Sunday, September 23, 2012

それに比べれば4ヶ月なんて...。

スイス人のハンス・コレイが”Landi"という椅子を発表したのは1939年チューリッヒの博覧会。一見何処にでもありそうなアルミ椅子だけど、戸外用としてこれ以上に美しいものはない。僕は一脚だけ、コレクターの方から譲ってもらったが、いざ探すとなると案外苦労する。ところが今回パリで、しかもよく行くAnatomicaというセレクトショップの店先で突然遭遇した。店主ピエールさんが椅子好きであることは、店内に靴の試着用として置いてある柳宗理の黒いエレファント・スツール(もちオリジナル)で先刻承知だった。それにしても、このアノニマスな椅子を店先にドーンと置く心意気がイイ。そういえば80年代、初めてパリを訪れ、ビルケンシュトックでほぼ埋め尽くされた、オープンしたての彼の店をのぞいたことがある。まだ「ビルケン」が日本で市民権を得ていない頃だった。靴といえば去年だったか、ピエールさんは久留米の「ムーンスター」に足を運び、自分が納得できるスニーカー作りをしていたっけ。自分のお気に入りに出会うためには、広い地球もひとっ飛びというわけだ。ところで僕も最近ドイツでLandiを、それも4脚発見した。ところが予定していたコンテナに間に合わず、次のコンテナは多分12月、日本へ到着するのは来年の1月末くらい。少しがっかりしている。気を取り直すため、濱田庄司の『無盡蔵』に載っていた話を(ムリヤリ)思い出すことにした。昭和40年、彼は前年に買い付けたままついに日本へ届かなかったコンテナ一個分の荷物を確認するためバルセロナへ立ち寄った。すると倉庫に無事保管されていたらしく、目録と照らしても、1個の紛失もなかったとのこと。その間一年以上、随分ゆっくりした話しである。それに比べれば4ヶ月なんて...。

Saturday, September 8, 2012

「他者による親密な巣作り」を覗き見ることほど参考になるものはない。

"BELGIAN ARCHITECTS AND THEIR HOUSE"という本を買ったら、「どこに住むか、ではなく、どんなふうに住むか」という意味の言葉が載っていて、ベルギーらしい、と思った。もちろん「どんな環境に囲まれて住むか」ってことも大事だけれど、ガスも水道も来ていない山の中での生活は(あこがれはするものの)所詮ひ弱な都会生活者には考えにくい。となると、「コンクリートのビルで、いかに快適に住むか」ということになる。僕が実践している「靴のままの生活」もその一環にすぎないのだけれど、それはさて置き、ベルギー在住の建築家17名の自宅を紹介したこの本、彼らの生活に欠かせないモノやコトとの関係が見て取れるし、なによりもそれぞれのインテリアがとても気持ちがいい。ごく一般的な広さのアパートに、イームズやヤコブセン、ベルトイアに混じって、オランダのフリソ・クラマーや地元ベルギーのデザイナー、ヴァン・ダ・ミーレンなどの椅子が、しかるべき居場所をキチンと確保している。彼らのチョイスには地理的なことも関係しているのだろう。オランダのデ・ステイル、ドイツのバウハウス、そしてアメリカやフランスのモダニズムなどの影響を受けた選択は、静かでリベラル。安直なインテリア雑誌で提案される「オシャレな空間」とは違い、「自分の巣」のように居心地が良さそうなのだ。「他者による親密な巣作り」を覗き見ることほど参考になるものはない。

Sunday, September 2, 2012

市民実験。

ベルギーは、色々な言語と文化が混在するところ。フランス語、フラマン(オランダ)語、それにドイツ語や英語などが混ざり、地域によって話される言葉が異なっている。そんなわけで、「国民国家とは固有の言語を持つ」というテーゼに反して、ベルギーは独自の言語を持っていない。もともとあった王国が離合集散をくり返し、諸事情の中でベルギーという名前の国家になったのだろう。実際にはフランス語とフラマン語の「言語戦争」や、「カソリックとプロテスタントの違い」みたいなこともあり、国を幾つかに区分していて、そういう意味では小さな合衆国ともいえる。だからなのか、ブリュッセルがヨーロッパの首都と呼ばれ、そこにEUの諸機関があるのも頷ける気がする。ナイーブすぎるかもしれないけど、通貨を統合し、パスポートをなくすってのは、武力行使をしにくくする第一歩。そのことを、長い期間をかけて、話し合いで合意に至ったというところにEUの良い実験精神が現れていると思う。
写真はアントワープの小さな広場で毎週金曜日に行われているオークション。といっても、日用品や、使わなくなった家電、家具なんかを格安の値段で競り落とすという一種のリサイクル。参加しているのはご近所のオジサンやオバサンたちだが、いたって真剣。一部の好事家のものと思われがちなオークションを公道で無作為の人々を相手に展開する。これだって、立派な市民実験と言えないこともない。