Sunday, March 31, 2013

踏十里(タッシムニ)の骨董ビル

ソウルの中心から地下鉄で20分ほどのところに建築資材の問屋街があって、その端っこのほうに骨董店が集まった古いビルが3つある。アメリカならさしずめアンティック・モールというところか。ひとつの店が5~10坪くらいと小さいから、3棟全部だとちょっとした数だ。なにしろゴチャゴチャした店が面白く、4日間の滞在で、結局毎日訪れてしまった。もっとも、気に入った店を再訪するのにその都度迷うのには閉口したけど。以前は、確か2階にも店があったはずだが、今回行ってみると1階だけになっている。「最近は景気が悪くって…」と愚痴るオモニもいるが、店を仕切る彼女たちはなかなかの商売人で、そう言いつつも、いざ値段交渉となるとタフだ(もちろんオジサンがやってる店もあるのだが、なぜか気に入った店はほぼオモニ系だった)。
 そんなオモニたちのおしゃれには、一定の法則がある。まずヘアースタイルはしっかりパーマネント。仕事が忙しく、手早くカツっとまとまる髪が必要条件なのだ。なかにはほぼパンチパーマの方もいらっしゃる。服装は花柄系を好み、色はビビッド。しかも「柄on柄」がお気に入りなところなど、まるで一昔前の日本の田舎のおばちゃんだ。若い女子はというと、日本では最近見なくなったレギンスに、足元はニューバランス、フード付きのパーカーにキャップ。男子のお洒落さんは細ーいパンツにこれまたニューバランス、グレー細身のジャケットにアラレちゃん系セルフレーム・メガネ、髪の毛はマッシュルーム・カットと、昔で言う”シスターボーイ”風。以上、街角スナップでした。
 話を戻すと、僕が探すのは例えば李氏朝鮮時代の焼き物で、それも「官窯」と呼ばれるような上等なものではなく、庶民的で生活に根ざしたもの。したがって白磁といっても、真っ白ではないし、形も結構いびつだ。四角いお盆や、ソバンと呼ばれる「ひとりお膳」なども、合わせがけっこうラフだったり、材が歪んだりしていて、いわば”下手物”と呼ばれても仕方がないようなもの。よく言えば「簡素」なので、手の込んだ「匠の技」には程遠い。でも、一個一個に独自の経歴が潜んでいるようで、傷ひとつとってもプロダクトにはないドラマがある。そうそう、朝鮮では昔、職人が町々に滞在しながら家具などを作っていたと聞いたことがある。”旅する家具職人”だから、時間をかけずにサクッと作った感があるのかもしれない。多いのは祭事用の道具類。たとえば真鍮製の小さなボウルを見ると、我が家の仏壇を思い出したりする。「チーン」と音がする例のヤツである。
 とまあ、朝鮮と日本は昔から因縁が深いから類似点だらけと思っていたが、あんがい相違点も多い。それは時間差の問題だけじゃない。彼らはタフ&ラフである。
 
  

Sunday, March 24, 2013

”良心的兵役忌避者”

あれは、大韓航空で初めてパリへ行く途中、トランジットのために降りた金浦空港だから、もう20年以上前のことになる。滑走路にはジェット戦闘機が待機中だし、パスポートをチェックする軍服の係官は福岡空港の免税店で買った僕のマルボーロ、ワンカートンを、ニッコリ笑って机の下に滑りこませた。まるで戦時下の国にやって来たみたいで、すっかりメゲテしまった。2度目は7年ほど前、李氏朝鮮の陶磁器や民具見たさに、矢も楯もたまらずピカピカの仁川空港へ降りたった。そして今回、高層ビル街のモーレツ・サラリーマン+オシャレな若者たち+パワフルなオモニが割拠する今のソウルを、それなりに楽しんだ。しかし、迷彩服を着込んだ若者とすれ違うたびに、あー徴兵制があるんだ、と思い知らされる。
 兵役免除の年齢になるまで、なんとか徴兵制が復活しないことを密かに祈ったのは中学生だったころ。ジョン・レノンはまだ反戦的ではなかったから、増村保造の『兵隊やくざ』という映画のせいか、ツルゲーネフの小説か。とにかく、日本はまだ「安保」という問題を引きずっていた。アメリカの対共産圏軍事同盟に与することは、いずれ自分たちも戦争に巻き込まれる可能性があるということだ。そうなったら、軍隊の組織というものが、まちがいなく僕のようなものを無化してしまうことを予感し、恐怖した。そして、徴兵を免れる年齢を60歳と仮定した。太平洋戦争で日本の戦局が悪くなるにつれ、年寄りでも徴集されたことをどこかで聞いたからだ。
 その後、大学時代に『アリスのレストラン』というアメリカ映画を観て、”良心的兵役忌避者”という言葉に出会った。宗教や民族、政治や哲学などの背景に基づいて、「良心的」に戦争を拒否する権利は、欧米においては、どうやら基本的人権として認知されるようになっている。一方、いつの間にか僕は60歳を過ぎていて、平和憲法なるものも成立して60年を過ぎていることにハタと気がついた。どうやら、この憲法のおかげで、僕は、あくまで「潜在的」兵役忌避者のまま、なんとか今まで呑気に生きてくることが出来たのかもしれない。なんだか得をしたような、妙な気持ちなのだ。

Saturday, March 2, 2013

倭冦の末裔達

アジア熱が冷めないうちにと、以前から一度はやってみたかった博多⇄釜山by船を敢行した。といっても水中翼船なので3時間くらい。壱岐のそばを通ったのかどうか、あれよあれよという間に対馬沖を過ぎ、見る見るうちに朝鮮半島らしき陸地が近づいてきた。それにつれてコンテナ船の数が増え、大小のドックも視界に入ってくる。港湾施設が思っていたよりも大きく、地形も変化に富んでいてなんだかダイナミック。目を横にずらすと、ニョキニョキと林立する高層マンションが飛び込んできた。「えのき茸みたいですね」と同行したコースケ君。さすが1級建築士だけに的確だ。山の急斜面にびっしりと建つカラフルな低層の家々は、行ったことはないがまるでリオ・デ・ジャネイロみたい。ここは、博多から直線距離でわずか200kmだが、れっきとした外国である。上陸すると、当たり前だけど看板からなにからハングル文字の嵐。アルファベットでも漢字でもないところが、どうにも不案内で、見ただけではナニがナニ屋なのかサッパリわからない。その割に人々の顔は我らと似たり寄ったりだから、アイデンティティが少なからず揺れる。ゴチャゴチャした市場を抜け、古本屋街の脇から急な坂道を登ると、見晴らしのいい小さな公園があり、港が一望できる。たしか来る前に調べた「倭冦」たちが15世紀ころに居住していた「倭館」がこの下あたりにあったはずだ。いわば韓国版出島である。彼らは日本の銅や金、南洋産の香辛料やらを朝鮮に売り込むために暗躍、もとい活躍したのだ。当時の日本は近代国家ではなく、したがってネーション・ステート、つまり国民国家という意識などはないからナショナリズムもなく、動機はもっぱら経済である。農業に適さない島=対馬藩という一地方の集団による「出稼ぎ&移住感覚」というイメージだ。朝鮮から買ったのは、主に木綿だったとのこと。意外だが、日本で本格的な綿栽培が始まったのは江戸時代らしい。そういえば、我らの今回の買い付け候補のひとつはポジャギ。朝鮮に古くから伝わる様々な端切れをパッチクークしたものでとてもうつくしい。3日の間、倭冦の末裔達は釜山の骨董屋をあらかた回ってしまった。さて、次はソウルかな。