Saturday, April 28, 2018

変わらないようで、変わった画家

 ボローニャから1時間あまり、雪解け水を集めて流れる川へ寄り添って走るローカル線に乗って、山の谷間の小さな町ヴェルガトへ着いた。やれやれと思ったら、目指すグリッツァーナは、さらにそこから車で30分ほどクネクネと曲がる道をグングン登った人里離れた寒村だった。坂を登り切ってしばらく行くと、画家ジョルジョ・モランディの淡い黄色の家が、道路沿いにあっけないくらい忽然とあらわれた。それは、彼の描く絵とおなじように周りの景色に溶け込むでもなくポツネンとあった。
 幼いころモランディから絵を習ったという案内役のセレーナさんは、自身も画家だといった。石がゴロゴロして農耕には不向きだったというこの村を気に入ったモランディは、亡くなる5年前にこの家を建てている。その際、ある建築家が提出した、おそらくは工夫をこらした設計図を見て、「わたしはこれがいい」と、立方体に四角錐の屋根、それにシンプルな窓を持つ簡素な図を描き示したのだという。
 おそらく建坪は30坪に充たないであろうトラッドな2階建ての家は、モランディと3人の姉妹が夏を過ごすにはおそらく最適なサイズだ。1階にはリヴィングとダイニング、それに姉妹のベッドが2つ置かれた各8畳くらいの4部屋と、小さな台所部屋とバスルームがあるだけ。驚いたのは、玄関を入ってすぐ右にあるリヴィングルームだ。チークの本棚&チークの肘掛け椅子&テーブルと、まるでミッドセンチュリー・ダニッシュデザインのお手本のようではないか。ぼくのデザイン遍歴はコペンハーゲンから始まったわけで、まさかモランディがリアルタイムでそれを実践していたとは知る由もなく、勝手な親近感を抱かずにはいられなかった。
 コーナーに置いてある陶器も、フォルムや釉薬の色具合から北欧のものに違いないと思いセレーナさんに尋ねると、カルロ・ザウリというイタリアの陶器作家とのこと。モランディはこの人の作品が大好きだったらしい。未知のものへの興味を隠せないぼくに、セレーナさんはこっちにもあるわよといって、廊下に出て階段の下の物置の扉を開けてくれた。
そこは、当座使わない皿やボウルの保管場所らしく、その中にフランスの夫婦陶芸作家ジャック&ダニ・リュエランを思わせるほっそりした形のベースが3脚、斜めに傾いだまま鎮座ましましている。ブルーのギンガムチェックの布の上にきちんと整理された様子は、モランディの絵における配置へのコンシャスさに通じるものだ。
 この家はモランディ没後、残された3姉妹の姉の遺言にしたがって、かれらの生前の暮らしが、ほぼそのまま保存されている。たとえば台所。流しの壁に並んだ薄緑色の皿類や小鍋やお玉は、まるですぐにでも夕飯準備にかかれそうにスタンバっている。と、棚の扉を開けて、セレーナさんが取り出したのはオレンジ色のラベルの小瓶。蓋を開けるとぼくらの鼻に近づけて、「モランディはカレーが大好きで、パスタにも掛けていたのよ」と微笑む。ということは40年くらい前のカレー粉か。ふいに高校受験時の深夜、台所でひとり「日清のママーカレースパゲッティ」を炒めて空腹を慰めた時の香りがよみがえる。
 モランディは掃除の際に「アトリエに積もった埃を取り払うことを禁じていた」という話をなにかで読んだことがある。うっすらと積もった埃は目にはさだかではなくとも、手に触るとその存在に気付く。それは、モランディがくりかえし描いた花瓶やピッチャーが、たとえ同じように見えたとしても、少し注意深く見ると、その筆址やタッチ、構図などが時代によって変化しているのに似ている。
 2階に上がるとモランディのアトリエである。40本以上の絵筆はどれも細めで、筆先の素材はさまざま。よく見ると、幾本かの先っぽが鋭く尖っていたり、半分だけカットしてあったりと、カミソリで好みの形状にカスタマイズされている。イーゼルには絵筆を拭った布が2枚引っ掛けたまま。近寄って見ると、まぎれもないモランディの色たちが、まるでアクション・ペインティングのように生々しく残っている。そして台の上には、おなじみの陶器や彩色した缶が「さあどうぞ描いて」とでも言いたそうに、画家の帰りを待っている。少しこわくなった。
 隣は寝室だった。といっても、真っ白な部屋にあるのは、スチールパイプ製のシングルベッドとその脇の小さなサイドボード。あとはワードローブがひとつに三段のドローワー、いづれもパイン材。そんないたって簡素な小部屋で、サイドボードの上の壁に掛けてある15x10cmくらいの小振りな絵に目が留まった。そしてそれが、よく目にする幼いイエスを胸にいだいたマリア像とは違うものの、まごうかたなきイコンの奇妙な変種であることに気がついた。あたかも空中に浮遊しているかのような顔と手は、まるでシュールリアリズム絵画のようではないか。あらわになった木肌からすると、誰かが、もともとあった背景の色を削ぎ落としたとしか思えないのだ。そして、それをやったのがモランディ自身だったとしたら…。
 ところが、さらに追い打ちをかけるような出来事が待っていた。なにを思ったのか、セレーナさんがモランディのベッドマットの端を突然持ち上げた。すると、下から現れたのは1963年7月24日付の新聞と、茶色をした薄い板。無言で僕らの反応を待つ彼女は、なにか秘密を握っているのか。しかし、彼女の回答は、「わからないの…」というとてもシンプルもの。ただ、確かなことは、その翌年にモランディは亡くなっている。つまり、1963年の夏に、これが最後の滞在になることを予感したのだろうか。そして茶色の薄い板は、どうやらエッチングの銅板らしい。そういえば、モランディは若いころ、レンブラントの版画を見て絵をこころざしたはずだし、ボローニャの美術学校で長く版画を教えていたことがある。とすると、自分の一生をこの、ある種のインスタレーションに込めてベッド下に残したのかもしれない、と想像することも許される。家政婦は見た、気分だった。
 以上、さまざまな状況証拠に出会った以上、ジョルジョ・モランディを「癒し系画家」と呼ぶことにいささか疑義を感じる。いつも同じような絵を描きつづけ、一生涯ボローニャから外へは出ず(晩年にはパリへ行ってますが)、未婚で、同じく未婚のままだった3人の姉妹とひとつ屋根の下で暮らした男は、実のところ、変わらないようで、変わった画家だったにちがいない。