Friday, August 16, 2019

いつか行ってみたい場所

"いつか行ってみたい場所”がだんだん少なくなってきた。でも、アイスランドだけは別だった。誰かがアイスランドを「裸の地球だ」と言っていたから、これは見てみたいと思った。ヘルシンキからアイスランドエアに乗り換えて3時間半で行ける。ヘルシンキで買付けをすることをセットにすれば言い訳も立つ(って誰に)。
早速ガイドブックで下調べ。国土は北海道と四国を合わせたくらいで、人口は30万人ほど(少な!)。物価はハンバーガーで1500円(高し!)。温泉と氷河がたくさんで、地熱発電など実験的な試みも多く、音楽もユニークだ。ユーラシア大陸と北アメリカ大陸がこの島でぶつかっていて、そこで初めて「議会」が開かれたらしい(マジか!)。
見所たくさんのガイドブックは、早々に読み飽きてしまった。オーロラ、ホエールウォッチング、海鳥観察、ブルーラグーン、その他数知れないエクスカーションにはあまり興味が無い。そんなとき、朋子が図書館で面白い本を借りてきた。その名もずばり「アイスランドへの旅 」。作者はウイリアム・モリス。アーツ&クラフツ運動のあのひとだ。1871年、ロンドンからスコットランドの港を経て友人3人と海路アイスランドへ渡り、アイスランド原産の小型の馬にまたがって訪ねた、3週間の旅日記である。
モリスは「saga(サガ)」というケルトからゲルマンやヴァイキングに伝わる神話を元にした叙事詩や物語に熱中するあまり、実際にその地を訪れることになったようだ。文中にも「ここで誰々が誰々に殺されたとサガにあった」として、モリスが感慨にふけるシーンが何度も出てくるが、もちろんぼくにはさっぱりわからない。古くから、いろいろな民族が移住した島だけに、さまざまな闘いがあったにちがいない。面白かったのは、モリスが宿泊先の教会や農家で「ひょっとして銀製のカトラリーで譲ってもらえるものがありませんか」と乞うことだ。さすが目利きの道は果てしないのだ。
アイスランドの南部をレンタカーで巡る旅が始まった。首都レイキャビクを過ぎてしまうと、家らしきものはほとんどなく、遠近感が狂ったかのように雄大な土地が延々と広がる。まるで、モリスの本のスケッチにあるような荒涼とした風景の連続。おまけに曇りから雨、そして晴れ間へ刻々と空模様が変化する。ラジオのスイッチをひねると、レゲエが流れている。いったいここはどこなんだ。天国ではないことだけは確かだ。やがて僕らはシンクヴェトリルと呼ばれる聖なるスポットへ足を踏み入れた。前述した地球の割れ目で議会が開かれた場所だ。
車を降りると、やたらと何かが顔に触れまくる。虫だ。払いのけようとする手に、何匹もが当たる。蚊?いや、小さなハエのようだ。観光客の中には、用意周到に顔にネットをかぶった人もいるが、ぼくらは虫を無視して岩と岩の間の道をダラダラ歩く。ユーラシアプレートと北アメリカプレートがぶつかり、今も一年に2、3センチ広がっているスポットにしては平和だ。ここらへんの何処かでケルト人、ゲルマン人、ヴァイキング達の子孫が集まり、諍いを解決しようと“アルシンク”と呼ばれる世界最古の民主議会を誕生させたらしいが、どこがそこなのかはわからない。ただ、なんとなくありがたい気分がする。
はじめてアイスランドに興味をもったのは、1986年レーガンとゴルバチョフがレイキャビクで軍縮交渉の首脳会談を行ったテレビのニュース画面だった。ふたりの指導者が、およそ会談場所に似つかわしくない白い2階建てのラブリーな建物の前で握手するシーンだった(会談は物別れになったけど、その後ソ連は崩壊し、冷戦は終わった)。アイスランドはおもしろい国かもしれない、と思った。なにか地場みたいなものを感じた。
それから6日間、滝を見て、黒い海岸で荒波にさらわれそうになり、一面モコモコした苔地帯を横断して、シークレットな温泉に海水パンツをはいて浸ったりもした。ラム肉はとても新鮮で、旨い手長エビのスープを出すレストランでかかっていたBGMはオラフル・アルナルズだった。そこはHofn(ヘプン)という南東部では一番大きな町。といっても人口は1800人くらい。ヨーロッパで最大の氷河ヴァトナヨークトルの端っこに当たる漁港で、ホテルの窓からは、ふたつの氷河がぼくを待っていた。ぜったいにここへ来るべきだといわんばかりに。
問題は、目的とした氷河がアクセスがあまり良くないローカルなビューポイントであること。アイスランドは島をぐるっと回る国道1号線以外はオフロードが多く、法令で4WD以外の車は走れない。ところが僕らのレンタカーは小さなものだった。1号線を外れると言っても、それほどの距離ではないし大丈夫だろうと高をくくってみたが、運転は朋子であり、彼女はまちがいなく拒否するに決まっている。ためしに、ホテルのフロントのお兄さんに大丈夫だろうかと尋ねてみると「コンパクトカーなら絶対にやめたほうがいい」とにべもない返事。しかし、愛想の良くない男の言葉を真に受けるつもりはなく、ヘプンの街にあるインフォメーションの明るい女子に聞いてみた。すると「ゆっくり行けばOK、わたしもたまに行ってるし」と、満額回答。決行が決まった。
それにしても、朋子の不安は消えていない。国道1号を外れ、いっとき走ると、走る車どころかなにもなくなった。あたりは大小の石が作った大地と、ぼんやり続く道らしきもの。氷河がすこしづつ迫ってくるにつれて、車の底面に当たる石ころのゴツンゴツンという音が脳天に痛い。まるで乾いた河原を走るかのようにハンドルを取られてしまう。無言の彼女の気を紛らせようと、iphoneの動画のスイッチを押し「迫り来る氷河を前に、オフロードならお任せのドライバーを紹介します」と、言わずもがなの冗談を飛ばした途端、こちらを向き、中指をおっ立てながら「まったくシャレにならない、なにか起きても知らんけん」と一喝されてしまった。
ところが、結果、静かに流れくる雄大な氷河を目の当たりにして、ふたりとも息を呑んだ。誰もいない。いや、よく見ると水際に米粒のような先客が3、4人いる。それすら、冷静にならないと見えてこないほどの圧倒。ぼくは思わず土俵入りをし、朋子は拾った氷河の氷のカケラをガリっと噛んだ。まったく冗談みたいに裸の景色だった。冷たい風が吹き、日差しは強烈だったが、あたりは恐ろしいほど無音。万年氷から滲み出した水たまりが触手のようにこちらへ伸びていた。
ぼくらが訪れた氷河はHoffellsjökull、つまり「ヘプンの氷河」。アイスランドにある400あまりの氷河の一つ、決して有名でもなく、巨大でもない。しかし、御多分にもれず、アイスランドの氷河も年々溶けて消え去っている。「オラが街の氷河」もけっして例外ではない。

Friday, August 2, 2019

ルート・ブリュックのテキスタイル

ヘルシンキ郊外にある現代美術館EMMAで、幸運にも"Bryk & Wirkkala: Visible Storage"と題された展示を観ることができました。
3年ほど前だったか、ルート・ブリュックの大規模な展覧会で、その独特な世界に魅了された身として、今回タピオ・ヴィルカラと初の夫婦揃っての展示企画とあっては興奮しないわけがありません。おまけに、その展示方法がちょっと意表をついたものだったからなおさらです。
それは、まるで美術館の奥にある収蔵庫に潜入したかのような展示方法とでも言えばいいのでしょうか。棚や仕切り壁には、おなじみの作品に混じってプロトタイプや未発表作品がギッシリ、無造作に並べられているという趣向。そればかりか、スチール製の引き出しに保管されたスケッチや製作過程のメモなども自由に見れるのにはビックリ。広い空間にひとつひとつ間隔をあけて照明を当てた美術館演出を拒否した、タイトルどおりのVisible Storageで、二人の巨匠の生々しい製作スタイルがかいま見えるというわけです。さすが、フィンランド、あまのじゃく。
うれしい発見だったのがブリュックが手がけたマルチカラーのテキスタイル。それらは1968年に夫婦で初めてインドのアーメダバードを旅行をした際に受けた色彩の豊かさにインスパイアされたもの。余談ですが、ふたりがインドに興味をもったのは、他でもないイームズとジラルドが1954年にインドに赴き収集したファブリックなどで構成した展覧会を、ニューヨークのMOMAで目にしたことが契機となったらしい。ワオ!意外なところで繋がる「フォークアートの環」なのです。付け加えると、ふたりはコルビュジェの建築群も目にしています。タピオ・ヴィルカラはたくさんの写真を撮影、イタリアのDOMUSにも掲載されたとのこと。
余談ついでにもうひとつ。1968年といえば、ビートルズが初めてインドを訪れた年。意外かもしれませんが、ルート・ブリュックとタピオ・ヴィルカラはビートルズのレコードを愛聴していたのです。ふたりは当時共に50代なかば。いいですねえ。なんとそれもBraunの最新ステレオ・システムで。しかもそれはデザイナー自身から贈られたものとのこと。ということは、ディーター・ラムスとも親交があったってこと?またもやワオ!なのですが、肝心なことは一見ストイックなクリエイター然としたふたりだと勝手に決めつけていたら、あにはからんや、当時のアメリカやイギリスのヒップなカルチャーに充分コンシャスだったということ。世界は一色ではなく、マルチカラーだったこと。特にインドはサフラン色。ルート・ブリュックの後半生への転換点としてピッタリの場所だったのでしょう。

Saturday, April 28, 2018

変わらないようで、変わった画家

 ボローニャから1時間あまり、雪解け水を集めて流れる川へ寄り添って走るローカル線に乗って、山の谷間の小さな町ヴェルガトへ着いた。やれやれと思ったら、目指すグリッツァーナは、さらにそこから車で30分ほどクネクネと曲がる道をグングン登った人里離れた寒村だった。坂を登り切ってしばらく行くと、画家ジョルジョ・モランディの淡い黄色の家が、道路沿いにあっけないくらい忽然とあらわれた。それは、彼の描く絵とおなじように周りの景色に溶け込むでもなくポツネンとあった。
 幼いころモランディから絵を習ったという案内役のセレーナさんは、自身も画家だといった。石がゴロゴロして農耕には不向きだったというこの村を気に入ったモランディは、亡くなる5年前にこの家を建てている。その際、ある建築家が提出した、おそらくは工夫をこらした設計図を見て、「わたしはこれがいい」と、立方体に四角錐の屋根、それにシンプルな窓を持つ簡素な図を描き示したのだという。
 おそらく建坪は30坪に充たないであろうトラッドな2階建ての家は、モランディと3人の姉妹が夏を過ごすにはおそらく最適なサイズだ。1階にはリヴィングとダイニング、それに姉妹のベッドが2つ置かれた各8畳くらいの4部屋と、小さな台所部屋とバスルームがあるだけ。驚いたのは、玄関を入ってすぐ右にあるリヴィングルームだ。チークの本棚&チークの肘掛け椅子&テーブルと、まるでミッドセンチュリー・ダニッシュデザインのお手本のようではないか。ぼくのデザイン遍歴はコペンハーゲンから始まったわけで、まさかモランディがリアルタイムでそれを実践していたとは知る由もなく、勝手な親近感を抱かずにはいられなかった。
 コーナーに置いてある陶器も、フォルムや釉薬の色具合から北欧のものに違いないと思いセレーナさんに尋ねると、カルロ・ザウリというイタリアの陶器作家とのこと。モランディはこの人の作品が大好きだったらしい。未知のものへの興味を隠せないぼくに、セレーナさんはこっちにもあるわよといって、廊下に出て階段の下の物置の扉を開けてくれた。
そこは、当座使わない皿やボウルの保管場所らしく、その中にフランスの夫婦陶芸作家ジャック&ダニ・リュエランを思わせるほっそりした形のベースが3脚、斜めに傾いだまま鎮座ましましている。ブルーのギンガムチェックの布の上にきちんと整理された様子は、モランディの絵における配置へのコンシャスさに通じるものだ。
 この家はモランディ没後、残された3姉妹の姉の遺言にしたがって、かれらの生前の暮らしが、ほぼそのまま保存されている。たとえば台所。流しの壁に並んだ薄緑色の皿類や小鍋やお玉は、まるですぐにでも夕飯準備にかかれそうにスタンバっている。と、棚の扉を開けて、セレーナさんが取り出したのはオレンジ色のラベルの小瓶。蓋を開けるとぼくらの鼻に近づけて、「モランディはカレーが大好きで、パスタにも掛けていたのよ」と微笑む。ということは40年くらい前のカレー粉か。ふいに高校受験時の深夜、台所でひとり「日清のママーカレースパゲッティ」を炒めて空腹を慰めた時の香りがよみがえる。
 モランディは掃除の際に「アトリエに積もった埃を取り払うことを禁じていた」という話をなにかで読んだことがある。うっすらと積もった埃は目にはさだかではなくとも、手に触るとその存在に気付く。それは、モランディがくりかえし描いた花瓶やピッチャーが、たとえ同じように見えたとしても、少し注意深く見ると、その筆址やタッチ、構図などが時代によって変化しているのに似ている。
 2階に上がるとモランディのアトリエである。40本以上の絵筆はどれも細めで、筆先の素材はさまざま。よく見ると、幾本かの先っぽが鋭く尖っていたり、半分だけカットしてあったりと、カミソリで好みの形状にカスタマイズされている。イーゼルには絵筆を拭った布が2枚引っ掛けたまま。近寄って見ると、まぎれもないモランディの色たちが、まるでアクション・ペインティングのように生々しく残っている。そして台の上には、おなじみの陶器や彩色した缶が「さあどうぞ描いて」とでも言いたそうに、画家の帰りを待っている。少しこわくなった。
 隣は寝室だった。といっても、真っ白な部屋にあるのは、スチールパイプ製のシングルベッドとその脇の小さなサイドボード。あとはワードローブがひとつに三段のドローワー、いづれもパイン材。そんないたって簡素な小部屋で、サイドボードの上の壁に掛けてある15x10cmくらいの小振りな絵に目が留まった。そしてそれが、よく目にする幼いイエスを胸にいだいたマリア像とは違うものの、まごうかたなきイコンの奇妙な変種であることに気がついた。あたかも空中に浮遊しているかのような顔と手は、まるでシュールリアリズム絵画のようではないか。あらわになった木肌からすると、誰かが、もともとあった背景の色を削ぎ落としたとしか思えないのだ。そして、それをやったのがモランディ自身だったとしたら…。
 ところが、さらに追い打ちをかけるような出来事が待っていた。なにを思ったのか、セレーナさんがモランディのベッドマットの端を突然持ち上げた。すると、下から現れたのは1963年7月24日付の新聞と、茶色をした薄い板。無言で僕らの反応を待つ彼女は、なにか秘密を握っているのか。しかし、彼女の回答は、「わからないの…」というとてもシンプルもの。ただ、確かなことは、その翌年にモランディは亡くなっている。つまり、1963年の夏に、これが最後の滞在になることを予感したのだろうか。そして茶色の薄い板は、どうやらエッチングの銅板らしい。そういえば、モランディは若いころ、レンブラントの版画を見て絵をこころざしたはずだし、ボローニャの美術学校で長く版画を教えていたことがある。とすると、自分の一生をこの、ある種のインスタレーションに込めてベッド下に残したのかもしれない、と想像することも許される。家政婦は見た、気分だった。
 以上、さまざまな状況証拠に出会った以上、ジョルジョ・モランディを「癒し系画家」と呼ぶことにいささか疑義を感じる。いつも同じような絵を描きつづけ、一生涯ボローニャから外へは出ず(晩年にはパリへ行ってますが)、未婚で、同じく未婚のままだった3人の姉妹とひとつ屋根の下で暮らした男は、実のところ、変わらないようで、変わった画家だったにちがいない。