Saturday, October 5, 2013

ホテル・ホノカア・クラブでのこと、の終わりに。

以下のことは、日本へ戻ってきてから調べてみたことだ。
 Katsuこと後藤濶は、明治政府が募集した第一回の移民994名の中のひとりとして、1885年日本からハワイへ渡っている。そして、3年間の契約でプランテーションで働き、その間に蓄えたお金でジェネラルストアを開店したらしい。店も軌道に乗り、英語がしゃべれたこともあって、労働者と経営者とのトラブルや交渉事の世話をしたりしていた。そんな中で、リンチに遭ってしまったのは1889年、ハワイへやってきて4年。まるで西部劇の中の出来事のようだが、本当に起こった事件なのだ。
 
 写真の碑文では、後藤濶のことを「サトウキビ栽培労働者の人間としての尊厳と労働条件の改善を実現した労働運動の草分け的存在だった」とたたえている。

 ところで、19世紀なかばから”Go West”の掛け声で西部開拓に邁進したアメリカは、ついにメキシコからカリフォルニアを奪い、太平洋へ至る道を開いている。その後は、中国への野心をいだきながら、海路ハワイに進出、その後日本へ来航したペリーが開国を迫ることになる。その間、ハワイには多数の宣教師や入植者が移住して、当時アメリカで需要が急増していた砂糖製造のためにプランテーションを経営し、ついには島々の経済的実権を握ってしまう。そのままアメリカに併合されることを恐れた国王カラカウアは1881年、なんと日本を訪問し、内密に移民を要請している。その結果、ハワイに日本人が急増してしまう。そして、それが、アメリカにとっては面白くなかったことを想像することは難しくない。
 真珠湾アタックを待つまでもなく、明治時代のハワイにおいて「日米衝突」が起こっていたことを、ホノカアというちっぽけな町が気づかせてくれた。それにしても、アメリカにしろ日本にしろ、「国家」というワクグミからは、ろくなことは見えてこない。しかし、嘆いてみても、それが消滅する気配もまるでない。最後にひとつ、ジョリーが言ったことで記憶に残っていることがある。様々な民族がミックスするハワイだが、日本人の混血は少ないらしい。明治時代に移民した男たちは、ハワイで配偶者を探す気がサラサラなく、遠く日本からお嫁さん候補を船で呼び寄せていたそうである。