Tuesday, December 13, 2016

ウィーン世紀末の試み。

「装飾は犯罪である」と言ってのけたアドルフ・ロースに対し、同時代のヨーゼフ・ホフマンは装飾そのものは否定せずに、装飾にヴィジョンを持ち込もうとした。そのために設立したのが「ウィーン工房」。といっても個人アトリエではなく、正式名称は「ウィーン工芸美術家生産協同組合」。建築、インテリア、家具、照明、器など、それまでは富裕層しか買えなかったスグレモノを、さまざまなデザイナーと職人が協力して、安価で洗練された作品として生産することを模索した社会主義実験ともいえる。しかも、その製品を自分たち自身で販売するという、当時としては画期的な試みだったのだ。
 その母体となったのは1897年世紀末ウィーンの画家として有名なグスタフ・クリムトらが結成した「ウィーン分離派」と呼ばれる芸術家グループ。その立ち上げに参加したホフマンは「セセッション館」と呼ばれる、世界初のインディペンデントなギャラリーを開設する。制作から、販売、プロモーションまでを統一したいというヴィジョンだ。これは、同じくイギリスの「アーツ&クラフツ」から影響を受け、同じようなヴィジョンを持ったバウハウスが登場する以前だから驚く。
 「セセッション館」の比較的広い1階スペースは、あいにく何かの展示の準備の真っ最中らしく、資材があちこちに散らばっていた。ぼくらは地下にあるクリムトの壁画や、2階の企画展を観てしまうと、このこじんまりした通称”黄金のキャベツ”をあとにしようかと1階のエントランスに向かった。そして、準備中とおぼしき広いスペースの向こう側をドアのガラス越しにもう一度覗いてみた。すると、入り口から真正面、距離にして30メートルほど先にスッポリと開口部が見え、そこから庭の木々と明るい陽光が差し込んでいて、まるで写真だ。
 「やられた、これは作品なんだ!」
「準備中」に見せかけたスペースはまるごとマルセル・デュシャンのレディメイドやクルト・シュヴィッタースのメルツ芸術やダダイスム、そうそう、ドナルド・ジャッドのミニマリズムに大竹伸朗も紛れ込んだようなインスタレーションだったのだ。
 作者はベルリン在住でグルジア出身の女性アーティスト、テア・ジョルジャッツェ。彼女によって発見された日用品や廃棄物と、彼女が制作した作品が静かに再構成され、ジャストな位置に配置されている。しかし、どれが「ファウンド・オブジェクト」で、どれが「制作物」なのか判然としない。これは、さまざまな緊張関係の中で生きていかざるをえない現代生活への「気づかせ」なのか、それとも直感的で個人的なスタイルか?ネットで見つけたインタビューでのテアは、黒髪と黒い瞳にハッキリとした眉毛が印象的な美人(アッバス・キアロスタミが生きていたら、きっと映画に起用したに違いない)。ヨーゼフ・ホフマンが模索した「ヴィジョンとしての装飾」は、形を変えながらも、このセセッション館で今もなお「続行中」なのだ。ウィーンに行く機会があれば、ぜひ覗いてみてください。
ところで、日本に帰ってきてふとルーシー・リーを思い出したのは、彼女がウィーン出身だったから。急いで作品集を引っ張りだして拾い読みしてみた。すると、ルーシーがウィーンの美術工芸学校で初めて陶芸を学んでいたころ、その学校と関係の深かったヨーゼフ・ホフマンが彼女の作品を高く評価していたくだりが見つかった(実はアンダーラインを引いていたくせに、すっかり忘れていたのだけど)。そればかりか、彼が設計したブリュッセルのストックレー邸に、クリムトの壁画とともにルーシーの作品を配置し、もちろんウィーン工房でも販売し(ほとんど売れなかったらしいが)、その後ヨーロッパ各地の展覧会に出品して賞も得ている。つまり、ホフマンはルーシー・リーのスタイルを最初に発見した人。なぜかエヘン、と言いたくなった。それ以来、エンドレスな陶芸への道を歩むことになるルーシーにとって、「世紀末ウィーン」こそがスタートラインだったのだ。

Saturday, November 26, 2016

中欧は民族の臨界点なのだ。


 チェコとウィーンにやって来たのは、モダニズム寸前のムーヴメントを感じてみたかったから。その中心にいたのがアドルフ・ロースという建築家らしい。彼はオーストリアの人だが、チェコのプラハには代表作の一つである<ミュラー邸>があるし、ウィーンには<ロース・ハウス>がある。ここらへんはハプスブルク王国だったわけだ。写真で見る限り、老けたブライアン・フェリーにそっくり。つまり悲しくダンディな顔である。
 ロースは著作のなかで「装飾は犯罪である」と言ってのけ、当時のヨーロッパ建築界をおどろかせた。1908年だから、コルビュジェの「住宅は住むための機械である」発言の14年前のこと(ちなみにコルビュジェは、ロースに触発されたと語っている)。ふたりの着眼点は似ているが、ロースのほうがより直接的な表現だけに反発も大きかったようだ。プラハもウィーンも神聖ローマ帝国の首都だった街。権威的で御大層な装飾だらけの宮殿や教会などが立ち並んでいることこそが”ウリ”だと信じて疑わない人々の反感を買ったのだ。実際、<ロース・ハウス>は装飾がないという理由で建築許可が降りなかったという。これに対して、窓にプランターを付けることで許可を取ったらしい。ロースという人はウィットの持ち主でもあったようだ。
 このロース・ハウス、今見ると特にモダンというわけでもなく、どちらかといえば端正でクラシカルなたたずまいで、まわりとそんなに違和感がない。エッフェル塔もそうだけど、建設当時にはケンケンガクガクでも、時間が経つと馴染んでしまうのは、人のほうが「経年変化」するからだろう。
 一方、ミュラー邸はといえば、外見はかなりモダンだが、一歩内部に入るとなかなかどうして凝っている。後日調べてみると建築用語で「ラウムプラン」と呼ぶらしく、部屋ごとに段差をつけることで連続的に構成した空間なのだ。1階大理石の比較的広いラウンジは主人と来客が主役、半階上にはご婦人方専用のこじんまりしたティールーム、その他さまざまな用途の部屋が、ひとが移動するに連れて忍者屋敷のように現れる。そして一番上のバルコニーへ通じるとっておきの部屋は、なんと日本風エキゾ!その東洋趣味の部屋で突然ガイドさんから「あなたにはこの部屋は、日本、それとも中国、どちらに見えますか?」と参加者中唯一のジャパニーズに質問を浴びせる。一瞬答えに窮したが、素直に「どちらにも見えない」と答えた。ぼくには金持ちの”風流趣味”にしか見えない。個人の趣向やライフスタイルを反映したまでで、装飾じゃないというわけか。
 若くしてアメリカへ渡り、シカゴの高層ビルを見て影響を受けたロースは、旧弊なヨーロッパと、工業化で資本主義の道を独走するアメリカとの差に驚いただろう。王権や教会の権威とは無縁の市民社会の急速な発展は、プラグマティックで自由な新興ブルジョワジーの住宅建築でモダニズムへの道を開いたのだ。<ミュラー邸>はその一例なのだろう。ゴシックでもバロックでもビクトリアンでもなければ、アール・ヌーヴォーでもない。時流に乗って流行を取り入れるという「ポピュリズム」への異議申し立てだったのだろうか。でも、”ジャポニズム”って当時の流行じゃなかったっけ?
 アドルフ・ロースの友人にルートウィッヒ・ウィトゲンシュタインがいる。柄谷行人の著作の中で何度も言及された哲学者で、寡聞にしてよく知らないが、変わり者だったようで、デビッド・バーンに似た深刻そうなルックスを含め、気になる人。今回一瞬だったけど訪れたのは、そんな哲学者がロースの弟子と一緒に姉のために設計した住宅。現在はブルガリア大使館の文化施設となっているのだが、外部も内部もモダンをすっ飛ばして恐ろしく無装飾。松岡正剛によると、ウィトゲンシュタインは「わたくしの言語の限界が、わたくしの世界の限界を意味する」と結論した人らしい。背の高いガラス窓だらけで、しかもカーテンさえ付けないというミニマリズムは、ほんとうにここに人が住んでいたんだろうかと思わせるほど限界的に素っ気ない。そういえば、受付の若い女性の受け答えもクールだった。ゲルマン人の冷静さかな。
 蛇足だが、ウィトゲンシュタインとヒットラーは小学校で同級生だったらしい。駄蛇足だが、ウィトゲンシュタインはユダヤ系、ロースはゲルマン系、中欧は民族の臨界点なのだ。

Saturday, November 19, 2016

社会主義の乗り物食べ物。

プラハでの4日間は、地下鉄とトラムを楽しんだ。ヘルシンキもそうだけど、トラムの走る街はホッとする。レトロな車両が最新型に混じってまだまだ現役で走り回っている風景を見ると、ヨーロッパに来たんだなー、と思ってしまう。町並みを眺めながら乗っていて、ふとアンティック屋が目に入ると、思わず途中下車してしまう。遠距離だと地下鉄を使うしかないけど、地下鉄は景色が見えないので、方向感覚がなくなり、地上に出た時に一体全体どっちに向かえばいいのかわからず、けっこう往生する。
 プラハの地下鉄はフューチャリステイックだ。かなりの深さにあるようで、エスカレーターがやたらに長く、急角度で一気に異界まで連れて行かれそうでマジ怖い。スピードだって日本のに比べるとかなり高速だ。エイヤッっと飛び乗り、手すりにつかまり、着地点ではすばやく飛び降りることが肝要なのだ。で、地底に到達したら、目の前にまるでスタンリー・キューブリックの映画のような世界が待っているから驚いた。
 チェコは、ソ連が進めた東欧諸国の共産主義化の影響下、「プラハの春」などで民主化への運動も盛んだったわけで、中庸的な社会主義を目指した国だったのだろう。このSF的な地下鉄の光景には、そんな社会主義のインフラ整備力を見せつけられる。まあ今となっては共産主義の夢の果て、という感が無きにしもあらずだけれど。
 話は変わるけど、博多駅の陥没事故の復旧は素早かった。メディアは「素晴らしい日本の技術力」などと自賛するが、けが人が出なかったのはとてもラッキーだったわけで、事故原因の検証はキチンとなされるのかな。「日本一住みやすい街FUKUOKAのさらなる発展」などと、経済発展を優先するのではなく、社会資本としてのインフラには市民も参加するシステムが必要ではないだろうか。
 
もうひとつチェコの社会主義の名残といえば大衆食堂だ。観光地なのに格安、ただしセルフサービス。豚のシチューやカツレツ、ソーセージにザワークラウトなどの他に、よくわからない地味な料理がイッパイ並んでいる。いわば学食のように、おばさんに「コレ」と指差しで注文するから楽である。味の方は、まずくはないけど、といったところ。ここは、大賑わいの大聖堂のすぐ近くの路地にあるのだが、観光客よりもっぱら地元のひとで賑わっている。なかには、修学旅行生らしき一団が並んでいたりもする。多分、「昔はこんな食堂ばかりだったのです」という社会科の見学なのかもしれない。実際、観光客向けの「共産主義ツアー」をプラハに限らず、旧共産圏だった都市でけっこう見かける。”レーニンが隠れていた部屋”なんて、見てみたいと思わないでもないけど。
 

Saturday, November 12, 2016

一瞬だけ花開いた建築とデザインのムーヴメント。

プラハの街を歩きながら「ここはチェコスロバキアではないゾ」と自分に言い聞かせた。東京オリンピックで、しなやかな肢体と優雅な笑顔で日本中を沸かせた”体操の名花”チャスラフスカは、とっくの昔の話だ。「鉄のカーテン」はなくなり、スロバキアは別の国となった。元祖ヒッピーとも言える、放浪の民=ボヘミアンを生んだチェコという国にやってきたんだってば。
 ヨーロッパの主要な街がそうであるように、プラハにもモルダウ川という河が中央を流れている。それを挟んで西には14世紀以来、神聖ローマ帝国の首都だったプラハ城がそびえ、東には旧市街が広がっていて、そういわれればローマっぽいかも。街中にはロマネスクからゴシック、ルネサンスにバロックと様々な時代の建築物が残っていて、建築好きにはたまらないのだそうだが、ぼくには関係ない。目指すのは「チェコ・キュビズム」。20世紀初頭に一瞬だけ花開いた建築とデザインのムーヴメントだ

 まずは1912年に設計された「ブラック・マドンナ」という4層のビルへ。名前からして、挑戦的ではないか。3,4階は「キュビズム美術館」。ギクシャクとした脚や、幾何学的な形をした家具や椅子などが並んでいる。ウーンかなり変だ。とはいっても完成度は高く、ちゃんと座れるし、機能する。精緻な作りには、この地の職人技が生かされているし、絵画にはジョセフ・チャペックなど、新しい芸術運動を起こそうとした当時の気運が感じられる。「キュビズム」というネーミングこそピカソの影響かもしれないが、「チェコ・キュビズム」には建築や家具などを通し、成熟した市民社会感覚から生まれた、独自の実験性があってかなり楽しめた。そのうえ、ビルの1階には、その名も「Kubista」というショップがあって、日本ではなかなかお目にかかれない本や陶器などを買い付けてくたびれる。なので、2階にあるキュビズム様式のカフェで休憩。
 
 
 さていよいよ建築めぐり。まずモルダウ川に添っていくつかのキュビズム建築を見る。でも、風景に馴染んでいるからか、そう言われなければ見過ごしたかもしれないな。しかし、1913年にヨゼフ・ホホルが手がけた集合住宅はさすがにカッコ良かった。傾斜した鋭角的な角地という立地を利用したアパートメントは、まるでボヘミアン・グラスのようにエッジーだ。ここには曲線だらけのアール・ヌーヴォーから、直線を使ったアールデコの装飾性への決別がある。いわばモダニズム直前のシンプルネスというわけだ。しかし、残念ながらその後のチェコ・キュビズムは、「ロンド・キュビズム」といわれるゴテゴテとした装飾性へ逆行することになってしまい、その革新性は歴史の中に埋没することになる。まあ、その後モダニズムがユニヴァーサルになった後、「ポスト・モダン」という名前で再登板することになるのだけど...。

Tuesday, October 25, 2016

疾走する庶民。

平野太呂さんが新作写真集『LOS ANGELS CAR CLUB』をひっさげて福岡へやってきた。そこで、TAG STAで”本の即売と、お話の会”をやりましょうということになり、相手を努めさせてもらった。お題は「僕らはどうしてこんなにアメリカに影響されちゃったんだろう」。
  これはロサンゼルスのハイウェイを走る車だけで構成された写真集だ。それも高級車ではなく、庶民の足か仕事兼用がほとんど。洗車なんて無縁、色違いに修理されてしまったフェンダーがボコボコだったり、年季の入ったビーイクルばかり。それが妙にカッコいい。今ではすっかり見なくなった日本車だってまだまだ現役だ。運転しているのは白人、メキシカン、黒人、イスラムのチャドルを被った女性もいる。かれらはまっすぐ前を見ながらひたすら運転する。空も道路も、乾いたカリフォルニアの空気を映して白っぽい。車は疾走しているのか静止しているのか判然としない。宙に浮いているかのようにも見える。
  40年前にぼくは『MADE IN USA カタログ』という雑誌で、アメリカの「これでもか!」というほどのモノやアイテムにはじめて触れた。なかでもワークウエアのデザインや素材感を切望した。太呂さんが写した写真をその延長戦のようだと思った。疾走する庶民の瞬間だ。
 太呂さんはスケボー少年だったらしい。”スピード移動する道具”という意味では、小さく無防備なクルマである。それを駆って、動体写真への感を養っていたのだろうか。100キロ超えの車が走る4車線のハイウェイで「これぞ」という車を発見し、追走し、並走し窓越しにパシャリとやるのはそんなに簡単ではなかったらしい。乗っている人が何を考え、悩み、期待しているのか、ぼくらは2車線離れたレンズを通して、少しだけ想像するしかない。






Tuesday, October 18, 2016

アイノ・アールトのこと。

 パイミオのサナトリウムではアルヴァ・アールトがデザインした有名な椅子をいろいろ見ることができる。そのなかでひっそりと異彩を放つスツールがある。スチール製の3本の脚の2/3が接地面で円を描いて連結されたこの美しいスツールは、アルヴァの妻であるアイノがデザインしたもの。ぼくは以前から、アイノがデザインした同心円を描く"湖の波紋"のようなガラス製品は大好きだったのだが、彼女こそが建築家アルヴァ・アールトにとって無くてはならない存在だったことを知ったのはつい最近のこと。
 1910年代、ふたりはヘルシンキ工科大学で建築を学んでいた。先輩のアルヴァは快活で議論好きで学内でも目立つ存在、かたやアイノは内気で控えめと対照的。そんなふたりが結婚したのは1924年、卒業したアイノがアルヴァの最初の建築事務所で働き始めてほどなくのことだった。アイノのドラフト(製図)の腕前は卓越していたのだ。彼らの仕事は平等で対等で、完成した設計図には二人がサインをしたばかりか、アイノの名前を先に記していたという。さすがなアルヴァ。ル・コルビュジェのシャーロット・ペリアンへのクールな対し方とは違う(ふたりは夫婦ではなかったけれど)。どちらかというと、チャールズとレイ・イームズ夫妻による「協働スタイル」に近い。
 
たしかに夫婦協働は、やり方によっては強い。パイミオのサナトリウムのためにデザインされた椅子たちは、その後アイノが友人と設立したアルテックという会社からプロダクト生産され、大戦後の好景気に湧くアメリカを始め世界中に輸出されることになる。そして家具や内装、テキスタイルなどのデザインを手がけることになったアイノは、建築家アルヴァとは違った仕事の立ち位置へシフトしていく。それらはいずれも簡潔なのに、温かさとウィットにあふれるアルヴァのデザインにも通じるが、なんというか、より冷静さが感じられる。
 ふたりはそれぞれ「同士」としてモダニズムへと邁進した。もちろん、いつもツーカーとは限らない。目標こそ近いとしても、どうしてもお互いの個性が出てしまう。たとえば服装だけど、ボヘミアン・タイプで無造作だったアルヴァに対して、アイノはファッショニスタだった。料理はしなかった。どちらかというとロシア人っぽく、ぽっちゃり体型のアイノの、短髪にアレクサンダー・カルダーがデザインしたネックレスを付け、モダンで個性的なドレスを着た写真を見ると、つい樹木希林さんを思ってしまう。ついでに言うと、女性関係でも無邪気だったアルヴァを本気で怒らなかったというところも、似ているのかも。
 主人公ノラを通して”女性の自立”を描き、一大センセーションを起こした戯曲『人形の家』を書いたヘンリック・イプセンはノルウェーの人だったし、『ムーミン』でおなじみのトーベ・ヤンソンはフィンランド人で同性愛者だった。そう思えば、北欧にはヨーロッパ的旧習から自由であろうとした女性がいい仕事をしている。「可愛いく」て「お洒落」なだけじゃない、独特のオーラを持った北欧デザインの奥には、アイノのような女性の存在があったのだろう。
 アルヴァとアイノの協働関係は、アイノが悪性腫瘍と診断された後の約20年間にも渡り、55歳で死が訪れるまで続いた。彼女は最後まで現役だった。ちょっと早すぎた感もあるけど、濃密でフェアな時間を共有したふたりにとっては、短くはなかったはずである。

Tuesday, June 14, 2016

オキナワへ行って、琉球をさがす、そのニ。


古い中国の書物において「琉球」と呼ばれていた奄美群島から先島諸島を含む長ーいサンゴ礁列島。15世紀に本島の尚真王という人が諸島の勢力を平定し、那覇の首里に立国したのが「琉球国」だ。その後、国家としての琉球王朝は約450年も続くのだが、その間、アジアの盟主である明に朝貢を続け、その緩やかな支配圏に入ることで守護されつつ、遠くマラッカから朝鮮、日本までの海洋交易の中継貿易地として栄えた。その後1609年に薩摩藩の侵攻を受けてからも(イクサ上手の、サツマに短期間で降伏)、中国と日本というふたつの国とのバランスをはかりつつ存続していた(ただし人々は重税に苦しんでいた)。その均衡を破ったのは明治維新後の1879年に日本が行った「琉球処分」というなんともブッソーな宣告だ。明治政府の狙いは、琉球王国を解体し、日本国に編入することで近代国家(帝国主義)のスタートを切ることだった。それが可能だったのは、当時の中国、清が欧米の侵略を受け、弱体化していたことがあった。ここに驚くべき史実を発見。日本と清は、当時の前アメリカ大統領グラントを仲介にして、琉球の分割統治案を勝手に協議、なんと調印一歩手前だったというのである(実現していたらいまの沖縄の地図はまるっきり違っていたわけだ)。具体的にはこうだ。日本側は「本島以北を日本」、「宮古・八重山を清の領土」とする2分割案。清側は「奄美以北を日本」、「本島と周辺は琉球王国として独立」させ、「宮古・八重山を清の領土」とする3分割案である。しかし、結局この問題は「棚上げ」されることになる(瀕死状態の清は北方からのロシアの脅威に、それどころではなかった)。その後、両国は日清戦争に突入し、1895年の日本の勝利によって「琉球」の時代は終わり、「オキナワ」という時代が始まることになる(結局、尖閣列島を含めた帰属の問題は棚上げのまま?)。

歴史はこれくらいにして、話を「壺屋焼」に戻そう。12世紀ころから琉球には「南蛮焼」といわれるタイやベトナムとの交易の影響を受けた瓦や瓷(かめ)が数カ所の古窯で生産されていた。そして17世紀になると薩摩から朝鮮陶工を呼び、また中国から「赤絵」の技術も導入して新しい窯場としての「壺屋焼」が誕生する。琉球王府の官窯なのだが日用品の生産も盛んで広く普及した。しかし、前述のように「琉球処分」が行われると、日本本土からの大量の陶磁器に駆逐され、「やちむん」は次第に姿を消してゆくことになる。その時期に沖縄を訪れたのが柳宗悦、濱田庄司たちだった。”目利きたち”が、この素朴で奔放でありながら、東南アジア、中国、朝鮮などの記憶を残した稀有な焼き物に瞠目したのも無理はない。おかげで沖縄の陶器は「民芸」の名でヤマトンチュの注目を浴びる。また柳は当時、日本への同化政策の一環として行われていた「琉球の方言撲滅運動」を「他県にこのような運動はない」と、反発している。一見まっとうな異議申立てだが、そこに琉球を日本の「海外県」と見ているような視線を感じてしまうのは私だけだろうか。陶芸家、大嶺さんが、濱田庄司の話のなかに、幼いながら感じた「オキナワ」というワードへの違和感の原因も、そこらへんにあったのかもしれない。

大嶺さんの故郷は、「オキナワ」ではなく「琉球」だ。日本の統治によって「万世一系」という戦時下のスローガンを強要する日本に疑問を持ったとしても不思議ではない。「やちむん」とは、異文化交流のなかで、ダイナミックな変化を受け入れざるをえなかった「琉球の独自性」の中からこそ生まれたもの。「民芸」という日本からの一方的な視線ではなく、もっと自由な「やちむん」に挑戦する大嶺さんの作品に、これからのオキナワに込めた思いを感じる。

P.S.
20年ほど前、琉球音楽研究家の照屋林助(a.k.a.テルリン)が「コザ独立国」の建国を宣言し、自身も「終身大統領」を名乗っていたことを、私は「ジョーク」のように受け取っていた。ここに訂正したい。


Sunday, June 12, 2016

オキナワへ行って、琉球をさがす、その一。

キューバに行きたいと思った。アメリカナイズされてしまう前の今なら、あのブエナビスタ・ソーシャルクラブ的世界が残っているかもしれない。でも、キューバは遠い。限られた日数では無理だと諦めたら、沖縄が浮かんだ。日本にとっての沖縄とは、アメリカにとってのキューバなのではないか、と独断した。どちらも身近の楽園と位置づけられながら、基地がある。そんなわけで、あまりラグジュアリーじゃないホテルに泊まって、レンタカーで本島北部を回ってみるのはどうだろう。もちろん、沖縄ならではの「やちむん」をさがすという楽しみもある。ところが、出発の寸前にアメリカ軍属による事件が起こった。それも滞在予定のうるま市での出来事だった。タイミングがビミョーすぎる。
那覇から北へ走る県道58号線の景色が、10年前に訪れた時とあきらかに違って見える。街も変わったし、私も変わった。以前には気がつかなかった「軍用地、売ります、買います」という赤い看板を目撃する。えっ、軍用地って勝手に買ったり売ったりできるんだろうか。どういうことなんだ、タフ過ぎる。
ひとまず、ハンバーガーで腹ごしらえをして、若き友人の友人がやっているというアンティック・ショップに行って情報収集することにした。
ミュージシャンでもある東京出身の須藤ケンタさんが、奥さんの里である沖縄に移住して開いた「20世紀ハイツ」は、普天間基地のすぐ側の高台。もと米軍ハウスの店内には、昭和日本や古い中国、朝鮮、ヨーロッパなどの品々が所狭しと並んでいる。のっけから沖縄という島の持つ多様なカルチャーに出くわした気分だ。ところで、福岡で会ったときの陽気に酔っ払った彼が、ここではジェントルで妙におとなしい。
「コザのディープでヤバそうなバーかライブハウス行きたいんだけど」と水を向けてみた。
「コザは今や沖縄のガラパゴスだよ」と彼。やっぱりおとなしい訳じゃない。
それではと、お薦めのやちむん屋とタコライス屋、それにそば屋など無難な所を教えてもらうことにして、1963年に出版された超レアなコルビュジェ本(私用)と本チャンのパナマ帽(妻用)を買い求め、ひとまず県道58号線へ取って返した。

「やちむんの里」にある10数件の店の中でも、彼が教えてくれた窯はいちばん奥まったところにあった。陶芸家の名前は大嶺實清(おおみね じっせい)。家のたたずまいからして、いい。梅雨空に爽快な風を呼び込んだ部屋の床や棚には、作陶した器たちがテキトーに、しかしジャストな位置にちらばまっている(ヤバイ、きっと私は買うに違いない)。
それから1時間ほど、赤のボーダーシャツを着た快活な老人は、エジプト、トルコを経て今でも人を惹きつけてやまない”ペルシャン・ブルー”の釉薬の魅力について語った。それは「やちむん=壺屋=染付」という固定観念を抱いていた私に、新たな視線を感じさせてくれた。そしてその「壺屋」についても、大嶺さんは興味深い話をしてくれた。
沖縄の焼き物の代名詞でもある「壺屋焼」は、日中戦争さなかの1938年、民芸運動の人々によって「発見」された。なかでも、濱田庄司は壺屋に滞在し、その「手癖」のように純朴な絵付けの技を学ぼうとしている。そして、その際行われた濱田の講演に、絵が大好きだった大嶺少年は参加していたという。
「濱田さんの話をとても興味深く聴いたことを憶えています。ただ、ひとつだけ不満だったのは彼が琉球とはいわず、ずっとオキナワで通したことかな」。
「琉球」と「オキナワ」…どうちがうのだろう?私は、とっさにその意味を尋ねることを控えた。これは、日本に戻って自分で調べるべきことだと思った。