父はたしか少尉だったかで、実戦に参加したこともなく、どうやら彼の戦争はそれほど辛いものではなかったのだろう。そういえば、アルバムを見ながら聞いた話にも悲惨さはなく、どちらかと言えば懐かしむ様子すらうかがえた。もちろん愉快な話ばかりではなく、時には子供ながらもドキッとするようなこともあった。それは例えば、中国人のことを当時は「チャンコロ」などと蔑称で呼ぶ人がいたこともそうだったのだが、極めつけは日本兵による斬首というショッキングなことを聞かされたことだった。いくら東映のチャンバラ映画が好きでも、それとこれとは話が別である。しかも父は日本刀が好きで(もちろんライセンスをもらって)、正月などには庭で竹にわらを巻いたものを居合い抜きのように試し切りしたりするような人である。幼い僕は、てっきり父もそんなことをやったんだと思い込んでしまったようだ。
そんな疑惑が晴れたのは、ずっと後になってからだ。どちらかといえば気難しかった父も老年となり、僕のファーザー・コンプレックスも薄らいだ頃、何かの話のきっかけもあってその事を尋ねてみたことがある。すると彼は、目撃はしたが自分はやっていないこと。また、そのような行為は肝試しにやらされるか、みずから昇進をねらってやるものであり、自分にはその気はまったくなかったことを語ってくれた。
中国ツアー最後の夜、僕は小雨降る南京東路の雑踏を歩き、気まぐれに一軒の土産物屋へ入った。しかし欲しいと思うものもなく、出口へ向かおうとしていた。すると、親子三人連れが狭い通路を塞ぐようにして品物に熱中して、特に小学生くらいの、明らかに肥満した男の子の体が両親から締め出された感じでほぼ通路を遮断している。この国の作法に従ったわけでもないが、僕はつい黙ってその子の脇を割って前へ進もうとした。その瞬間、その子は後ろを振り向きざま僕を見上げた。そして口から溢れ出るお菓子をくわえたまま、きかん気に燃えたぎった目をして力まかせに押し返してきた。僕は大人気ないことは百も承知だったが、かなり本気で押し戻した。まるで朝青龍と老いた魁皇との一番だ。しかし、おそらく「一人っ子政策」の落とし子である朝青龍は、決して側にいる両親に助けを求めることをしなかったのである。そんなふうにして中国への初めての旅は終わった。「近くて遠い隣人」であることだけは思い知ったのだが、もちろん、そこから何らかの結論を引き出すことは、とてもできそうにない。ただ直感の上なのだが、この国がなんだかアメリカに似ているような気がしたことは確かである。2つの大国はいつかきっと「がっぷり四つ」になって勝負をするに違いない。