Saturday, November 30, 2013

惚れなおしだ。

バーゼルから西へ向かうフリーウェイは、しのつく雨だった。僕らが乗った小型のオペルは、カラフルな企業ロゴの幌をかぶったトラックを何台も追い抜いてゆく。まるで大きな「フライタグのバッグ」が走っているようで、見ていて飽きない。つい追い抜き際にiPhoneでパシャパシャやってしまう。しかし130キロで疾走する車からではうまく写るわけがない。そのうちにゆるやかな起伏がある田舎道へ降りてしまった。家々の雰囲気が色っぽいのでフランスだとわかる。めざすロンシャンの礼拝堂は近い。
 コルビュジェは、もちろん建築家として有名だけれど、初期にはダダイズムへも傾倒していて『エスプリ・ヌーヴォー』という雑誌を出したり、キュビズム的な絵や彫刻を志向していたアーティスト肌のヒト。駐車場からなだらかな坂を登り、突然「蟹の甲羅」をイメージしたという例の屋根が目に入った途端、そのことを思い知った。そして礼拝堂に近づくに従って、見る角度ごとに変化する塑像のような曲線立体物になかばあきれた。側面に回ると、まるでニューメキシコのタオス・プエブロにあるアドビレンガ造りの教会のようにプリミティブに見える。こんな前衛的な宗教施設が、1955年によくもまあ建てられたものだ、と施主さんというか神父さまの勇気に脱帽。
 
ずっと前、コルビュジェは無宗教だったと聞いたことがあった。でも本当にそうなのだろうか。たしかにロンシャンにはキリスト教を特徴付けるさまざまな「権威的装飾」はほぼないといっていい。代わりにあるのはオーガニックな曲線と、光と影を巧みに使ったセンシティブな空間。特に、対になった小礼拝堂の、採光を巧みに利用した神秘的な美しさには、おもわず息を呑む。ステンドグラスの代わりに自身で描いたイタズラ書きのような絵も素晴らしい。それらは、彼がデザインしなければこんな風にならなかったであろう、いわば「自己本意な美学」に満ちている。しかし、他者に迷惑をかけずに自己本位であることは、とてもむずかしいことであり、誰にでもできる仕業ではないだろう。建築中の写真からは、迷惑というわけではないが、なんだか戸惑いと好奇心にあふれる人々の様子がうかがえる。コルビュジェの「住宅は住むための機械である」という有名なフレーズを、「礼拝堂は祈るための機械である」と読み替えてみる。それは、悪しき常識に頼らない、自由な個人の試みなのだ。惚れなおしだ。
 

Wednesday, November 27, 2013

ヴィトラ・キャンパスへ足を踏み入れた我ら6名の見学ツアーを待ち受けていたのは、

 
 
通用門を抜け、さっそうとヴィトラ・キャンパスへ足を踏み入れた我ら6名の見学ツアーを待ち受けていたのは、まずバックミンスター・フラー考案のドーム。 1960年代に出版された『宇宙船地球号操縦マニュアル』でヒッピーたちの熱い支持を得た彼の伝説的構築物は、見たところ仮設のイヴェント施設のよう。と ころが中へ入ってみると、まさにSF異空間。外からの光にクッキリと浮かび上がる構造フレームの幾何学的美しさに、思わずブラボーと叫びたくなる。「化石 燃料や原子力に頼らずに、地球外から得るエネルギーだけで生きること」を提唱したフラーの、ある種楽天的な思想を思わせる「ぶっ飛び空間」なのだ。
 
つづいてはお目当て、ジャン・プルーヴェ設計のガソリンスタンド。1950年代に作られたという3つのうちのひとつをここに移設したものらしいが、すっか りペンキ塗り変え済みなのか、なんだかラブリー。しかし、そうでもしないと守衛さんの小屋と間違われそうだ。少しくらい薄汚れていても、 "As is"のほうがプルーヴェらしく迫力があって良かったのに、とひとりごと。その後、広い敷地を搬送の大型トラックに注意しながら、奥へ奥へと徒歩で移動。 行く手になんだかトンガッた建造物が見えてきた。
  案内役の女性の説明トーンがひときわ高くなったと思ったら、ザハ・ハディド設計とのこと。うー ん、たしか東京オリンピックへ向けた新国立競技場の設計コンペで選ばれた女性建築家だったはず。全然認識ないし、だいたい「ポストモダン」や「脱構築」さ れた建築はかなり苦手なのだ。それにしても、外部に劣らず内部がまたヤバイ。壁や天井が斜めってる。当初はヴィトラ敷地内の火災に対応するための消防署 だったらしく消防車5台だかを収納していたという。しかし、中で働いていると船酔いするようで気分が悪い、との苦情が相次いだこともあってか、現 在はイヴェント・スペースとして活用しているらしい。当日もパーティーのためケータリング準備がされていた。ワインと壁で悪酔いしなければいいけど。

  日本人建築ユニットSANAA設計による、デッカイ円形の工場施設の外壁の未来的な美しさを見たあと、最後は安藤忠雄設計のこじんまりしたコンクリート打 ちっぱなし建築で2時間のツアー終了。「タタミ・モジュール」という聞きなれないフレーズも飛び出し、「みなさん、ツアーの最後にこ のアンドーによる落ち着いた空間に来ると、ホッとされます」という説明に日本人として、なぜかうろたえる。
 最近、大好きなArtekがヴィトラに買収されたらしい。さすが”グローバル企業ヴィトラ”、世界の家具産業をけん引する勢いなのだろうか。そのうちに、ハーマンミラーも傘下に入ったりするのかな。以上、デザイン・テーマパークからの中継でした。

Thursday, November 21, 2013

チャールズ・イームズ通り1番地。


 引き続き、歴史の勉強を少し。 
 近代国家としてのドイツの誕生は1871年、意外にも明治維新より遅く、スイスとは違って「国語」の成立が重要な役割を果たしている。1534年、ルターがドイツ中東部地方の方言で翻訳した聖書を使って「宗教改革」を始めている。そのことが、ラテン語で書かれた聖書の一元管理を打破し、普通の人々が読める開かれた「テキスト」へとつながることになる。翻訳された聖書が、当時発明された「印刷術」のおかげで出版されると史上初のベストセラーとなったのだ。そのことで、それまでのドイツ各地の様々な方言を次第に駆逐して、現在の標準ドイツ語へと認知されてゆき、結果的にゲルマン民族のアイデンティティ確立に寄与することにもなる。同じようなことはイタリアでも起こっている。ダンテがトスカーナ地方の方言で書いた『神曲』がイタリア語の規範とされ、そのことがドイツと同じく小国の乱立状態だった国を束ねる「ナショナリズムの原動力」となった。以上、柄谷行人の諸作からの付け焼刃的要約でした。
 では、「日本はどうだったんだろう?」という疑問が起こるのだが、そんな片付かない話はさて置き、ここらで少しデザインの話題を。バーゼルでお世話になったゲストハウスから車で5分も走ったドイツ領に、ご存知ヴィトラ社がある。ひときわ目立つフランク・ゲーリーが設計したミュージアムでは、照明をテーマにしたエキシビショ ンが開催中だった。バウハウスから始まる家庭用の照明器具デザインの歴史は、大半がorganでも取り扱った経験があるもので、予想したよりオーセンティックな印象。僕のお目当ては敷地内の施設なのだ。しかし、内部を見るためには、2時間の英語解説付きツアーに参加しなければならない。12時に始まるということで、いそぎ申し込んだ。 
 のっけから背の高いハキハキした女性スタッフが飛ばすのである。「我が社は”デザインと建築”という今までの家具メーカーのイメージを超え、新たに”アート”という要素をプラスした製品を世界中に展開しています」と鼻息が荒い。もともとは"ドイツ的"堅実な家具メーカーだったというヴィトラが、大きく方向転換したのはチャールズ&レイ・イームズの家具に出会ってからとのこと。たしかに、ハーマンミラー社の製品をヨーロッパで展開するようにならなければ、今のヴィトラは存在しなかったのかもしれない。その証拠と言ってはなんだが、ここの住所自体がチャールズ・イームズ通り1番地だし、通用門脇の小道はレイ・イームズ通りと名付けられている。それにもまして、金網越しに見えるジャン・プルーヴェの小さなガソリンスタンドが気になってしょうがなかったのだが。

Tuesday, November 19, 2013

スイス?ドイツ?

    
 スイスは、れっきとした国家のわりには国語を持っていない。これは近代国家=国民国家としては、ちょっと異例だろう。”同じ民族が歴史と文化と国土を共有する"のが「国民国家」といわれ、なによりもそこに住む全員の意識の平準化が望まれている。そのためのツールとして自国語が確立しないと、教育や文学などを通しての「アイデンティティ刷り込み」がむずかしいのだ。しかし、いったい固有の言語を持たずに、堅固な国防とナショナリズムをキープできるのだろうか?
 スイスが神聖ローマ帝国から独立したのは1648年。歴史上、共和国の独立としては一番古い。なにしろフランス革命の100年以上前の話なのである。宗教革命の嵐も追い風となり、小国だらけで戦争に明け暮れていたヨーロッパの封建体制からいち早く抜けだそうとしたのだ。そのためにはゲルマン系、ケルト系、ラテン民族などの複雑なミックス群の差別をさておき、まずハプスブルク家の支配からの「自治」をかかげて、3つの州が同盟を結ぶことが大事だったに違いない。そのせいか、今でもスイスは、狭い国土に26のカントンと呼ばれる州が存在し、ドイツ語圏、フランス語圏、イタリア語圏、そしてロマンシュ語圏と、カントンごとの言語が偏在している。自治権は強く、消費税率なども州によって違っている。
 バーゼルはスイス北西部、ドイツとフランスと国境を接する商業都市だ。基本的には、街の真ん中を流れるライン川がドイツとの国境線なのだが、川を超えて、ドイツ側にはみ出す格好で少しだけスイス領が存在しているからややこしい。僕らが2泊したゲストハウスはそのライン川を渡った側にあった。夜遅くレンタカーでナヴィを頼りに辿り着き、シャキシャキしたマダムから部屋へ案内され、ホテルとは違う決め事について流暢な英語でひと通り説明を受けた。その時である。不意に僕は今自分がいる場所を俄然確認したくなってしまった。バーゼルにいるのだから当然と思い「ここはスイスですよね?」と尋ねるとそれまでニコニコしていた彼女は毅然となって、「ドイツです」と答えた。



Thursday, November 7, 2013

ゾフィー・トイバー=アルプ。

 
スイスの通貨は、EUに加盟していないので当然だけど、ユーロではなく自国のスイス・フラン。これが、ちょっと斬新なのだ。2000年に発行された紙幣は、日本や アメリカのように一般的な横使いではなく、表も裏も縦使いの構図をとっている。これは、世界中でいまのところスイスだけらしい。さすが、デザイン立国。さらに、6種類の紙幣に登場するメンツが興味深い。よくありがちな「立志伝中の偉人」ではなく、カルチャーやアート、デザイン寄りの人選で、野暮な政治家などはナシ。おなじみなのは、やはり10フラン札のル・コルビュジェか。そして100フラン札はアルベルト・ジャコメッティ。そのほかは哲学者、作曲家、 小説家で、いずれもタダモノではない気配。そんな中に、ただ一人女性がいる。ゾフィー・トイバー=アルプ。あのハンス・アルプの奥さんだった人である。  
 ハンス・アルプは「チューリッヒ・ダダ」の中核メンバーのひとりで、不定形でオーガニックな彫刻や絵は、たぶん何処かで目にした人も多いはず。第一次大戦という未曽有の状況下で、挑戦的な芸術闘争としてのダダイズムをトリスタン・ツァラらと始めたが、その後シュールリアリストとも交流を持ち、生涯に渡って独自の立ち位置を選んだアーティスト。元来は「詩」が得意なのだが、彫刻家のゾフィーと出会い結婚、二人で創作活動をするうちに彫刻へとシフトしていったようだ。アメーバみたいな形をした独特の彫刻作品は、そんなゾフィーとの良きパートナーシップの現れといえるのかもしれない。
 そんなゾフィーの作品の一端が、つい最近までパリのパレロワイヤルにある国立セーブル陶磁器製作所のギャラリーで展示中だったことを知った。初めて写真で見る彼女の家具は、二人が使うためにデザインされた1点もののシンプルな箱状の棚で、今回限定復刻されたものだ。ひとつでも、また積み重ねても使えるミニマルでモダンなかたちは、とても90年前にデザインされたものとは思えない。バウハウスから派生し、その後のプルーヴェ&ペリアン、ドナルド・ジャッドなどに連なってゆく、稀有な作家性みたいなものを、勝手に感じてしまう。
 写真は右端がゾフィー・トイバー=アルプ(左端にル・コルビュジェ、真ん中は作曲家アンテュール・オネゲル)で、帽子をかぶった思慮深そうな晩年の顔とは別に、若いころの写真を見ることができる。小さいのでわかりづらいだろうが、ボーイッシュで、はにかんだような表情がとても素敵なのだ。 

Monday, November 4, 2013

organの書体。



 そろそろスイスに入ったかなと思ったとたん、前方にゲートらしきものが見えたので、ここらには珍しく料金所かと思いきや、税関ではないか ! スイスは西ヨーロッパのヘソみたいな位置にあって、何故かEUに加入していない。だから国境には一応入国管理所があるわけだ。
 前の車に合わせるようにスロウダウンしてすり抜けようとしたら、制服の男が手招きをして車を脇へつけて停車するように指示するのでその通りにするしかなかった。すると、後ろに積んでいる箱には何が入っているのかと男が尋ねる。「衣類やおみやげなどだ」と通り一遍の返事をしたのだが、あきらかに納得していない様子だ。確かにオペルの小型ハッチバックの後席を占める大きなダンボール箱3箱のお土産物とは、ちと不自然か。中身を見たいというので、「やれやれ」と思いつつ、車を降りるしかなかった。一個目の箱を開けると、まず昨日ミュンヘンで見つけたカイザー・ランプが二つひょっこり顔を出した。これは日本から持ってきたのかというから、こちらで買ったものだというと、男の耳のピアスがキラっと光ったような気がした。なんだかやっかいなことになりそうな予感がしてきた。それにしても、制服、制帽でピアスである。つい、官憲に対する反抗心がムラムラと芽生えて、ワイルドになってゆく言葉遣いを奥さんから、小声で注意される。すると「外国からスイスに持ち込むのでなければ、通ってよろしい」とのお言葉。拍子抜けしたが、もちろん、さっさと立ち去った。
 スイスといえば「永世中立国」である。といっても軍備はバッチリ、徴兵制もある。なにより中世以来資源の少ないスイスの産業のひとつは「傭兵」。つまり、外国へ出かけて行って戦争をするプロを輸出する国だった。今では、九州くらいの国土に700万人の人口を、金融と精密機械と観光で養い、世界有数の国民所得を誇っている。EUに加盟しない理由も「足を引っ張られたくない」ことが理由だという。なんとも自己本意な国である。そんな国へやって来たのはほかでもない、デザインの国でもあるからだ。たとえば、日常で意識せずに目にするアルファベットで最もポピュラーな書体ヘルベチカはこの国から生まれた。というか、ラテン語で「スイス」を意味する言葉が、そもそも「ヘルベチカ」なのである。写真にある管理所のロゴはモチロン、我がorganの書体もそうである。