Friday, February 17, 2012

「がっぷり四つ」

Img 3228 日中戦争の末期、僕の父は汕頭(スワトウ)という街に配属されていた。台湾の対岸、中国本土を南に下った亜熱帯に属する所である。アルバムの中の父は、軍帽に半袖の開襟シャツ、脚にはピカピカの革の長靴を履き、両手で軍刀を支えていたっけ。他にもたくさんの写真がきちんと整理されていて、なかには乗馬姿もあった。「しょっちゅう馬に乗っていたおかげで痔になってしまった」などと言っていたが、僕は折につけそんな写真を見せてもらうことを密かに楽しみにしていた。プラモデルで零戦を作ったり、戦争ごっこに興じていた昭和 30 年頃の話である。
 父はたしか少尉だったかで、実戦に参加したこともなく、どうやら彼の戦争はそれほど辛いものではなかったのだろう。そういえば、アルバムを見ながら聞いた話にも悲惨さはなく、どちらかと言えば懐かしむ様子すらうかがえた。もちろん愉快な話ばかりではなく、時には子供ながらもドキッとするようなこともあった。それは例えば、中国人のことを当時は「チャンコロ」などと蔑称で呼ぶ人がいたこともそうだったのだが、極めつけは日本兵による斬首というショッキングなことを聞かされたことだった。いくら東映のチャンバラ映画が好きでも、それとこれとは話が別である。それに父は日本刀が好きで(もちろんライセンスをもらって)、正月などには庭で竹にわらを巻いたものを居合い抜きのように試し切りしたりするような人である。幼い僕は、てっきり父もそんなことをやったんだと思い込んでしまったようだ。
 そんな疑問が解けたのは、ずっと後になってからだ。どちらかといえば気難しかった父も老年となり、僕のファーザー・コンプレックスも薄らいだ頃、何かの話のきっかけもあってその事を尋ねてみたことがある。すると彼は、目撃はしたが自分はやっていないこと。また、そのような行為は肝試しにやらされるか、みずから昇進をねらってやるものであり、自分にはその気はまったくなかったことを語ってくれた。
 中国ツアー最後の夜、僕は小雨降る南京東路の雑踏を歩いていた。そして気まぐれに一軒の土産物屋へ入ったものの欲しいと思うものもなく、出口へ向かおうとしていた。すると、親子三人連れが狭い通路を塞ぐようにして品物に熱中して、特に小学生くらいの、明らかに肥満した男の子の体が両親から締め出された感じでほぼ通路を遮断している。この国の作法に従ったわけではないが、僕はつい黙ってその子の脇を割って前へ進もうとした。その瞬間、その子は後ろを振り向きざま僕を見上げた。そして口から溢れ出るお菓子をくわえたまま、きかん気に燃えたぎった目をして、力まかせに押し返してくるではないか。僕はかなり本気で押し戻した。小さな朝青龍と老いた魁皇との一番だ。大人気ないことをしてしまった。しかし、おそらく「一人っ子政策」の落とし子である朝青龍は、決して側にいる両親に助けを求めることをしなかったナー、とそこのところは感心した。そんなふうにして「近くて遠い隣人」への旅は終わった。
 広大な国土にたくさんの異民族が貧富の差をかかえながら同居している様は、もはや裏アメリカの様相を呈している。 2 つの大国はそのうちきっと「がっぷり四つ」になって勝負をするのだろうか。そしてその昔、中国から圧倒的な影響を受けながら、明治維新以降はアメリカに範を求めた日本。さて、これから何処へ向かってさまよい続ければよいのだろう。

「がっぷり四つ」

日中戦争の末期、僕の父は汕頭(スワトウ)という街に配属されていた。台湾の対岸、中国本土を南に下った亜熱帯に属する所らしく、アルバムで見る彼は、軍帽に半袖の開襟シャツ、脚にはピカピカの革の長靴を履き、両手で軍刀を支えていた。他にもたくさんの写真がきちんと整理されていて、なかには乗馬姿もあった。「しょっちゅう馬に乗っていたおかげで痔になってしまった」などと言っていたが、当時としても小柄だった父がなんだか大きく見え、折につけそんな写真を見せてもらうことを密かに楽しみにしていた。僕は幼く、プラモデルで零戦を作ったり、戦争ごっこに興じていた昭和30年頃の話である。
父はたしか少尉だったかで、実戦に参加したこともなく、どうやら彼の戦争はそれほど辛いものではなかったのだろう。そういえば、アルバムを見ながら聞いた話にも悲惨さはなく、どちらかと言えば懐かしむ様子すらうかがえた。もちろん愉快な話ばかりではなく、時には子供ながらもドキッとするようなこともあった。それは例えば、中国人のことを当時は「チャンコロ」などと蔑称で呼ぶ人がいたこともそうだったのだが、極めつけは日本兵による斬首というショッキングなことを聞かされたことだった。いくら東映のチャンバラ映画が好きでも、それとこれとは話が別である。しかも父は日本刀が好きで(もちろんライセンスをもらって)、正月などには庭で竹にわらを巻いたものを居合い抜きのように試し切りしたりするような人である。幼い僕は、てっきり父もそんなことをやったんだと思い込んでしまったようだ。
そんな疑惑が晴れたのは、ずっと後になってからだ。どちらかといえば気難しかった父も老年となり、僕のファーザー・コンプレックスも薄らいだ頃、何かの話のきっかけもあってその事を尋ねてみたことがある。すると彼は、目撃はしたが自分はやっていないこと。また、そのような行為は肝試しにやらされるか、みずから昇進をねらってやるものであり、自分にはその気はまったくなかったことを語ってくれた。
中国ツアー最後の夜、僕は小雨降る南京東路の雑踏を歩き、気まぐれに一軒の土産物屋へ入った。しかし欲しいと思うものもなく、出口へ向かおうとしていた。すると、親子三人連れが狭い通路を塞ぐようにして品物に熱中して、特に小学生くらいの、明らかに肥満した男の子の体が両親から締め出された感じでほぼ通路を遮断している。この国の作法に従ったわけでもないが、僕はつい黙ってその子の脇を割って前へ進もうとした。その瞬間、その子は後ろを振り向きざま僕を見上げた。そして口から溢れ出るお菓子をくわえたまま、きかん気に燃えたぎった目をして力まかせに押し返してきた。僕は大人気ないことは百も承知だったが、かなり本気で押し戻した。まるで朝青龍と老いた魁皇との一番だ。しかし、おそらく「一人っ子政策」の落とし子である朝青龍は、決して側にいる両親に助けを求めることをしなかったのである。そんなふうにして中国への初めての旅は終わった。「近くて遠い隣人」であることだけは思い知ったのだが、もちろん、そこから何らかの結論を引き出すことは、とてもできそうにない。ただ直感の上なのだが、この国がなんだかアメリカに似ているような気がしたことは確かである。2つの大国はいつかきっと「がっぷり四つ」になって勝負をするに違いない。

Thursday, February 2, 2012

「魯迅は日本で言えば夏目漱石です」

Img 0266 タクシーを利用して15分で福岡国際空港、そこから上海までのフライトは1時間40分。たった2時間足らずで行ける外国なのに、中国へ行くことを先延ばししてきたのは、行きたい国としてのプライオリティが低かったからだ。なにしろ「脱亜入欧」丸出しで、ヨーロッパやアメリカへ行くことばかりを考えていた。しかし、そろそろかな、という感じで行ったわけです。
 買ったものは少ない。紹興酒と茶、それに蘇州で見つけた小さな陶器を二個だけ。欲望の対象となるモノがほとんど見あたらなかった。ゴダール映画の影響なのか、密かに「毛沢東語録」を狙っていたのだが、中国人ガイドのKさんから「そんなもの今ダレも読まないヨ。骨董屋にでも行けばあるかも」と言われた。時間があれば、案外面白いモノがあったかもしれない。そういえば2,3年前だったか、U君が杭州へ古い中国建築を調査研究のため訪れたことがあった。そこで、かの魯迅も被っていたという、その地方独特の帽子をおみやげにプレゼントしてくれたことがあった。もともと農民が”雨にも負けず、風にも負けない”為に使った、恐ろしく分厚いフェルトで出来た三角錐をした帽子は、見ようによっては高等ルンペンみたいで面白い(なので、U君が杭州を再訪する際に10個ほど買ってきてもらい、店で販売したことがあった)。そんなこともあって、魯迅博物館へ行った。
 博物館の人から「魯迅は日本で言えば夏目漱石です」と教えられた。そーか、二人は文語体ではなく初めて口語体で小説を書き、二つの国の精神的近代化に寄与した作家なのだ! そのうえ、ほぼ同時期に魯迅は日本へ、漱石はイギリスへと留学している。ただし、ひとあし先に近代化の歩みを始めた日本で知己を得た魯迅と逆に、漱石は西洋文化へ失望し、神経衰弱となり帰国、のちにアジア回帰ともとれる境地に至ることになる(というか、西洋と東洋、もしくは日本との価値観のハザマで自問自答を続けたのだと思う)。もともと中国思想に傾倒していた漱石の中国観は、老荘思想や禅、漢詩などから掴みとった彼独自の悩めるイデアだったんじゃないか。いわゆる「和魂洋才」とは違うような気がする。まあ『阿Q正伝』すらちゃんと読んでない僕にはよくわからないのだが。
 ところで 蘇州へ向かうバスの中で、前述した同行の老人が突然Kさんに言った。「中国にはカラスが見あたらないけど、全部食ってしまったんだろ」。これにはさすがのKさんも閉口して、一瞬車内に気まずい空気が流れると思いきや、案外ケロッとしていた。彼は生粋の上海人、都会ッ子である。様々な地方から来た人々で今や人口2400万人にふくれあがった経済都市に生きている。まるで戦前の日本人のような発言にいまさら驚くだろうか。中国は多様性と他者性にあふれた一大集合体なのだ。誰かさんのようにウェットではない。