久しぶりに小鹿田まで足を伸ばした。秋の日を浴びた山里はとてもすがすがしく、唐臼のギッコン・バッタンという音が、変わらず谷間中のどかに響いていた。今回は遠来の友人夫妻も一緒。僕らもなんだかいつも以上に新鮮な気分で10軒ほどの窯元をゆっくり堪能した。
いつもは、皿や小鉢などを買うことが多いのだが、その日はなんとなく「水差し」に目がいってしまった。ひょっとすると、東京でやっているバーナード・リーチ展へ行きたいという気持ちが反映したのかもしれない。ご存じのようにリーチは昔、小鹿田を訪れた際に水差しの取っ手部分の付け方を指導したといわれている。多分、取って付きの水差しは日本では珍しかったのだろう。以前訪れた時、ある窯元のおばあさんにリーチ来訪当時のことを伺ったら、村中で"炊きだし"をして歓待したことをなつかしそうに話してくれた。日本滞在中は民芸運動に参加し、東洋、とりわけ朝鮮の焼き物に傾倒したといわれている。また、1920年には濱田庄司を伴ってイギリスに戻り、セント・アイブスに日本風の登り窯を築いて、その地で作陶にいそしむことになる。以前、彼の作品をいくつか大原美術館で見たことがあるが、人目をひくものというより、もの寂びた風情にあふれた温雅な作風が印象に残っている。それは、よく言われることだが、東洋と西洋の伝統美を陶芸という形に融合しようとした結果なのだろう。しかし、「言うは易く、行うは難し」。当時、イギリスにおいて、彼の作品が正当に評価されたとは言いがたい。異質な文化がお互いに補い合うことの必要性は、むしろこれからますます高まるに違いない。その意味において、リーチは先覚者だったといっていい。
今回買い付けてきた小鹿田のおおらかな日用雑器は、そんな文化の相互作用と同時に、生活に生きる手仕事の一端を物語っているように思える。
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