Wednesday, November 28, 2007

シャンブレーのワークシャツ

「ビッグ・マック」が好きだ。といっても、ハンバーガーのことではない。アメリカの通販会社J.C. Pennyのブランド名である。なかでも、シャンブレーのワークシャツには目がない。3枚持っていて、色合い、風合い、襟やボタンの形、胸ポケットのペン差しの形状などが微妙に違う。以前は初夏になるとかならず着ていたが、最近はそうでもなくなった。ただ、古着屋をのぞくと、意識しなくてもシャンブレーのコーナーに目が行く。肩のステッチがトリプルになっているのを見つけると、つい手が伸びてしまうのである。
 
 先日も中心街のビルの中にある古着屋で暇をつぶしていたら、いい感じのビッグ・マックに出会った。いや、正確に言うと再会してしまった。その少し前、やはりその店を冷やかしていて見つけたものである。でも、その時は買わなかった。考えてみると、その店で古着を買うことは余り無い。商品の半分以上が古着っぽく見せたオリジナルだし、必要以上に大きな音でヒップホップがかかっていることもあって、いつも気持ちがそがれてしまう。その時もそうで、それ以来そのシャツのことはすっかり忘れてしまっていた。
 
 そういえば、昔からの古着屋が最近少なくなってきた。一時は古着ブームとかで、大名あたりはもちろん、今泉にもいくつか面白い店があった。その後、「グラムいくら」みたいな売り方の店なんかも現れ、とばっちりを受けた老舗はやってゆけなくなったのだろう。今では、一部のヴィンテージを中心にしたアイテムをそろえた店だけになってしまった。それに、そんな店でもちゃんとしたシャンブレーのシャツを見かけることはあまりないし、あっても案外高い。
 
Rimg0193 残念なことに、再会したビッグ・マックにはラベルが無かった、というか切り取られていた。それもあって、前回買うのを見送ったような気がする。”BIG MAC 100%Cotton JC Penny"という、素っ気ないロゴのラベルも、この実直なシャツの大切な一部分だったからだ。でも、今回は買ってしまった。無情にも¥3990という値札が赤ペンで消され¥2990に値下げされたシャツを、そのままほっておけなかったからだ。かつてあったかもしれないアメリカのプライドみたいなものへのレクイエム、などというのはもちろんオセンチに決まっているけど。
 
 ところで、僕にとってビッグ・マックが一番似合う役者は、アメリカ人ではない。フランスの名優ミッシェル・ピッコリである。ジャック・リベット監督の『美しき諍い女』(*1)の中で、彼はほとんどの場面をこのシャツで通していたと記憶している。人生の午後を迎えた画家は、洗いざらしのシャンブレーを美しい労働着として完璧に着こなしていた。案外、アメリカの良さを理解しているのは、アメリカ人以外のことが多いのかもしれない。

*1 1991年フランス映画。エマニュエル・ベアールのヌードが話題になったが、上映時間4時間にはビックリ。ピッコリの妻役でジェーン・バーキンも出演している。

Sunday, November 18, 2007

パリ、メルド

Rimg3761-1 「買付の旅」と聞くと、「うらやましい」とおっしゃる人が多い。確かに好きなものを探して外国の街を歩き回るのは、楽しい。でも、商売であるからには、それなりの苦労もある。さしずめ、買い付けた商品を狭いホテルの部屋で夜遅くまでかかって梱包して、出来るだけ早く日本へ送り出す作業などはその典型だろう。よほどの大物でない限り、郵便で送ることが多いのだが、送料がバカにならない。特に、ヨーロッパや北欧はかなり高い。おまけにサイズや重さの制限もあり(しかも各国で規定が違う)、リミットぎりぎりに経済的な梱包するのはなかなか骨の折れる作業である。いきおい、郵便局とのちょっとしたトラブルも多くなる。そんな中、忘れられない出来事が、今年の春、パリで起こってしまった。
 
 その郵便局はホテルから歩いても10分はかからない距離だった。とはいえ、一番重いもので20kgくらいはある、計五個の段ボール箱を運ぶためにはタクシーを呼ぶしかない。フロントに頼んだのだが、40分経ってもやってこない。そのうちにようやく来たのだが、あいにく全部の荷物は入らない。再度、大きめのワンボックス・カーを呼んでもらい、待つこと30分。業を煮やして、10分ほどのところにある大きめのホテルの前に客待ちしているタクシーを歩いて呼びに行く。そうやって、なんとか目指す郵便局に到着。中にはいると、パリの郵便局ではおなじみ、待ちの列がズラリと並んでいる。20分くらいはかかりそうだ。そのうちに、ようやく自分たちの番が来た。係の男がカウンターから出てきて、荷物をメジャーで測り始める。「大丈夫、ちゃんと測ってきたから」と冷静を装うが、前にも重量オーバーで、その場でアレンジし直した経験がある。油断は禁物だ。と、係の男は一番大きな段ボールをさして、フランス語でなにやらネガティヴな言葉を発している。どうも、5cmほど高さがオーバーしていると言いたいらしい。やれやれ。この男は大型を経済的に送る別のオプションがあるのを知らないのだろうか。その場合ははかり方が違うのである。英語でそのことを繰り返し伝えるが、がんとして聞こうとはしない。「ジャメ、ジャメ」の繰り返しである。困り果て、「前回、リパブリックの近くの郵便局ではOKだった」と言うと、彼はこう答えた。「その郵便局に持って行け」、と。一瞬耳を疑った。局ごとに規定が違うはずはない。それを平然と、違う局に行け、とはさすがフランスの公務員、個性的すぎる。こうなっては、僕としてもとっておきのフランス語を使わざるを得ない。映画では何度も耳にしたことがあるが、現実に使う機会があるとは思ってもみなかった。「メルド!」。ここ一番という時の僕の声は、とても大きい。後ろに並んでいたおばさんが僕に向かってこういった。「あんた、自分の国に帰ったら」。

 以前、小柳帝氏からも勧められていた『パリ、ジュテーム』をDVDで観た。オムニバス映画で、なんと総勢18名の監督が各々パリに関する5分間の短編を作るというもの。こういう趣向は、いわばフランス映画の得意技。昔から何本か観たことはあるが、どれもあまり記憶にない(トリュフォーやゴダール、ロメールなど、好きな監督だったはずなのだが)。短編でオムニバスという手法が僕は不得手なのかもしれない、と思っていたけど、とても楽しく観ることが出来た。18名といっても、フランス人監督はたしか2,3人だったと思う。コーエン兄弟や、ガス・ヴァン・サントなどアメリカ勢を含めて各国のシネ・フィルがそれぞれに個性的なパリを切り取っている。それは、たった今パリの片隅で実際に起こっているかもしれない小さな出来事ばかり。イスラム系、アフリカ系、アジア系など多人種、多文化の中での普段の生活には、ロマンと苦さがいつも同居している。つまり、「パリ、メルド」でもあるってことなんだろう。

Friday, November 9, 2007

クリストの術中

新聞の小さな記事で、クリストの講演会があることを知った。パリのポンヌフを布で覆ったり、日本とアメリカで、同時に3100本ものアンブレラを何十キロに渡って延々と設置するという、桁外れに壮大なインスタレーションをやる人である。前から興味を持っていただけに、おせっかいは承知で、数人の友人に声を掛けてみた。
 2時間に及んだトーク・セッションは、予想以上に面白かった。奥さんであり、プロジェクトのパートナーでもあるジャンヌ=クロードのウィットに富んだ話で幕を開ける。「私と彼は同い年、誕生日も一緒で、おまけに生まれた時間もほぼ同じ。もちろん、お父さんとお母さんは別だけど。」と笑わせつつ、クリストと彼女が様々なプランを一緒に実現してきたことを明かす。そしてスライドを使って、過去そして現在進行中のプロジェクトを、データを含めてかなり細かく説明。空前絶後の予算と、膨大な関係各位への果てることのない説明。2人の道はまるで、ロング・アンド・ワインディング・ロードである。そして、その資金は全てクリスト自身の計画段階での構想図を、作品として美術館やアート・ディーラー、コレクターなどに売ることによりまかなっているという。「いくらくらいで売るんですか?」との会場からの質問に、「それはマーケットが決めること、資本主義ではね。」とかわす。
 
 ブルガリア生まれのクリストとパリ生まれのジャンヌ=クロードという二人が、拠点に選んだのはNY。世間を驚かすような作品は、耳目を集めると同時に、賛否両論の部分もあるらしい。大変なお金と膨大な時間を費やして作ったあげく、長くても2週間くらいで消えてしまう「人騒がせな自己表現」と映ってしまうのだろう。
 
Christo2 終了後に買ったパンフレットには、1964年にNYのチェルシー・ホテルのベッド・ルームで撮られた二人のモノクロのポートレイトが載っている。まるで、ヌーヴェル・ヴァーグのワンシーンのようだ。いや待てよ、僕には、むしろジョンとヨーコの”ベッド・イン”に通じるものかも。二人が、 「戦争は終る!あなたが望むなら」と書かれた巨大なポスターを世界の11都市に揚げた時、世界的なロック・スターが、女性アーティストと一緒に行ったお遊びだと決めつけたのはジャーナリズムだけではなかった。僕を含む多くのファンでさえも、内心「ベトナム戦争反対もいいけど、ビートルズ、ちゃんとやってくれよ」と思ったものだ。もちろん、クリストは政治にコミットする直接的表現をするほどナイーブではない。

 
Christo1 彼は布を「柔らかな障害」だと説明する。それを使って、例えばベルリンにある民主主義のシンボル的建物「ライヒスターク」を包んだ時、訪れた人々は普段なら絶対に触れようとはしない建造物に、つい触れようとしたらしい。誰しも、一見不自然なものへの好奇心がある。それが布という昔から存在するもろくて、あやうい素材に包まれていたら不思議と参加したくなるのだろうか。
 
 クリストとジャンヌ=クロードは、何事につけても一緒である。ただひとつ、飛行機だけはかならず別々の便を使うという。たとえ待ち時間が4,5時間であっても、それだけは守っているとのこと。一体、なぜなんだろう。事故にあった時のことを考えてのことなんだろうか?やはり、パンフレットにサインをしてもらう際、そのことを聞くべきだったのだろうか?やはり、好奇心からの質問はせずによかったのだろう・・・。イヤハヤ、どうやら、人を巻き込むことが得意な彼らの術中にはまったようだ。

Sunday, November 4, 2007

ふた物

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東京から主人の友人がやってきた際に、人形町の老舗「ハマヤ」の富貴豆をいただいた。
主人の好物なので、あっという間になくなってしまうことは確かなのだが、包みのままで置いておくと、食べる時に随分もどかしかろうと(そういう理由にして)、つい先日、小鹿田で購入してきたふた物にその富貴豆を入れたら、丁寧な感じがしてなんとも嬉しくなった。
保存方法にも「ふた物にて冷蔵庫にお入れになり 〜(略)〜」と記されていたから、この「ふた物」というコトバが私を刺激したに違いない。
理由はいろいろあるとして、「ふた物」は好きな食器のひとつ。商品としてそれが入荷する場合も必ず"私だったらどう使う"を結構考えて楽しんでいる。
和、洋をとわずに「使い方」の視点で、ものを選んでみたり考えてみたりすると、また面白い。
で、最近、新入荷したセラミックウェアをはじめ、「ふた物」をサーチさせました。よかったら、見てください。t.t.

Friday, November 2, 2007

霜降り

「霜降り」が好きだ。といっても、牛肉の話ではない。Tシャツやトレーナー、それもアメリカ製の古いものに目がない。あの、グレーと白の糸が微妙にミックスしたテクスチャーに出会うと、つい触手が伸びてしまう。持っているくせに、ちょっとした違いを見つけては、ついまた買ってしまう。
Rimg0284-1初めてリアルな霜降りのTシャツを見たのは、神宮外苑、国立競技場のそばのマンションにオープンしたばかりの『ハリウッド・ランチマーケット』という店だった。いまでは代官山にあるその店は、そのころ、つまり30年ほど前はマンションの螺旋状の外部階段をトントンと登らないと到達できないという、ちょっと秘密めいた場所だった。おまけに、いつも明け放しのドアの前には大きなラブラドール・リトリバーがいて、そいつをまたいで入らなければならない。インド更紗のカーテンを開けておじゃますると、6畳くらいの部屋いっぱいにプーンとお香の匂いがする。まるで、日本に初めて出現したヒッピーのコロニーのようだった。
 
 そこで目にしたものは、正真正銘のアメリカの古着だった。LevisのGジャン、Leeのホワイト・ジーンズ、タンガリーのワークシャツ、そして様々なロゴが入ったTシャツは、アメリカの映画やTVドラマでしかお目にかかれないとびきりのワークウェアだった。古着独特のクタッとした使用感は、『VAN』や『JUN』を経過し『BIGI』でお洒落に目覚めたばかりの僕をピリピリと刺激した。なによりもセレクトがよかった。ジャック・ニコルソンが着ると似合いそうな、まるでアメリカン・ニュー・シネマっぽい雰囲気がたまらない魅力を放っていた(*1)。
 
 お目当ての霜降りTシャツは、胸にロゴが入っていた。おそらく刑務所のユニフォームだったのだろう。想像していたより濃いグレーだったけれど、一目見て欲しいと思った。でもプライスのほうは僕の想像より高めだった。『増田屋』のざる蕎麦が350円くらいだったとすると、その10倍くらいだったそのTシャツは、当時の僕には高嶺の花だった。
 
 それまで僕が着ていたのは『フクスケ』の肌着だったかもしれない。それは「下着」であり、どちらかというと人に見せたくないものだった。それをTシャツと呼ぶことで、下着はお洒落着へと昇格を果たしたのだろう。もちろん、真っ白のHanesも素敵だけど、グレーの霜降りは別格だった。メーカーや年代によって、同じものがないといっていいほどに濃淡や材質に違いがあることにも気が付いた(オートミールとよばれる優しい色味は特別だった)。で、そんなお気に入りのTシャツを着こなす為の肉体の貧弱さに気が付いた僕は、少しでも筋肉を付けようと、無駄と知りつつ日々筋トレに励むことになったしまった。ワークウェアを着るために、ワークアウト。ところで、「霜降り」って英語ではなんというのだろう。辞書を引いてみたところ、"marbled meat"とあり、やはり、肉がらみ。彼らは「グレイ」としか呼ばないのだろうか。今でも疑問である。
 
 *1 おそらく、映画『カッコーの巣の上で』を見た後だったのだろう。

Thursday, November 1, 2007

水差し

久しぶりに小鹿田まで足を伸ばした。秋の日を浴びた山里はとてもすがすがしく、唐臼のギッコン・バッタンという音が、変わらず谷間中のどかに響いていた。今回は遠来の友人夫妻も一緒。僕らもなんだかいつも以上に新鮮な気分で10軒ほどの窯元をゆっくり堪能した。

いつもは、皿や小鉢などを買うことが多いのだが、その日はなんとなく「水差し」に目がいってしまった。ひょっとすると、東京でやっているバーナード・リーチ展へ行きたいという気持ちが反映したのかもしれない。ご存じのようにリーチは昔、小鹿田を訪れた際に水差しの取っ手部分の付け方を指導したといわれている。多分、取って付きの水差しは日本では珍しかったのだろう。以前訪れた時、ある窯元のおばあさんにリーチ来訪当時のことを伺ったら、村中で"炊きだし"をして歓待したことをなつかしそうに話してくれた。日本滞在中は民芸運動に参加し、東洋、とりわけ朝鮮の焼き物に傾倒したといわれている。また、1920年には濱田庄司を伴ってイギリスに戻り、セント・アイブスに日本風の登り窯を築いて、その地で作陶にいそしむことになる。以前、彼の作品をいくつか大原美術館で見たことがあるが、人目をひくものというより、もの寂びた風情にあふれた温雅な作風が印象に残っている。それは、よく言われることだが、東洋と西洋の伝統美を陶芸という形に融合しようとした結果なのだろう。しかし、「言うは易く、行うは難し」。当時、イギリスにおいて、彼の作品が正当に評価されたとは言いがたい。異質な文化がお互いに補い合うことの必要性は、むしろこれからますます高まるに違いない。その意味において、リーチは先覚者だったといっていい。
今回買い付けてきた小鹿田のおおらかな日用雑器は、そんな文化の相互作用と同時に、生活に生きる手仕事の一端を物語っているように思える。
Onta 1

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