Saturday, March 29, 2008

犬との生活

高校生の時にひろって、実家の裏庭でずっと飼っていた犬を「organ」に連れてきたのは何年前だったのだろう。
 実家を出てひとり暮らしを始めてからは、帰省した時にだけ顔を合わせる関係になっていたその雑種犬『シン』が、家族の都合で実家では飼えなくなった為、うちに連れて来ようと決心したことだけはよく憶えている。

 若い頃には裏庭でよく吠えていた『シン』もそこそこの高齢犬になり、一見するとぼーっとした犬に見えていたと思う。その様子を確認した主人が、私の「犬を引き取りたい」という望みをかなえてくれたわけだ。幸いにも我が家はビルの一部屋で、靴のままの生活をしていたから、中型の犬を室内に迎え入れることがそんなに抵抗無かったのかもしれない。犬にしてみれば10年来の"裏庭生活"から"室内生活”へと生活環境が大きく変わることになり、私達にとってもその生活は試験的に始まったのだった。
 そしていつの間にか、こちらの予想以上に室内に馴染み、ほどよく店の犬(たまに番犬)をこなした『シン』は「ホームページのトップで、なぜだか吠える犬」として無視できない存在になっていた。

 その『シン』はすでに他界し、今は別の犬『雪』と生活しているけれど、こうして「犬との生活」を、実家にいた頃よりも随分と考えるようになったのは、犬が家の中にずっといて、目を合わせる回数が増えた分、コミュニケーションがグッとリアルになったからだと思う。必要以上に犬を主役にした生活をするつもりはないので、そこそこであったとしても、必殺”アイ・コンタクト”にはヤラレテしまうのだ。
その分、お互いの立場とルールをはっきりさせておけば、犬の問題行動は少なくなるし、犬の毛だって、まめに掃除することで最悪な不潔さはまぬがれる。逆に、訪れてくれる様々なゲストに対してなるべく粗相が無いように、と、無精者の私ですら掃除のことを気にするようになった。

Dscf1487コペンハーゲンの町中でしばしば見かける大好きな光景がある。
 人通りのある歩道を、ひとりの女性が大きなベビーカーを押しながらゆったりと歩いていく。彼女の片手にはたくさんの食料品が入った大きな買い物袋が引っ掛かっていて、もう片方の手には紐が掛かっている、そしてその先にはベビーカーに引けを取らない大きさの大型犬が、先に通りすぎる人や物を気にする様子もなく彼女の歩調にあわせ悠々と歩いている。ゆったりと、ざっくりと、親と子どもと、犬との共生のかたちを、心から羨む瞬間。
 今回、改装中のフラットも、「ペットOK、大きさ問わず」という条件が大きな決め手だった。ライフスタイルに選択肢が増えるのはありがたい。
 扉を開けば、外廊下と同じ高さのフロアが「おかえり」と人と犬を迎えてくれて、靴を脱ぎ履きする必要なく往来できる予定。もちろん散歩に出かける時も、元気にリードと散歩グッズなんかを持って颯爽と出かけられる。これって、想像すると、結構快適じゃないですか? T.T.

Thursday, March 27, 2008

土足はタブー?

Slippa 一体、一家には平均何足くらいのスリッパがあるのだろう。家族各々はもちろん、お客さん用、トイレ用、果てはベランダ用のサンダルまでいれるとかなりの数にちがいない。ピカピカにワックスがかかったフローリングの床をスリッパで歩き、あやうく滑りそうになったことがある。医者、それも歯医者には今でも靴を脱いでスリッパ履きのところが多いような気がする。不特定多数の人が履いたスリッパは、くたびれていて、正直清潔ではないだろう。なにより、靴を脱がされるというのは自分が無防備になり、足が地面に着かない感じがして不安感が増してしまう。多分、場所柄もあって、清潔感を出そうとしているのかもしれないけれど、僕には逆効果に思えて仕方がない。そういえば、以前FM番組をやっていた時、スタジオに入る前に、靴を脱いで、モコモコしたピンクの象さん形をしたスリッパに履き直さなければならなくてかなり閉口したことがあった。理由を尋ねると「精密機械が多いので」ということだったけど、じゃ海外の放送局では機械の故障がそんなに多いのだろうか。
 日本には「土足」という、まるでタブー視された言葉がある。本来の意味を知りたくて、本屋で国語辞典を開いてみた。何種類かを覗いてみたが、おおむねふたつの意味が載っている。「汚れた足」と「靴のまま」である。確か小学館版は①「足」②「靴」で、三省堂版は逆に①「靴」②「足」だったかな。僕は土足とはもともと「汚れた足」のことだったと思っている。だって、靴が履かれるようになる明治時代よりずっと前から「土足」という言葉はあったはず。時代劇で見るように、わらじ履きで汚れた足を、土間に座って洗い桶できれいにして上がる。いわば、他人の家におじゃまをする時の当然の礼儀だったわけである。ところが、靴が普及して、足そのものは泥で汚れる心配が無くなった後も、「外=汚れ、内=神聖」と見る日本的ストーリーだけが残ったのではないか。靴に付いた泥は落とすことが出来る。にもかかわらず、足が靴へとほこさきが変わっただけで、生活はそれなりに洋式化したにもかかわらず、玄関では依然として「ミソギ」めいたことがおこなわれているようにも見える。
 もちろん、人はそれぞれのストーリーを持って生きてゆくわけで、色々な考えがあって当然。でも、僕のようにすべてに渡って面倒くさがりな人間にとっては、様々な場面で靴を脱がされ、スリッパを強制されることはちょっと迷惑でもある。なにより、なんとなく慣例に従うっていうのが嫌いで、つい自分にとっての「ENOUGHな暮らし」を探してしまうのだろう。
 今、organから徒歩15分にある築30年のフラットの一室を土足対応型にリ・モデル中である。ENOUGHの仲間と一緒に様々なプランを考えた結果、やはり床を抜くことに決めた。靴の足音を極力階下に響かせないためには、従来ある床ではなく、コンクリートに直に敷物を敷く工法がベターだと判断したからである。リ・モデルのケース・スタディとして4月のデザイニング展で公開する際に「土足って案外簡単なんだ」と、思ってもらえればいいな。

Sunday, March 23, 2008

土足を選ぶ

Build-1 このビルを建てた25年前、僕はまず靴のままの生活を考えた。映画で見る西洋風の暮らしにあこがれていたのだろう。でも、理由はそれだけでない。外国人の中には靴を脱ぐスタイルを実践している人もいる。肝心なことは、その人なりのライフスタイルを選択できるほうがいいということだ。
 具体的な話をしよう。友人のマンションの玄関ドアを開け、狭い空間で「よいこらしょ」と靴を脱ぐときの何とも言えない時間。下駄箱に入りきれなくなり散乱している靴。それなりにお洒落をしてきても、靴を脱いでスリッパ姿になることでご破算になってしまうやるせなさ。せめて、我が家のゲストにはそんな思いはかけたくない、と思った。当然、雨の日などの汚れは気になる。でも、実際にはドア・マットで少し念入りに靴を拭くことで解消される。それに、いろいろな靴に踏まれることでフローリングがいい感じの実在感を帯びても来る。掃除もまめにやるようになる、と、まるでいいことずくめではないか。モチロン、始終靴というわけではない。夏はビーサンや裸足もあり。なんだか、少し自由になった気がしたものである。
 大切なことは、装飾ではなく、自分らしい住み方。いかに洋風な意匠を凝らしても、旧来のスタイルにとらわれていては仕方がない。それは、「靴の生活」というものを(ただし、足音は静かに)実行したことで、考えていたよりはるかに快適であったことで実証済みだ。そこで、ヴァーチャルではないリアリティを持った環境を模索するために、僕は様々なヴィジョンを持つスタッフと一緒に実践に移すことにした。自分にとって「今が充分なのか?」、という意味を込めたENOUGHというプロジェクトである。
  さしあたって、4月25日から始まる「デザイニング展」への参加を決めている。そこでは「靴の生活」をめぐる様々な試みが提案されることになるはず。どうぞお楽しみに。