Sunday, May 28, 2017

モノの方便。


ウズベキスタンはイスラムだけど、お酒が飲める。ビールはもちろん、ワインの産地なのでコニャックだってOK。味の方はといえば、ちょっと甘いが悪くない。
ウズベクはイスラムを国教としているけど、政教分離政策だ。さきごろ亡くなった大統領は、在任30年だかの間に、イスラム原理主義を徹底的に押さえ込んできたようだ。空港や駅のセキュリティが恐ろしく厳重なのは、そのためだろう。後日、日本に戻ってみると「共謀罪」が強行採決で衆議院を通過してしまった。オリンピックのためテロを防止するのだと政府は主張するが、方便っぽい。
それはさておき、この地方は、歴史的には7世紀ころにイスラム化して以来、中央アジアのイスラム文化の中枢として栄えていた。僕らは、サマルカンド、ブハラ、そしてヒヴァという古い城壁都市を回ってみた。そこには、かならずメドレセと呼ばれる壮麗な神学校があった。学生たちは寄宿しながら、法学、神学、言語学、詩学などを中心に、数学、天文学、医学、哲学などを学んだ。メドレセとは、いわば今の大学のような教育機関なのだ。そのころのヨーロッパは、確かフランク王国が支配するきわめて野蛮な地域だったはずで、その意味ではイスラムのほうが進んでいたのだろう。
僕らは、イスラムのことを殆ど知らない。知っているのは、ニュースや、ハリウッド映画だったりと、つまりはどれもアメリカや西欧経由。結果、目をつぶって象を触るように、妄想と偏見が多くなる。西欧的価値観を通してしまうと、不可思議で狂信的な宗教に見えてしまう。僕にとって、そんなステレオタイプなイスラムのイメージを崩してくれたのは、アッバス・キアロスタミの映画”ジグザク3部作”と、武田百合子の『犬が星見た』だった。興味ある方はぜひ観て、読んでみてください。
イスラムはキリスト教と並ぶ「世界宗教」なので、地球を網羅している。宗派もスンニ派とシーア派がいて、実際には場所によって、もっといろいろ濃淡があるようだ。ポイントは、先行する仏教やユダヤ教やキリスト教などを「批評」して生まれたことだろう。原始宗教が持っていたはずなのに失効してしまった”人間の幸福のための理念”を回復しようとして、7世紀に生まれた新しい宗教なのだ。ブッダもモーゼもジーザスも認める。ただし、彼らを神と同一視はせず、預言者として見る。あくまで人間として見る。つまりカントやジョン・レノンなんかも入っていいのだ(と、これは私希望です)。そして、偶像を否定する。神とは、目に見える存在ではないというわけ。賛成。そして、権力としての聖職者も否定する。大賛成。つい最近、「イスラーム(より正確にはこう発音するらしい)」とは「与える」という意味だと知った。宇宙の創造主から与えられたものを、自分も与える。富める人は貧しい人に、与える。「何を」与えるのかは、いろいろ。極端な場合は、命も与える。
ぼくがウズベキスタンまで行って「与えた」ことは、ない。あるとすれば、旅行者としての少しのお金だ。与えられたのは、たくさんの眼差しと笑顔。それは、日本にいては経験しないことだ。ぼくらは、違う顔、違う文化の人間と、出会う機会が少なかなったから仕方がない(のか、そう思いこんでいるのか)。すれ違う「他人」を無視することには慣れているけど、違うスタイルを持つ「他者」に目線を合わせるのはとても苦手だ。ぼくはモノから因縁をもらう人間で、おまけにお調子者だ。イスラムの帽子を被って、ヒョコヒョコ歩いていたから面白がってくれたのだろうか?モノが方便になってくれているのかもしれない。

Wednesday, May 10, 2017

春を持たないエトランゼ…

サマルカンドでのB&Bの朝飯と夕飯は、宿舎者が中庭のパティオのテーブルを囲んでというアット・ホームなものだった。全部で12室くらいなので、人数も適度だったし、2泊の間に顔ぶれを、なんとなく覚えてしまった。てっきりアメリカ人かと思っていたが、「シティのやつらがどうしたこうした」という話が聞こえたのでイギリス人かもしれない男3人+女ひとりの賑やかなグループとは、幸い席が離れていた。インテリっぽいドイツ人夫婦は静か。女の子連れの中年夫婦は、旦那がノルウェー人で奥さんはスウェーデン人。僕らの隣で、「どこから来たの?」と声をかけてくれたふたりは、イギリス人とオランダ人のカップル。つまり、EU系ばかり。だけど、みんな英語。下手でも、文法おかしくても、なんとなく通じる現代のエスペラント語だ。で、結構、政治向きの話をする。まあ、EU離脱や右傾化は他人事ではないというご時世なのだろうが、日本人どうしだったら、旅先の政治話はまずありえないことだろう。
外を歩くと、観光地なのでツアー客が多く、ガイドさんの言葉でどこの国かわかる。フランス語やドイツ語、ロシア語が多い。時々英語に中国語。ウズベクの男の子たちが、あちこち遺跡のそばでサッカーをしている。将来、このなかから日本とワールドカップのアジア予選を競う選手が現れるやもしれぬ。女の子たちは、民家の軒下に座ってカード遊びをしている。ぼくらが通りかかると、ちらっと目を合わせる。ときどき、調子に乗ってこちらがiphoneを構えると、すっくと立ち上がって、しっかりこちらを見つめる。なんだか、他者慣れしている。
この国のあちこちに、アレキサンダー大王や、チンギス・ハーンや、その他さまざまな帝国や民族がやってきて、それまでの王朝を倒し、自分たちの文化を移植して去っていった。それも、気が遠くなるほど時間と労力をかけて。だから、いろいろな民族の顔をした人が歩いている。イラン系、トルコ系、アラビア系、蒙古系、そしてアーリア系、ユダヤ系などなど。だから、朝青竜と琴欧洲、原節子に樹木希林、セルジュ・ゲンズブールやレナード・コーエンそっくりの顔に出会っても驚くことはない。この地には、東西の民族が先行して交錯した残照が、確かにある。   
バザールでCDを買った。帰国後、パンダの絵がついた中国製のROMに焼きつけられた現地のポップスは、残念ながら僕のコンピューターではどれも認識しなかった。代わりに、音楽博物館でエキゾチックな美人から買ったウズベクの伝統音楽集だけは、なんとか再生できてホッとした。聴いてみると、フルートのような笛がゆっくりとしたテンポで切々としたメロディーを奏でる曲や、くねくねと変調する弦楽器の調べとパーカッシブなリズムに、しばし頭がクラクラ、船酔い状態。すると、スルリと男性の唄声が侵入してきた。もちろん、コブシたっぷりだ。ただし、朝鮮や日本とはちがい、湿り気はない。恨みっこなしのブルースだ。ディック・ミネが歌って「春を持たないエトランゼ…」を思い出した。

Friday, May 5, 2017

あなたのラストプライスはいくら?

  友人へ「ウズベキスタンへ行く」と言ったら、「それって、どこらへんでしたっけ」という質問が返ってきた。「中央アジア、アフガニスタンの上らへん」と答えると、「え!大丈夫ですか」と訊き返された。「ウン、地下鉄に乗るにも、警官がパスポートの提示を求めるくらいだから、治安はいいみたい」とガイド本に書いてあった通りに答えた。友人は「へーえ」と返したが、実際のところ、行ってみなけりゃわからない。
 首都タシケントに着き、馬鹿みたいに広い交差点で「さすがソビエト連邦の一員だったわけだ」、と呆れながら動画を撮っていると、グリーンの制服を着た男が近づいてきてiphoneを指差した。この国では、空港や駅では写真撮影は禁止なのだ。そして案の定、パスポートの提示を求められた(のだと思う、ロシア語だ)。彼は一瞥すると、パスポートを返してくれたので、恐る恐る暗く広い階段を降りた。そこはだだっ広い改札口で、チケット売り場はパチンコ屋の換金所のような小さな窓口。スム札を出し、ちびたプラスティックのトークンを受け取り、自動改札機に放り込んで無事に改札を通過。やれやれ。
工芸博物館と市場を見たあとは、さっさとタシケントにおさらばして、列車でサマルカンドへ向かった。古代から、シルクロードの中心都市として栄えてきた「青の都」だ。予約したB&Bに着くと、若いスタッフが英語で陽気に出迎えてくれ、一安心(この国はいちおうウズベキスタン語なのだが、聞こえてくるのはロシア語が多く、「ダー」だったり「スパシーヴァ」しかわからんけど、両方喋れるひとが多いらしい)。なによりも、この宿から歩いて10分でレギスタン広場へ行けるからうれしい。14世紀以降建てられた美しく巨大な3つのメドレセ(イスラムの神学校)が鎮座する名所だ。今は神学校としての機能はなく、サマルカンドのシンボル的存在なのだが、その壮大なスケールからは、イスラムという”世界宗教”の威光を感じざるを得ない。ただ、モニュメントに対して冷淡な僕は、一応感心したあと、いそいそとアンティック屋を物色することにした。 それは、壮大なメドレセの中庭を囲んでズラリとある、当時の学生たちの部屋(広さ5坪くらいか)を利用した土産物屋の一軒だった。しかし、なにしろ売り口上がうるさい。さすがは砂漠の交易商人の末裔。アレヤコレヤと、次々に代表的なお土産物をまくしたてる。「僕はディーラーなんで、自分で選ぶ。しばらくほっといてくれ」、ときっぱり断ったら、他の客に矛先を向けたので、そのすきに店内の上から下までジロリと見分する。で、交渉の末、気に入った40年くらい前のスザニを3枚買ってしまったが、後で買うことになる田舎に比べると、かなり高めだった。この国では日常品からほぼ全て定価なし。観光客とみると、ふっかけるのは覚悟していた。それにしても、ヨーロッパの蚤の市よりも、ふっかけかたがスゴイ。
まず値段を尋ねて、10ドルと言われたとしよう。対する、われら定価の国の住民は、半額の5ドルを提示するのが関の山だ。すると、相手は8ドルが限界だと返し、それで納得してしまうか、ちょっと粘って7ドルがいいところ。これでは、相手の思うツボ。まずは2ドルと言ってみよう。すると「えー、それは無理」と来る。「じゃ、さよなら」と言って立ち去る。すると、ほぼ間違いなく「ミスター、待って。いくらなら買う?」と背中へ問いかけてくる。ここで、あせってはならぬ。値段の開きが大きいから、と無視する。そうすると「ミスター、これはゲームだから、遠慮無く言って!」と来た。そうまでいうならと「3ドル」と言ってしまおう。すると相手は笑いながら「無理ね、あなたのラストプライスはいくら?」となる。そこで満を持して「4ドル」と言い放つ。そこで、ようやく「じゃ、5ドルね」と来て、ようやく商談成立の運びとなる。これをいちいち繰り返すのだから、かなわない。しかも、毎回この手でお互い納得してゲームセットとなるとは限らない。ラストプライスを言い放ったものの、相手は承諾せず、そのままドローとなる場合もある。で、宿に戻り、「やっぱり、買っとけばよかった」と後悔するのである。

Thursday, April 13, 2017

チェンマイ周辺の焼き物。

有吉さんのインスタレーションでsabieの器を見て、てっきり木製だと思ったら陶器だった。漆を塗りこみ、焼き締めたもので「陶胎漆器」と呼ばれ、日本が日本と呼ばれる前から存在したらしい。しかし、大陸から釉薬が到来して、奈良時代には廃れてしまったとのこと。そんなに古い手法だったんだ。どうりで、「木」や「土」っぽく感じるわけだ。考えてみると、「陶器」って人類最初のプロダクトだったわけで、その中でも、埃をかぶったようなイニシエの技に可能性を見い出すなんてクールだ。なにより器のカタチがイイ。西洋と東洋が、とても美しくバランスしている。後日、さっそく、作った花田さん夫妻にorganでの個展を提案し、快諾を得ることになった。ちょうど僕らは、チェンマイへ行く寸前だった。陶器と漆といえばアジア。個展を前に、なにか共通するものがありゃしないか、と思った。
チェンマイは1292年から1939年まで、長くラーンナー王国の都だった。ラーンナーとは「百万の田」という意味で、国内はパンナー(千の田)と呼ばれる行政区分があり、その下にはパークナー(百の田)と呼ばれる村の連合体があった。ポイントは村の「自主性」が高かったといいうところで、ヒエラルキーもなかったという。つまり、中央集権が弱く、統一性が薄く、国家としてはかなり”ユルかった”のではないか。
 日本の骨董用語で「下手物(げてもの)」「上手物(じょうてもの)」という区別がある。前者は粗雑で大衆的、後者は高級で富裕層向きとされるが、チェンマイ周辺から出土する陶器には下手物が多い。たぶん、このユルい風土が生み出したものかもしれない。空気を読みすぎる国からやって来て、そんなユルい陶器に出会うのは、じつに悪くないものです。
たとえば、最初の写真、”Phan”という窯で焼かれたであろう高さ11cmほどの耳付き花器。やや黄色がかった丸い胴が緩く凸凹している。ロクロではなく手ひねりでこしらえたのだろうが、両手の掌でころがすと、そのイビツさが変に心地がいいから困る。続いてふたつ目の高さ14cmほどの染付花器も、なかなか負けていない。”Kalong”というチェンマイ北部で焼かれたもので、こちらはたぶんロクロ。にもかかわらず、首にかけて、全体がやや傾いでいるのが写真でおわかりだろうか?お世辞にも上手いとは言いがたい絵付けも、見飽きないから不思議なもんだ。そして、最後のコブ牛。これについては、どこの窯と特定するのはむずかしいが、文句無しにラブリーである。
 ラーンナー王国の焼き物は、王女から家臣、そして僧侶から一般人までが、仏事&デイリーユースに使うためのもの。輸出されるためのものではなく、この地方で消費されるために作られた。だからなのか、マス・プロダクトへのプレッシャーを感じない。あえて”クラフト”と呼ぶのも恥ずかしいほどにセルフィッシュだ。

Thursday, April 6, 2017

チェンマイ、おさらい旅。

久しぶりにチェンマイへ行き、以前と同じホテルの同じ部屋に泊まり、ほぼ同じ店で買い付け、同じ食堂で食べてきた。ホテルは、建物や部屋にそれなりの経年変化はあるもののいたって清潔で、スタッフの自然な応対も良かった。フォークロアな店やアンティック屋も健在で(一軒は、郊外の古い農家に移転していたけど、それは店主の自主的な決断であり、正解)気に入ったものをじっくり選ぶことができた。
 そして、なにしろメシである。前回は岡本仁さんと一緒だったから、チェンマイ中の美味しい食堂を食べ歩く、めくるめく初体験ずくしだったから、今回はおさらい旅というわけだ。
 まずは「カオソーイ」。いわばカレーラーメンといったところだが、日本のそれとはかなり違う。カレー+ココナツミルク・スープ+卵麺&高菜の漬物+ライムたっぷり絞りというエキゾチックなしろもの。インドや中国、それに南国がミックスした、この地やラオス北部ならではのローカルな食べ物なのだ。久しぶりだったので、最初口にした時には「えっ、こんな味だっけ?」と思ったが、食べ進むにつれて夢中になってしまい、スープも全部飲み干してしまった。この複雑な味わいは、一体なんなんだろう?きっと、いろいろな民族が交錯したあげくの、国境を超えた味わいにちがいない。
タイ料理は「辛さ、甘さ、酸っぱさ」のミックスといわれているけど、それに加えて、チェンマイや北部では「独特の香りと苦味」つまりハーブを多用した家庭料理が味わえる店がある。ただし、外観は思いっきり普通の国道沿いドライブインっぽかったり、何の変哲もない食堂だったりしてオシャレとは無縁。でも、そこで味わう料理はまさに医食同源、ハーブ(というか野草)も一緒に、自然の恩恵を体に取り込む感じがする。お馴染みになったパクチーやレモングラスはもちろん、コブみかんや、クミン、それにドクダミだって豚肉と一緒に食べると不思議に清涼感が増してイケる。おかげで、6日間の滞在中は日本にいる時と違い、朝のルーティーンもどっさり快調だった。
 前回訪れて、今ひとつピンとこなかったのがベジタリアン食堂。ホテルから歩いて10分とあって、相棒はホテルの朝食を無視ってイソイソと出かけ、感無量で戻ってきた。あまりにも幸せそうな彼女にほだされて、翌朝は僕も同行することに。で、結果はというと、野菜や豆腐、それにキノコなどを使った、とてもバラエティに富んだスパイシーな味は、とても良く工夫されていて、あらためてビックリ。ただ、どれも煮込み系なので見た目は似通っていて「甘いか辛いか、食べてみらんと分からん」というスリルが苦手なのかも。昨夜食べたコブ牛のステーキの噛めば噛むほど味が増す赤身が忘れられない自分は修行が足りない肉食老人なのか。
そこにいくと、カオニャオ・マムアンは老若男女を問わずおすすめできるスウィーツといえる。ただし、熟したマンゴーとお米という組み合わせに、まずはドン引きする。我が日本人にとって、神聖なる主食であるコメと甘い果物を一緒くたに食するのは、どうにも腰が引けるのである。ところがドーシテ、これが美味しい。まず、コメと言っても少し塩味を利かせたもち米、それにお好みでココナツミルクを掛け、完熟の甘いマンゴーと一緒に口へ放り込む。すると予想だにしなかった至福の口内融和がはかられ、一気に完食へとひた走るはめになってしまうのだ。ぜひとも、ワルロット市場内でお試しあれ。やみつきになります。
とまあ、コウ・ケンテツさんじゃないけど、試すとやみつきになるタイ北部の家庭料理ですが、これもひとえに”ヴァナキュラー”、つまり「土着」の精神から生まれたものじゃないかと思ったわけです。一方、「ローカル」というと、ややもすると「中心」から離れた地域の特性を利用した経済活動に起因する言葉のような気がする。そうではなく、”土着”って、そこにいる人達が自分らしく自立して生活をしてきたスタイル(様式)なのではないか、と思い知らされたチェンマイ旅だったわけです。

Friday, January 13, 2017

ささやかな選択。

東欧にモダニズムを探しに行こうと思い立ったのはいいけれど、チェコやオーストリアは「東欧」ではなく「中欧」らしい。「東欧」はベルリンの壁が崩壊する前、つまりバルカン半島の国家群がソビエトの衛星国だったころの呼称なのだ。イデオロギーしだいで呼び方も変わるとは、なんだかくやしい。だったらいっそ足を延ばしてロシアのお隣ポーランドへ行ってみようか、と思ったら、とっさにアウシュヴィッツが浮かんだ。ウィーンから車で5時間、まあ許容範囲だろう。運転するのは奥さんだから、彼女さえOKしてくれれば行ってみたい。死ぬ前に一度は行ってみたい場所なのだから。奥
さんは、一つ返事で「いいね」と答えてくれた。
 オーストリアからチェコを抜けポーランドの高速に入ったら、制限スピードが130から140kmへと変わる。気が付かなければ、いつ国境を超えたのかまるでわからない、ここはEUなのだ。しかし、難民やテロ問題のせいで、このシステムも将来的にはなくなってしまうかもしれない。パスポート・コントロール無しで国境を行き来できることが、一瞬の間だけ、地球上で実験されたことがある、なんて将来歴史の教科書に載るのかもしれない。ナチス・ドイツが突然ここポーランドに侵攻したのは1939年だったか。無論パスポート無しだった。
11月の東欧の地面は堅く冷たく、どんよりと重い雲の間から時おりお情けのように陽が差していた。目の前の広大な敷地に残る数個のバラック建ての小屋にびゅーびゅー寒風が吹きつける。ここは、ビルケナウ。隣接するアウシュヴィッツが手狭になり、「選別」された人々が限られた時間を過ごした絶滅収容所。虚無の光景。
家畜用の列車で運ばれてきた人々のうち、まず労働力と見なされない子供や老人、衰弱した人などはガス室へ直行。その割合は到着した人の70%ともいわれる。残った人々はユダヤ人、ロマ、政治思想犯、同性愛者などに仕分けされ、劣悪な環境の施設へ押し込まれる。その後も選別は定期的に行われた。素裸にされ、SSや医師の前を走らされるのだ。だれを選ぶのか。基準はあいまい。セレクターの気分次第。誰もが精一杯元気なふりをして走り抜けるしかない。人間は、選別されることに慣れていない(どちらかといえば、選別することを好んでいる)。そして「死のオーディション」をスルーした人にとっても、その後に「生活」が待っているわけでもない。
アウシュヴィッツの展示室には、到着した収容者の所持品が展示されている。名前と住所が書かれたトランク、皿やコップ、入れ歯、眼鏡、靴、ブラシ。どれも、ひとりひとりの生活に密着したものばかりだ。
  大江健三郎だったか、「生活とは習慣をつづけること」と言ったのは。朝起きると、いつも通り、顔を洗い、歯を磨き、トーストにバターを塗り、砂糖を少し入れた紅茶を飲み、新聞を開いて「あ~、やっぱり今日も総理大臣が変わってない」とため息をついてトイレに入る。そんなルーティーンは、思っている以上に大切なもので、案外「自由」というものに近い。それらは老いや病によって次第に変化し、制限を受け、最後には手放さざるをえない。ところが、ここでは列車から降りた瞬間から、剥奪されてしまう。山と積まれた色とりどりのホーローのコップやジャグには、今も、ひとつづつのささやかな選択が残されたままである。