Saturday, December 26, 2009

「音のある休日」#14

Olafur 1(2) オーラブル・アルナルズ / ファウンド・ソングス 
 レコード屋で「ポスト・クラシック」と銘打ったCDを見かけた。試聴するとピアノとヴァイオリン、そしてチェロがとても心地いい。迷うことなく即買いしてしまった。
 「クラシックの次」といったカテゴリーなのだろうか、確かにポップス好きの人にも充分アピールしそうな明快さがある。ピアニストであるオーラヴル・アルナルズはアイスランド出身。余分なものをそぎ落とした静謐な音に、北大西洋の澄み切った空気を感じることが出来る。
 そろそろ師走。何かと気ぜわしいこんな時だからこそ、あえて椅子に座り、ゆったりと音楽に身をゆだねる時間が欲しい。無理な相談だろうか?
(西日本新聞 12 月 13 日朝刊)

Thursday, December 24, 2009

Homemade Music

Rimg0047-1 東京で長い間音楽関係の仕事をしていたHさんが、つい最近福岡へ居を移した。その彼がCDをドサッと貸してくれた。見ると、そのほとんどがアメリカの、それもルーツ・ミュージックみたいなものが多い。ピート・シーガーやニッティ・グリッティ・ダート・バンドなど聴いたものもあるが、そうでないものもある。その中にデヴィッド・グリスマン関係のものが3枚あった。ジョン・セバスチャンと一緒のやつは聴いていたのだが、残りの2枚はいずれもジェリー・ガルシアとの共演で、前から気になっていたもの。まずタイトルに惹かれ聴いたのは1993年発表の"Not For Kids Only"というアルバム。ガルシアの優しい歌声とグリスマンのマンドリンやバンジョーでトラッドを子供に聴かせる趣向だが、確かに大人が聴いてこそ楽しめそう。もう一枚の”The Pizza Tapes"のほうはブートレグで流通し、デッド・フリークの間で密かに愛聴されていたもので、高田渡さんが生前Hさんに「ぜひ聴くように」、と薦めたCDらしい。リラックスした中にも名手達の息づかいが聞こえるようでとても素晴らしい。「天国の扉」や「朝日の当たる家」なんて名曲からマイルス"So What"まで飛び出すのだからタマラナイ。ザ・バンドで聴き馴染んだ”Long Black Veil"にはひとりグッと来てしまった。70年代はヒッピー気分で聴いていたものだが、実はホームメイドな雰囲気を持つアメリカならではの音楽なのだと合点する。

Sunday, December 13, 2009

EVERESTのセーター

やっぱり穴が空いていた。しかも、よりによってEVERESTのセーターなのだからしゃくに障って仕方がない。といっても、キチンと防虫剤を入れなかった自分のせいだからあきらめるよりない。ビームスのスタッフに聞いたら、やはり虫というものは柔らかいウールから先に食ってしまうらしく、スメドレーなんかは大好物だとのこと。そういえば、安物は全部無事である。それにしても、これは奥さんからのプレゼントだったはず。ここはダメージ加工だと開き直り、かまわず着てしまおう。と思っていたら、レンガ色の新しいヤツをプレゼントしてもらった。こんどこそ、大切に着なければ・・・。

Saturday, December 12, 2009

twitter

最近twitterにハマッてる人が多い。 N君が最初で、最近I君も始めたらしく、さかんにその面白さを吹き込まれる、というか、勧誘される。ヤブサカではないものの何処が面白いのかが判然としないからしようがない。ただし、包囲網が縮まってきた感があることは確か。140字以内というのがイイ。(以上約140字)

「音のある休日」#13

Swami 1 スワミ・ジュニオル / オウトラ・プライア
「イパネマの娘」が発表された1963年以来、ボサノバは世界中を駆けめぐり、今もその斬新なサウンドは人々を魅了し続けている。単にお洒落なだけではなく、サンバやショーロなどのブラジル伝統音楽をはじめ、古くアフリカからの音楽的記憶をも内包しているからだろう。
 様々なミュージシャンに信頼されてきたギタリスト、スワミ・ジュニオル初のソロアルバムには”サウダージ”と呼ばれる深い哀愁と、都会的な洗練が同居している。ネイティブとアフリカ系、そして西欧というミクスチャーが生んだ”つづれ織り”のようなクラフト感が大きな魅力ともなっている。ゲストの歌もそれぞれに滋味深く心にしみる。
(西日本新聞11月29日朝刊)

Sunday, December 6, 2009

ジョナサン・デミ

Rimg0029-2 ジョナサン・デミといえば「羊たちの沈黙」でヒットを飛ばした映画監督。ほとんど忘れかけていた人なのだけれど、新作「レイチェルの結婚」をDVDで観ると、やはり面白い。設定は姉の結婚式。元ドラッグ依存症の妹を中心に、多様な人々をドキュメント・タッチで描いている。一見、アルトマンの"Wedding"にも通じる群像劇ともいえるのだが、こちらのほうは皮肉度は低く、そのかわりに今のアメリカの匂いがしている。結婚相手は黒人、その甥っ子はイラク戦争から一時帰国した兵隊。パーティーを盛り上げる音楽も多彩だ。ブズーキを使ったり、インドっぽかったり、ジミヘンまがいやR&Bまでごった煮状態なのだが、どれもが映画にしっくり来ている。ついさっき、我慢できずにサントラをアマゾンでワン・クリック買いしてしまった。そういえば、彼はトーキングヘッズのライブ映画「ストップメイキング・センス」や、「サムシング・ワイルド」などで当時のNYを中心にした先端音楽への敬愛ぶりを示していたっけ。特に「サムシング・ワイルド」はそのクレージーな内容に、当時かなり興奮してしまった思い出がある。フィーリーズ(必殺”Fa C-La ”)がデビッド・ボウイの”Fame"をパーティーの場面でペナペナに演奏するシーンがあったり、ジョン・ケールやローリー・アンダーソンがスコアを書いたりしていた。時は1980年代中頃。レゲーにダブやアフリカン、パンクとUKニューウェイブ、そしてヒップホップなどが混然となって僕の頭を駆けめぐっていた時期だ。貿易センタービルも健在だった。

Thursday, November 26, 2009

小包が届いた!

Rimg0001-2 マラケシュで買ったキリムが、忘れた頃になって、ようやく届いた。遠くモロッコからとはいえ、エアメールにしては遅すぎるし、ほぼあきらめかけていたわけで、嬉しくないわけがない。これ以上コンパクトに出来ない程小さく丸められた荷姿を見て「ハテ、これは何なんだ?」と一瞬とまどったが、すぐに思い出すことが出来た。あのスークの迷路の奥にあるハッサンの店で、さんざん迷った品である。キリムと聞いてすぐ思い浮かぶ、いかにも手の込んだ羊毛ではなく、あえてニューメキシコのナバホなどにも通じる綿のシンプルな柄を選んだのだ。
 受け取りにサインをして、手に持ってみてその重さに驚いた。まるで鉄のかたまりが入っているかのようで、片手で持てないほどだ。そういえば、買った後、日本に送って欲しい旨を伝えたところ、4枚を重ねて器用にクルクル巻きにして、あっという間に小さなかたまりにしてしまった。それを紐で縛り、秤にかけて「送料は90ユーロ」、と伝えられたのだが、こんなに重いとは思ってもいなかった。はやる気持ちを抑えきれず、すぐに梱包を解くことにした。ところが、紐のかけ方が強固でなかなか思うに任せない。縦横の紐が交差する所が全部結んであり、その結び目がまるでイスラムの連続模様のようで実に頑固なのだ。そういえば、一昔前の我が家でも小包を出すのは一大事だったようで、同じように紐で梱包していたが、今ではガムテープで事足りている。開けてみると、モロッコの大地と空の色が現れた。

Friday, November 20, 2009

ソニー・トリニトロン・カラーモニター

Rimg0078-2 「地デジ」という語感が苦手なこともあり、早晩今のままではテレビが見れなくなると知りつつ無視を決めこんでいる。高画質とかオン・ディマンドもいいいだろうが、コンテンツを何とかして欲しいと思う。どのチャンネルも、お笑い芸人と食い物ばかりが映っていては、機材をわざわざアップデートする気が起きない。一時「多チャンネルなら・・」と思い、ケーブルテレビを契約したこともあったが、すぐに止めてしまった。かといって、我が家からテレビを駆逐するわけでもない。何となくスイッチを入れ、ただボンヤリと眺めることがあるからだ。
 もうひとつ問題なのは、テレビの形状。あの薄型でサイズがやたら大きなモノをリビングルームに設置することは極力避けたい。パソコンで見るというのも手だが、ひとりさみしく画面に毒づくのも精神上よろしくない。結局また堂々巡りで、結論は先延ばし。再来年の7月が来ても、デジタル・チューナーを介したソニー・トリニトロン・カラーモニターにがんばってもらいながら、鮮明ではないアナログ画面を見続けることになるのだろうか。

Thursday, November 19, 2009

「音のある休日」#12

Scott 1 スコット・ブルックマン / ア・ソング・フォー・ミー、ア・ソング・フォー・ユー
 
 ツボを押さえたコード進行やつい口ずさみたくなるメロディーは、簡単にまねできる技ではない。例えばビートルズのポールもそうなのだが、天性とも言うべき音楽センスが関係しているとしか思えない。
 10年振りにセカンドアルバムを出したスコット・ブルックマンは46才のアメリカ人。一般的な知名度はゼロに等しいが、自宅録音ならではのフレッシュで暖かい作品に仕上がっている。自分自身とゆっくり対話しながら(時には、楽器が得意な友人を呼んで)音楽製作に打ち込む姿が目に浮かぶようだ。
 たとえヒットチャートには無縁だとしても、、好きな音楽をやり続けることは、うらやましい限り。それこそ、簡単に真似できることではない。(西日本新聞 11 月 15 日朝刊)

「音のある休日」 #10

Combo-1 クァンティック・アンド・ヒズ・コンボ・バルバロ / トラディション・イン・トランジション
 
 イギリスから南米コロンビアに移り住んだクァンティックことウィル・ホランドの音楽を、一言で表すのは難しい。 様々なラテン・リズムを核に、アフリカ、アラブ、インドなどの音楽をミックスし、ファンキーでサイケデリックに料理しているからだ。いずれの曲も、その「洗練されすぎなさ」が魅力のダンス・ミュ−ジックである。
 ワールド・ミュージックと呼ばれる音楽は、もちろん国家別に存在するのではない。もっとローカルな色合いを持つものだ。互いに影響を受けながら変化してゆく様子こそスリリングなのだ。他者を拒否するのではなく、おのおのが持っているリズムを面白がることは、音楽の世界では大昔から当たり前。ゴキゲンに悲しい熱帯のグルーヴだ。(西日本新聞 10 月 18 日朝刊)

Friday, November 13, 2009

「何ぞテキトーな牛の絵ありまへんか」

『小早川家の秋』は、小津安二郎の映画の中では最後から数えて2番目の作品になる。様々な事情から、所属していた松竹ではなく、宝塚(東宝)で撮られている。そのためか、いつもとは違った気配がある。まずいつもの東京弁ではなく、関西弁、京都弁というだけで、なんだか勝手が違う。その上に、あの小津独特の抑制された様式美が、松竹以外の俳優の参加で少なからず攪乱されている。なにより中村雁治郎演じる老人の酔狂振りである。しかし、そこは歌舞伎役者、京都の粋を感じさせてくれるから楽しむことが出来る。問題は、映画冒頭と途中にだけ顔を出す森繁久彌のバタ臭い関西人振りである。鉄工所の社長である森繁が原節子演じる画廊勤めの未亡人に、「何ぞテキトーな牛の絵ありまへんか」と露骨に交際を迫るシーン。普段アートなどには無縁な町工場のオッサンのえげつない感じが出ていて、観る度にギョッとしてしまう。隣にいるのが加藤大介という、まるで「社長シリーズ」そのままの構図なのも皮肉だ。小津自身は達者すぎる役者はダメだったようで、ましてアドリブが得意という森繁久彌を自分の映画に出演させることにはかなりの抵抗感があったとのこと。でも、そんなことを承知の上で怪演技を披露するのは森繁ならではパフォーマンスだ。バーのカウンターで、あんなにつまらなさそうにピーナツを口に放り込む仕草は、もう誰にも真似できないだろう。

Wednesday, November 11, 2009

PENDLETON

Rimg0017 冬が近くなるとチェックが着たくなる。ブラックウォッチや鮮やかなチェックもいいが、アメリカ中西部の農夫が着そうなボンヤリ柄のペンドルトン。できれば茶系アースカラーのユーズド、乾燥機でキュッと縮んだやつが欲しい。
 ペンドルトンといえばネイティブ・アメリカン風のブランケットも有名だけれど、アレッと思ったのは60年代にビーチ・ボーイズが着ていたってことだ。ストライプの半袖シャツがトレードマークだと思っていたのだが、CDを見ると、確かにサーフボード片手に全員がブルーのペンドルトン姿である。別名”ペンドルトンズ"とも呼ばれていたという話もあるくらいだが、企業タイアップだったのかもしれない。田舎っぽいシャツが、当時のカルチャーと一緒になって最新ファッションに変わったってことか。
 つい先日、街ですれ違った女性。白のペインターパンツにボーイズサイズのペンドルトン。思わず振り返りたいほどキュートだった。その後、organによく来ていただく小柄なお洒落さんも同じペンドルトンを着ていたことが判明。きっと、どこかのショップがサイズを今風にアレンジして別注で作ったにちがいない。あの大きなフラップ付きのポケットや、とんがった襟はまちがいない。
 それにしても、チェックというのは世界中に点在している柄。スコットランドはもちろん、アジアにも、アフリカにもある普遍的なモチーフのようである。時にはザズーやパンクスみたいにアンチな人たちのシンボルになってしまうところも面白い。難点はただひとつ、すぐに飽きてしまい、また別のチェックに目移りしてしまうところと、着るとやっぱり似合わないところか。それでも、夏にはやっぱりマドラス・チェックを探してしまう。結局、季節に関係なくチェックが好きなだけの話なのだ。

Friday, November 6, 2009

唐津くんち

Rimg0100-1 一昨日、パリから戻ったばかりのユカリンと一緒に、唐津くんちへ行ってきた。つい10日ほど前はマレあたりを一緒に歩いていたのに、日を置かず今度は唐津で再会。活動的な人なのだ。彼女の友人である老舗呉服屋の若旦那のお誘いで、4軒ものお宅をハシゴしてしまい、美味しい手料理を堪能した。
 まずは昼からS邸でアラの刺身。唐津くんちといえばコレだ。今まで「アラのようなもの」しか食べてなかったことが判明、その堂々とした本物の魚振りに驚いた。味は脂がのっているのにさっぱりしている。他にも生きのいい魚が一杯。シャンペンとワインで昼間からすっかりいい気分だ。続いては川島豆腐へ。いつもの入り口ではなく、豆腐工場を抜けて裏にある秘密の会場へ。ここではローストしたアグー豚をいただいた。沖縄産らしく、中国原種との交配種とのこと。優しい甘みがクセになりそうな味である。そして大将が丹精した唐津限定の新米のおにぎり。塩も付いてないのに、一粒一粒が甘く香ばしい。あまりの旨さにぬか漬けと一緒に2個パク付く。ここで、一旦ホテルのチェックインを口実に、シャワーを浴びて小休止。なにしろ、お腹いっぱいなのである。
 それにしても、豊穣の祭りらしく、皆さんよく食べて飲むし、よく喋り冗談も達者だ。博多の山笠とは明らかに違う。次のお宅へ伺う途中でようやく遭遇した曳き山も、勇壮というのではなく、子どもやお年寄りが一緒になってソロリソロリと練り歩くのだ。そのお宅では、家庭料理をいただき、何人かの福岡の知り合いにも会い、ビックリ。みんなが誰かのつながりで偶然集うのも嬉しいことだ。唐津くんち独特のかけ声「エンヤ」が、なんだか「(コレも何かの)縁や!」に聞こえてしまう。最後は洋々閣へタクシーで乗り込み、泊まり客も一緒に座敷で車座。巨大なアラの煮付けが旨過ぎる。隆太窯の太亀さんもすっかり出来上がっているようだ。
 唐津くんちは正月よりも盛大だとのこと。そういえば、伺ったお宅ではどこも最後にかならず「来年もぜひいらしてください」との言葉が添えられる。あるおじいさんは「良い年を!」とまでおっしゃった。美しい晩秋の一日が足早に暮れていった。

Monday, November 2, 2009

素足のサイズ計測

Rimg1173 オテル・ドヴィルの前にあるBHVでユカリンと待ち合わせて、マレの方角へブラブラ散歩していたらANATOMICAの店の前を通りかかった。80年代半ば初めて訪れたパリではフレンチアイビーの牙城だったHEMISPHEREへ行くのが目的のひとつだった。そのオーナーだったピエール・フルニエ氏が90年代にビルケンシュトックをメインにしたショップを開いたことは知っていたし、確かその後一度は訪れたはずなのだが・・・。 
 イソイソと店内に入ると、エレファントスツールのオリジナルが置いてある。先日Pucesで見かけたものの、つい買い逃してしまったのと同じジェット・ブラックで、いい感じに色あせている。店内はさほど広くもなく、日本のワラジや古いかすりが置いてあったりしてなかなか興味深い。しかし、目は壁に引っかけてあるオールデンのダーティーバックスに釘付けだ。サイズの有無を尋ねると、ピエール氏が地下のカーヴにストックを調べに行ってくれたが、あいにく9.5インチしかないらしく僕には大きすぎる。ブラウンなら小さいサイズがあるのだが、さて・・・、と逡巡していたら、「足のサイズを測りましょうか」とのお誘い。レッドウィング社の古いフィッティング・ゲージでムッシューじきじきに計測してもらうのもいい経験だと思って靴を脱いだ。
 僕は、「多分8.5のDかEだと思う」といったのだが、結果は8のDらしい。ところが、ムッシューは「靴下を脱げ」という。確かにちょっと厚めのソックスを穿いてはいたが、それにしても慎重な人である。気恥ずかしかったが、いわれるがままに冷たい金属のゲージに足を置くと、ムッシューはその細い指で僕の素足を台座にキチンと固定し、おもむろに「まちがいない、お前は8のDである」と宣言した。昔の僕なら、ここで観念してブラウンを購入したのだろうが、今は違う。やはり、ダーティーバックスが欲しいので、と断った。そのかわり、濃いブラウンのシェットランド・セーターをいただくことにして店を後にした。

Friday, October 30, 2009

Villa Vanille

Rimg0407 マラケシュのホテルはとても居心地が良かった(見つけてくれたウチの奥さんに感謝)。若いフランス人夫婦が経営するゲストハウスなのだが、広めの敷地にはプールが2つあり、サボテンやオリ−ブの木の間をラバや山羊が放し飼いされていたりする。点在する数軒のコテージのモロッコらしい内装や小物も、オーナー2人のセンスが表れているようで、ゴージャスとは違ったリラックス感がとてもいい。
 着いた日のランチは、僕らのコテージのテラスでNさん達とタジンをいただいた。チキンと野菜がサフランでトップリと煮込んであって、旅の疲れが吹っ飛ぶような美味しさだった。母屋は古い建物で、居間や食堂、台所などが自由に出入りできる。レセプションもなく、客は図書室やあずま屋など各々好きな所でくつろぐことができる。ただ、コテージには電話がないので、用事があるときは大きな台所を抜けて、オーナーであるフローレンスのいる部屋へ出向かなければならない。
 暇に任せて庭をフラフラしているうちに、大きなうちわサボテンの赤い実が目に入った。たしか食べられるはずである。もちろん、その気はないのだが、好奇心も手伝いどんな固さかと触ってみることにした。棘はなく、細かな繊毛に覆われているようだ。そのまま、その場を立ち去ったのだが、なんだか指がチクチクする。見ると、親指と人差し指の先にびっしりと小さな棘が刺さっているのだ。細かい繊毛と思ったのが早とちりだった。1ミリにも満たないような棘だから、全部をうまく抜くことができない。無視しようと思っても、指をこすり合わせると明らかに小さな痛みが走ってしまう。
 どうしたものかと思案しているとハッサンがやってきた。その旨を伝えると、チューインガムで取れるという。一枚噛むのももどかしく、まだベタベタしかけたガムをくっつけては離し、くっつけては離し、最後の一本を取るまで終始無言だった。気のせいか、しばらくはまだ一本くらい残ってるような気がしてならなかった。

Thursday, October 29, 2009

Couleur Cafè

Rimg1095 無事アギーユ・ドゥ・ミディ征服後、登りと同じロープーウエーで一段下の乗り換え地点まで下る。ここまで来ると、少し人間界に近い気がする。見ると、少し離れた場所に山小屋みたいなものがある。ドイツ語ではヒュッテというのだろうがBARという文字も見える。吸い寄せられるように小屋の中へおじゃますると、髭を生やしたおじさんが退屈そうに新聞を読んでいる。ちょっとしたみやげ物がテーブルに並んでいるのだが、床には大きなリュックとヘルメットが置いてある。頂上を目指してちゃんと自分の足で登る人のための中継地なのだろう。メニューを見ると、赤ワインがある。暖かいヴァンショーをお願いしたが、あいにくやってない。しかたなく、ボルドーのグラスをお願いし、勘定をするためにカウンターの近くへ行くと音楽が流れているのに気がついた。低域がカットされた小さなラジオ独特の痩せた響きだが、どこかで聴いたようなメロディーだ。ちょっとラテンっぽい。そのままテラスへ向かいかけた瞬間「クーラーカフェ・・・」という歌詞が耳に飛び込んできた。ゲンさんである!こんな場所でのゲンズブールとの遭遇に、思わず膝を打った。確かにここはアルプスとはいえフランスなのだから不思議ではないのかもしれないが、なにせクーラーカフェ、この場所にピッタリの語感ではないか。ひとり悦にはいり、ハミングなどしながら、しばしあたりをトレッキング気分でそーついた。でも、日本に戻って調べると「コーヒー色」とサブタイトルが付いている。自分の勘違いに寒けがした。

Wednesday, October 28, 2009

AIGUILLE du MIDI

Rimg0217 シャルロット・ペリアンが手がけた施設レザルク2000を見たかったのだが、あいにくスキーシーズン直前でクローズしていたため代わりにモンブランへ行くことにした。ジュネーブからバスで2時間ほどで麓のシャモニーに着く。目の前は壁のように立ちはだかる山だ。頂上は見えない。これからロープーウエーに乗って、はるか雲上まで登るのかと思うと武者震いしそうだ。実は、帰国後に仲間と一緒に出す予定の同人誌”Yodel”のために、どうしても雄大な山の写真が欲しい。仕事の都合でひとあし先にモロッコから帰国したデザイナーのNさんから「山の写真、ヨロシク!」と言い渡されているのだ。
 一気に登ると高山病の危険があるらしい。さいわい、途中2000mくらいで一旦降りて別のロープーウエーに乗り換えるとのこと。おそらく上はかなりの寒さに違いない。この日のため防寒用にエヴァーウォームの下着を着込んでいるのだが、それにしても、もはや寒い。35度の砂漠から一気に零下の世界へやって来たわけで、身体が順応していない。回りもほとんどの人がそれなりの格好をしている中で、異彩を放っているのがバスでひっきりなしに喋っていた4人の謎の中国人だ。全員ワイシャツに薄いグレーの背広姿でマフラーもなし、という軽装は、傍目にも大丈夫かな、と思ってしまう。そんなことにはお構いなしに、ほとんど垂直かと思われるロープーウエーに乗った僕らは、またたく間に標高3842m、終点のアギーユ・ドゥ・ミィディと呼ばれる展望台に運び上げられた。
 それから先のことは筆舌に尽くしがたいほどクールだった。つまり、寒さを通り越した無我の境地だったわけだ。写真を撮ろうにも、強風のせいか足と指先の血流がストップしていることが歴然で、なにごとも思うに任せない。めったやたらにシャッターを切る。そんな中でタバコを一服したら(風か気圧なのか、なかなかライターが付かないのだが)、今まで味わったことがないほど旨かった。
 しかし、15分が限界だった。暖かいカフェテリアに逃げ込み、ホットチョコレートを飲んでいると、くだんの中国人達もやって来た。でも、ポケットに手を突っ込んだだけで、寒そうだけど案外平気そうだ。しばらくすると、彼らは何も飲まず、又そそくさと極寒の世界へ消えていった。何か使命でもあったのだろうか?クールだ。

Monday, October 26, 2009

ハッサン

Rimg0669-1 旅の醍醐味のひとつは人との出会いなのだが、今回ほど様々な人とソデスリアエタことはないと思う。そのほとんどは、パリに住むユカリンのおかげなのだが、彼女が紹介してくれたのがモロッコで会ったハッサンだ。マラケシュにあるスークの中でじゅうたん屋を営む彼は、法外な値段をふっかけるのが当たり前のスークで唯一信頼できるディーラーだとのこと。東京で行われたモロッコのクラフト展のために来日したこともあるという彼のコレクションは、確かに見応えがあり、様々なキリムの中でもなるだけシンプルなものを何枚かいただくことになった。正直なところ、あの狂騒のフナ広場をやっと抜け出て、温厚な顔の彼に出会ったとたん、なんだかホッとした気持ちになったものだ。
 ハッサンという名前を聞いてすぐに頭をよぎったのはアリ・ハッサンというスーダンのミュージシャンだった。ナイルの上流、ヌビア地方のダンス・ミュージックのマエストロで、キューバ音楽とミックスした強力なグルーヴは頭がクラクラするほどかっこよく、僕は一時中毒になったことがある。アラブ圏でハッサンという名前は多分ポピュラーなのだろうと思いながらもハッサンに尋ねると、なんと彼もアリ・ハッサンが大好きらしく、彼との距離がグッと縮まったような気がした。ついでに、グナワ・ミュージックはどうか、と聞いたら、もちろん好きだ、お前にアリ・ハッサンとグナワのベストなCDを帰る前にプレゼントする、と約束してくれた(結局この約束は守られなかったが・・・、インシャラーである)。実際、こんな時には音楽は便利な共通語になってくれる。
 3日目は朝からハッサンと一緒にアトラス山脈へ車で一日ツアー。マラケシュを出て信号なしでバカみたいに真っ直ぐな道をひたすら走ると、突然茶色をした山岳地帯へさしかかる。ガードレールもない曲がりくねった道を、かなりのスピードで上るエアコンの壊れたワゴン車は、これでも上等の方なのだ。気がつくと標高1500m、そこだけ緑に覆われた谷間のウリカ村へ到着。リンゴの産地らしくレストランで食べた地元料理タジンも美味しかった。そしてハッサンの友人宅でミント・ティーをいただき休憩。この人の名前もハッサンらしい。ハッサンだらけだ。それに、ミント・ティーだらけ。何処へ行っても、まずはミント・ティー。甘く香しいミントの香りと、ハッサンのちょっと汗臭いワイシャツの匂いがなつかしい。

Sunday, October 25, 2009

une petite maison

Rimg0902-3 ジュネーブのホテルを朝9時に出て、左に葡萄畑、右にレマン湖畔というスイスならではの眺望を楽しみながら列車に揺られること小一時間、小さな町ヴェヴェイに到着。駅で尋ねると、湖畔沿いに歩いて20分くらい、迷うことなく行けることが分かった。この様子だと、約束の時間にはたどり着けそうだ。なにしろ週に一日、水曜日が原則なのに、事前のメールでなんとか金曜の見学を許されたのだから遅れるわけにはゆかない。しばらく歩くと、ネスレ本社ビルを過ぎたあたり、国道と湖に挟まれるような三角地に目的の「小さな家」が目に入る。アルミニウムの外壁に覆われた細長い建物は、なんだかワゴンみたいだ。
 身の丈ほどの茶色いドアを開けると、室内に暖気が感じられる。遠来の客としてはうれしい限り。係の女性ジャネッテさんが笑顔で迎え入れてくれると、挨拶もソコソコに室内を歩き回る。なんと幸せな時間だろう。特徴的な11mの横に長いガラス窓からはキラキラと陽光が湖面に反射し、彼方にアルプスが遠望できる。ここで、コルビュジエは母との時間をゆっくりと過ごしたに違いない。朝日を取り入れる高窓、仕切をスライドさせるとゲストのためのベッド、兄と2人で滞在するための秘密の小部屋(?)、愛犬のためののぞき窓、屋上緑化。随所に細かな工夫が凝らされて、ジャネッテさんの説明がひとつひとつの謎を解いてくれるようだ。家というものは、必ずしも広ければいいというわけではない。狭小であっても、日が良く当たる庭があって、必要にして充分な設備さえあればいい。
 ほぼすべてがオリジナルの状態というのも嬉しかった。しかも、どこを触れてもOK。もちろん椅子に座ることも許されている。で、置いてあるLCシリーズの椅子もオリジナルですか、と質問したところ、2脚のうちの1脚だけがそうだとのこと。言われてみれば、確かに細部に違いがある。すると、ジャネッテさんが持ってみろというジェスチァーをした。持ち上げると、軽い。イームズのLCWやDCWもそうだけど、オリジナルといわれるものはリプロダクトに比べると、かなりの度合いで重量が軽い場合が多い。それはちょっとした感動ですらある。
 実を言えば、僕はかねてからコルビュジエについて回る「巨匠」という字が苦手だった。だからこそ、この「小さな家」に来て良かったと思う。快適さとは、ある種の軽さなのかもしれない。

Thursday, October 8, 2009

「音のある休日」#9

グレゴリー・アンド・ザ・ホーク / イン・ユア・ドリームス
 
Gregory 1 「タフでいることにはもうヘトヘトなの・・・」。訥々(とつとつ)とした生ギターをバックに、舌っ足らずのチャーミングな声が耳元でささやく。歌っているのはニューヨーク出身の女性シンガー&ソングライター、メレデス・ゴドルー。まるでアメリカのインディペンデント映画の主人公のように、リアルだ。
 小さなコーヒーハウスで歌っていた彼女がユニット名義の自主製作でCDデビューしたのは、4年ほど前。その中の1曲が”MySpace"と呼ばれるインターネットのコミュニティ・サイトで公開され話題を呼んだ。その後、草の根のように静かな展開を広げ、日本でもCDが発売されることになる。変革の中、ささやかな日常を歌う姿に、今のアメリカが透けて見えるようだ。(西日本新聞 10 月 4 日朝刊)

Saturday, October 3, 2009

久生十蘭の「従軍日記」

Rimg0040-3 久生十蘭の「従軍日記」を読んでみた。戦意高揚の記事を書く人気作家としての彼は、インドネシアで酒と麻雀と慰安婦に溺れる苦渋の日々を送り、ニューギニアの前線ではアメリカ軍の爆撃の恐怖を味わうという経験をすることになる。アブナイ言葉をフランス語に代えながらつづられる細かな日々の記録は、そのまま当時の知識人の有り様を見るようだ。太平洋の広大な地域に展開した日本の不毛な戦争に、彼自身は案外コミットしていたことをうかがい知ることができる。
 20年ほど前、バリ島の隣のロンボクという島へ行ったことがある。ある朝、ホテルの前のビーチから「ギリ・アイル」と呼ばれる、さらに小さな島へカヌーで渡ってみることにした。1時間ほど波間を揺られ、ようやく視界に入ったその島の隣にちっぽけな岩だらけの小島があった。船頭が、頂上の黒い物体を指さしながら、旧日本軍の砲台だと教えてくれた。戦略的にはさして重要とも思われない孤島にポツンと置き忘れられた大砲。目の覚めるような青空をバックにした、この天国のような小島に配属させられた兵隊は、毎日一体何を考えて過ごしたのだろう、と不思議な気持ちになったことを覚えている。
 僕は、いわゆるジュウラニアンではなく多くの作品を読んだわけでもない。本の表紙に写る写真が、幼い頃見た父の軍装姿とほぼ同じポーズ、表情だったことに興味を惹かれたのだろう。長靴を履き、軍刀を杖のようにして虚空を見つめるポートレイトは、さながら当時の日本男児のアイコンのようだ。

Sunday, September 27, 2009

カナダに興味がある。

Rimg0027-1 ラサ(Lhasa)という女性シンガー&ソングライターの同名タイトルCDを聴いている。世の悲しみを一身に背負ったかのような声とメロディに、ふと同じカナダ出身のレナード・コーエンを思い浮かべてみる。ついでに、リチャード・マニュエルやニール・ヤング、ジョニ・ミッチエルも。いづれも、ベトナム戦争の時代に、アメリカに対して批評的立場を取ったカナダ人なのだが、デビュー時はてっきりアメリカ人だと思っていた。一見、アメリカと区別が付きにくいカナダだが、実際は随分様子が違うようだ。歴史的には、両国ともイギリスの支配から独立している。カナダ東部大西洋岸は元来フランス領だった。それをイギリスが破ったわけだが、直後にそのイギリス軍にいたジョージ・ワシントン等が、皮肉にもイギリスを相手に戦争をしかけ、アメリカが独立を果たしている。その際、カナダでのフランス軍はインディアンと共闘を組んでいたということを知った。戦略的理由だったのかもしれないが、先日のヴェトナムでの話と合わせて、ネイティヴへの配慮を感じさせるフランスを想像した。そういえば、フランス系カナダ人のミュージシャンを意識したのはルイス・フューレイが最初だった。あの強烈な個性は、ちょうど聴き始めたばかりのセルジュ・ゲンズブールと一緒くたになって、時代遅れのダンディズムへのあこがれを加速させた。そんなカナダ人で2004年に「LANDAU」というアルバムを出したのがMantler。ウーリッツァーの侘びたエレピ音をバックに、ロバート・ワイアットを幼くしたような痛切な声で甘美なメロディを紡ぎ出すおじさんである。話が散漫になったが、要はカナダに興味がある、ということだ。いつか行ってみたいとも思う。でも、何処へ行けばいいのか、まったく焦点が定まらない。まさか、今さらアウトドアに目覚めそうにはないが、モノ探しではない旅がしてみたい。秋なのだ。

Saturday, September 19, 2009

「音のある休日」#8

Haus  ハウシュカ / スノーフレイクス・アンド・カーレックス
1890年代にエリック・サティが提唱した「家具の音楽」は、常識を覆す革命だった。なんと、史上初の「無視することもできる音楽」が登場したのである。といっても、ここに紹介するドイツ出身、ハウシュカの存在は無視できそうにないのだけれど・・・。
 日々量産される音の洪水の中、 「押しつけがましさがなく、(家具の様に)そこにあるだけの音楽」は、その後「環境音楽」とも呼ばれことになる。ポロン、ポロンと繰り返される印象的なピアノのフレーズは、短かかった夏の終わりによく似合う。そんな、知的で実験的なハウシュカのライブにもうすぐ福岡で出会える。単なる「癒し」を超えた濃密な時間を期待している。この最新アルバムを聴いて、しっかり予習しておこう。
(西日本新聞 9 月 20 日朝刊)

Saturday, September 12, 2009

Au Revoir Simone

Rimg0045-1 オ・ルヴォワール・シモーヌというガーリー・ユニットのCDをアメリカから取り寄せてorganで販売していたのは2年ほど前。毎日のように聴いていたあの頃に来福してくれていたら、などと思いつつライブ会場へ向かう。小さな会場は、案の定スタンディングで、隅の方に申し訳程度のイスが数脚。優先席とばかり、小さなすきまを見つけて座らせてもらう。缶ビールをチビチビやりながら、知人でもある田中ゴロー君のユニット「lem」の演奏に耳を傾けた。CDで聴くよりずっと骨太の音が気持ち良い。二組目のバンドがラウド系だったのを潮時に、近所の焼鳥屋へエスケイプ、彼女たちの出番とおぼしき時間になりそそくさと会場へ戻ると、待つほどのこともなく演奏が始まった。ドラムマシーンをバックに、ミニサイズのシンセをピコピコ操る三人娘がそこにいた。聞き慣れた曲を耳にし、おもむろにステージ近くへ移動。イイ。耽溺していた80年代の「ヘタウマ」といわれたミューズ達が、走馬燈のように脳裏を駆けめぐる。アンテナ、アンナ・ドミノ、ミカド、そしてベントゥーラ。待てよ、彼女たちはブルックリン出身だったはず。そういえばローチェスっぽくもあるし、いにしえのガーリー・ガレージ系シャングリラスのソフトヴァージョンといえなくもない。なにより決定的なのは、向かって左端、ブルーネットの娘の歌声である。なんと、スラップ・ハッピー時代のダグマー・クラウゼの遺伝子「明るい絶望感」を持っているではないか!それにしても、3人ともスキニー過ぎる。目の毒だ。おかげで最後まで立ちっぱなしの有様だった。

Thursday, September 10, 2009

空手黒帯有段者Yohji

Rimg0065 街でばったりROVAのOBに出会い、ひとしきり昔話。彼がROVAに通っていたのは9年ほど前になるだろうか、女子率が高い生徒の中にあって、なんとスカート状のものを穿いたりと、コム・デ・ギャルソン顔負けの先鋭的なお洒落をしていたのだが、今では結婚をし、ビジネス・スーツ姿である。そんな彼から、ちょっと気になる話を聞いた。「ヨウジ・ヤマモト」の経営が危ぶまれている、とのこと。ま、変遷が激しいモード業界、何が起こっても不思議はないのだが。
 随分前、FM番組のために山本耀司へインタヴューしたことがあった。鈴木慶一プロデュースでアルバムを出し、福岡にライブのためにやって来たときだった。幸運にも、行きつけのバーのカウンターに腰掛けて、いろいろな話を伺う機会を得た。彼がデザインした服も好きだったけど、たまたま立ち読みした雑誌での発言がすこぶる刺激的だったし、なによりその2、3年前に見たヴィム・ヴェンダース監督映画「都市とモードのビデオノート」での立ち居振る舞いにノックアウトされた身なればこそ、極度に緊張していた。
 開口一番、当たり障りのない質問をするしかなかった。「福岡へはよくいらっしゃるのですか?」と。彼の答えは意外なものだった。「別れた女房が北九州出身なので、以前、小倉へはよく来てたんですが、福岡は滅多に来ないです」。なんというのか、初対面の挨拶にしてはフランク過ぎる。いや、ラディカルでさえある。でも、おかげで随分緊張が解けた気もした。それからかれこれ1時間ほど、服や音楽の話をした。柔らかだが核心を突いた話しぶりに聞き惚れてしまい、何を喋ったのかよく覚えていない。でも、彼がいった言葉のいくつかは鮮明に記憶している。「ナチスに追われる東欧の難民が着ていた服に嫉妬する」や、「アイデンティティなんか、いらない」などなど、「デラシネ」っぽいプレゼンスだ。リアルだったのは、「一番嫌いなのは、洋服に『お』を付けること」といっていたこと。確かに、「お洋服」とは笑止である。さて、空手黒帯有段者Yohji、これから何処へ行く。

Tuesday, September 8, 2009

USネービーのセーラーズ・ハット

Rimg0012-1 夏の終わりに、かぶり物を買った。USネービーのセーラーズ・ハットで、レプリカだが良くできている。先週、今泉にある店「NAVY」で見つけ、欲しかったのだが辛抱した。何故かといえば、確かオリジナルの白を持っていたからである。ところが何処にあるのか判然としない。こういうときには奥さんに聞くのが一番。すると「随分前、車の中で見かけた」との答え。早速駐車場まで行き、車を物色すると案の定あった。ちょっと黄ばんでいるが、洗濯すればまだまだイケそうだ。そういえば中学生時分、「ホイホイ・ミュージックスクール」というテレビ番組のプレゼントに応募して、これに似た帽子をゲットしたことがあった。でも、ペナペナの生地の粗悪品で、被ってみたが全然似合わず、がっかりした覚えがある。ポパイみたいにツバを立てて被ったのがいけなかったようだ。その後しばらくして、ツバを下ろし、目深に被ると自分の不格好な頭が隠れて、案外具合が良いことを発見して、どこかの放出品屋で見つけたもの。しかし、この、オリジナルにあり得べくもない黒にも惹かれる。ここは、細部にこだわり別ヴァージョンを模索する日本のアパレルの力量に敬意を表して購入した。「CORONA」というマイナーなメーカー名が泣ける。

Sunday, September 6, 2009

「音のある休日」#7

James2James Yuill / Turning down water for air
 久しぶりに「シンガー・ソングライター」という言葉が浮かんだ。アコースティックとエレクトロニクスが気持ちよく調和したサウンドと、イギリスならではの愛すべきメロディー。なんだか名前「ユイル」が「ユルイ」に思えてしまうほど優しい歌声に、思わず耳をそばだてた。
 インターネットの動画サイトを検索すると、観客を前にして生ギターを背中にしょって、いくつものコンピューター機材を操る彼の姿を見ることができる。社会的で内省的だった1960年代とは違い、ハイブリッドでしなやかなスタイルである。今のところ、輸入盤でしか聞けないのだが、ウェブ・ショップなどでは比較的容易に購入が可能だ。マイナーな音楽を楽しめる環境が嬉しい。
(西日本新聞9月6日朝刊)

Saturday, August 29, 2009

「音のある休日」#6

Masha マーシャ・クレラ / スピーク・ロウ
 ベルリン出身の女性マルチ・アーティスト待望のソロアルバム 3 作目。今回は、同じドイツ出身の作曲家クルト・ワイルなどの作品をカバーしたもの。
 ワイルといえば 1929 年「三文オペラ」で有名になり、その後ブロードウェイに進出した音楽家。ドラマティックで感傷的なメロディが、今の時代、どんな風に料理されるか興味津々だった。
 聞いてみると、シンプルなバンド・サウンドが意外にもマッチしている。限りなく少ない音で空間をデザインするスタイルは、やはりドイツならではのもの。マーシャの愁いを含んだ(といっても湿度ゼロの)ボーカルが、大衆音楽の古典に新らしい光を当てているかのようだ。
(西日本新聞8月23日朝刊)

キャンプ

Rimg0371-1 『M*A*S*H』DVD特別編を観る。何度観ても、ドナルド・サザーランドの迷彩帽はダンディだし、例のエリオット・グールドがマティーニにオリーブを放り込むシーンには思わず膝を打ってしまう。サザーランドはカナダ出身、イギリスで舞台俳優としてデビュー、グールドはニューヨーク出身のユダヤ人でやはり舞台俳優。二人ともこの映画がきっかけで人気俳優となった。原作は朝鮮戦争を舞台にしたカートゥーンで、それに大胆&強烈なおふざけ感を加味したもの。1970年に公開され大ヒット、カンヌ映画祭でグランプリも取っている。当時はヴェトナム戦争まっただ中。一応朝鮮戦争を描いているのだが、見るうちにどうしてもヴェトナム戦争を連想してしまうところが監督ロバート・アルトマンの狙いだったようだ。それにしても、前述の2人が、軍隊という「真面目であるべき場」で演じる不真面目さがサイコーだ。それは、スーザン・ソンタグがいっている「キャンプな感覚」に近い。ソンタグは著書『反解釈』の中で「われわれは、不真面目なものについて真面目になることもできれば、真面目なものについて不真面目になることもできるのである」、といっている。ソンタグは又、対照的にポップ・アートについてこういっている、「キャンプと関係があるとしても、やはり平板で乾いており、真面目であり、究極においてニヒリスティックである」。これは、もちろんアンディ・ウォーホルを思い浮かべてもイイし”King Of Pop"と呼ばれることになった人を思い浮かべてもイイ。対して、キャンプとはやさしいシニシズムであり、快楽を欲しているから消化にいいのだ、ということになる。

Wednesday, August 26, 2009

Sugar or Honey?

Rimg0338 ホーチミンでの4日間は、当たり前のように連日フォーだった。到着した夜は、矢も楯もたまらずホテル近くの店に駆け込み、禁断症状をなだめるように牛のフォーをズルズル。次の日はフエ・スタイルのフォーだったが、上品すぎて庶民派の味ではない。なので、3日目はもっと辛いフエ風にトライして納得。昼は古いチャイナタウン、チョロン地区で小母さんが中華鍋でガンガンやっつけたチャーハン。で、最後の夜は” Ba Ca"と呼ばれる大衆食堂へ。入り口に並んだいろんな大皿をいくつか指さしでオーダー、なんだか大名にある「青木食堂」みたいだ。どれも家庭料理っぽくて胃袋が大喜び。「インゲン豆の煮浸し」と「焼なす」に歓喜し、「軟骨付きゆで豚」の甘くジューシーな味にビールが進む。甘辛い煮魚、ピリ辛のチキン、ホウレンソウのスープなどなど、苦手だったインディカ米の香りも料理にピッタリで、気がつくとほぼ完食。とその時、そばを通りかかった店の小母さんが、小さなガラス容器に入ったものを2個そーっとテーブルに置いていった。食べてみると自家製ヨーグルト。けっこうサワーなのだが、蜂蜜の甘さがイイ。勘定を払うとき、「甘さは蜂蜜ですよね?」と聞くと、小母さんは「砂糖」、と答えた。どう考えても、ハニーの甘さだと思うのだけれど・・・。

Tuesday, August 25, 2009

Uncle Ho

Rimg0142-1 空港からホテルまでの車中、短い時間だったけど、現地のグンさんにヴェトナムについて少し質問をしてみた。彼が生まれたのはヴェトナム戦争が終わった2年後。当時、もうサイゴンは独立運動の象徴である「ホーおじさん」の名前をとってホーチミンに変わっていた。でも、今でも郊外から町へ向かうときには、つい「サイゴンへ行く」と言ってしまうらしい。突然、町の名前が英雄(といわれる人)の名前に変わるってのは、一体どんな気分なのだろう。現在、中国とは仲が悪いらしく、また、枯れ葉剤などの問題もあってアメリカ人を嫌っている人が多いとも言っていた。ちょっと意外だったのは、100年近く統治したフランスについては、「いろいろなことを学んだ」から、と好意的。たしかに、デュラスの映画やペリアンの自伝など、フランス人の目を経由してヴェトナムを見る時ですら、なんだか少しだけ救われる気がする。もちろん、ヴェトナム戦争以前は、独立を目指し、フランスとも激しい戦いを繰り広げたのだから、そんなにシンプルな構図ではないのだろうが。でも、バゲットが美味しかったり、町のそこかしこの壁に残るフランスっぽいフォントや色彩を目にすると、なんだか不思議な気分になってしまう。そういえば、フランス人とヴェトナム人は、どちらもプライドが高そうでもある。ところで、短期間だけど、フランスと共同統治した日本は、ヴェトナムに何を残したのだろう。グンさんに聞き逃した質問だ。

Monday, August 24, 2009

ホーチミン

Rimg0052-2 初めてヴェトナムへ行った。社会主義国だが、中国と同じように開放政策を実施しているので、アメリカや日本の資本も入っている。目抜き通りにあるルイ・ヴィトンがやけに目立つ。ベトナム戦争まではサイゴンと呼ばれていたホーチミン市は人口500万という大都市。公共交通機関がバスだけとあって、すさまじい数のバイクが庶民の足となっている。自家用車はピカピカの高級車で、他はとにかくバイクだらけ。そのうえに大きな交差点やロータリーには信号機が少なく、外国人にとっては決死の横断となる。ところが、彼らはあわてる風もなく、車やバイクの間を縫って器用に横切ってゆく。僕らは、戦争中、アメリカ軍の情報センターだったREX HOTELの前にある国営デパート3Fのカフェから、そんな光景をアイス・コーヒーを飲みながら飽きることなく眺めていた。コツはどうも「あわてず、騒がず、悠然と」、のようだ。国営デパート内にあるスーパーのクローク係のおばさんはまったく愛想なし。モチロン、僕らは、そんなことはお構いなしにフォーを食べ、汗だくになりながら、路上に座ってコーヒーを飲む人々をかきわけて一日中町を歩き回っていた。

Sunday, August 16, 2009

「パリ・キュリイ病院」

Rimg0449 野見山暁治の「パリ・キュリイ病院」を読み終える。後に「四百字のデッサン」で非凡な文才を発揮することになる画家の処女作であり、突然異国で病に倒れた妻に起こった現実を表した容赦なしの報告書である。医者や友人達の世間的なアドバイスに耳を貸さず、あくまで自分のやり方で妻の最期を看取る姿がラディカル。まるで、回りの理解を意図的に拒むかのようだ。妻が理不尽な病魔に冒され、そして死んで行く様子を完璧に示そうとする文章は明晰過ぎて、ちょっと恐いくらいだ。読み終えるのに時間がかかったわけである。もちろん、「泣き」の場面は少ないが、亡くなる前、かろうじて意識があった妻の言葉にドキリとした。「オニイ(彼女は野見山のことを”兄”になぞらえ、そう呼んでいた)が見えるよ。だけど、ぼーっと、しとうとよー」。唐突に現れた博多弁だ。1950年代のパリに、つたないフランス語と博多弁をしゃべる夫婦が確かに存在したことの証言だ。感情の中立性を探求するかのような文体に現れたハプニング。若き絵描きはシリアスに、やさしい。25年振りに復刊された表紙を飾るのは(おそらく短い時間二人が住んだアパルトマンを描いた)妻の無邪気なドローイングだ。

Tuesday, August 11, 2009

白紙投票

Rimg0383 衆議院選挙の公示日は18日。選挙カーの騒音が、また始まるかと思うと、すっかりブルーになってしまう。我が家は駅前なので、広場でのアピールも強烈。昔と違い、格段に性能の良くなったPAからひたすら連呼される候補者の名前が、すさまじい切れ味でビルのコンクリートを突き抜けて店内を駆けめぐる。この音圧はヘヴィメタ以上だ。今どき、こんな迷惑な選挙システムを続けている先進国も珍しい。こんなナイーブなことを平気でやってる候補者には、とうてい投票する気にはなれない。1950年に制定された公職選挙法という恐ろしく古い形式にメスを入れる公約をする人がいたら、すぐ応援するのだが・・・。オバマ氏はインターネットを使って支持者や選挙資金を増やした。日本もWEBを使って公約を明らかにするシステムが検討され始めたらしいが、さて実現するのやら。当然、今回は間に合わない。棄権をするのは癪だが、誰に投票するかの判断材料が少ない。ここは、白紙投票するしかないだろう。もちろん、民主主義の権利を放棄するのはもったいない。ボイコットという態度くらいは表しておきたいものだ。それにしても、わざわざ投票所に出かけたものの、「投票したい候補者がいない」というのは実に情けない。「政権交代」は確かに魅力的なタームだけれど、消費税を上げないというのは、もはやどう見ても現実的ではなく、ポピュリズムにおもねったマニフェストにしか思えないところに民主党の弱みが見えてしまう。

Sunday, August 9, 2009

「音のある休日」#5

Marco B2 マルコ・ベネベント / ミー・ノット・ミー
 
 ある時はキース・ジャレットのように静謐なソロ、そしてある時はロック・フェスティバルのような轟音。マルコの弾くピアノは振幅が大きい。一見、即興演奏のようだが、実は緻密な構成に基づく演奏は、ドラムとのアンサンブルから生みだされるという。なるほど、一体となったリズムがユニーかつ新鮮なフレーズを奏でている。
 本来ピアノが持っている打楽器的な機能の再発見。そして、それをジャズやゴスペル、ロックへと適応させることで最新の音楽へと昇華させる可能性。センチメンタルなピアノのメロディに寄り添うように、時折もれ聞こえる鼻歌のようなハミング。ふと、グレン・グールドを思い浮かべてしまった。
(西日本新聞8月9日朝刊)

Thursday, August 6, 2009

唐津へ行った

Rimg0392 yukarinを誘って、唐津へ行った。パリでフレンチ料理を教えている彼女にぜひ「川島豆腐」を味わって欲しかったからだ。実は、先週我が家で料理を作ってもらったのだが、どれも野菜中心のあっさり味だったので、きっと出来たての豆腐も気に入ってもらえると考えたのだ。お酒も好きなようで、売り切れてなければ菊姫の山廃生酒も飲めるかもしれない。彼女と知り合ったのは、去年だったか共通の友人から紹介され、今年の初めその友人の結婚式にパリから駆けつけた彼女と東京で再会、6月には福岡に帰郷した際に一緒にお酒を飲む機会があった。なんでも、二十歳の誕生日にそれまで貯金したお金でロマノ・コンティを買い、ワイン道に足を踏み入れたらしい。当日も、朝の5時まで友人と飲んでいたらしく、車の後部座席で仮死状態だった。ところが、「川島豆腐」に着くと俄然元気になり、「こんなに酵母菌が生きている日本酒は初めて・・・」などといいながら、実に美味しそうに飲んでしまった(さすがにお代わりは辞退してビールにしていたが・・・)。その後、近くの「ツルヤ」でカステラを買い求め、「隆太窯」へ。ギャラリーでじっくり鑑賞するが、「お金を貯めて、いつか気に入ったもの全部買う」からと、今回は我慢らしい。友人だという鰻屋「竹屋」の娘さんや、着流しが似合う呉服屋「池田屋」の若旦那とお茶を飲み、11月の「唐津くんち」での再会を期し、七山温泉へ。ぬるめのお湯ですっかりリフレッシュした後、夕闇迫る中を滝見物。先日来の雨のためか、ゴーゴーとすごい勢いの水にビックリ。最後は、福岡に戻り、閉店間際の「TURIP」に滑り込み、ビオワインと新鮮野菜のディナーに舌鼓を打ちながら最近のパリ話。10日に戻る際には、ミョウガや大葉を持ち帰るという。なんでも、暑いパリ、日本のソーメンにそれらを入れたものがとてもウケがいいらしい。パリジャンも夏はあっさりジャポニズムがお気に入りなのだ。

Monday, August 3, 2009

冠婚葬祭にも履ける靴

Rimg0340-2 今年の夏は、もっぱらレインボウ・サンダルで過ごしている。足裏に当たるヌバックの感触が気持ちいいし、ビーチサンダルにしてはソールも厚めなので履きやすく、とても重宝している。フットギアはやはり履き心地が一番だ。それでも、時々思い出したように革靴を引っ張り出してきて足を通すことがある。でも、すっかりスニーカーに慣れきって弛緩した足は、容易には革靴を寄せ付けてはくれない。やれWESTONだ、イギリスのベンチメイドだと背伸びして買った革靴は、たしかにカッコイイのだが、やはり甲高、幅広の僕らには不向きなのだろう。それに、当時(1980年代)はジャスト・サイズが主流で、店員さんも大きめを選ぶことを許してくれなかったから、買った後も血豆や外反母趾的苦痛にさいなまれたりしたものだ。そんな中で、ALDENの"Jacobson"と呼ばれるモデルだけは例外だった。元々矯正用だった木型を使ったこのモデル,パリのJacosenという靴屋が別注したものだとか。僕はBEAMS福岡店で、まずVチップ、その後ストレート・チップを買った。当時で6万円くらいだっただろうか、チャップリンの映画に出てきそうな独特のいびつなシェイプと、足を入れた途端にピタッとくる感じに驚いた覚えがある。長歩きしても一向疲れないとあって、以来、何かといえば着用したのだが、ある時、買い逃していたプレイントゥがどうしても欲しくなったのだが、時既に遅しの廃盤。ところが、最近ひょんなことから、中古で入手することが出来た。これで、短パンにはモチロン、冠婚葬祭にも履ける靴が確保できたというわけだ。

Saturday, August 1, 2009

「音のある休日」#4

Hot Dowg デビッド・グリスマン / ホット・ドーグ

 マンドリンといえばカントリーやブルーグラスなどでもおなじみの楽器。そんな固定観念を変えてしまった男がデビッド・グリスマン。数々のレコーディングに参加、次第にジャズやジャンゴ・ラインハルトなどに傾倒、即興演奏に適していたマンドリンに新たな魅力を加えた。
 1979年に発売されたこのアルバムは、遂にビルボード誌ジャズ・チャートで堂々1位に輝くという快挙を成し遂げた。名手ステファン・グラッペリのバイオリンを始め、ギターやウッドベースといったアコースティックな楽器が醸し出す軽快なアンサンブルはハッピーそのもの。ジャンルはもちろん、時代を超えても聴き継がれる名盤である。
(西日本新聞 7月26日朝刊)

「音のある休日」#3

51Gigwsfmwl リメンバー・リメンバー / リメンバー・リメンバー

 ポスト・ロック(ロック以降)と呼ばれる音楽がある。「反体制」という”大きなテーマ”を掲げたロックが、あまりに巨大化、商業化した後を受け、主に80〜90年代以降に反動として現れた動きだ。
 その中に、一見凡庸で”私的な物語”を紡ぎ出すような音楽が存在している。リメンバー・リメンバーと名乗るイギリスのユニット(実は一人らしい!)は、ギターと様々なサンプリング音を重ね
ながら、音響的でロマンティックなメロディーを生み出す。
 反復される牧歌的なフレーズに身を任せ、ボンヤリと聞き流すのもイイ。でも、注意深く聞くと、実は繊細な批評性を合わせ持つ音楽でることが分かる。
(西日本新聞 7月12日朝刊)

「音のある休日」#2

Tuma ジョルジオ・トマ /マイ・ヴォーカリーズ・ファン・フェア

 「イタリアといえばカンツォーネ」とはいにしえの話。ジョルジオ・トゥマは南イタリアに住みながら、英語で端正なソフト・ロックを生み出した。今、世界中のポップスは確実にボーダーレス化している。
 アントニオ・カルロス・ジョビンとブライアン・ウィルソンが好きだという彼らしく、アルバムはボサノバやうっとりするコーラスに彩られている。その上、60年代の艶笑イタリア映画のサントラのように甘酸っぱい哀愁が漂っているところがツボなのだ。やはり、出自は隠せないものと見た。しっかり練られたアレンジとさわやかな演奏に、耳の肥えたリスナーもハッピーな気分になってしまうこと請け合い。梅雨空も、まんざら悪くない気分だ。
(西日本新聞 6月28日朝刊)

「音のある休日」#1

6月から西日本新聞の日曜版文化面で始まった「音のある休日」という小さなCD紹介コラムを、隔週で書かせていただいている。「週末にくつろいでもらうために、現在入手可能なCDを紹介する」という主旨で、ジャンルにこだわらなくていいという前提でお引き受けした。おかげで、またポップスをちゃんと聞いてみるきっかけになったと思う。よかったら読んでみてください。中にはorganで販売しているものもあります。


Mocky
モッキー/サスカモォディ
 ファイストやゴンザレス、ジェーン・バーキンなどの作品でも活躍するカナダ人ミュージシン、モッキー。60年代のソウルやジャズを思い起こさせるような新作は、ゆったりとしたメロウな演奏が主体だが、適度に混じる夢見がちなヴォイスやハミングも気持ちいい。トンガったクラブ系とは違い、どこかで聞いたことがあるような親密なメロディは、一人でぼんやり聞くのにもうってつけだ。
 レコーディングはセルジュ・ゲンズブールも使っていたというパリのスタジオ。なるほど、時代を超えたかのようなヴィンテージ感が漂っているわけだ。長くつきあえそうな一枚である。
(6月14日、西日本新聞朝刊)

Monday, July 27, 2009

築26年

Rimg0347 記録的な大雨のおかげで、店内の3個所から雨漏り発生。まあ、たいしたことはなかったのだが、このビルも築26年だからそろそろガタがきてもおかしくない。そうそう、西日本新聞によると「日本時間学会」という新しい学会が山口で産声を上げたらしい。「時間とは何か、時間はいつ生まれたのか」などというむずかしい理論ばかりではなく、生物時計のメカニズム、文学や芸術に現れた時間、アキレスと亀 『速さ』とは何か、退職者の時間感覚、などという面白そうなトピックもある。もちろん「老い」も。そういえば、昨日S君がやってきて、ダン・ヒックスの来日時のインタヴィユーが載ったフリーペーパーを持ってきてくれた。1941年アーカンソー生まれのサンフランシスコ育ち、現在67才。一時はアル中だったが、見事復帰を果たした現役の言葉が載っていた。「そうだねえ、フィジカルなことでは歯や耳の衰えとか、疲れとか色々あるけど、基本的にはエンジョイしてるよ。普通はリタイアして家に閉じこもっている年齢だとは思うけど、まだまだやることはあるし、いい人生を送っていると思う」。新聞には、ギリシャの政治家の言葉としてこうも書いてあった。「時間こそ最も賢明な相談相手である」と。築26年なんて、まだまだ現役続行と願いたい。

Wednesday, July 15, 2009

入道雲モクモク

Rimg0072 昨日に続き、親戚お二人と一緒に福岡観光。入道雲モクモク夏空の下、こんな機会でもなければ登らない福岡タワーからの眺めは案外ナイスだ。東にはアイランドタワーが遠く小さく見える。でも奥さんの情報では、向こうの方が20mくらい高いらしい。今、33階では田中さんがモデルルーム内装の仕上げをしているはず。「おーい、大丈夫か!」と叫びたいが、聞こえるわけがない。「お疲れ様」と、心で感謝。お昼時になったので、「因幡うどん」渡辺通店へ。ここのうどんは昔から親しんだ典型的な博多うどんで、コシのない麺にやさしい汁なのでお年寄りにもピッタリ。丸天うどんといなり寿司をペロリ。最近はシコシコ讃岐うどんばかりで久しぶりだったのだが、やはり旨いと再確認。うどん好きのOさんが次回来福したら、ぜひ連れて行こう。さて、大トリは太宰府。といっても、今日から始まった「阿修羅展」ではない。まずは都府楼跡の隣にある「観世音寺」で天平時代へ思いを馳せ、一路天満宮の裏へと向かう。目指すは「お石茶屋」の梅ヶ枝餅である。そういえば、Oサン夫妻と一緒に来たのはいつ頃だったか?その時も、半ば強引に連れてきたような気がする。戸外の気持ちの良い風に吹かれて、焼きたての餅と冷たいお茶を飲んだらすっかり良い気持ちになってしまい、あやうく本殿へのお参りを忘れるところだった。気分はすっかり夏休みなのだ。

Tuesday, July 14, 2009

Rimg0012 この季節になると、博多の町は締め込み姿のヒトがソーツクようになる。「山笠」だ。それぞれ自分が属する「流れ」の紋が入った絣を着た若衆達が、那珂川を越え、福岡のストリートを闊歩することがある。そんな光景は結構目立ってしまうのだが、同時に「ああ、夏が来たんだ」と納得もする。祭りにはあまり関心がないのだけれど、奥さんの親戚が来てくれたこともあり、久しぶりに川端商店街を一緒にソーツキ、櫛田神社まで足を伸ばすことになった。キッチュな飾り山をいくつか見物し、古くからある帽子屋さんに立ち寄り、多分デッドストックだろうタータンチェックのポークパイハットを試したりしながら、少しずつ目標の場所に近づいていった。「中州ぜんざい」である。頭の中は「宇治ぜんざい」を食べることばかりを考えていたのだ。白玉が入り、宇治茶がかかった本物のかき氷は、ここでしか味わえない。半ば強引に誘ったわけで、お二人は「いらない」と言われる。仕方がないので2つ注文し、僕が1つで残り1つを3人でシェアすることになった。小さな店だし、表では待っている人もいる。早くも食べ終わった3人に悪いと、あせって食べたせいで、氷を食べた後特有の咳が出てしまった。そういえば、昔の夏休み、近所の駄菓子屋のところてんも酢を入れすぎると、咳が出ていたっけ。

Thursday, July 9, 2009

パーカー・ポージー

パーカー・ポージーの魅力 映画は冒頭が楽しみ。タイトルバックが始まった瞬間に勝負は決まってしまう。遅ればせながらDVDにて観た「ブロークン・イングリッシュ」は、出だしから大勝ちだった。鏡を前に、パーティーのために服を選ぶ仕草はウインゲイト・ペインの写真集「ミラー・オブ・ヴィーナス」から抜け出したかのよう。30代半ばの女性主人公はさわやかにメランコリックで、おまけにユーモラス。それなりのアヴァンチュールはあるものの、気がつけばいつも一人。本当の愛は、そう簡単には手に入らない。誰しも経験がある「konkatsu」のむなしさを誰よりも知っているのだ。監督のゾエ・カサベテスはジョン・カサベテスとジーナ・ローランズとの間に生まれた娘。両親の映画作りをじかに見て育ったわけで、回りの期待も大きかったでしょう。で、結果はOK。なにより女優の魅力が存分に引き出せていたと思う。着てた服も良かったし、音楽も悪くない、おまけにパリでゲンズブールの落書きだらけの家を訪ねるなんて小ネタも忘れないなど、痒いところに手が届きすぎだ。女優の名前はパーカー・ポージー。本名なのだろうか?ファニーだ。

Wednesday, July 8, 2009

ベイカーパンツ

Rimg0137-3 USアーミーのユーティリティ・パンツ、通称「ベイカーパンツ」を古着屋で見つけて、また買ってしまった。多分10本目くらいだろうか。といっても、初めて目にしたのは25年くらいも前だから、驚くほどの数ではないが、同じようなものをしつこく買ってしまう自分には少しあきれる。しかし、今回のは持っていないタイプ(脇にアジャスター付き)だったから仕方がない。ボタンの形が違うし、なによりコットン・サテンの風合いがクッタクタで、なんともいいパティーナ具合だったし、重みもある。肩凝り症で、おまけに椎間板ヘルニア持ちの身としては、重い服はいっさいオミットなのだが、こういう場合は別なのだ。高校生時分、はじめて買った古着のチノパンを見た母から「そんな菜っ葉ズボンを穿いて・・・」、といわれて以来、作業服に目覚めてしまった。今でも、外国に行って、ワークウェアを着こなした労働者を見るとつい嫉妬してしまう。でも、このパンツはもとはといえば米軍のもの。そういえば、持ってる10枚の中には血痕らしきものがうっすら残っているものもある。調べてみると、ベイカーパンツとは作業中に穿くものらしく、ということは非戦闘時に何か別のものが付着したと思いたいところなのだが、茶色に変色した跡はどうみても・・・。しかし、兵隊にとって、作業時っていつなのだろう。戦闘時とそうでない時の区別って本当にあるのだろうか。兵隊とは始終ワークタイムみたいなものではないのだろうか。何故そんなことを思ったかといえば、来月、ベトナムのホーチミンに行くことになったからだ。多分僕は、このベーカーパンツを穿いて南ベトナム陥落の地、旧サイゴンへ行くことになるだろう。

Saturday, July 4, 2009

ホンマ・タカシの「たのしい写真」

Rimg0137-1 ホンマ・タカシの「たのしい写真」を読んだ。表紙タイトルの下に「よい子のための写真教室」というコピーがあって、平凡社とある。虫眼鏡を持つ手をレイアウトしたデザインと相まって、まるで古本屋でたまに見かける昔の教則本のようだ。内容の方も、写真の歴史から始まり、実践編へと、一見ありがちなハウツー本の体裁を取っているところが匂う。読んでみると案の定、すこぶる刺激的だった。まず冒頭で、「写真=真を写す」という日本語訳に異議を唱え、「photo=光、graph=描く」、つまり「光画」くらいの訳が妥当で、かなずしも「リアルさ」がマストではないと釘を刺す。その上で、絵画の代替として登場した写真が、ドキュメントやリアリズムを前提とした「決定的な瞬間」という時代に強い力を発揮し、その反動として「繰り返される凡庸な日常の光景」への転向を経てモダニズムを確立した、という説を述べている。その後はポストモダンの時代となり、「私的な物語」がテーマのひとつとなったというわけで、この流れはデザインの世界にも通じる仮説だと思う。結局、モダニズムの時代は「題材やテーマが大きかった」ということ。それが解体されて「小さな個人の物語」になったというわけ。つまり、写真にまつわる過度な思いこみを一旦括弧に入れてしまい、構造的に見てゆくという感じなのだろうか。おかげで、アラーキーや森山大道のことが少しわかったような気がした。ところで、後半、前述したビクトル・エリセの映画「マルメロの陽光」が「ドキュメンタリー=現実?」という項で紹介されていた。「時間が経過していること自体決定的で、もう二度と戻れない」という記述があり、「そうだよナー」と、ひとりごちる。

Sunday, June 28, 2009

「マルメロの陽光」

マルメロの陽光 随分前に映画館で観た映画を、DVDでもういちど観たいと思うことがある。そういう場合、つい「あの感激をもう一度」と願ってしまうのだが、そうは問屋が卸してくれない。以前感じたにちがいない驚きが再現されることがないのは、久しぶりに会った昔の恋人に全然ドキドキしないことと似ている。もちろん、相手のせいではない。変わってしまったのは自分の方なのだろう。ところが、スペインの映画監督ビクトル・エリセが撮った「マルメロの陽光」は違っていた。17年ぶりに観たのだけれど、一層輝きが増したように思えた。実在の画家が、初秋から冬までの3ヶ月間、庭に育てたマルメロの実が朽ち果ててゆくまでを、定点観測のように丁寧に描く課程を追って行く。それだけの映画なのである。しかし、小津安二郎がそうであるように、一見淡々と見えながらも、隅々にまでみなぎる映画的感性には驚くほかはない。アトリエに舞い飛ぶ埃、刻々と変化する光。風の音や、犬の鳴き声、部屋の改装をする工事の槌音などの具体音。そして、これも実在の家族や、古くからの友人との語らいやユーモアを捉える的確なカメラ。すべてが、まるでテクストのように豊かだ。画家は始めに油彩を目指すものの、一瞬の陽光を捉えることの困難さに、「あきらめも肝心」とデッサンへと移行する。なんとイサギヨイことか。そして不思議なエンディング。あー、また最初から観ることにしよう。今度はパソコンの小さな画面で。

Saturday, June 27, 2009

共有した場所

レニ・ルーフェンシュタール ジャン・ヴィゴ賞を受賞した「明るい瞳」というフランス映画をDVDで観る。見終わって、特典映像を覗くと、監督ジェローム・ボネルのインタヴューだった。映画後半の舞台となった場所について「何故ドイツを選んだのか」と質問されたとき、彼はこんな主旨のことを言っていた。「言葉が通じないところなら何処でも良かった。ただ、ここはドイツとフランスお互いが共有した場所だから・・・」と。舞台となった場所は映画の中では特定できないが、僕は勝手にアルザス地方を想像した。長い間ドイツとフランスで領土の獲得競争が繰り広げられ、普仏戦争や第二次世界大戦のフランス降伏に伴ってドイツに返還されたが、戦後はフランスが再占領し現在に至っている地域だ。いわば因縁の場所を、そんな風にいってしまうのがとても印象に残った。今でも世界中に「紛争地」と呼ばれる場所がたくさんある。言葉や文化が異なる他者同士が混在するところだ。お互いが排他的になりがちな場といってもいい。2年ほど前、買付でベルリンに3泊した際、ビックリしたことがある。夜中ホテルのベッドでテレビを付けるとヒットラーの映像が目に飛び込んできた。翌日はヒットラーの愛人エヴァ・ブラウンで、さらに3日目にはベルリン・オリンピックの記録映画を監督したレニ・リーフェンシュタールだった。特にドイツ終戦記念日ではなかったはずで、この国は普通にこんな番組を放送しているのだろうか、と不思議だった。それはまるで、過去の歴史を忘れまいとするドイツ・ジャーナリズムの決意のようだ。そんな思いが今のEUにつながっているのだと思う。

Monday, June 22, 2009

オルケストル・バオバブ

Rimg0158 今日みたいに蒸し暑い日には、いっそアフリカン・ポップスが聴きたい。それも、あまり垢抜けない70年代のものがいい。となると、セネガルで活躍したオルケストル・バオバブだ。ラテンの匂いにセネガルの伝統音楽が奇妙にミックスした気だるいリズム。哀愁を帯びた声で唄われるメロディー。これに限る。初めて聞いたのは1980年代後半、ワールド・ミュージックが持てはやされた時代だった。バンド名を表すかのようなバオバブの木をあしらったアルバム・ジャケットも良かった。セネガルは元フランスの植民地、今もフランス語が公用語である。そういえば、サン=テグジュペリはトゥールーズとダカール間を飛ぶ飛行士だったはず。パリ=ダカール・ラリーも有名で、セネガル料理は洗練された味で魚介系が旨いらしい。多分、一度だけパリで食べた蒸し魚のオクラ・ソース添えがそうだったはずだ。メトロのベルヴィル駅の近くにある地元アフリカン御用達風の素っ気ない店だったが、そのあっさりとした味が今でも忘れられない。もう一度行きたいのだが、連れて行ってくれた友人と連絡が取れない。友人といっても、レアールの交差点を渡るときにどちらからともなく話しかけ、知り合いになった日本人女性で、確かジャン・ポール・ゴルチェのオフィスに勤めていた。アパルトマンにおじゃまし、フランス人の優しい旦那と一緒にオーベルカンフのカフェに一緒にいったりした。何年前だろう。まだ、メール・アドレスなどなかった時代だったし、その後電話したけど不通になっていた。オクラ・ソースをご飯にかけて食べると美味しい、と言っていたっけ。話が逸れたが、肝心のオルケストル・バオバブは1987年に解散してしまった。ところが2001年に再結成、来日公演もやったらしい。写真はその再結成時に発表されたCDである。多分、床屋にかかっている髪型サンプルなのだろうが、なんだかマーガレット・キルガレンを連想してしまった。

Saturday, June 20, 2009

ブリンズレー・シュワルツ

Rimg0150 S君からニック・ロウの焼き付けCDをいただいた。なんでも6年振りの新譜らしい。ニック・ロウといえば、スティッフ・レーベルを立ち上げ、エルビス・コステロをデビューさせたことでも知られているけど、僕にとってはやはりブリンズレー・シュワルツのベーシスト&フロントマンということが大きい。70年代イギリスのパブ・ロック・バンドなんて紹介されることが多いのだが、当時のアメリカの新しい音楽に敏感反応したところがなんだか他人事とは思えなかった。1st、2ndまではちょっとCSN&Yを思わせるフォーキー・サウンドで、3枚目の「シルヴァー・ピストル」になると様子が変わり、ザ・バンドっぽいカントリー・ロックになった。まあ当時、ザ・バンド出現の衝撃はとても大きくて、色んなひとが影響を受けたのだが、ブリンズレーの演奏は本家より軽快で、なんだか親近感が感じられた。おなじザ・バンドにあこがれる身として、大いに励みになったことを覚えている。アルバムを6枚くらい出し、結局大きな成功は得られなかったが、今でも忘れがたい愛すべきバンドのひとつである。あわててレコードを引っ張り出し、ついでにYou Tubeにアクセス。おかげで初めて動くブリンズレー・シュワルツを見ることができた。思ったよりもブリット・ポップっぽくて格好良かった。肝心のニック・ロウの新譜だが、ジョニー・キャッシュの男っぽさと、ウイリー・ネルソンの人なつっこさが同居したようなアルバムで、これ又本家には出せない良い味が出ている。

Friday, June 19, 2009

Vessel社のプランター

Rimg0040 Nさんの新しいオフィスは神宮前、プレイマウンテンのすぐ近くだった。坂倉準三が設計した「ヴィラ・フレスカ」は、やっぱりモダンだ。各々の部屋は小さいが、ちゃんと独立性が保たれていて、なんと共有通路に配管が剥きだしになってるところがコルビュジェっぽい。ベランダが開放的で、都心とは思えないような風が吹いている。となりのヴィラの住人がベランダのテーブルでパソコンを打っているのがよく見える。形状はまるで違うが、ふとウィーンのフンデルト・ヴァッサーのアパートの自由さを思いだした。そのベランダには、最近Nさんが取り扱いを始めたアメリカ、Vessel社のプランターがあって、様々な植物が植え込まれている。ケース・スタディ・ハウスの写真でおなじみの、美しいプランター達である。Nさんに聞くと、1948年にLAの大学で生徒達にデザインからマーケティングまでを含めたプロダクト提案を求めたところ、いろいろに組み合わせることが出来る、幾何学的でシンプルな形ができあがったらしい。ソロバン状のものなど、ふたつ重ねるとまるでブランクーシみたいだ。それにしても、「産学連携」などということが、アメリカではとうの昔から行われていたことにビックリした。アイランド・タワーのモデル・ルームにも、このプランターをぜひいくつか置きたいものである。
エルモルイス 東京都渋谷区神宮前2-30-22 ヴィラ・フレスカ501

Thursday, June 18, 2009

建築家ジェフリー・バワ

Rimg0019-1 ANAの機内誌「翼の王国」の6月号にスリランカの建築家ジェフリー・バワが特集されていた。スリランカといえば、昔セイロンと呼ばれ、紅茶が有名で、アジアの西端にある美しい島というくらいの認識しかない。しかし、実際は今でも民族問題を抱える多宗教、多文化な国家でもある。バワ自身も、父方がアラブ系とフランス系イギリス人、母方はオランダ系とスコットランド系がアジア系と混血した家系という、訳がわからないくらいコンプレックスした出自の持ち主なのである。裕福な家に生まれた彼は1930年代、世界中をボヘミアンのように旅した後、建築に目覚めている。西洋と東洋を融合するアイデアは、後にバリ・スタイルと呼ばれるモダンなアジアン・リゾート建築のモデルとなる。その際、モダニズムという国際性を真似るのではなく、アジアの風土や民族性を取り入れたため1950年代には異端あつかいされたという。異端大好きな身として、これは看過できない。スペインやめて、急遽スリランカ行きを夢想した。彼が手がけたホテルや自邸を、この目で見てみたいものだ。風呂場に張ってある奥さん自筆の「顔マッサージ」マニュアルが、アーユルヴェーダのように見えるのは気のせいか。