Saturday, May 18, 2013

ゴロンとなられた姿。

スリランカは小さな島国だが、世界遺産なるものが7つか8つあって、そのほとんどは仏教遺跡、いまでも仏教を信じている人が多い。それも、金持ちの息子ゴータマ・シッダールタが出家して最初にイン ドで起こした「小乗仏教」の方に近い。これは、ひたすら自分が解脱することだけを目指したもので、日本人がイメージする(大乗)仏教とは違 うものだ。なぜか今では、小乗仏教は大乗仏教より劣った「自己本位」の宗教のように思われているフシがある。でも、実際のところ、どうなんだろう。
  仏教にかぎらず、キリスト教やイスラム教もそうだけど、有名な宗教は、シッダールタや、ジーザス、マホメットたち、いわば予言者達が語った言葉に、死後、弟子たちが様々な解釈を加えて経典化していったもの。いわば「個」の発言が次第に強大化、組織化しながら分派を繰り返して広まり、いわゆる「世界宗教」となっていった。くわえて、その過程で、いつのまにか、一番大事な(だと僕は思う)「倫理」の代わりに、共同体や国の為の「道徳」みたいな役割を担わされることにもなってしまう。そうなると、最初にあった個的なモチベーションはだんだん変質せざるをえない。その上に「ご利益」という側面が反映され、人々の様々な欲望に応えるべく、たくさんの神様仏様が現れ、混交することにもなる。仏教も、次第に、何かのためのストーリーとして語られるようになってしまい、「自身の解脱」などは「高尚な哲学」として済まされてしまい、経済至上主義のポピュリズムに飲み込まれてしまう。
 スリランカで出会った仏様は涅槃像、つまり”ゴロンとなられた姿”が多かった。僕には、なんだか「生まれ変わり=輪廻」を絶って、なるだけなら人様に迷惑をかけず、一生をなんとかやり過ごそうとするポーズに見えてしかたなかった。でも、目だけは見開いて、なんだか心配そうでもある。


Wednesday, May 8, 2013

やし酒飲み達。

 これは、行って初めて知ったことだけれど、スリランカは社会主義国家で、なぜだか日本への関心が強い。植民地支配からの独立に際して、社会主義体制を採った国は少なくなく、国民は等しく教育や医療を無料で受ける権利がある。ただし弊害もあるようだ。たとえば、街なかや道路にやたらと警官の姿が目に付いたのだが、コロンボへ戻る途中で僕らの車も止められてしまった。ドライバーのワジラさんが「なんだろう、そんなにスピード出してないのに」と言いながら車を降りていったと思ったらすぐに戻ってきた。「大丈夫だった?」と聞くと、「5キロオーヴァーだって。ワイロ、1000ルピーね」とケロッとしている。
 そのワジラさんは、日本に居た間に「演歌」と「締めのラーメン」が好きになったし、田舎町の食堂で「私は日本で働いていた」という人に3回ほど声をかけられた。日本へ「出稼ぎ」に行く人が多いのだ。みんな笑顔で話すところからすると、あまり嫌な目には合わなかったのだろう。でも、ちょっと行き過ぎの方もいた。それは、ワジラさんに「興味ありますか?」と聞かれ、「もちろん」と答え、やし酒屋(?)へ連れて行ってもらった時だった。場所は、とある田舎町のメインストリートから奥まった路地を入った森の中。そこには30人くらいの男たちが座っていて、足を踏み入れると60個の目が一斉に僕のほうを向いた。そこは、異邦人が寄り付かない「闇の」やし酒販売所だったのだ。
 

トーマス・チュツオーラという人が書いた『やし酒飲み』というアフリカの不思議な小説など読まなければ良かったと後悔したが、もう遅い。平静を装い、大きなカメから、表面がザラザラに使い込まれた紫色のプラスティックの手桶いっぱいに注がれたやし酒に口をつけた。酸っぱいカルピスのような味がする。「この人達は一日中ここで飲んでます」とワジラさん。さもありなん、と思った途端、僕の横にピタンとくっつく人がいる。明らかに出来上がっているのが目でわかる。そして、よく聞き取れない英語を繰り返しながら小さな紙とボールペンを差し出す。海外では最近漢字ブームなのを思い出し、とっさに僕の名前を書いて渡したが反応が悪い。どうやら電話番号が知りたいらしい。悪い人ではなさそうだが、教えても意味が無い。ワジラさんも場の雰囲気を察して「早く飲んで、行きましょう」という。グビグビ流し込んで、その場を去った。そうそう、発酵系が好きな奥さんのために買った大きなボトル一杯のやし酒を忘れてはならない。なにせ、女人禁制と聞き、車でひとり待っているのだから。

Sunday, May 5, 2013

シャングリラだったのかも。

バンダラナイケ空港から車に揺られて4時間、スリランカ中部の乾燥地帯にあるカンダラマ・ホテルに到着したのは早朝7時。だというのに、この暑さ! 目の前には湖、そして遠くにシーギリヤ・ロックの特徴的なシルエットがかすかに望めるが、それ以外はひたすらうっそうとした緑。視界に人工物がはいってこない。そこは、旅の果てにぴったりなところだった。ジェフリー・バワがここを手がけたのは1994年、75歳の頃。ビーチサイドのホテル設計が多いなか、元YODEL編集長としては、写真で見ただけで気に入り、こんな奥地までやって来たのだが、その甲斐があったというものだ。
 ホテルの外壁は、ほぼ蔦に覆われていて、コンクリートがほとんど見えない。果たしてバワは設計当初からこんな将来を予測していたのだろうか。答えはイエスだろう。「自然」と「オブジェ」が対立するのではなく、それなりに仲良くなるには時間が必要。もちろん時間だけじゃない。彼は、最初から建物に付加するものを少なくしている。そして、その構造物はランドスケープを生かして立地されている。結果として、雄弁な自然が朴訥なオブジェを愛撫しながら変化する様子が見て取れるのだ。
 ここは高級ホテルにありがちなラグジュアリー感とは無縁。細長い建物にはそれなりの部屋数もあるのだが、案内板やサイン類が控えめで(あってもセンスが良く)、万事がうるさくない。スタッフの対応も、過剰な作り笑顔がなく、とても落ち着いて4日間滞在できた。午前中は村上春樹の新刊を読みながら、窓からポッカリ浮かんだ雲の様子を観察して過ごす。午後はスリーウィーラーと呼ばれる三輪タクシーで町まで出たり、あたりに点在する仏教遺跡を少し見学。そうそう、ホテルから遠望したシーギリア・ロックにも登った。巨大な岩の頂上から見るオレンジ色の太陽と真緑の大地。この時間は風も涼しい。ここは確かにシャングリラだったのかもしれない、と思った。