのこと(スゴイ決断力がうらやましい)。そんな中村さんと話をするうちに、フィンランドの魅力のごく一部しか知らない自分に気がつきました。そして、教えてもらった、田舎で開かれるフリーマーケットに、ぜひ行ってみたいと思ったわけです。  
 それはヘルシンキから車で1時間、Fiskarsという小さな村で開催されていました。僕も愛用していて、最早これ以外は使えないと思っているほど切れ味がよいハサミを生み出す、創業なんと1649年という製鉄の工場跡地を利用した、夏限定のフリマなのです。出店しているのは、ヘルシンキにある店をはじめ色々です が、どれもそれなりにクォリティが高いことに驚きました。アメリカやフランスなどに比べると、いわゆるジャンク系のものが少なく、おかげで目の酷使が少な くて済みます。その代わりに、欲しいものがありすぎ。特にガラス製品には要注意。美術館に置いてあるものが普通に並んでいます。といってもガラスの事です から古い薬瓶やコップ、花瓶など実用品が多い。でも、そんな日常使うものが良い形をしているって、サイコーだと思いませんか? もちろん(プロなら誰でも知っていそうな)かなりレアなアート作品にも出会えます。そんな時は「ヤッタ!」と内心で叫ぶのですが、その後の値段交渉が待っ ています。まあ、そんな過程を経てorganにたどり着いた品々、良かったらジックリと観てやってください。   
会期:2013.7.25(木)〜8.11(日) 

Tuesday, July 2, 2013

強論に負けそうな自分への叱咤。


1970年代のはじめには、サンフランシスコを離れたヒッピーたちが、ポートランドに流れ着いた。その寸前、1969年8月には、ニューヨーク近郊、ウッドストックにあるマックス・ヤスガー所有の牧場内で、(当初の予想1万人をはるかに超える) 40万人以上の(自称&他称)ヒッピー達がロックコンサートに集まっている。ポートランドに流れ着いたのは、ヒッピーというレッテルに嫌気が差した人達 だったのだろうか。
 移民やその子孫で成り立っているアメリカだから、伝統指向やアイデンティティが希薄なのは仕方がない。かといって、それぞれが勝手に自分の原理でやるかと思うと、案外そうでもないらしい。実は「互いに他人がどうするかを見ながら、それを基準にする社会」だとKさんは言う。だからこそ、「アメリ カでは大衆社会、消費社会が最も早く、抵抗なく実現された」とも。
 ところで、ウッドストックに出演したザ・バンドの演奏はまるで受けなかった。かれらの音楽はラブやピースを声高に歌うどころか、南北戦争や大恐慌時代を連想させるクライ曲で、フラワーなヒッピーたちのお祭りに水をさした格好だった。
 その当時ボクは、新宿駅東口で学生やフーテンが渾然一体となった騒ぎを横目に、下宿に引きこもり、ヘッドフォンでザ・バンドの『ザ・ウェイト』を繰り返し聴 きながら、下手な歌詞を考えていた。気分だけはいっぱしのヒッピーだったが、音楽や映画に自分の想像を加えただけのもの。ベトナム戦争には反対だったけ ど、ベ平連のデモには参加しなかった。野音のロックコンサートへは行ったけれど、お目当ては女の子だった。つまり、「なにか面白いことないか子猫ちゃ ん?」だった。
 ザ・バンドのメンバー5人のうち4人はカナダ人である。アメリカとカナダは言語&文化を共有して今では友好的に見える が、独立直後のアメリカは、カナダの当時の宗主国イギリスと度々深刻な領土問題を起こしている。実は、ポートランドを含むオレゴン州についても双方が領有を主張、アメリカ側のメディアは、当時世界のヘゲモニーを握っていた大国イギリスに対して<戦争やむ無し>と世論を煽っていたことを、最近知った。オッ ト、ここで「領土問題」や「ナショナリズム」が古くて新しい問題であることが言いたいのではなかったが、なにしろ参議院選挙が間近なのである。国家同士が、良き隣人として存在することって、本当に可能なんだろうか、イヤ無理に決まっている、という強論に負けそうな自分への叱咤でもある。写真は、ただ一人のアメリカ人リヴォンだけが後ろを向いているザ・バンドの2ndアルバム・ジャケのアウトテイク写真。意味深。

Thursday, June 13, 2013

オレゴン州の自然は変化に富んでいる。

 
ポートランドのダウンタウンから車で1時間も走るとコロンビア川の雄大な渓谷が眼の前に広がり、そこから内陸へ向かうと1時間くらいで州の最高峰マウント・フッドの中腹へ着いてしまう。その間、ポートランドでは雨だったのが次第に曇りへ、その後少し晴れ間が、と思ったら山道は雪まじり。天候がめまぐるしく変わる。この季節での積雪にびっくりしたのだが、ここは一年を通してスキーができるのだそうだ。そうそう、ここのスキーロッジは映画『シャイニング』の冒頭で使われているんだった。キューブリック・ファンとしては見逃せない。実は、あまり期待していなかった内部が、とてもおもしろかった。1930年代にルーズベルト大統領のニューディール政策の一環で建てられた「山小屋」は、木材、鉄、織物などすべて地元の材料と職人を使ったローカル製。そのどれもが、アメリカならではの骨太なクラフト感にあふれ、ネイティヴなモチーフと、白人開拓者のラフネスが不思議なハーモニーを奏でていた。ところが、そこから東へひた走ると、風景は草原から次第に乾燥地帯へと変化してゆく。このへんまで来ると、いかにもアメリカらしい空がズズーンと広がり、雲の形もさまざまで見飽きることがない。「子供の頃、西部劇で絶対見たことがあるゾ!」と、思わず呟きたくなる景色のオンパレード。そんなドライブでは、音楽が欲しくなる。今回は抜かりなく、けっこういろんなCDを持っていった。ポートランド出身で今はドイツで活動するピーター・ブロドリックに、LA出身シュギー・オーティス、そしてヴァン・モリソンのアメリカでのコミューン暮らしの佳作『テュペロ・ハニー』も良かった。でも、一番聴いたのはIWAMURA RHUTAの『SUNDAY IMPRESSION』という発売前のサンプルCD。ぜんぶの曲が1分台の小曲12曲、全部合わせても17分のアルバムをカーステレオでひたすらリピートモードにして聴いていた。みどり色の風景に、ピアノの音がしっくり溶けこんでいたからだ。日本へ戻ったら、タイミングよくそのCDが発売になった。もちろんorganでも絶賛発売中。ジャケットはNoritakeさんのイラストです。

Saturday, June 8, 2013

自覚的に選びとったweird


初めて"weird"という単語に出くわしたのは、90年代にプチグラ・パブリッシングから出た『weird movies a go go』という映画本。辞書によると「奇妙、変」という意味だけど、それならstrangeやbizarreがあるではないか、きっとニュアンスが違うはずだと、たまたま、その本の表紙が贔屓のピーター・セラーズだったこともあり、大いに気になってしまった。そして今回、いわばweirdを自認する街ポートランドへ行ってみて、思い当たるふしに遭遇。空港にあるレンタカー会社のカウンターでのことだ。
 ひとり先客が手続きをしていた。相手をするスタッフは丸顔にネクタイ、まるで少年のようだ。綺麗に撫で付けた髪に小さな口ヒゲ。待てよ、その真っ黒なヒゲがなんだか不自然、とすぐに気がついた。少しポッチャリしたなで肩の彼は、まごうかたなき彼女なのである。それにしても、テキパキと仕事をこなしてらっしゃる。しばらく待って僕らの番になった。つくったような低音の声が芝居じみてたけれど、契約の方はとてもスムーズに終えることができた。
 ポートランドはとてもリベラルな街だといわれる。しかし、オレゴン州全体となるとどうだろう。ウィラメット川流域の都市部を別にすれば、カスケード山脈から東は圧倒的に保守層。様々な事案が常に拮抗するのが現状らしい。たとえば同性婚だけれど、2006年だったかいったんは認められものの、その後、くつがえされたはずだ。知的でクール、緑に囲まれ、エース・ホテルやスタンプタウン・コーヒー、自転車通勤の普及、全米一治安の良い街というのは、あまりにキンフォーク・マガジン的な見方なのかもしれない。誰しも看過できるような異態を晒すレンタカー屋のスタッフが、こっそり闘っている街でもあるのだ。あのチャップリンのようなちょび髭は、単に「変」とみなされるされることを拒否した彼女が、自覚的に選びとったweirdな手段にちがいない。ちなみに、写真の女性はスタンプタウンのスタッフで、本文とは関係ありません。

Tuesday, June 4, 2013

”Keep Portland Weird"

 


ポートランドで泊まったホテルは、ダウンタウンの南、州立大学が点在する地区にあった。着いた翌日、そこから歩いてMAXと呼ばれる市内をほとんどカヴァーするトラムの停留所へ向かう途中に、本の背表紙を模した大きな壁が目に入った。そこには、カート・ヴォネガットやレイモンド・カーヴァーなど、とてもアメリカ的な作家の名前に混じってマルセル・デュシャンもあった。カーヴァーはいくつか読んだかもしれないが、あまり記憶が無い。ヴォネガットは30代だったか、夢中になって読んだし、なかでもそこにもあった『スローターハウス5』は大好きな作品で、ジョージ・ロイ・ヒル監督の映画もなかなか変で良かった。時空を超える主人公の話は、奇想天外だが、死がありふれた事であり、アメリカ合衆国が多くの小国に分裂した未来を描いていた。そういえば、第二次大戦末期、ドイツで起きた「ドレスデンの絨毯爆撃」という事実を知ったのもこの本だった。つまり、僕には冴えた小説だった。一方、フランス生まれのマルセル・デュシャンは、パリの「いかにもアート」な世界に嫌気が差して米国に渡り、便器にサインをして『泉(or噴水)』と名付けた作品でセンセーションを起こした御仁。「レディメイド」と称して、既成のモノを再利用することで「創造性」という、いわば芸術のへその緒を、あっさり切っちゃった人だ。そんなこんなを思ったのは、この一見バカげた壁が、ポートランドにとてもお似合いだったからだ。なにしろ、あちこちで”Keep Portland Weird"というスローガンを目にする街なのだから。

Saturday, May 18, 2013

ゴロンとなられた姿。

スリランカは小さな島国だが、世界遺産なるものが7つか8つあって、そのほとんどは仏教遺跡、いまでも仏教を信じている人が多い。それも、金持ちの息子ゴータマ・シッダールタが出家して最初にイン ドで起こした「小乗仏教」の方に近い。これは、ひたすら自分が解脱することだけを目指したもので、日本人がイメージする(大乗)仏教とは違 うものだ。なぜか今では、小乗仏教は大乗仏教より劣った「自己本位」の宗教のように思われているフシがある。でも、実際のところ、どうなんだろう。
  仏教にかぎらず、キリスト教やイスラム教もそうだけど、有名な宗教は、シッダールタや、ジーザス、マホメットたち、いわば予言者達が語った言葉に、死後、弟子たちが様々な解釈を加えて経典化していったもの。いわば「個」の発言が次第に強大化、組織化しながら分派を繰り返して広まり、いわゆる「世界宗教」となっていった。くわえて、その過程で、いつのまにか、一番大事な(だと僕は思う)「倫理」の代わりに、共同体や国の為の「道徳」みたいな役割を担わされることにもなってしまう。そうなると、最初にあった個的なモチベーションはだんだん変質せざるをえない。その上に「ご利益」という側面が反映され、人々の様々な欲望に応えるべく、たくさんの神様仏様が現れ、混交することにもなる。仏教も、次第に、何かのためのストーリーとして語られるようになってしまい、「自身の解脱」などは「高尚な哲学」として済まされてしまい、経済至上主義のポピュリズムに飲み込まれてしまう。
 スリランカで出会った仏様は涅槃像、つまり”ゴロンとなられた姿”が多かった。僕には、なんだか「生まれ変わり=輪廻」を絶って、なるだけなら人様に迷惑をかけず、一生をなんとかやり過ごそうとするポーズに見えてしかたなかった。でも、目だけは見開いて、なんだか心配そうでもある。


Wednesday, May 8, 2013

やし酒飲み達。

 これは、行って初めて知ったことだけれど、スリランカは社会主義国家で、なぜだか日本への関心が強い。植民地支配からの独立に際して、社会主義体制を採った国は少なくなく、国民は等しく教育や医療を無料で受ける権利がある。ただし弊害もあるようだ。たとえば、街なかや道路にやたらと警官の姿が目に付いたのだが、コロンボへ戻る途中で僕らの車も止められてしまった。ドライバーのワジラさんが「なんだろう、そんなにスピード出してないのに」と言いながら車を降りていったと思ったらすぐに戻ってきた。「大丈夫だった?」と聞くと、「5キロオーヴァーだって。ワイロ、1000ルピーね」とケロッとしている。
 そのワジラさんは、日本に居た間に「演歌」と「締めのラーメン」が好きになったし、田舎町の食堂で「私は日本で働いていた」という人に3回ほど声をかけられた。日本へ「出稼ぎ」に行く人が多いのだ。みんな笑顔で話すところからすると、あまり嫌な目には合わなかったのだろう。でも、ちょっと行き過ぎの方もいた。それは、ワジラさんに「興味ありますか?」と聞かれ、「もちろん」と答え、やし酒屋(?)へ連れて行ってもらった時だった。場所は、とある田舎町のメインストリートから奥まった路地を入った森の中。そこには30人くらいの男たちが座っていて、足を踏み入れると60個の目が一斉に僕のほうを向いた。そこは、異邦人が寄り付かない「闇の」やし酒販売所だったのだ。
 

トーマス・チュツオーラという人が書いた『やし酒飲み』というアフリカの不思議な小説など読まなければ良かったと後悔したが、もう遅い。平静を装い、大きなカメから、表面がザラザラに使い込まれた紫色のプラスティックの手桶いっぱいに注がれたやし酒に口をつけた。酸っぱいカルピスのような味がする。「この人達は一日中ここで飲んでます」とワジラさん。さもありなん、と思った途端、僕の横にピタンとくっつく人がいる。明らかに出来上がっているのが目でわかる。そして、よく聞き取れない英語を繰り返しながら小さな紙とボールペンを差し出す。海外では最近漢字ブームなのを思い出し、とっさに僕の名前を書いて渡したが反応が悪い。どうやら電話番号が知りたいらしい。悪い人ではなさそうだが、教えても意味が無い。ワジラさんも場の雰囲気を察して「早く飲んで、行きましょう」という。グビグビ流し込んで、その場を去った。そうそう、発酵系が好きな奥さんのために買った大きなボトル一杯のやし酒を忘れてはならない。なにせ、女人禁制と聞き、車でひとり待っているのだから。

Sunday, May 5, 2013

シャングリラだったのかも。

バンダラナイケ空港から車に揺られて4時間、スリランカ中部の乾燥地帯にあるカンダラマ・ホテルに到着したのは早朝7時。だというのに、この暑さ! 目の前には湖、そして遠くにシーギリヤ・ロックの特徴的なシルエットがかすかに望めるが、それ以外はひたすらうっそうとした緑。視界に人工物がはいってこない。そこは、旅の果てにぴったりなところだった。ジェフリー・バワがここを手がけたのは1994年、75歳の頃。ビーチサイドのホテル設計が多いなか、元YODEL編集長としては、写真で見ただけで気に入り、こんな奥地までやって来たのだが、その甲斐があったというものだ。
 ホテルの外壁は、ほぼ蔦に覆われていて、コンクリートがほとんど見えない。果たしてバワは設計当初からこんな将来を予測していたのだろうか。答えはイエスだろう。「自然」と「オブジェ」が対立するのではなく、それなりに仲良くなるには時間が必要。もちろん時間だけじゃない。彼は、最初から建物に付加するものを少なくしている。そして、その構造物はランドスケープを生かして立地されている。結果として、雄弁な自然が朴訥なオブジェを愛撫しながら変化する様子が見て取れるのだ。
 ここは高級ホテルにありがちなラグジュアリー感とは無縁。細長い建物にはそれなりの部屋数もあるのだが、案内板やサイン類が控えめで(あってもセンスが良く)、万事がうるさくない。スタッフの対応も、過剰な作り笑顔がなく、とても落ち着いて4日間滞在できた。午前中は村上春樹の新刊を読みながら、窓からポッカリ浮かんだ雲の様子を観察して過ごす。午後はスリーウィーラーと呼ばれる三輪タクシーで町まで出たり、あたりに点在する仏教遺跡を少し見学。そうそう、ホテルから遠望したシーギリア・ロックにも登った。巨大な岩の頂上から見るオレンジ色の太陽と真緑の大地。この時間は風も涼しい。ここは確かにシャングリラだったのかもしれない、と思った。

Friday, April 26, 2013

ジェフリー・バワを旅する。

しばらく前にANAの機内誌『翼の王国』でジェフリー・バワという建築家のことを知り、がぜん興味がわいた。熱帯のリゾートホテルを多く手がけたらしく、今では日本でも見られるようになった、水面がその向こうの海や川と連続したような錯覚を起こさせる「インフィニティ・プール」を最初に考えついた人らしい。しかし、カナヅチのボクはそれよりも、彼の「アジアでも西洋でもあり、同時にどちらでもない」ようなスタイルが気に入ってしまった。それは、ヨーロッパやアメリカ人ではなく、スリランカの人だったことに関係があるのかもしれない。これは、行ってみるしかない、と思った。
 セイロンと呼ばれてきたこの島は、インド亜大陸から東南に、まるで千切られたように浮かんでいる。北海道よりちょっと小さめの面積に、紀元前に北インドから渡来したシンハラ人、南インドからやってきたタミル人、先住民ヴェッダ人、イスラム系ムーア人、マレー系など多様な人種が住んできた。その上に、16世紀にやってきたポルトガル人やその後のオランダ人、イギリス人など白人との混血であるバーガーと呼ばれる人達、アンド・モアがいる。「単一民族説」がまかり通る日本人には、まことに頭がクラクラしそうなたくさんのエスニック・コミュニティが共存する島なのだ。
 「バワはムスリムでした」とワジラさん。バブル期に名古屋にあるTOYOTA系の会社で13年働いた経験を持つ、日本語がペラペラのガイドさんだ。今回の旅が楽しかったのは、彼のおかげといってもいい。「バワはゲイだって聞いたけど?」とけしかけると、「とんでもない!ふたり奥さんがいてウンヌンカンヌン…」と、ここではとても書けないようなトピックも。帰国後、調べてみると、バワの祖父、父ともに白人の妻を娶っている。しかも母はプランテーション経営者の娘だったらしく、バワは裕福なバーガーだったことになる。建築家としてのキャリアは1957年、38歳でスタート。オックスフォードへ留学後、いったん法律家となるが、その後ヨーロッパを放浪、北イタリアのヴィラと庭園をスリランカに再現する夢を実現するために建築の勉強をしたという。ムスリムであることは、おそらく父方の系譜として選択の余地がなく、本人はどれほどイスラム教に熱心だっただろうか?それより、彼の人物像には様々にレイヤーしたカルチャーが深く関係しているようだ。それは自邸&オフィスである「ナンバー11」にあるオブジェにあらわれている。バワは、サーリネンやイームズを愛したイスラムの人として在った。

Sunday, March 31, 2013

踏十里(タッシムニ)の骨董ビル

ソウルの中心から地下鉄で20分ほどのところに建築資材の問屋街があって、その端っこのほうに骨董店が集まった古いビルが3つある。アメリカならさしずめアンティック・モールというところか。ひとつの店が5~10坪くらいと小さいから、3棟全部だとちょっとした数だ。なにしろゴチャゴチャした店が面白く、4日間の滞在で、結局毎日訪れてしまった。もっとも、気に入った店を再訪するのにその都度迷うのには閉口したけど。以前は、確か2階にも店があったはずだが、今回行ってみると1階だけになっている。「最近は景気が悪くって…」と愚痴るオモニもいるが、店を仕切る彼女たちはなかなかの商売人で、そう言いつつも、いざ値段交渉となるとタフだ(もちろんオジサンがやってる店もあるのだが、なぜか気に入った店はほぼオモニ系だった)。
 そんなオモニたちのおしゃれには、一定の法則がある。まずヘアースタイルはしっかりパーマネント。仕事が忙しく、手早くカツっとまとまる髪が必要条件なのだ。なかにはほぼパンチパーマの方もいらっしゃる。服装は花柄系を好み、色はビビッド。しかも「柄on柄」がお気に入りなところなど、まるで一昔前の日本の田舎のおばちゃんだ。若い女子はというと、日本では最近見なくなったレギンスに、足元はニューバランス、フード付きのパーカーにキャップ。男子のお洒落さんは細ーいパンツにこれまたニューバランス、グレー細身のジャケットにアラレちゃん系セルフレーム・メガネ、髪の毛はマッシュルーム・カットと、昔で言う”シスターボーイ”風。以上、街角スナップでした。
 話を戻すと、僕が探すのは例えば李氏朝鮮時代の焼き物で、それも「官窯」と呼ばれるような上等なものではなく、庶民的で生活に根ざしたもの。したがって白磁といっても、真っ白ではないし、形も結構いびつだ。四角いお盆や、ソバンと呼ばれる「ひとりお膳」なども、合わせがけっこうラフだったり、材が歪んだりしていて、いわば”下手物”と呼ばれても仕方がないようなもの。よく言えば「簡素」なので、手の込んだ「匠の技」には程遠い。でも、一個一個に独自の経歴が潜んでいるようで、傷ひとつとってもプロダクトにはないドラマがある。そうそう、朝鮮では昔、職人が町々に滞在しながら家具などを作っていたと聞いたことがある。”旅する家具職人”だから、時間をかけずにサクッと作った感があるのかもしれない。多いのは祭事用の道具類。たとえば真鍮製の小さなボウルを見ると、我が家の仏壇を思い出したりする。「チーン」と音がする例のヤツである。
 とまあ、朝鮮と日本は昔から因縁が深いから類似点だらけと思っていたが、あんがい相違点も多い。それは時間差の問題だけじゃない。彼らはタフ&ラフである。
 
  

Sunday, March 24, 2013

”良心的兵役忌避者”

あれは、大韓航空で初めてパリへ行く途中、トランジットのために降りた金浦空港だから、もう20年以上前のことになる。滑走路にはジェット戦闘機が待機中だし、パスポートをチェックする軍服の係官は福岡空港の免税店で買った僕のマルボーロ、ワンカートンを、ニッコリ笑って机の下に滑りこませた。まるで戦時下の国にやって来たみたいで、すっかりメゲテしまった。2度目は7年ほど前、李氏朝鮮の陶磁器や民具見たさに、矢も楯もたまらずピカピカの仁川空港へ降りたった。そして今回、高層ビル街のモーレツ・サラリーマン+オシャレな若者たち+パワフルなオモニが割拠する今のソウルを、それなりに楽しんだ。しかし、迷彩服を着込んだ若者とすれ違うたびに、あー徴兵制があるんだ、と思い知らされる。
 兵役免除の年齢になるまで、なんとか徴兵制が復活しないことを密かに祈ったのは中学生だったころ。ジョン・レノンはまだ反戦的ではなかったから、増村保造の『兵隊やくざ』という映画のせいか、ツルゲーネフの小説か。とにかく、日本はまだ「安保」という問題を引きずっていた。アメリカの対共産圏軍事同盟に与することは、いずれ自分たちも戦争に巻き込まれる可能性があるということだ。そうなったら、軍隊の組織というものが、まちがいなく僕のようなものを無化してしまうことを予感し、恐怖した。そして、徴兵を免れる年齢を60歳と仮定した。太平洋戦争で日本の戦局が悪くなるにつれ、年寄りでも徴集されたことをどこかで聞いたからだ。
 その後、大学時代に『アリスのレストラン』というアメリカ映画を観て、”良心的兵役忌避者”という言葉に出会った。宗教や民族、政治や哲学などの背景に基づいて、「良心的」に戦争を拒否する権利は、欧米においては、どうやら基本的人権として認知されるようになっている。一方、いつの間にか僕は60歳を過ぎていて、平和憲法なるものも成立して60年を過ぎていることにハタと気がついた。どうやら、この憲法のおかげで、僕は、あくまで「潜在的」兵役忌避者のまま、なんとか今まで呑気に生きてくることが出来たのかもしれない。なんだか得をしたような、妙な気持ちなのだ。

Saturday, March 2, 2013

倭冦の末裔達

アジア熱が冷めないうちにと、以前から一度はやってみたかった博多⇄釜山by船を敢行した。といっても水中翼船なので3時間くらい。壱岐のそばを通ったのかどうか、あれよあれよという間に対馬沖を過ぎ、見る見るうちに朝鮮半島らしき陸地が近づいてきた。それにつれてコンテナ船の数が増え、大小のドックも視界に入ってくる。港湾施設が思っていたよりも大きく、地形も変化に富んでいてなんだかダイナミック。目を横にずらすと、ニョキニョキと林立する高層マンションが飛び込んできた。「えのき茸みたいですね」と同行したコースケ君。さすが1級建築士だけに的確だ。山の急斜面にびっしりと建つカラフルな低層の家々は、行ったことはないがまるでリオ・デ・ジャネイロみたい。ここは、博多から直線距離でわずか200kmだが、れっきとした外国である。上陸すると、当たり前だけど看板からなにからハングル文字の嵐。アルファベットでも漢字でもないところが、どうにも不案内で、見ただけではナニがナニ屋なのかサッパリわからない。その割に人々の顔は我らと似たり寄ったりだから、アイデンティティが少なからず揺れる。ゴチャゴチャした市場を抜け、古本屋街の脇から急な坂道を登ると、見晴らしのいい小さな公園があり、港が一望できる。たしか来る前に調べた「倭冦」たちが15世紀ころに居住していた「倭館」がこの下あたりにあったはずだ。いわば韓国版出島である。彼らは日本の銅や金、南洋産の香辛料やらを朝鮮に売り込むために暗躍、もとい活躍したのだ。当時の日本は近代国家ではなく、したがってネーション・ステート、つまり国民国家という意識などはないからナショナリズムもなく、動機はもっぱら経済である。農業に適さない島=対馬藩という一地方の集団による「出稼ぎ&移住感覚」というイメージだ。朝鮮から買ったのは、主に木綿だったとのこと。意外だが、日本で本格的な綿栽培が始まったのは江戸時代らしい。そういえば、我らの今回の買い付け候補のひとつはポジャギ。朝鮮に古くから伝わる様々な端切れをパッチクークしたものでとてもうつくしい。3日の間、倭冦の末裔達は釜山の骨董屋をあらかた回ってしまった。さて、次はソウルかな。

Thursday, February 21, 2013

ウーン、ここでも侯孝賢だ。

パリでも、よしんばニッポンのヒナビタ温泉でも、そこに知人が居るかどうかで変わってしまう旅がある。どんな評判のガイド本でも、彼や彼女を超えることはできない。今回の台北旅行で出会ったJoelは、以前どこかで会ったような気がしてならない、つまり初対面なのに気が置けない男だった。短時間で僕らの欲望の対象が満たされたのは、彼を紹介してくれたLinさんのおかげだ。彼女がorganにやってきたのは去年の9月頃。フランスの絵本を買い求めてくれた際に、自分は台湾人であり雑貨屋を営んでいることを、ナイーブな英語で語ってくれた。そして、これから鹿児島へ行くのだけれど、どこか面白い店はありませんか、と質問されたが、おもだったところはもうチェック済みだったようで、僕なりにいいと思うところを少し伝えた。ひとしきり話をした後、別れ際に「台北へはいつか必ずいきたいと思っています」と漏らしたら、「よかったら案内しますよ」とのことだった。社交辞令とも思えなかったので、しばらくして台北へ行く旨をメールしてしまった。すると、彼女の店は実は上海にあり、残念だけど僕らが行く時期に台北にはいないこと、その代わりに友人を紹介する、という返事が返ってきた。そんなこんなでJoelこと謝仁昌さんの登場となったのだ。仕事はインテリア・デザイナー。彼が連れていってくれる店は、つぼを押さえたモダンなものから、かなりマニアックなシノワズリ、そして日本統治時代の家屋を利用したカフェ&ギャラリーまで、ほとんどがお茶と骨董を併設した”茶園”だった。文化大革命時代、ブルジョワ的だとして排斥した大陸とは違い、台湾では「茶の文化」がしっかり根付いている、と聞いたことがある。「日本では北欧デザインが受け入れられているけど、台湾ではまだラグジュアリーなインテリアを希望する人が多いです」と日本を少しうらやましそうにいった後、「でも、提案する際、最低ひとつは古い家具を混ぜるように心がけているんです」と言って笑った。大学では映画製作を学んだが、映画で食べてゆくことは断念したらしい。でも、侯孝賢の映画『戯夢人生』にスタッフとして参加したことを嬉しそうに語ってくれた。ウーン、ここでも侯孝賢だ。次回はぜひ名作が撮られたロケ地巡りに案内してもらおう。


Thursday, February 14, 2013

原住民博物館

台北の故宮博物館の近くに原住民博物館がある。故宮のチケット売り場で、両方が見れる割引セットを買って行ってみた。広い故宮博物館は中国本土からの団 体さんで一杯だったが、狭い原住民博物館には僕ら以外は誰もいなかった。陳列物はなかなか見応えがあった。それにしても、「原住民」という言葉がこんな風 に堂々と使われていると、ここが外国であることを感じる。日本では「先住民」を使い、「原住民」を差別用語としているが、台湾では「先住民族」とは漢語で 「すでに滅んだ民族」という意味らしく、避けている。同じ漢字とはいえ、日本とはニュアンスが違うのだ。現在、台湾全人口の2.1%、14民族の存在を政 府が公認しているという。数は50万人足らずと決して多くはないのだが、この島の中で、17世紀くらいまで、たくさんのトライブが多様な言語、文化を持って暮らしていた ことを認識しているのだ。その後、西洋人、漢民族、日本人などが続々とこの「麗しの島」を統治した。前回、侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督を紹介する のに使った”外省人”とは、日本の統治が終った1945年以降、蒋介石の国民党と一緒に大陸からやってきた(=共産主義を嫌った)人々を指すらしい。対し て、それ以前に台湾に渡った”本省人”と呼ばれる人々の中には「原住民族」との混血の子孫達も多数いると考えた方が自然だ。だから、一口に台湾といっても、実は 多様なバックグラウンドを持つ多民族国家であり、カルチャーもミックスしている。街中を歩くと、僕らがイメージする中国人とは違った、どちらかというとマ レーシアやインドネシアに近い顔立ちの人とすれ違う。その度に、単一民族的情緒が支配する日本のことが頭をよぎる。一体、日本には「原住民」は居たのだろうか?もし居たとすれば、 いったい何処へ行ってしまったんだろう。

Saturday, February 9, 2013

お洒落な雑貨店にフツーに置いてあった。

1月だというのに気温は20度近い。子供の頃「バナナだったらフィリピンより台湾のほうが美味しい」と聞かされていたが、台北へやってきて、はじめてこの国が南国であることを実感した。林立するビルの谷間をたくさんの車やバイクが忙しげに走り回っている。その割には排気ガスがさほど気にならないのは、街路樹をはじめ、あちらこちらに肉厚の緑が点在しているせいだろうなどと、高速道路をひた走るタクシーの中で考えていたら、窓ガラスの向こうを、バイクをふたり乗りしたヘルメット姿の男女がしばらく並走して、通り過ぎていった。まるで、侯孝賢(ホウ・シャオシェン)の映画のいちシーンだった。
 ROVAの小柳帝さんの「台湾に素晴らしい映画を撮る監督がいますよ」という耳打ちがなければ、こうやって台湾へやって来ることはなかったかもしれない。1980年代後半の僕は、彼が監督した『戀戀風塵』や『童年往事』にノックアウトされていた。なにしろ下手なフランス映画より作家主義だし、なによりも「農村と畳、かき氷と蝉の声、台風そして草野球」など、自分の子供時代の風景に台湾映画の中で出会うとは思ってもいなかった。1947年中国の広東省で生まれたホウ監督は幼い頃に台湾へ家族と一緒に移住してきた外省人である。その頃はまだ日本統治の面影が至る所に残っていたことだろう。そのことを2歳年下の僕が映画を通して追体験し、郷愁に近い感覚を持つのも何かの因縁か。
 日本が台湾の統治を始めたのは日清戦争に勝利した翌年の1895年。それから1945年まで約半世紀という、けっして短いとはいえない期間には、いろいろな局面があったはずだ。当初、激しい抗日運動を武力鎮圧した後は、資源を開発し、日本へ還元するためのインフラの整備や教育改革を行い、そのことが今でも「”悪くない”対日感情」の根拠の一つに挙げられることが多い。しかし、植民地支配がそのことで帳消しになったのだろうか。そんなことを思ったのはこの本。中には目を背けたくなるような写真もある。置いてあるのは「漢聲」という名のコンシャスな雑誌の出版社が経営する店。うちの奥さんが中国風のパンツを買いたいといってやってきたお洒落な雑貨店にフツーに置いてあった。

Thursday, January 17, 2013

2回目の鳥取展。

去年の10月、2回目となる鳥取展の買い付けのため、ENOUGHの仲間と一緒に鳥取へ向かった。博多から岡山まで新幹線で約2時間。そこで在来線の特急「いなば」に乗り換え、中国山脈をガタゴト揺られること2時間、計4時間くらいの旅なのだが、それが一体長いのか短いのか、まったく判然としない。今もって鳥取と島根の境界が不案内なくらいで、なんだか実際の距離より随分遠く感じてしまう。そんな「わざわざ感」があっても訪れたくなるのは、そこが「れっきとした田舎」だからにちがいない。鳥取には、昔からの手法を生かしながら、それにひと手間、ひと工夫を加えた様々な「民具」ともいうべきものをこしらえている人達が暮らしている。それは、先代はもちろん、2代目や3代目のひと達の頑張りのおかげでもあるが、なかにはこの地へ「移住」してきたひともいる。一度途絶えてしまった工芸をもう一度復興するためにやってきたのだ。一昔前まで、天気予報で"裏日本"などと呼ばれていたマイナーな地へあえて「入植」する感覚、クールではないか!「地方分権」や「道州制」も結構だが、田舎と都会で人の行き来が増えることこそ面白いし、スリリングだ。面白い、といえばこの張り子のお面の奇天烈さ、いかがですか?左は獅子舞の時に獅子をあやす「猩々」、右はどんな悪口雑言も許される「はなたれ」。『柳屋』さんのご夫婦が手間ひまを惜しまず作るお面は文句なしのアヴァンギャルド。「伝承とは実のところ、ラジカルなのだ」という証拠である。26日からorganで始まる「GO!TOTTORI」展を前に、イヤガウエニモ気分が燃えるのであります。

Sunday, January 6, 2013

オフ・ビートな街、ヘルシンキ(3)。

ヘルシンキを好きな理由のひとつに、トラムが走っていることがある。人口50万人という、首都としては慎ましいサイズのこの街にはジャストな乗物だと思う。今回の滞在では5日間使えるツーリスト向けのパスを買った。トラムはモチロン、バスや地下鉄も市内だったら乗り放題。といっても僕はトラムばかりで、3Tと3Bという市内を8の字にめぐる路線が多かった。その路線は中央駅からオリンピック競技場などを経て一旦市の中心部へ戻り、その後シリアラインなどが発着する港の方をめぐるもので、ズーっと乗っても1時間はかからない。ガタゴト揺られながら街並みをぼんやり眺めていると、この街には案外むき出しの岩礁やアップダウンが多いことに気づかされる。なにより、ヤレあっちの陶器屋とか、こっちのガラス屋など、そう遠くはなくとも、歩くとそれなりに疲れる距離を、切符を買わずに気軽に行けるのがありがたかった。そういえば、他の街では乗車の際にパスを車掌に提示、もしくは機械に読み取らせることが多いのだけれど、この街ではその必要がない。しかし、たまには車内検札があるらしく、不正乗車には厳しい罰金が課せられる。今回僕は5日間で2回もそれに遭遇してしまった。知人から聞いていた通り、前方と後方から乗り込んできた係官はかなり屈強そうで、これなら不届き者もおとなしくするしかなさそうだ。でも、他者との関係を前提にしたこのシステム、果たして日本で機能するだろうか。「我ら島国に住む同胞」という感覚をなんとなく共有してきた僕らは、同じ国に住む者への信用が変に強かった。しかし、そんなお国柄も過去のものになりつつあるようだ。もちろん、様々な意見の存在を知り、ちゃんとした「他者」への関心を持つには、まだまだ時間が必要なのだけれど。おっと、新年早々話がややこしくなってきた。参議院選挙まで半年、この間にしっかり考えなければならないことばかりだ。