Monday, June 30, 2014

モエレ体験。

      
 北海道の2日目は、札幌郊外のモエレ沼公園へ。イサム・ノグチが設計したこともあって、いつかは訪れてみたいと思っていた場所。「自然の中に”自然もどき”を作っても仕方がない」と、あえてこの不燃ゴミ処理用の埋立地だった沼を緑化するプランをイサムが立案したのは1988年。「そんな場所だからこそ、全体をひとつの彫刻作品にする意味がある」というラジカルな構想が完成をみたのは2005年、彼の死後17年を経てからだった。
 自分は果たして日本人なのか、それともアメリカ人なのかを確かめようとしたイサムは、いつも答えが見いだせなかった。ちょうどアーティストとして仕事が軌道に乗った頃に起こってしまった日米開戦。日系人の強制キャンプの不当性に抗議するため、アメリカ人としてみずから望んで入所したものの、いったん入ってしまったら日本人だからという理由で出所できないという現実を突きつけられる。そして戦後、広島の平和記念公園の斬新な設計プランを立てたものの、「おまえは原爆を落とした国の人間だから」という理由で、日本からも拒否されてしまう。
 国家というものは、いつも国籍というものを盾にして居住している人々をコントロールしようとする。でも本当に国家がアイデンティティを証明することができるのだろうか?国家に出来ることはパスポートを発行することくらいがせいぜいだと思う。
 翌日旭川で合流する手筈だった岡本夫妻とばったり出会った。予定を変更して、初のモエレ沼体験にやってきたらしい。岡本さん自身は夕張の出身で、奥さんは江戸っ子、僕は福岡生まれで、妻は下関が故郷である。同行していた友人に4人揃っての写真を撮ってもらった。それぞれがローカルなアイデンティティを持った他者たちは、イサムの世界を前にして、まるで入植したての移民のようだ。
 その夜、ホッケやホヤの塩辛で地酒をやった後、すすきのの方角へ向かい歩いていたら、大通公園で「集団的自衛権反対」の赤旗をかかげた連合のデモに出くわした。「連合」はてっきり「御用組合化」していると思っていたが、北海道ではまだ意地を見せているようだ。しばらく歩くと古本屋を見つけた。入ってみると、奥の本の山から顔を出したオヤジさんがいきなり声をかけてきたからビックリした。
「まったくカジノなんて、安倍はロクなことぁ考えないね」
なんだかうれしくなったが、話が長くなりそうだったから、藤沢周平の文庫本を買ってそそくさと外へ出た。

Saturday, June 28, 2014

ポロトコタン

        
 週一回のラジオのせいで、おいそれとは海外へ行けそうにないので、三泊四日で北海道へ行ってみることにした。
 北海道は、江戸時代まで「蝦夷地」と呼ばれていて、当時の政府である幕府によって、ほぼ無視された「未開の地」だった。当然「ニッポン」という感覚もなかった。では、明治政府が「開拓」したあとの北海道はどうなんだろう。そんな関心もあっての旅だった。
 まずは、新千歳からレンタカーで南下して、太平洋岸の白老町にあるポロコタンへ行ってみた。そこにある「アイヌ民族博物館」が、ぼくのような初心者にとって、とりあえずアイヌの文化に触れるためにはいいように思えたからだ。
 入場時にもらったパンフレットに、ポロトコタンとはアイヌ語で”大きな湖の村”という意味とある。白老(しらおい)という地名ももともとはシラウ・オ・イであり”アブが多いところ”という意味らしい。それどころか、てっきり日本名だと思っていた札幌でさえ、サッ・ポロ・ペッが元来の発音で、意味は”乾いた大きな川”、室蘭はモ・ルランで ”小さい坂”なのだそうだ。なんと、北海道の地名の80%は、先住民族の言葉であり、漢字は後から入植した和人の「当て字」ということらしい。
 美しい森と湖の間の土地に、4棟ほどのアイヌの伝統的な茅葺きの住居が再建されている。そこには興味深い様々な生活用具が展示されていて、関連したワークショップなども行われている。たまたまタイからやってきた大勢の観光客と一緒に、アイヌの歌や踊りを楽しむこともできた。そのほか、食料を保管する高床の小さな小屋、その裏手には「イヨマンテ」の儀式で天国へ帰っていったクマの頭蓋骨が残された祭壇などがひっそりと在った。博物館で一番興味深かったのはアットゥシと呼ばれる伝統的な衣服の文様だった。筒袖で和服にも似ているが、その大胆な文様が圧倒的な存在感を放っていた。それは、大昔から地球上の様々な場所にあったであろう、生命の放埒なエネルギーそのものだった。
 そんななかで、ある女性のスタッフがこんなことを語った。
「今でも、差別は残っています。だから、自分がアイヌの血を引いていることを隠すひともいます。和人の男性や女性と結婚したひとたちの子どもは、自分がそうであることを知らずにいることも多いのです」
 本などで、多少の予備知識はあったものの、面と向かってそう言われるとこたえる。自分に差別の意識が強くあるとは思わないが、まったくないともいえないような気がするからだ。たとえば、ぼくの生まれた北九州地方には、昔から多くの朝鮮系のひとが住んでいたので、小学校のクラスにはかならず何人かはいたのだが、ほとんど意識することはなかったが、本当のところはどうだったのだろう。
 差別というのは根が深い。ヒューマニズムでは乗り越えれないような気がする。多分、アイデンティティと背中合わせだからだ。だからこそ、「他者」への関心だけは失いたくないと思う。



Sunday, June 15, 2014

倶利伽羅紋々、その2。

週に2回ほどスポーツジムに通っている。時速6kmくらい、飲み過ぎた翌日は5.5kmの負荷をかけて、とにかくひたすらマシンを歩くこと40分。これで、日々のアルコールを帳消しにしようという魂胆なのだ。でも、実際、けっこう汗が出るし、結果、気分がすっきりするのは確かだ。あとは、ストレッチで体をほぐし、筋トレめいたことをするふりをして、仕上げに風呂を浴びると、トータルで2時間くらい。
 通い始めて、かれこれ20年、行くのは平日のお昼前後と決まっているから、出会う人はほとんどが定年後のオジサン、もしくは時間が自由なオバサンたちで、顔もほぼ互いにインプットしている。毎回かならず見かける人が15名以上はいる。多分その人達は、毎日通っているのだと思う。70%は女性である(この先、年寄りの、それも特に女性の平均寿命は、いったいどこまで伸び続けるのだろう)。けっこうな年寄りもいて、しばらく見かけないと「病気かな、それともひょっとすると…」などと思うこともないではないが。
 彼女たちは、たいていオシャベリだ。顔なじみを見つけては、飽きることなくアレコレ話しているのが、否応なく耳に入ってくる。最近代わったばかりのジャズ・ダンスの新人トレーナーを批評したり、孫の自慢、体の不調など、話のネタはつきない。先週、いつものようにマシンで歩いていると、隣のAおばあさんと、その隣のBおばさんが目の前のテレビ・モニターを見ながら話しているのが、耳にはいってきた。それは一見、先日終わってしまった「超国民的な番組」のような、若いタレントのたわいもないゲームを見せることで、まるで、今この国ではさしたる問題は起こっていないかのような「日常」を共有させるような番組だった。
A「あの男のコ、わたしファンだったんだけど、この前週刊誌で見たら、イレズミ入れてんだって」
B「そーお、イヤーね、あんな可愛い顔してるのに」
A「アタシ、もうファンやめちゃった」
B「そりゃそ~よね~」
 ぼくは一瞬「それって、倶利伽羅紋々かタトゥー、いったいどっちなんですか?」というツッコミを入れたい衝動に駆られたが、もちろんやめた。多分、どっちにしても、親からもらった大事な体に傷をつけるなんて、という決まり文句を持ちだされるがオチだからだ。
 倶利伽羅紋々は、他者への威嚇のため、百歩譲って護身だったりの意味だと思う。そして、最近タトゥーはカルチャーのひとつ、もしくはファッションとして若い男女に受け入れられている。だから、一方はオドロオドロしく、片方はラブリーだったりと、見た目の判断は出来る。ただ、公衆浴場では、入り口に「イレズミの方は入場おことわり」と張り紙をしているところもあって、そういう場合の判断はどうなるんだろう。前者はダメで、後者はOKなんて言えたりするんだろうか?多分、どっちもダメってところだろう。
 もうすぐ、今の政権は「集団的自衛権」にOKを出すらしい。それは、早晩、自国や同盟国を守るという理屈で、若者を戦場に送ることになる。もちろん、徴兵検査では、「倶利伽羅紋々」組も「タトゥー」組も一緒くたに合格というわけだ。

Friday, June 13, 2014

倶利伽羅紋々



国東半島で神仏の気配を感じたあと、別府の鉄輪温泉へ”立ち寄り湯”のために立ち寄ることになった。それも、一緒に行った友人のススメで、名物「蒸し湯」に初トライ。裸になると、差し出された備え付けの猿股を否応なく穿かされた。オバちゃんの指示に従って、背を屈めて低い入口から潜るようにして入ってみると、そこはものすごい熱気のムロみたいな狭い密室だった。床には、なにかの葉っぱが一面に敷かれ、室内には神秘的かつ薬効がありそうな香りが充満している。といいたいところだが、天井は低いし、熱すぎる。オバちゃんは「8分(だったか?ビミョーなタイム)経ったら、開けるけど、我慢できなくなったらいつでもノックしてね気分が悪くなる前に」と言っていたっけ。つまり、中からは開かない扉なのだ。ぼくは、まるで囚われの政治犯が灼熱地獄的拷問を受けているような気分になり、しばらく我慢したあとで、躊躇せずに小さな扉をノックした。オバちゃんが「5分やったねー」と言った。フー、まあまあ頑張ったほうだろう。しかし、事件はこれからだった。
 「さあ、あっちの温泉でゆっくり汗を流してね」、というオバちゃんの声に励まされ、背中にこびりついている”ふやけた葉っぱ”を引っ剥がして 浴室の扉をガラリと開けると、さほど広くない浴場には3人の先客がいた。いずれも二十歳代の若者らしく、一人は浴槽、一人は体を洗い中、残る一人はタイルにあ ぐらをかいて座っている。特筆すべきなのは、三人共に全身に見事な「倶利伽羅紋々」をいただいていることだった。入ったとたんに踵を返すこともならず、ぼ くは素知らぬ顔で(というのも変だが)空いていた洗い場に腰を下ろすしかなかった。
 随分前、これに似た経験をしたのは二日市温泉の公衆浴場だっ た。あいにく広い浴場の洗い場はズラリと先客がいて空いていたのはたったひとつ。しかもその両側には、見事な彫り物を入れたお二人さん。つまり、ぼくはそ の間に「おひかえなさる」しかない。特にイヤだという感じはなかったが、そそくさと体を洗ったのは言うまでもない。熱い湯に浸かったあとの妖しいばかりの 不動明王を間近に拝ませてもらったわけだ。
 今回は、狭い浴室で3対1のガチンコ勝負である。しかし、案外平静でいられたのは、彼らの陽気なおしゃべりのせいだった。湯船の男と、あぐらをかいた男の会話はこんなふうだった。
「ナニセミケツノメシハクエタタモンジャナイッスヨ(なにせ、”未決”の飯は食えたもんじゃないっすよ)」
「コンヤハスシクイテー(今夜は寿司食いてー)」
「オレジューシチノカノジョイルンスヨ。マダヤッテナインスヨ(俺、17歳の彼女いるんすよ。まだヤッてないんすよ)」
「オマエバカジャナイ(翻訳不要)」
どうやら、シャバに帰還してのひとっ風呂のようだ。
  さきに上がった彼らのあと、服に着替えて出てみると、自動販売機の前でジュースを飲んでいるくだんの3人と17歳の彼女がいた。男たちはそれぞれキャップ をかぶったり、ブランドっぽいTシャツ姿。いわゆるストリート系ファッション。街を歩いているいまどきの若者としか見えない。その後、男ふたりとアベック は、たがいに軽く挨拶を交わして全然別の方角へ歩いて去った。案外、かれらは今日はじめて風呂で出会った同士だったのかもしれない。

Monday, June 9, 2014

嬉しい姉妹店。


僕が住んでいる大橋にはもう一軒organがある。うちから歩いて5分、1階に飲食店がはいっている大きめのマンションの3階の一室で、古い電子オルガンを修理&販売している店だ。そのことを教えてくれたのはペトブルの小出さんだった。ある晩、フラッと立ち寄ったら「大橋でorganをやっている松末さんです」と紹介されて、「チェーン店みたいですね」と笑いあった。その直後だったか、彼のオルガンを使ったライブ・イヴェントがあり、僕も見に行った。機種は忘れたが、1960年代のものと思しきキッチユなプラスティックの楽器が、なんともいえない小憎らしい音をかなでていた。
 そうしたら、翌日、松末くんがライブでオルガンを弾いてくれた須藤さんと一緒に、遊びに来てくれて、近くの飲み屋でさんざん飲んだ。話はやはりオルガンのことだった。ビートルズのジョン・レノンがシェア・スタジアムで使っていたのはVOXだったとか、ザ・バンドのガース・ハドソンはイタリア製のファルフィッサだった、いや、ロウリーだった、などという話で盛り上がった。
 我が家に初めてオルガンがやってきたのは、僕が中学生だったころか。ピアノが欲しかったが無理で、たしか親戚の伯母さんの知り合いの要らなくなった年代物だったが、それでも嬉しくてしょうがなかった。でも、足踏み式のスカスカした音と、なんともユルイ反応ぶりに飽きたりず、すぐに埃をかぶってしまった。僕としては、プロコル・ハルムの『ハンブルグ』で鳴っているような、荘厳で悲しげな響きが欲しかったのだ。だから、大学でバンドを結成するときに、一年後輩の佐考くんがヤマハの電子オルガンを持っていて、プロコル・ハルムも好きで、おまけに”レズリー・スピーカー”も持っていると聞いた瞬間に彼の参加は決まった。回転するスピーカーの速度によって、音の陰影が付く魔法のような”レズリー・スピーカー”は、輸入品でとても高価、おまけに重くて、ライブのたびに大変だった。
 先週、須藤くんが東京から四国を経て、ひょっこり、なんとオートバイでやってきた。なんでも、数カ所でライブをやりながららしい。当然のように、その夜は松末くんも一緒に飲むことになり、イタリアン居酒屋の2階にあるorganへ初めてお邪魔することになった。一歩足を踏み入れると、そこはワンダーランドだった。白と黒、もしくは赤という派手なコントラストに、3オクターブくらいの小さな鍵盤が付いた、さまざまなデザインの氾濫。ディーター・ラムスがデザインしたかのような端正なスイッチ類。どのオルガンも誰かに弾いて欲しくてウズウズしているようだ。シンセサイザーや、サンプラーみたいにもっともらしい音を鳴らす優等生ではなく、なんだか曲者ぞろいのトランジスター野郎ばかり。嬉しい姉妹店だ。


Tuesday, June 3, 2014

無常感、アリマス。


福岡に戻り、「蕗の大堂」のことを少し調べてみた。国東半島は山岳密教が盛んだった場所らしい。「密教」といえば、空海や最澄が唐から持ち帰った、当時最新のカルチャー=仏教の教義のはずだ。”護摩焚き”や”曼荼羅”などという、なんだか呪術的な秘儀を含め、文字通り秘密めいた匂いがする。また「ご利益」という面が強調されたふしもある。もちろん、あらゆる宗教には「現世」がつきものなのだ。健康や安産、受験合格など私的なことから、果ては国難排除などまで、さまざまな願いをかなえてくれるか、という点が勝負の分かれ目なのである。
 高校生だったころ、ヘルマン・ヘッセの『シッダールタ』を読んだ。ストーリーはすっかり忘れてしまったが、なんだか感動した。”悟り”を求め仏陀のもとへ 赴くが、満足を得られず、あえて俗世間に戻って、すべてをあるがままに受け入れる境地に達する、というようなことだったか。これは、”禅”にも通じる「自 力」の世界で、我ら凡人には到底到達できない境地だろう。対極にあるのが浄土真宗の「他力本願」か(ただし、「他人任せのほうがなんとかなる」などという 簡単な教えではないようだけれど)。他方、密教は「自力と他力」のバランスを取った宗教といわれる。「バランス」。うーん、そこらへんのところが、六つか しい。
 大堂のわきに「笠塔婆」が3本立っている。鎌倉時代のものらしく、普段見慣れているのとは違い、とても不思議な形をしている。彫刻の ようでもあるし、地味なソットサスみたいにも見える。そこには色々なカルチャーの混交が重なって見えている。朝鮮、中国、そのさきの西域やペルシャ、エトセトラ。 3つが、大きい方から順に、なんとなく距離を置いて配置されているところもいい。無常感、アリマス。