Friday, August 26, 2011

おとといポップス#5 ”自慢じゃないがコチトラ譜面が読めない”

6685977 1974年当時、ぼくらは確か毎月20万円の給料をプロダクションからもらっていたはずだ。5人で割れば一人4万円。今から38年前とはいえ、東京暮らしはギリギリだった。レコードは新着を渋谷のYAMAHAでチェックして、新宿西口にあった中古屋を物色、欲しい服はBIGIで眺めて、TAKAQのワゴンで似たヤツを買ってすぐ後悔。マネージャーからは「演歌歌手ひとりでも、バンド5人でも払う側にとっては同じなんだから」といわれ、まったく売れないぼくらには返す言葉がなかった。渋谷の「じゃんじゃん」や荻窪の「ロフト」など、当時でき始めていたライブハウスに出ても、ギャラは雀の涙。それはぼくらに限ったことではなく、一部のフォーク系のシンガーを除けば「日本語のロック」を目指す同輩達も同じようなものだった。そんなわけで、バッキングやスタジオの仕事をすることになった。とはいっても、自慢じゃないがコチトラ譜面が読めない。限られた時間内でレコーディングするスタジオワークは、渡された譜面を見ながらの、ほぼ一発勝負と聞いて無理だと思った。バッキングなら歌い手さんと一緒にリハーサルしながらヘッド・アレンジでなんとかなりそうだと、不承不承ながら引き受けることになった。今となっては、どなたが最初だったか忘れてしまったが、プロダクションがテレビ局に強かったせいで、連ドラ系の歌うスター中村雅俊さんのツアーでは日本国中を回った。田中健さんや小野寺昭さんとか、なぜか愛川欽也さん、それに女性アイドル歌手もやった。そういえば、同輩の「はちみつぱい」はアグネス・チャンのステージだけでなく、レコーディングもやっていたっけ。それに彼らはスタジオ・ミュージシャンもこなしていたはず、大所帯だしね。同じヘッド・アレンジ派としては謎だったのだが、後年になって鈴木慶一にそのことを尋ねてみると答えがふるっていた。「ある時ピアノで呼ばれたんだけど、1,2回リハやって即本番。ままよ!っとばかりに弾いてるフリだけしたんだ。ところがプレイバックの段になってアレンジャーがピアノが聞こえないって騒ぐんだね。当然すっとぼけたけど」。ぼくらも少しはスタジオをやった。やっぱりテレビがらみ、それも子ども向け番組が多かったが、あの緊張感はやはり馴染めなかった。ただ、アニメだったか、効果音は面白かった、譜面ないしね。「恐怖っぽい音、お願いします」といわれて、シンバルをこすったりとか。まあ、『サイコ』のバーナード・ハーマンとはいかなかったけど。忘れられないのは西田佐知子さんを1曲だけやったこと。16ビートのちょっと洒落たアレンジをした。仮唄はたった1回でOK。ハスキーな声となげやりな情感は、大好きだった『アカシアの雨がやむとき』の頃と変わっていなかった。そんなある日、マネージャーから意外なオファーが来た。小坂忠のバックをやらないか、という話だった。