Wednesday, October 24, 2012

『ライク・サムワン・イン・ラブ』

もう随分前だけれど、アッバス・キアロスタミの映画に救われた経験がある。それは「ジグザグ3部作」と呼ばれている1980年代から90年代にかけての代表作の中の一本『そして人生は続く』だ。当時、いろんなことが一挙に悪い方へ向かってしまい、かなりマイッテイタ時期だったこともあり、僕は、この映画に強く反応した。それ以来、キアロスタミの映画はほとんど観ているが、やはりこれにかなうものはなかった。ところが最近『ライク・サムワン・イン・ラブ』を観た。前作『トスカーナの贋作』で初めてイラン以外を舞台にした彼の次回作が、日本で撮られると聞いたのは去年。とても興奮してしまい、その主役(元大学教授の老人)のオーディションを受けてみようかと血迷いかけたほどだ(僕は一度だけだが民放のラジオドラマ、それも二人芝居のひとりとして出演したことがある)。でも、結局そんな勇気はなかったし、映画を観ながらそれがいかに無謀なことだったかを思い知った。それほどこの映画のインパクトは大きかった。ところは東京(のような所)。若いころのコン・リーに似た女性は、どうやら娼婦(といってもアルバイト)らしく、一人住まいの元大学教授のマンションへしぶしぶ出かけてゆく。ところが元教授は彼女のためにスープを作ったといい、話をしよう、と持ちかけ、二人の妙な関係が始まってしまう。で、真ん中はすべて端折ってしまうと、最後(といってもたった二日間の出来事なのだが)にはストーカーまがいの彼女の恋人(加瀬亮が好演)のバーストでいきなりのジ・エンド。『友達のうちはどこ』など、イラン時代の禁欲的作風から自由になったとはいえ、この変わり様には驚いた。それは「老いてますます盛ん」などという境地とは違う。答えのない世界をめぐって、めくるめく続いてゆくこの過激な映画は、明らかに観るものに投げられている。答えが得られなくても、最後まで付き合わなければならないのは人生も同じ。救いなど、映画にあるはずもないことを知るべきなのか。