Monday, January 31, 2011

距離感

Rimg0708 初めてアメリカへ行ったのは、高校生のころ。自宅から私鉄に乗り3つ目の駅で下車し、そこから徒歩でたったの15分だった。そこは通称「春日原ベースキャンプ」と呼ばれた米軍の敷地で、僕らの間では、住所登録は実のところカリフォルニアだと信じられていた。僕らというのは、当時一緒にバンドを組んでいた4人の仲間で、『ルート66』というあまりハッピーじゃないアメリカTVドラマに夢中で、学校では明らかに浮いた存在だった。そのうちの一人がどこから聞きつけてきたのか独立記念日には基地が一般に開放されるというニュースを耳打ちした。その日はバザーが開かれたり、バンドの演奏が聞けたりするという。もちろん異議なしというわけで、お気に入りの女の子がいるヤツはその娘に声を掛けつつ、ワクワクしながらその日を待っていた。
 その少し前、九電記念体育館で行われたビーチ・ボーイズのコンサートの帰り道でのことだ。初めての外タレ経験にすっかり興奮気味だった僕は、帰りの電車の中で彼らのヒット曲を小さく口ずさんでいた。すると、隣に立っていた若い外人さんが「ランランギルラン、アギルラン〜」とハモってくれるではないか! 多分、同じコンサート帰りなのだろうが、なにしろ突然の御唱和である。僕は完全にアセってしまい、ニッコリ笑って向こうを向いてしまった。彼は私服だったけど髪型はいわゆるGIカットだし、当時の福岡では米軍関係以外の外人を見かけることはなく、しかも電車は春日原方面へ向かっていたわけで、彼がキャンプからやってきたことを勝手に確信したのだった。つまり、そのランラン君に会えるかも、という淡い希望もあったのだろうか。
 基地のゲートを抜け、敷地内にはいると、そこはアッケラカンとアメリカだった。広い芝生の間に点在するハウスを見て、その中に『うちのママは世界一』 や『パパ大好き』みたいな暮らしを想像した。庭にはバスケット・ボールのシュート板があったり、バーベキューセットが転がっていたりと、たしかに資本主義の豊かな暮らしを連想させてくれた。僕らは、まるで初めてのディズニーランドのようにキョロキョロしながら、いつしか重厚な造りの将校倶楽部に迷い込んでいた。そこで、生まれて初めて飲んだジンジャエールに、甘ったるいコカコーラとは違うヒリヒリとした辛い味を知ったのだった。
 ここには、戦争中には飛行機を作る軍需工場があって、僕の母も動員されて働いていたと聞いた覚えがある。そして、戦後はアメリカ軍の基地となり、 僕が生まれた翌年の1950年には朝鮮戦争が勃発し、近くの板付飛行場は後方支援として重要な役割を果たしていたらしい。そして、僕らが闖入した1960年代半ばといえば、アメリカがベトナムに本格的に介入していた頃だったはずだ。それから30年以上が経過した夏、いまでは広大な総合運動公園になったその場所を横切ってハローワークへ行った。勤めていた仕事を辞め、失業保険を受け取るためだった。
 あさってからアメリカ西海岸へ行くことになっている。現実のアメリカへは飛行時間10時間あまり。遠いような、そうでもないような、不思議な距離感である。