Monday, September 8, 2014

重いバトン。

ある日、佐賀の友人、馬場くんからSNSでメッセージが届いた。北島夫妻が主宰するperhaps galleryで、”平和と戦争について”のグループ展「きっかけのてんじ」をやるらしく、ついてはトークイヴェントでなにかしゃべってほしいという旨だった。テーマがテーマだけに、果たして自分にそんな役が勤まるのか不安だったが、以前一緒に飲んでいて、「”佐賀の乱”をやるのは君しかいない」などとけしかけた手前もあり、すぐ引き受けてしまった。
 馬場くんのオファーは、「戦争体験がない自分たち世代に向けた話を」ということだった。といっても、僕は敗戦後すぐの生まれなので、戦争中の体験はない。なので、父から聞いた話をすることにした。かれが陸軍少尉として、満州にいた頃の話だ。
 父は日本刀が好きで、戦後も趣味として何振りかの刀を(警察署から所持許可を得て)大切に保管していた。正月などは、床の間に抜き身の刀を飾り、これは誰それの刀工による名品だ、などと説明してくれた。夜には、「心が落ち着く」と言って、ひとり座敷に座り、刀を丁寧に拭いている姿を見た。一方ぼくは、少年漫画雑誌に夢中で、ゼロ戦や戦艦武蔵のプラモデル作りに熱中していた。多分、ニッポンのために戦った「勇気ある人々」の存在を、なんとなく信じていたのだろう。それと同時に、なにかで知った中国人斬首のことも、頭を離れなかった。それは、日本刀を使った「恐ろしくも勇気が必要な」ことに違いなく、「ひょっとして父もそのことに関わったのではないか」という疑問となっていった。しかし、父に直接そのことを尋ねることは出来なかった。訊いてはいけないような気がしたのだ。ようやく尋ねてみることにしたのは、漫画雑誌を読まなくなった中学生の頃。しかし父の答えはなんだか曖昧だった。彼は、そのような状況に自分が居合わせたことを認めただけだった。
 そんなモヤモヤが決着したのは、高校生になってからのこと。そろそろ話してもいい頃だと、父は思ったのだろうか、ぼくにある種の3段論法を展開した。まず、斬首は、おもに「肝試し」、つまり戦闘に必須な、ヒトをアヤメル度胸を身につけるためであること。方法は「志願もしくは命令」であり、特に志願する下位の兵隊は、昇進という恩恵を期待していること。そして、自分は当時将校であり、昇級する意思も必要も感じなかったから、見ていただけだった、ということである。それを聞いて、父が斬首に、直接には関わらなかったことに安堵した。同時に、見ていて、どんな気持ちだったかということも思ったが、訊かずじまいだった。なにか、重いバトンを渡された気がした。
 その後、老年に差し掛かった頃から、父は何度か中国へ行っている。そこで、昔知り合った中国の人たちと会ってきたらしく、水墨画などをいただき、事務所の壁にかけていた。その方面には素人の僕が見ても、あまりパッとしない出来だったが、彼はけっこう気に入っていたようだった。そんな父も亡くなってずいぶん経つ。そろそろ、水墨画を引き取りに行かなければ、と思うのだけれど。