Sunday, December 23, 2007

ウォッカとラムを半々で

もうずいぶん前のことだけど、台湾映画に夢中だったことがある。きっかけは、ホウ・シャオシェンの『恋恋風塵』を観たことだった。静かで切なすぎる映像に涙し、大ファンになった。続けて観たエドワード・ヤンの『嶺街少年殺人事件』の鮮烈さにノックアウトされ、その後もツァイ・ミンリャンなど、台湾の才能ある監督作品は出来るだけ触れるようにした。とはいっても、ホウ・シャオシェンのその後の作品については、あまり熱心であったとはいえない。ところが、『珈琲時光』あたりから、また彼の映画への興味が復活した。そして、ようやく、DVDだけど、『百年恋歌』を観ることが出来た。
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 三つの異なる時代の恋愛が、同じ二人の主演男女によって描かれるという思い切った構成。第一章は1966年。プラターズの「煙が目にしみる」のメロディーが流れ、暗いビリヤード屋の中から外へ向けたカメラが柔らかい光をとらえている。少ない言葉と、日常的なふるまいから生まれる懐かしい恋情。第二章の舞台は1911年。賛否両論だった作品、『フラワーズ・オブ・シャンハイ』を思わせる娼家。古いしきたりの中で、自由を夢想する二人が、サイレントで描かれる。近代化以前の中国様式美がとても美しく、弁髪がクールに映る。当時の日本との微妙な関係性も意味深。そして第三章、2005年の台北。疾走するバイクに乗る二人。一見ドライだけど、実は痛々しい現代の愛が前二章と対比され、破天荒に見えた全体像がようやく俯瞰されるところで映画は終わる。
 
 ホウ・シャオシェンの映画は台湾という場を抜きにはありえないのではないか。台湾と中国、イデオロギーの違いで分断された国家。日本やアメリカとの関係。全てが時間軸抜きには語れない、複雑な背景を持っている。台湾人は、僕らが勝手に思い描く”アジアの純情”なんかよりずっとハードな変化を経験している。だから、「どんな時代だろうと、人は生きてゆく」というまなざしがある限り、彼の映画は観るに値するのだと思う。
 
 余談だけど、10数年前小さなホテルのバーでホウ・シャオシェンと酒を飲んだことがある。アジア映画祭で来福した彼をモツ鍋屋で発見した僕は、我慢できずに、自分はあなたのファンであることを告げてしまった。ところが彼はいっぱいやりましょうと誘ってくれた。なにを飲もうかという段になった時、彼はメニューを見ないで「ウォッカとラムを半々で」、と言った。ボーイは「そのようなカクテルはありません」、と断ったところ「台湾ではよく飲まれているから」、と平然と答えた。そして、運ばれてきた恐ろしくハードな液体をおいしそうに飲んでいる。かたわらに置いた子供への土産物である「サンリオ」の包装紙の裏側に、ボールペンで中国の歴史や、台湾の内省人、外省人などの説明を漢字で綿々と書きなぐりながら。それ以来、僕は、あんなにタフな人間に出会ったことはないような気がする。