Thursday, December 26, 2019

寿限無寿限無五劫の擦り切れ

東京とは、意外にもローカルなんだと知ったのは学生時代、間借りしていた地下鉄丸ノ内線の新高円寺から国電の高円寺にあった<ムーヴィン>までふらふら歩くときのことだった。果てなく続く商店街は、焼き鳥屋、電気屋、古道具屋、薬屋、パチンコ屋、洋品店などなど、生活臭く垢抜けなかった。
ところが、いったん街へ繰り出しても事態はそう変わらなかった。たとえば自分のコースである原宿で降り<メロディハウス>で輸入盤をチェックする竹下通りも、当時はまだ普通の商店街にすぎなかった。たまに表参道側を明治通へとだらだら坂を下ってゆくと、<オリンピア>の前で青い目の子供がスケボーをしていたが、その高級アパートの住人の子供だった。ぼくの友人は東京でまだそこにしかないという地下のコインランドリーで一週間分の洗濯をするというプチ・ブルだったからたまに付き合ったのだ。なんだかアメリカの租界地みたいだった。<セントラルアパート>には大いに興味を抱いていたけど用事はなかったし、<同潤会アパート>はとても古びていた。原宿は垢抜けてはいたが、人もまばらでローカルな場所だった気がする。
原宿から渋谷へは、ポケットが寂しかったから、今で言う裏原宿をだいたい歩いた。途中に名前は忘れたけれど、ちょっとフランスっぽいけど、よく見ると日本製だったりする日用雑貨屋があってかならず立ち寄った。そうして宮下公園のガードを抜け左に曲がって西武百貨店地下の<Be-in>へ向かった。
そこは、言ってみればイギリスの出島だった。ポール・マッカートニーが映画『レットイットビー』で着ていたと思しきヘンリーネックの古着シャツを、なけなしをはたいて購入した。消防士が着るヒドく重いメルトンのコートも悩んだあげくの数週間後、工面して羽織った(でもヘヴィーすぎて結局着なかった)。”フール・オン・ザ・ヒル”だ。同じフロアにあった高橋幸宏のブティック<BRICKS>はとてもスノッブだった。隣には<COZO>という名のだぶだぶズボンを締めあげた飛び切りヒップなインディ・ブランドもあった。ある日など、加藤和彦がミカと連れ立って、ジョンとヨーコみたいにそぞろ歩いていて、そこだけは"突然ワンダーランド"だった。
西武百貨店を出て道玄坂方面へ向かうと、人通りは多いがまぎれもなく商店街っぽく、靴屋とか布地屋などもあり戦後の闇市的な痕跡があった。坂を登り<YAMAHA>へ入り、輸入盤を物色。しかし買わずチェックだけ。通りの向こうには遠藤賢司のカレー屋<ワルツ>があるけど入らない。その手前を右に曲がり、迷わず百軒店の路地のロック喫茶<Black Hawk>へ詣でるのだから。
ドアを開けるとすぐの場所に、松平さんがいつものように静かに座っている。ここはいわば音楽の寺子屋だったから、ひたすらカナダのSS&W達のレコードに耳を傾けるしかない。油断して友人とおしゃべりにかまけていると、女性スタッフが近づいてきて「お静かにお願いします」というボードを差し出されてしまう。退屈・渇望・焦燥が奇妙に同居していた。

現在、昔の渋谷村だった所が恐ろしい勢いの再開発真っ最中らしいことは、編集者の岡本さんからも聞いていた。彼はぼくより5歳年下だが、70年代のカウンターカルチャーに触発されたことでは同じだろう。沸き立つ政治の時代にシラケながら、東京の街なかを徘徊していたにちがいない。そこは適度に雑多で、他の場所とは違う”独自の癖”をもつ場所だったはずだ。セレクトショップが押し込まれたビル群は、「進化」でもない。それは繰り返される「変化」にすぎない。寿限無寿限無五劫の擦り切れは続く。

Sunday, November 24, 2019

冷奴がコロッケに変わっただけ

東京に行くことになってホテルを探すうちに、できれば知らない界隈に泊まってみたくなり、それも「江戸」っぽいところとを検索し、築地に決めた。朝飯を築地市場で食べるのもいいだろうと思ったし、訪れる予定の門前仲町も近いからだ。
前夜のアフター・パーティーで飲み疲れた体に活を入れ、朝7時頃ホテルを出て大通りを歩いていると突然不思議な建物が現れた。築地本願寺らしい。想像していたのとは程遠く、モスクとギリシャ神殿が合体したかのように面妖な建造物だ。むかしは違っていただろうに、惜しいことをしたものだ。でも、諸宗教の人々に門戸を開いたと仮定すれば、悪いことでもない。記念に一枚撮ってみたら、逆光で真っ黒なシルエットだけが写っていた。
少し歩くと、交差点の向こうが築地市場であることが見て取れた。外人らしき人たちがワンサカいたからすぐわかったのだ。人気スポットなので、予想しなかったわけでもないけど、早くも戦意喪失しそうになる。But、朝飯は必要だから突進した。
まずは計画通り「玉子焼き」から。しかし、事前調査で候補だった店の名前が思い出せない。そのうえ、世界各国の腹ペコ達の勢いが凄すぎる。ままよと、一軒に当たりをつけて焼きたてを口に放り込んだ。とりあえず旨い。だが、その後が続かない。いくら日本人の端くれとはいえ、朝の起き抜けからトロやウニの握りや海鮮丼は、さすがに触指が動かない。敗残兵のような気分でホテルへ戻る道すがら、元祖木村屋築地店を発見し、アンパンを手に入れ朝飯とした。
門前仲町にあるwatariは、店主の息遣いを感じることができる小さな店だ。品数は多くはないのだが、かならず手にとってみたくなるものがある。久しぶりにおじゃますると、イラン製の敷物が色とりどりに入荷していた。どれにしようかと迷ったが、うちの食卓で使っているアルヴァー・アアルトの木製イスにちょうどよいサイズで、色も好みの朱赤というのか臙脂を見つけ、いただくことにした。
そのあと、watariから歩いて10分とかからない所にある古石場文化センターという公共施設に向かった。そこには小津安二郎の展示コーナーがあるらしく、ぜひ覗いてみたかったからだ。なにしろ小津はすぐ近くの深川の生まれである。ファンの端くれとして見逃せない。
さすがに小さなスペースだったが、愛用の美しい着物や、達者な絵、大学受験に失敗した旨を父に報告する葉書、それに「へその緒」まであり、つい見入ってしまう。肝心のへその緒は小さな箱に入っていて見ることはかなわなかったが、小津の生い立ちや映画を紹介した15分ほどのヴィデオは3回観直してしまった。なぜなら、その最後に小津の短いコメントを聞くことができたからだ。初めて聞く彼の肉声は、勝手に想像していた洗練とはちがい、落語家のような独特の発声とイントネーションは下町風というのか、結構聞き取りづらい。うろ覚えだが、それはこんなふうだった。
「ぼくは深川で生まれて、ウチの近所に(映画の)モデルになるような人間を知ってまして、昔はフンドシひとつで、冷奴で酒飲んでいたけど、今じゃそのへんでコロッケ買っておまんま食べてるわけで...」。
聞きながら、ふいに夏目漱石の『硝子戸の中』という、漱石にしては珍しく自身の心情を吐露したエッセイ集の言葉を思い出した。
「進歩もしない代わりに、退歩もしていなかった。」
明治大正期の著名な講釈師、宝井馬琴の声を久しぶりに聞いた漱石の印象なのだが、期せずしてふたりの江戸人の「ためいき」が聞こえた気がした。「進歩」とは美辞麗句でしかない。良くも悪くも、功罪相半ばの「変化」くらいがせいぜいだろう。”騙されちゃいけないよ”というところか。
もうすぐ師走。歳をとるのに理屈はいらないけれど、自分自身の改築だけは迫られている気がする。それがトタン屋根に落ちてくるそぼ降る雨の音に、耳をそばだてるだけだとしても。


Wednesday, November 13, 2019

変にチャーミングな綱渡り

よほどじゃない限り、東京に足が向かないのだけれど、<OK>が代官山に出店するというので、お祝いのために馳せ参じた。L.A.にある店のラインアップと、なによりオーナーであるラリー・シェーファーが好きだったからだ。
はじめてL.A.の店を訪れたのはもう15年ほど前になる。まるでネイティブ・アメリカンのように三つ編みしたロングヘアを2本後ろに垂らし、薄茶色でボストン型のセルロイド眼鏡をかけた彼の様子が変でチャーミングだった。早口の英語はボクのプアなヒアリングでは聞き取りにくかったけれど、陽気でフランク、そして案外気を遣い屋なことは確かに思えた。モダニズムとクラフトが混在する店のコレクションが新鮮で、それに関連した本の豊富さに彼のデザインへの熱量を感じた。若いスタッフがフレンドリーで、つまり敷居が高くなくカリフォルニアンなのも気持ちよかった。
その何年か後、シルバーレイクにあるラリーの自宅へおじゃますることになった。オーストリア出身でユダヤ系アメリカ人の建築家ルドルフ・シンドラーが1930年代に設計した住宅のひとつらしいのだが、ぼくは「シンドラーってあの映画の主人公?」ってな感じだった。
シンドラーは米国に渡りフランク・ロイド・ライトのもとで才能を発揮、独自の建築スタイルでL.A.周辺に革新的で実験的な住まいの提案をしたひとなのだ。それは、イームズがケーススタディ・ハウスでデビューする20年以上前、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の時代。それも、ローコストな住宅が得意だったというからとても先駆的なひとだった。
傾斜地を利用した4世帯ほどの建物はビルではないのに全体が繋がっていて、階段を登りながら、どこが誰の玄関なのか迷ってしまう。ラリーの家は、そんなシンドラーの集合住宅の一番上段だった。入ってみると、その一印象は質素で、かつモダンだった。そう、コンクリートと木が合体した、ある種の和洋折衷だったけど、土足だった。
実は、ここに来る前にラリーにインタヴューをしていた。その当時友人たちと作っていたYodelという冊子の為だった。その中で彼が言った言葉はこんなふうだった。
「アメリカは他者同士が移り住んで出来た国だ。だから均質だとされている日本とは違う。銃を持つことに賛成なひともいるし、反対する人もいて、いつもコンフリクトがある。でも、L.A.には自由がある」。
たしかに、ヨーロッパからアメリカに渡ってきても、東部は結構保守的だったろう。それに比べ西海岸は開放的で、自由な発想が可能だったはず。そういえば、映画産業が発展したのは、天候のおかげもあるけど、自由な発想が実験できたおかげかも。それも、亡命ユダヤ人達が映画作りに邁進したことが大きかったはずだ。
自由ってなんだろう。現実を前にしても、突飛と言われようが、理想や理念を失わないことかもしれない。それは、変にチャーミングな綱渡りにちがいなく、ユダヤの人々の振る舞いに似ている。もちろん、人種のことではなく「スタイル」のことだけど。
そうそう、春に福岡へやって来たラリーに、東京の店の名前は決まったの?と尋ねたら即答した。
「I'M OKさ」と。
もちろん、ジョークなんかじゃなかった。

Friday, August 16, 2019

いつか行ってみたい場所

"いつか行ってみたい場所”がだんだん少なくなってきた。でも、アイスランドだけは別だった。誰かがアイスランドを「裸の地球だ」と言っていたから、これは見てみたいと思った。ヘルシンキからアイスランドエアに乗り換えて3時間半で行ける。ヘルシンキで買付けをすることをセットにすれば言い訳も立つ(って誰に)。
早速ガイドブックで下調べ。国土は北海道と四国を合わせたくらいで、人口は30万人ほど(少な!)。物価はハンバーガーで1500円(高し!)。温泉と氷河がたくさんで、地熱発電など実験的な試みも多く、音楽もユニークだ。ユーラシア大陸と北アメリカ大陸がこの島でぶつかっていて、そこで初めて「議会」が開かれたらしい(マジか!)。
見所たくさんのガイドブックは、早々に読み飽きてしまった。オーロラ、ホエールウォッチング、海鳥観察、ブルーラグーン、その他数知れないエクスカーションにはあまり興味が無い。そんなとき、朋子が図書館で面白い本を借りてきた。その名もずばり「アイスランドへの旅 」。作者はウイリアム・モリス。アーツ&クラフツ運動のあのひとだ。1871年、ロンドンからスコットランドの港を経て友人3人と海路アイスランドへ渡り、アイスランド原産の小型の馬にまたがって訪ねた、3週間の旅日記である。
モリスは「saga(サガ)」というケルトからゲルマンやヴァイキングに伝わる神話を元にした叙事詩や物語に熱中するあまり、実際にその地を訪れることになったようだ。文中にも「ここで誰々が誰々に殺されたとサガにあった」として、モリスが感慨にふけるシーンが何度も出てくるが、もちろんぼくにはさっぱりわからない。古くから、いろいろな民族が移住した島だけに、さまざまな闘いがあったにちがいない。面白かったのは、モリスが宿泊先の教会や農家で「ひょっとして銀製のカトラリーで譲ってもらえるものがありませんか」と乞うことだ。さすが目利きの道は果てしないのだ。
アイスランドの南部をレンタカーで巡る旅が始まった。首都レイキャビクを過ぎてしまうと、家らしきものはほとんどなく、遠近感が狂ったかのように雄大な土地が延々と広がる。まるで、モリスの本のスケッチにあるような荒涼とした風景の連続。おまけに曇りから雨、そして晴れ間へ刻々と空模様が変化する。ラジオのスイッチをひねると、レゲエが流れている。いったいここはどこなんだ。天国ではないことだけは確かだ。やがて僕らはシンクヴェトリルと呼ばれる聖なるスポットへ足を踏み入れた。前述した地球の割れ目で議会が開かれた場所だ。
車を降りると、やたらと何かが顔に触れまくる。虫だ。払いのけようとする手に、何匹もが当たる。蚊?いや、小さなハエのようだ。観光客の中には、用意周到に顔にネットをかぶった人もいるが、ぼくらは虫を無視して岩と岩の間の道をダラダラ歩く。ユーラシアプレートと北アメリカプレートがぶつかり、今も一年に2、3センチ広がっているスポットにしては平和だ。ここらへんの何処かでケルト人、ゲルマン人、ヴァイキング達の子孫が集まり、諍いを解決しようと“アルシンク”と呼ばれる世界最古の民主議会を誕生させたらしいが、どこがそこなのかはわからない。ただ、なんとなくありがたい気分がする。
はじめてアイスランドに興味をもったのは、1986年レーガンとゴルバチョフがレイキャビクで軍縮交渉の首脳会談を行ったテレビのニュース画面だった。ふたりの指導者が、およそ会談場所に似つかわしくない白い2階建てのラブリーな建物の前で握手するシーンだった(会談は物別れになったけど、その後ソ連は崩壊し、冷戦は終わった)。アイスランドはおもしろい国かもしれない、と思った。なにか地場みたいなものを感じた。
それから6日間、滝を見て、黒い海岸で荒波にさらわれそうになり、一面モコモコした苔地帯を横断して、シークレットな温泉に海水パンツをはいて浸ったりもした。ラム肉はとても新鮮で、旨い手長エビのスープを出すレストランでかかっていたBGMはオラフル・アルナルズだった。そこはHofn(ヘプン)という南東部では一番大きな町。といっても人口は1800人くらい。ヨーロッパで最大の氷河ヴァトナヨークトルの端っこに当たる漁港で、ホテルの窓からは、ふたつの氷河がぼくを待っていた。ぜったいにここへ来るべきだといわんばかりに。
問題は、目的とした氷河がアクセスがあまり良くないローカルなビューポイントであること。アイスランドは島をぐるっと回る国道1号線以外はオフロードが多く、法令で4WD以外の車は走れない。ところが僕らのレンタカーは小さなものだった。1号線を外れると言っても、それほどの距離ではないし大丈夫だろうと高をくくってみたが、運転は朋子であり、彼女はまちがいなく拒否するに決まっている。ためしに、ホテルのフロントのお兄さんに大丈夫だろうかと尋ねてみると「コンパクトカーなら絶対にやめたほうがいい」とにべもない返事。しかし、愛想の良くない男の言葉を真に受けるつもりはなく、ヘプンの街にあるインフォメーションの明るい女子に聞いてみた。すると「ゆっくり行けばOK、わたしもたまに行ってるし」と、満額回答。決行が決まった。
それにしても、朋子の不安は消えていない。国道1号を外れ、いっとき走ると、走る車どころかなにもなくなった。あたりは大小の石が作った大地と、ぼんやり続く道らしきもの。氷河がすこしづつ迫ってくるにつれて、車の底面に当たる石ころのゴツンゴツンという音が脳天に痛い。まるで乾いた河原を走るかのようにハンドルを取られてしまう。無言の彼女の気を紛らせようと、iphoneの動画のスイッチを押し「迫り来る氷河を前に、オフロードならお任せのドライバーを紹介します」と、言わずもがなの冗談を飛ばした途端、こちらを向き、中指をおっ立てながら「まったくシャレにならない、なにか起きても知らんけん」と一喝されてしまった。
ところが、結果、静かに流れくる雄大な氷河を目の当たりにして、ふたりとも息を呑んだ。誰もいない。いや、よく見ると水際に米粒のような先客が3、4人いる。それすら、冷静にならないと見えてこないほどの圧倒。ぼくは思わず土俵入りをし、朋子は拾った氷河の氷のカケラをガリっと噛んだ。まったく冗談みたいに裸の景色だった。冷たい風が吹き、日差しは強烈だったが、あたりは恐ろしいほど無音。万年氷から滲み出した水たまりが触手のようにこちらへ伸びていた。
ぼくらが訪れた氷河はHoffellsjökull、つまり「ヘプンの氷河」。アイスランドにある400あまりの氷河の一つ、決して有名でもなく、巨大でもない。しかし、御多分にもれず、アイスランドの氷河も年々溶けて消え去っている。「オラが街の氷河」もけっして例外ではない。

Friday, August 2, 2019

ルート・ブリュックのテキスタイル

ヘルシンキ郊外にある現代美術館EMMAで、幸運にも"Bryk & Wirkkala: Visible Storage"と題された展示を観ることができました。
3年ほど前だったか、ルート・ブリュックの大規模な展覧会で、その独特な世界に魅了された身として、今回タピオ・ヴィルカラと初の夫婦揃っての展示企画とあっては興奮しないわけがありません。おまけに、その展示方法がちょっと意表をついたものだったからなおさらです。
それは、まるで美術館の奥にある収蔵庫に潜入したかのような展示方法とでも言えばいいのでしょうか。棚や仕切り壁には、おなじみの作品に混じってプロトタイプや未発表作品がギッシリ、無造作に並べられているという趣向。そればかりか、スチール製の引き出しに保管されたスケッチや製作過程のメモなども自由に見れるのにはビックリ。広い空間にひとつひとつ間隔をあけて照明を当てた美術館演出を拒否した、タイトルどおりのVisible Storageで、二人の巨匠の生々しい製作スタイルがかいま見えるというわけです。さすが、フィンランド、あまのじゃく。
うれしい発見だったのがブリュックが手がけたマルチカラーのテキスタイル。それらは1968年に夫婦で初めてインドのアーメダバードを旅行をした際に受けた色彩の豊かさにインスパイアされたもの。余談ですが、ふたりがインドに興味をもったのは、他でもないイームズとジラルドが1954年にインドに赴き収集したファブリックなどで構成した展覧会を、ニューヨークのMOMAで目にしたことが契機となったらしい。ワオ!意外なところで繋がる「フォークアートの環」なのです。付け加えると、ふたりはコルビュジェの建築群も目にしています。タピオ・ヴィルカラはたくさんの写真を撮影、イタリアのDOMUSにも掲載されたとのこと。
余談ついでにもうひとつ。1968年といえば、ビートルズが初めてインドを訪れた年。意外かもしれませんが、ルート・ブリュックとタピオ・ヴィルカラはビートルズのレコードを愛聴していたのです。ふたりは当時共に50代なかば。いいですねえ。なんとそれもBraunの最新ステレオ・システムで。しかもそれはデザイナー自身から贈られたものとのこと。ということは、ディーター・ラムスとも親交があったってこと?またもやワオ!なのですが、肝心なことは一見ストイックなクリエイター然としたふたりだと勝手に決めつけていたら、あにはからんや、当時のアメリカやイギリスのヒップなカルチャーに充分コンシャスだったということ。世界は一色ではなく、マルチカラーだったこと。特にインドはサフラン色。ルート・ブリュックの後半生への転換点としてピッタリの場所だったのでしょう。