Saturday, July 23, 2011

おとといポップス#4 ”唄うニューヨーカー”

Img 3092 『恐怖のこまわり君』がヒットしたこともあり、2枚目のアルバムを作ることになった。もはや今までのように「売れなくてもいい、自分たちの好きな音楽をやりたい」などとナイーヴな宣言をして、マネージャーを泣かせるわけにはゆかない。ギミックと取られても仕方がないようなシングルを出した後なので、バンド名を変える案が出た。”Cinema”とか”Hotel”なんてね。そこにはYさんというディレクターのアイデアも反映されていた。彼は、アメリカのA&Mスタジオでのアシスタント経験を経て帰国したばかり。趣味性を発揮しながらビジネス的にも成立させる本場の音楽産業を学び、それを日本で実践しようとしていた。余談だけれど、1975年発売になった「Made in USA catalog」という雑誌の巻末に、LAで現地コーディネーターとして彼の姿が写っている。そういえば、彼の兄は著名な和製ポップス作曲家であり、加藤和彦氏や今野雄二氏とも親交が深かった。そんなわけだから、新しいムーヴメントへのアンテナも鋭かった。それは、前述のロキシー・ミュージックなどに限らず、スティーヴィー・ワンダー、マーヴィン・ゲイ、ダニー・ハザウェイなどの”ニュー・ソウル”や、マイケル・フランクス、ジョージ・ベンソン、クルセダースなどの”シティ・ポップス”や”フュージョン・ミュージック”にも及んでいた。ポップスが単なる流行歌から、モダンで都会性をともなったスタイルへと移行していた時代だった。その中で、僕らは、よく言えば個性的、下手をすれば独善的とも写る「作家性」の強いポップスへと傾斜していったのだと思う。たとえば、ルパート・ホームズ。1974年にEPICレコードから出た"Widescreen"というアルバムは、まさに「唄うニューヨーカー」といった風情で、夢中で歌詞を追った。たとえば、こんな風だ。

僕は映画と一緒に生活している
でも、マチネーは5時で終わる
まだ太陽がまぶしい外へ瀕死の状態で出なければならない
ああ、映画館の中へ戻りたい
そこはいつも夜なんだから
ワイドスクリーン、目が回るよ
たくさんの噓でボクを満たして欲しい
 <”Widescreen”>
 
これではまるで、映画『ボギー!俺も男だ』とダブってしまう。同じ時期、ボクはウディ・アレンを知ってしまっていた。自分の様々なコンプレックスをカリカチュアライズし、ギャグに変えてしまう奇妙な才人は、まるでハンフリー・ボガートをレディメイドなものとしてリ・メイクしてしまうマジシャンみたいだった。それはさておき、ルパート・ホームズである。ニューヨークのティンパンアレイに連なる流麗なオーケストレーションと、ジャズやポップスのクリシェを用いて、アメリカの様々な表層文化をコラージュしたような彼の音楽もボクにとってはマジックみたいだった。それは、その後オーケストラ・ルナという、オフ・オフ・ブロードウェイの実験的ミュージカル仕立てめいたアルバムを彼がプロデュースしたことで一層明らかなものになった。正直に言って、今ひとつ乗り気になれなかったこの2枚目のアルバム製作で、彼へのオマージュを混入させることだけがボクの密かな願いになっていった。