Thursday, February 21, 2013

ウーン、ここでも侯孝賢だ。

パリでも、よしんばニッポンのヒナビタ温泉でも、そこに知人が居るかどうかで変わってしまう旅がある。どんな評判のガイド本でも、彼や彼女を超えることはできない。今回の台北旅行で出会ったJoelは、以前どこかで会ったような気がしてならない、つまり初対面なのに気が置けない男だった。短時間で僕らの欲望の対象が満たされたのは、彼を紹介してくれたLinさんのおかげだ。彼女がorganにやってきたのは去年の9月頃。フランスの絵本を買い求めてくれた際に、自分は台湾人であり雑貨屋を営んでいることを、ナイーブな英語で語ってくれた。そして、これから鹿児島へ行くのだけれど、どこか面白い店はありませんか、と質問されたが、おもだったところはもうチェック済みだったようで、僕なりにいいと思うところを少し伝えた。ひとしきり話をした後、別れ際に「台北へはいつか必ずいきたいと思っています」と漏らしたら、「よかったら案内しますよ」とのことだった。社交辞令とも思えなかったので、しばらくして台北へ行く旨をメールしてしまった。すると、彼女の店は実は上海にあり、残念だけど僕らが行く時期に台北にはいないこと、その代わりに友人を紹介する、という返事が返ってきた。そんなこんなでJoelこと謝仁昌さんの登場となったのだ。仕事はインテリア・デザイナー。彼が連れていってくれる店は、つぼを押さえたモダンなものから、かなりマニアックなシノワズリ、そして日本統治時代の家屋を利用したカフェ&ギャラリーまで、ほとんどがお茶と骨董を併設した”茶園”だった。文化大革命時代、ブルジョワ的だとして排斥した大陸とは違い、台湾では「茶の文化」がしっかり根付いている、と聞いたことがある。「日本では北欧デザインが受け入れられているけど、台湾ではまだラグジュアリーなインテリアを希望する人が多いです」と日本を少しうらやましそうにいった後、「でも、提案する際、最低ひとつは古い家具を混ぜるように心がけているんです」と言って笑った。大学では映画製作を学んだが、映画で食べてゆくことは断念したらしい。でも、侯孝賢の映画『戯夢人生』にスタッフとして参加したことを嬉しそうに語ってくれた。ウーン、ここでも侯孝賢だ。次回はぜひ名作が撮られたロケ地巡りに案内してもらおう。


Thursday, February 14, 2013

原住民博物館

台北の故宮博物館の近くに原住民博物館がある。故宮のチケット売り場で、両方が見れる割引セットを買って行ってみた。広い故宮博物館は中国本土からの団 体さんで一杯だったが、狭い原住民博物館には僕ら以外は誰もいなかった。陳列物はなかなか見応えがあった。それにしても、「原住民」という言葉がこんな風 に堂々と使われていると、ここが外国であることを感じる。日本では「先住民」を使い、「原住民」を差別用語としているが、台湾では「先住民族」とは漢語で 「すでに滅んだ民族」という意味らしく、避けている。同じ漢字とはいえ、日本とはニュアンスが違うのだ。現在、台湾全人口の2.1%、14民族の存在を政 府が公認しているという。数は50万人足らずと決して多くはないのだが、この島の中で、17世紀くらいまで、たくさんのトライブが多様な言語、文化を持って暮らしていた ことを認識しているのだ。その後、西洋人、漢民族、日本人などが続々とこの「麗しの島」を統治した。前回、侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督を紹介する のに使った”外省人”とは、日本の統治が終った1945年以降、蒋介石の国民党と一緒に大陸からやってきた(=共産主義を嫌った)人々を指すらしい。対し て、それ以前に台湾に渡った”本省人”と呼ばれる人々の中には「原住民族」との混血の子孫達も多数いると考えた方が自然だ。だから、一口に台湾といっても、実は 多様なバックグラウンドを持つ多民族国家であり、カルチャーもミックスしている。街中を歩くと、僕らがイメージする中国人とは違った、どちらかというとマ レーシアやインドネシアに近い顔立ちの人とすれ違う。その度に、単一民族的情緒が支配する日本のことが頭をよぎる。一体、日本には「原住民」は居たのだろうか?もし居たとすれば、 いったい何処へ行ってしまったんだろう。

Saturday, February 9, 2013

お洒落な雑貨店にフツーに置いてあった。

1月だというのに気温は20度近い。子供の頃「バナナだったらフィリピンより台湾のほうが美味しい」と聞かされていたが、台北へやってきて、はじめてこの国が南国であることを実感した。林立するビルの谷間をたくさんの車やバイクが忙しげに走り回っている。その割には排気ガスがさほど気にならないのは、街路樹をはじめ、あちらこちらに肉厚の緑が点在しているせいだろうなどと、高速道路をひた走るタクシーの中で考えていたら、窓ガラスの向こうを、バイクをふたり乗りしたヘルメット姿の男女がしばらく並走して、通り過ぎていった。まるで、侯孝賢(ホウ・シャオシェン)の映画のいちシーンだった。
 ROVAの小柳帝さんの「台湾に素晴らしい映画を撮る監督がいますよ」という耳打ちがなければ、こうやって台湾へやって来ることはなかったかもしれない。1980年代後半の僕は、彼が監督した『戀戀風塵』や『童年往事』にノックアウトされていた。なにしろ下手なフランス映画より作家主義だし、なによりも「農村と畳、かき氷と蝉の声、台風そして草野球」など、自分の子供時代の風景に台湾映画の中で出会うとは思ってもいなかった。1947年中国の広東省で生まれたホウ監督は幼い頃に台湾へ家族と一緒に移住してきた外省人である。その頃はまだ日本統治の面影が至る所に残っていたことだろう。そのことを2歳年下の僕が映画を通して追体験し、郷愁に近い感覚を持つのも何かの因縁か。
 日本が台湾の統治を始めたのは日清戦争に勝利した翌年の1895年。それから1945年まで約半世紀という、けっして短いとはいえない期間には、いろいろな局面があったはずだ。当初、激しい抗日運動を武力鎮圧した後は、資源を開発し、日本へ還元するためのインフラの整備や教育改革を行い、そのことが今でも「”悪くない”対日感情」の根拠の一つに挙げられることが多い。しかし、植民地支配がそのことで帳消しになったのだろうか。そんなことを思ったのはこの本。中には目を背けたくなるような写真もある。置いてあるのは「漢聲」という名のコンシャスな雑誌の出版社が経営する店。うちの奥さんが中国風のパンツを買いたいといってやってきたお洒落な雑貨店にフツーに置いてあった。