Friday, January 13, 2017

ささやかな選択。

東欧にモダニズムを探しに行こうと思い立ったのはいいけれど、チェコやオーストリアは「東欧」ではなく「中欧」らしい。「東欧」はベルリンの壁が崩壊する前、つまりバルカン半島の国家群がソビエトの衛星国だったころの呼称なのだ。イデオロギーしだいで呼び方も変わるとは、なんだかくやしい。だったらいっそ足を延ばしてロシアのお隣ポーランドへ行ってみようか、と思ったら、とっさにアウシュヴィッツが浮かんだ。ウィーンから車で5時間、まあ許容範囲だろう。運転するのは奥さんだから、彼女さえOKしてくれれば行ってみたい。死ぬ前に一度は行ってみたい場所なのだから。奥
さんは、一つ返事で「いいね」と答えてくれた。
 オーストリアからチェコを抜けポーランドの高速に入ったら、制限スピードが130から140kmへと変わる。気が付かなければ、いつ国境を超えたのかまるでわからない、ここはEUなのだ。しかし、難民やテロ問題のせいで、このシステムも将来的にはなくなってしまうかもしれない。パスポート・コントロール無しで国境を行き来できることが、一瞬の間だけ、地球上で実験されたことがある、なんて将来歴史の教科書に載るのかもしれない。ナチス・ドイツが突然ここポーランドに侵攻したのは1939年だったか。無論パスポート無しだった。
11月の東欧の地面は堅く冷たく、どんよりと重い雲の間から時おりお情けのように陽が差していた。目の前の広大な敷地に残る数個のバラック建ての小屋にびゅーびゅー寒風が吹きつける。ここは、ビルケナウ。隣接するアウシュヴィッツが手狭になり、「選別」された人々が限られた時間を過ごした絶滅収容所。虚無の光景。
家畜用の列車で運ばれてきた人々のうち、まず労働力と見なされない子供や老人、衰弱した人などはガス室へ直行。その割合は到着した人の70%ともいわれる。残った人々はユダヤ人、ロマ、政治思想犯、同性愛者などに仕分けされ、劣悪な環境の施設へ押し込まれる。その後も選別は定期的に行われた。素裸にされ、SSや医師の前を走らされるのだ。だれを選ぶのか。基準はあいまい。セレクターの気分次第。誰もが精一杯元気なふりをして走り抜けるしかない。人間は、選別されることに慣れていない(どちらかといえば、選別することを好んでいる)。そして「死のオーディション」をスルーした人にとっても、その後に「生活」が待っているわけでもない。
アウシュヴィッツの展示室には、到着した収容者の所持品が展示されている。名前と住所が書かれたトランク、皿やコップ、入れ歯、眼鏡、靴、ブラシ。どれも、ひとりひとりの生活に密着したものばかりだ。
  大江健三郎だったか、「生活とは習慣をつづけること」と言ったのは。朝起きると、いつも通り、顔を洗い、歯を磨き、トーストにバターを塗り、砂糖を少し入れた紅茶を飲み、新聞を開いて「あ~、やっぱり今日も総理大臣が変わってない」とため息をついてトイレに入る。そんなルーティーンは、思っている以上に大切なもので、案外「自由」というものに近い。それらは老いや病によって次第に変化し、制限を受け、最後には手放さざるをえない。ところが、ここでは列車から降りた瞬間から、剥奪されてしまう。山と積まれた色とりどりのホーローのコップやジャグには、今も、ひとつづつのささやかな選択が残されたままである。