Saturday, March 2, 2013

倭冦の末裔達

アジア熱が冷めないうちにと、以前から一度はやってみたかった博多⇄釜山by船を敢行した。といっても水中翼船なので3時間くらい。壱岐のそばを通ったのかどうか、あれよあれよという間に対馬沖を過ぎ、見る見るうちに朝鮮半島らしき陸地が近づいてきた。それにつれてコンテナ船の数が増え、大小のドックも視界に入ってくる。港湾施設が思っていたよりも大きく、地形も変化に富んでいてなんだかダイナミック。目を横にずらすと、ニョキニョキと林立する高層マンションが飛び込んできた。「えのき茸みたいですね」と同行したコースケ君。さすが1級建築士だけに的確だ。山の急斜面にびっしりと建つカラフルな低層の家々は、行ったことはないがまるでリオ・デ・ジャネイロみたい。ここは、博多から直線距離でわずか200kmだが、れっきとした外国である。上陸すると、当たり前だけど看板からなにからハングル文字の嵐。アルファベットでも漢字でもないところが、どうにも不案内で、見ただけではナニがナニ屋なのかサッパリわからない。その割に人々の顔は我らと似たり寄ったりだから、アイデンティティが少なからず揺れる。ゴチャゴチャした市場を抜け、古本屋街の脇から急な坂道を登ると、見晴らしのいい小さな公園があり、港が一望できる。たしか来る前に調べた「倭冦」たちが15世紀ころに居住していた「倭館」がこの下あたりにあったはずだ。いわば韓国版出島である。彼らは日本の銅や金、南洋産の香辛料やらを朝鮮に売り込むために暗躍、もとい活躍したのだ。当時の日本は近代国家ではなく、したがってネーション・ステート、つまり国民国家という意識などはないからナショナリズムもなく、動機はもっぱら経済である。農業に適さない島=対馬藩という一地方の集団による「出稼ぎ&移住感覚」というイメージだ。朝鮮から買ったのは、主に木綿だったとのこと。意外だが、日本で本格的な綿栽培が始まったのは江戸時代らしい。そういえば、我らの今回の買い付け候補のひとつはポジャギ。朝鮮に古くから伝わる様々な端切れをパッチクークしたものでとてもうつくしい。3日の間、倭冦の末裔達は釜山の骨董屋をあらかた回ってしまった。さて、次はソウルかな。