Wednesday, November 28, 2012

オフ・ビートな街、ヘルシンキ(2)。

探していた店は、ネオンのおかげですぐに見つけることができた。その名もSea Horse 。店に入ってみると、奥の壁一面に描かれた大きなタツノオトシゴが、フィンランドらしいレトロ&キッチュなデザインで迎えてくれた。だが待てよ、その「フィンランドらしい」というのが、わかっているようでよくわからない。10年ほど前だったか初めてヘルシンキを訪れた時、広い道路や、重厚な建物、歩く人々のちょい暗めな表情が、他の北欧の都市とは決定的に違っていた。僕は多分、共産主義の残り香みたいなものに勝手に敏感になっていたのかもしれない。今のフィンランドは資本主義の国だが、古くからスウェーデン、ロシアとの関係に身を砕いてきた国でもある。独立したのは1917年ロシア革命のさなかで、第二次大戦後はソビエト連邦の強い影響下にありながら、自由主義圏に留まるために微妙な舵取りをやってきたようだ。だから一見「オフ・ビート」なこの街は、実はいくつもの政治的な季節を知っている。それはカウリスマキの映画を観ていても感じる、ある種のヤルセなさに通じる。ところで僕は、共産主義は支持しないが、社会主義だったらかなりの度合いで肩入れしてもいいと思っているフシがあり、フィンランドという国にとても興味がある。そういえば、アルヴァー・アールトの椅子って、今思えばかなりソレっぽいと思う。特に代表作である三本足のスツールは、使う人を選ばない、とても社会的&アノニマスなツールなんだと、今更ながら恐れ入ってしまう。パイミオというサナトリウムの為のデザインでデビューしたのは1932年。”パブリックこそ美しく”を自身のモティベーションに取り込んだアールトのセンスはやはりスゴイ。センスといえば、Sea Horseの料理のセンス、つまり味はとても良かった。基本ベーシックな魚料理は、ナショナルではなく、地味にコスモポリタン。不気味な風が吹くこの季節には、ここのサーモンのクリームスープはかなりオススメです。

Wednesday, November 21, 2012

オフ・ビートな街、ヘルシンキ。

ほぼ5年ぶりに訪れたヘルシンキ。空港からタクシーで市内に入ったのは午後4時過ぎ。11月初旬なのに早くも日が暮れなずみ、街は冷たい雨に煙っている。長い飛行の旅から開放されたと思ったら地上は生憎の天気である。ところが、気分は案外悪くない。タクシーの窓越しに滲んで見えるけばけばしいビルのネオンサインが懐かしい。「大きな期待は無用。ここはオフ・ビートな街なんだから...」と内なる声が聞こえてくる。中心部を抜けて、タクシーは予約していたホテルへ向かう。アンティック・ショップやオークション・ハウスもすぐ近くという、ぼくの商売にピッタリの場所である。チェックインを済ませ、スーツケースや梱包資材を入れた大きな段ボール箱を部屋に放り出し、さっそく街へ繰り出した。そういえば、日本のプロダクトを販売しているcommonという店が近くにあるはず。LAにtortoiseという店があるけど、ここも日本の今の作家たちの作品を積極的に紹介する店と聞いている。6時の閉店まであとわずか、と思ったらワンブロック先に発見しアッという間に入店。聞くと、店主の中村さんは長崎の出身ということで勝手に親近感をいだいてしまい、滞在中に御飯を食べる約束をしつつ、今夜オススメのレストランを教えてもらうことになる。実は前もってチェックしてきた店は最近味が落ちたらしく、オススメできないとのこと。それじゃあと、魚くんを食べたい旨を伝えると、「外見はピンクのネオンが怪しいんですが、MONOCLE の編集長タイラー・ブリュレお墨付きのオニオンステーキもある典型的なフィンランド料理の店はどうですか。アキ・カウリスマキの映画に出てきそうな店ですが...」。ウーン、福岡を『世界で最も住みやすい25の都市』で12位にランク・インさせた人のレコメンもいいけど、なによりカウリスマキっぽい店というのが気になる。それに、名物であるニシンのソテーも美味しいと聞いて、モチロン急ぎ伺うことにした。

Thursday, November 1, 2012

里帰りしたヒッピー。

先日のトークショーで、プチグラの伊藤高さんが見せてくれた映像は、ムーミン生みの親トーベ・ヤンソンの暮らしを記録した8ミリだった。当時ヒットしていたS.マッケンジーの『花のサンフランシスコ』に合わせて、ひとりダンスをするトーベは、スウェーデン人らしいシルバーブロンドのボブカットがお似合いで、明らかに年齢不詳。まるで彼女自身が”トロール(妖精)”のような存在。彼女のパンクめかした独特の動きが、僕にはまるで「里帰りしたヒッピー」みたいに見える。
 日本を始め世界中が受け入れた「ムーミン」の物語は、ヘルシンキ湾に浮かぶ、周囲歩いて8分というこの極小の島に建てたサマーハウスで、ひとり静かに書かれたものだとされていた。しかし、このフィルムにはもう一人別の女性が顔を出している。アーティストである同性の恋人とふたりで創作に打ち込みながら平和な夏を過ごすというのが、トーベの現実のスタイルだったようだ。思えば20世紀半ばに「北欧」がアメリカで話題になったのは家具、インテリアだけではなかった。たとえば「フリーセックス」。今となっては、それが男女差別反対の意思表示であったことに思い当たるが、当時の「常識」からは好奇の目で見られても仕方がなかった。トーベ本人は特に隠す様子はなかったらしいのだが、著作が「子供向け」であるということもあっての「メディア自主規制」だったのだろう。そんな難しいことを考えていたら、脇からノミさんの「やっぱり彼女の古い絵はサイケデリックですよね」という言葉が聞こえてきて、確かにソーダと思った。

Wednesday, October 24, 2012

『ライク・サムワン・イン・ラブ』

もう随分前だけれど、アッバス・キアロスタミの映画に救われた経験がある。それは「ジグザグ3部作」と呼ばれている1980年代から90年代にかけての代表作の中の一本『そして人生は続く』だ。当時、いろんなことが一挙に悪い方へ向かってしまい、かなりマイッテイタ時期だったこともあり、僕は、この映画に強く反応した。それ以来、キアロスタミの映画はほとんど観ているが、やはりこれにかなうものはなかった。ところが最近『ライク・サムワン・イン・ラブ』を観た。前作『トスカーナの贋作』で初めてイラン以外を舞台にした彼の次回作が、日本で撮られると聞いたのは去年。とても興奮してしまい、その主役(元大学教授の老人)のオーディションを受けてみようかと血迷いかけたほどだ(僕は一度だけだが民放のラジオドラマ、それも二人芝居のひとりとして出演したことがある)。でも、結局そんな勇気はなかったし、映画を観ながらそれがいかに無謀なことだったかを思い知った。それほどこの映画のインパクトは大きかった。ところは東京(のような所)。若いころのコン・リーに似た女性は、どうやら娼婦(といってもアルバイト)らしく、一人住まいの元大学教授のマンションへしぶしぶ出かけてゆく。ところが元教授は彼女のためにスープを作ったといい、話をしよう、と持ちかけ、二人の妙な関係が始まってしまう。で、真ん中はすべて端折ってしまうと、最後(といってもたった二日間の出来事なのだが)にはストーカーまがいの彼女の恋人(加瀬亮が好演)のバーストでいきなりのジ・エンド。『友達のうちはどこ』など、イラン時代の禁欲的作風から自由になったとはいえ、この変わり様には驚いた。それは「老いてますます盛ん」などという境地とは違う。答えのない世界をめぐって、めくるめく続いてゆくこの過激な映画は、明らかに観るものに投げられている。答えが得られなくても、最後まで付き合わなければならないのは人生も同じ。救いなど、映画にあるはずもないことを知るべきなのか。

Monday, October 8, 2012

刻々と変わるのは、天気だけじゃない。

「鳥取では晴れていても傘は手放せないんですよ」とOさん。確かにさっきまでサンサンと日が照っていたと思ったら、いつの間にか小雨が降りだした。俗に言う狐の嫁入り状態で、見上げると雲の動きが速い。日本海気候のために夏暑く、冬は時に豪雪に見舞われるらしい。なかなかハードな土地柄なのである。そんな話をするOさんは天草出身で、「何の因果か、ここに住み着いた」と語る県の観光課の人。ただし元々は作家さんであり、竹を使った作品がアメリカのギャラリーに展示されていたりする。したがって鳥取県に点在する様々な民具を始めとする「物や事」に対する関心が高い。つまり、彼と一緒に行動することで僕らの鳥取旅行が成り立っているといっていい。今回も、organで去年開催して好評だった鳥取物産展の続編をやることになり、お手伝いをしていただいた。
初めての「浦富焼(うらどめやき)」は「集(つれ)」という名前の民芸店で見ることができた。明治時代に姿を消した窯を1971年に再興した山下碩夫さんによる白磁や掻き落としの作品がモダンだ。前回も訪ねた「牧谷窯(まきたにがま)」は最近作陶が追いつかない状態とのこと。綺麗なストライプや市松模様は違う色の土を"練り上げ"て焼いたもの。手間がかかるのである。それでも1月までにはなんとかしてくれそうなのでホッとする。「きわい窯」ではヨーロッパの家を模した小さな陶器をセレクト[写真]。「国造焼(こくぞうやき)」のポッテリしたボウルにも捨てがたい魅力を覚えた。前回は民芸の影響が濃い窯元さんの作品が主だったけど、どうやら今回はその次世代のものに惹かれたようである。内外を問わず、いろいろな「物や事」に興味を持ちながら自分のスタイルを模索することは、とても大切なことなのだ。刻々と変わるのは、天気だけじゃない。

Sunday, September 23, 2012

それに比べれば4ヶ月なんて...。

スイス人のハンス・コレイが”Landi"という椅子を発表したのは1939年チューリッヒの博覧会。一見何処にでもありそうなアルミ椅子だけど、戸外用としてこれ以上に美しいものはない。僕は一脚だけ、コレクターの方から譲ってもらったが、いざ探すとなると案外苦労する。ところが今回パリで、しかもよく行くAnatomicaというセレクトショップの店先で突然遭遇した。店主ピエールさんが椅子好きであることは、店内に靴の試着用として置いてある柳宗理の黒いエレファント・スツール(もちオリジナル)で先刻承知だった。それにしても、このアノニマスな椅子を店先にドーンと置く心意気がイイ。そういえば80年代、初めてパリを訪れ、ビルケンシュトックでほぼ埋め尽くされた、オープンしたての彼の店をのぞいたことがある。まだ「ビルケン」が日本で市民権を得ていない頃だった。靴といえば去年だったか、ピエールさんは久留米の「ムーンスター」に足を運び、自分が納得できるスニーカー作りをしていたっけ。自分のお気に入りに出会うためには、広い地球もひとっ飛びというわけだ。ところで僕も最近ドイツでLandiを、それも4脚発見した。ところが予定していたコンテナに間に合わず、次のコンテナは多分12月、日本へ到着するのは来年の1月末くらい。少しがっかりしている。気を取り直すため、濱田庄司の『無盡蔵』に載っていた話を(ムリヤリ)思い出すことにした。昭和40年、彼は前年に買い付けたままついに日本へ届かなかったコンテナ一個分の荷物を確認するためバルセロナへ立ち寄った。すると倉庫に無事保管されていたらしく、目録と照らしても、1個の紛失もなかったとのこと。その間一年以上、随分ゆっくりした話しである。それに比べれば4ヶ月なんて...。

Saturday, September 8, 2012

「他者による親密な巣作り」を覗き見ることほど参考になるものはない。

"BELGIAN ARCHITECTS AND THEIR HOUSE"という本を買ったら、「どこに住むか、ではなく、どんなふうに住むか」という意味の言葉が載っていて、ベルギーらしい、と思った。もちろん「どんな環境に囲まれて住むか」ってことも大事だけれど、ガスも水道も来ていない山の中での生活は(あこがれはするものの)所詮ひ弱な都会生活者には考えにくい。となると、「コンクリートのビルで、いかに快適に住むか」ということになる。僕が実践している「靴のままの生活」もその一環にすぎないのだけれど、それはさて置き、ベルギー在住の建築家17名の自宅を紹介したこの本、彼らの生活に欠かせないモノやコトとの関係が見て取れるし、なによりもそれぞれのインテリアがとても気持ちがいい。ごく一般的な広さのアパートに、イームズやヤコブセン、ベルトイアに混じって、オランダのフリソ・クラマーや地元ベルギーのデザイナー、ヴァン・ダ・ミーレンなどの椅子が、しかるべき居場所をキチンと確保している。彼らのチョイスには地理的なことも関係しているのだろう。オランダのデ・ステイル、ドイツのバウハウス、そしてアメリカやフランスのモダニズムなどの影響を受けた選択は、静かでリベラル。安直なインテリア雑誌で提案される「オシャレな空間」とは違い、「自分の巣」のように居心地が良さそうなのだ。「他者による親密な巣作り」を覗き見ることほど参考になるものはない。

Sunday, September 2, 2012

市民実験。

ベルギーは、色々な言語と文化が混在するところ。フランス語、フラマン(オランダ)語、それにドイツ語や英語などが混ざり、地域によって話される言葉が異なっている。そんなわけで、「国民国家とは固有の言語を持つ」というテーゼに反して、ベルギーは独自の言語を持っていない。もともとあった王国が離合集散をくり返し、諸事情の中でベルギーという名前の国家になったのだろう。実際にはフランス語とフラマン語の「言語戦争」や、「カソリックとプロテスタントの違い」みたいなこともあり、国を幾つかに区分していて、そういう意味では小さな合衆国ともいえる。だからなのか、ブリュッセルがヨーロッパの首都と呼ばれ、そこにEUの諸機関があるのも頷ける気がする。ナイーブすぎるかもしれないけど、通貨を統合し、パスポートをなくすってのは、武力行使をしにくくする第一歩。そのことを、長い期間をかけて、話し合いで合意に至ったというところにEUの良い実験精神が現れていると思う。
写真はアントワープの小さな広場で毎週金曜日に行われているオークション。といっても、日用品や、使わなくなった家電、家具なんかを格安の値段で競り落とすという一種のリサイクル。参加しているのはご近所のオジサンやオバサンたちだが、いたって真剣。一部の好事家のものと思われがちなオークションを公道で無作為の人々を相手に展開する。これだって、立派な市民実験と言えないこともない。

Friday, August 31, 2012

『世界の車内から』

旅に出ると、いろいろな乗り物に乗ることになる。高度10000mをマッハに近い速度の飛行機は、出来れば乗らずに済ませたいところだが、こればかりは仕方がない。空港から乗るタクシーも「ボラれはしないか?」などと思うと落ち着かない。メトロは乗り換えが煩雑だったり、地下道がおしっこ臭かったり、何より真っ暗闇ひた走り、地上に出たら地図とにらめっこしなきゃ方向がわからない。その点、景色を見ながらのバスはいい。コミさんみたいに目的なしにとりあえず終点まで、なんていうのをやりたいけど、そうもいかない。路線図が複雑だったりと、ジモッチ並に乗りこなすのには時間がかかる。トラムはのんびりで好きだけど、走っている都市が限られる。そこでボクのおすすめは2時間くらいの列車の移動。今回もアントワープを起点にして、ブリュッセルまで1時間、おとなりオランダのアイントホーフェンまで1回乗り換えて2時間、たっぷり『世界の車窓から』を楽しんだ。ゆるやかな平地と緑。牛や羊が放牧され、小川が流れ、雲がたなびく様子を飽きることなく見ていると、ちょうどいい時間が過ぎてくれる。それに、TGVやThalysなどと違ってローカル線にはいろいろな車両が、それもちょい前の時代のものが走っている。今回のお気に入りは、まるでジャン・プルーヴェみたいな椅子を備えたもの。車内のデザインにはお国柄があらわれて楽しい。特にいろんな国をまたがるEU圏は面白いと思う。

Friday, August 24, 2012

美しいと思ったらそれが廃材だったんだ。



 オランダ南部の街アイントホーフェンにあるピート・ヘイン・イークの2階ショールームからは、家具製作をしている「現場」が丸見えだ。というか「さあ、ドーゾ見てください」という感じ。フィリップスの昔の工場を使って、ショールーム、セレクトショップ、レストランを運営しているわけで、なにより広いし、それに古びたレンガとガラスの建物が抜群に良い感じ。もちろん、いくら器が良くったって使う人次第。しかし、そこはPHEさん、レディメードの良さをしっかり残しつつ、野暮な手は加えていない。ダイナミックで風通しがすこぶる良く、当然「売らんがため」の「可愛らしい」ディスプレーとは縁がない。工場の高い天井には”WE","HE","SHE"という大きなサインがぶら下がっている。労働者のためのスローガンにしては、なんと気が効いていることだろう。そんな環境で製作された家具は思っていた以上に種類が多く、彼が単なるワン・ヒット・ワンダラーじゃないことがうかがえる。値段もレンジが広く、(ボクも買ってしまった)スツールがEUR190から(ゴミ箱はもっと安い)、手間がかかったであろう大物はEUR3500ぐらいなど選択肢も多い。セレクトショップの方は、さながらジェネラル・ストア並の品揃えが楽しく(ボクはハーモニカを買った)、そして一角には(PHEと立ち位置が近い)トム・ディクソンの部屋があるという次第。ところで、彼の代表作である廃材を使った椅子や家具だが、ピートはインタビューで(だいたい)こんな風なことを言っていたっけ。
「廃材だから美しいと思ったわけじゃなく、美しいと思ったらそれが廃材だったんだ」。

Friday, August 17, 2012

河崎さんのトークショー ”LAにいた頃はサーフィンなんかしなかった”

河崎さんがLAに住み始めたのは2000年。そこを拠点に、世界中を駆けめぐってアーティストや財団と直接交渉をして200人を超える作家の作品をTシャツとして発表した。その中には、バウハウスやイームズ、ウォーホル、バスキア、奈良美智など、あなたがきっとどこかで目にしたものもあるはずだ。そんな彼のオフィスには山ほどの本資料があった。ダブってるのもあるからと、そのうちの幾冊かを分けてもらったことがある。そんな中で、ひと目で気に入ったのがマーガレット・キルガレンの作品集だった。とてもパーソナルなタッチで描かれた木や葉っぱやバンジョーとタイポグラフィ、そして彼女が住んでいたサンフランシスコ、ミッション地区のユーモラスでちょっと悲しげな人々。それは、巨大なアメリカにひっそりと息づくコミュニティに目を向けた彼女独自のフォーク・アートだった。そんな彼女が夫であるバリー・マッギーの個展のために来日した際、河崎さんは二人を由布院に誘い、最初で最後の九州の旅が実現した。その後、彼女は34歳という若さで癌のため亡くなっている。河崎さんの自宅の居間には、温泉でくつろぐマーガレットの素描が掛けられている。手術かお腹の子という選択に、迷わず子供を生むことを選んだ彼女は、作品に登場する女達のようにたくましい。
24日(金)「夜間学校in春吉」での河崎さんのトークショー ”LAにいた頃はサーフィンなんかしなかった” がとても楽しみだ。開場では、ストリート・アートなどの貴重な作品や資料なども展示される予定。その上、来場者にはジェフ・マクフェトリッジのマグカップをプレゼントするらしい(前回に続く、太っ腹なゲストである)。ご予約はorganまで。

Wednesday, August 15, 2012

YABU ONE MAN SHOW @ THEO GALLERY IN ANTWERP

アントワープでの藪直樹の個展は、大交易時代からこの街のかなめだったスヘレデ河に面するTheo Galleryで開催された。去年初めて訪れ、とても気に入ったこともあり、藪さんのヨーロッパ・デビューがこの街になったと聞いて、俄然再訪することを決めたのだ。ブリュッセルを含め、ベネルクス3国には未知のデザイン・ソースもありそうだし、なにより大小様々な蚤の市があることも魅力のひとつだった。
 日本から送った絵のうち、大きな号数のものが3点届かないというアクシデントもあったけれど、高い天井と白にペイントされたレンガ壁にハングアップされた作品はとてもヴィヴィットだった。いい場所を得たことで、なんだか絵達が幸福そうに見える。彼の絵は、思った通り、ヨーロッパにお似合いだ。日本から駆けつけた「蝉」の岡崎さんのギターがソフトでサイケデリックな音を奏で始め、ライブペインティングが始まった。と、やにわに床に敷いた3枚の大きなキャンバスをラフな円錐形(というか倉俣史朗のランプみたいな形)に折り始める藪さん。「オヤ、今回は立体かな」と思ったら、上から絵の具をドリッピングし始めた。そして描き終わり(垂らし終わり)、キャンバスを広げると、そこにはなんとも自由で偶発的な世界が拡がっているではないか。
 最初からこういう感じでやろうと計画していたの?」と聞いてみた。「いや、直前になって今日は短時間で、まったく意図を持たずに、キャンバスの適度な硬さを利用して、しかもポロックみたいにたくさん垂らさずにやろうと。買ったばかりのブーツに絵の具が垂れないか気がかりだったし....」。まったく、この人は日本にいる時と同じテンションでこの街にいるってわけだ。アッパレ。もうすぐ風船画伯を追い越すぞ。

Monday, July 23, 2012

人生はジェラートみたいなもの。

Img 1059 「あっ、カナちゃんだ!」と思ったが、いくら神出鬼没の彼女でも、まさか今ミラノにいるとは考えにくい。地図を片手に目当ての店を探していたぼくは、通りの反対側を自転車に乗って走り去ったアジア系女性を目で追った。それにしても独特のファッションとボヘミアンっぽい雰囲気が彼女にソックリ。まあ、広い世界には似た人はいるもんだし、とサクッと片付け、番地探しに集中した。その店は、立つ前日 diece の田丸さんに電話して「久々のミラノなので何処かおすすめを」と乞い教えてもらったもの。フラフラとなんとかその番地に到達したが、住宅街にあるのでとても分かりにくい。店の看板やサインもなく、アパルトマンの名札のなかにようやくそれらしき名前を見つけ、何度か呼び鈴を鳴らして中に入った。
 中庭には様々な植物や椅子、家具などが無造作に置かれていて、それがとてもいい雰囲気。応対してくれた女性マネージャーによると、サローネの時期にはここでイヴェントやパーティーも行われるとのこと。と、その時現れたのが、くだんのカナちゃんそっくりな女性。「ど〜も」と声をかけたら「さっき、歩いてましたよね」と、お互い認知のご挨拶。聞くと、ここの庭の手入れをしているとのこと。ガーデナーなのである。話しだしたらキリがないところや、ちょっと舌っ足らずの早口かげんはまさに「ミラノのカナちゃん」だった。なにより(モチロン)親切心からの「お節介さ」もそっくり。美味しくて気の置けないランチの店を教えてもらったりもした。昔に比べて、海外でウゴメク若人が少なくなったと思っていたのだけれど、そんなこともないようだ。人生はジェラートみたいなもの。溶けてしまう前に舐め尽くす時間は思っているより短い。

Friday, July 13, 2012

コルビュジエ眼鏡が入荷しました。

Img 1334 中学でかけるハメになったのだから、メガネ歴はそれなりに長い。度が進むたびに新天町のメガネ屋に行き、アレでもないコレでもないと言って母を困らせたものだ。丸メガネを好きになったのは『ホワイト・アルバム』の頃のジョン・レノンのせいなのか、それ以前ジョン・ゼバスチャンだったか?大学時代には肩まで伸ばしたロングヘアーにまん丸のメタル・フレームでベルボトムというピースなイデタチだった。ボストンやウエリントン型のセル・フレームも悪くないなー、と思ったのはウディ・アレンの『アニー・ホール』を観たころだったが、残念ながら町のメガネ屋には見当たらなかった。唯一、上野の「白山眼鏡」には各種そろっていてうれしかった。で、ある日まん丸のセルフレームをかけてみると藤田嗣治になった。それ以来、丸メガネをかけているのだが、最近はちょっと大きめの丸メガネでデヴィッド・ホックニー気分だったりしている。そのフレームはパリのマレ地区にあるメガネ屋で見つけたもので、太いセルロイドとあまり今っぽくないデザインがいいと思う。そこからは、写真のようなモデルも出ていて、テンプル裏に "MOD. LE CORBUSIER" とある。写真で見比べると、たしかにコルブ氏がかけていた眼鏡である。そういえば "MERCI" のカフェの女性スタッフもこれをかけていたっけ。ちょっと文学少女っぽくもある。気になる人は organ に来て試してみてください。

Wednesday, July 11, 2012

「ロカ岬」

Img 0952 「ロカ岬」はポルトガルでも人気の観光スポット。なにしろユーラシア大陸最西端に位置するわけで、反対の東端(の沖合の島)からやってきた身としても気にならないわけがなく、先述したシントラという町から乗合バスに飛び乗った。ダラダラと海に向かって下る田舎道を 50 分くらいだったか、ずーっと乗りっぱなしの観光客と、乗っては降りる地元の人々が半々という感じだった。中学生とおぼしきおマセな女の子達が学校前の停留所から乗り込んで、ひとしきり車内で騒いだかと思ったら、一人、又一人と下車していった頃、開けた草地の向こうに大西洋が見えてきた。
 バスを降り、カフェテリアでよく冷えたビールの小瓶を買って岬の突端へと歩いた。荒涼とした岩場は一面のお花畑で海からの強風が吹きまくっている。花々は見たこともないような種類で、低くへばりつくように様々な色が咲き誇っている。風で帽子が飛ばされないように気をつけながら、写真で見たことがある「ここに地果て、海始まる」と刻まれた例の大きな十字架の向こう側へ行ってみると、突然視界が 200 度くらいに広がった。
 わずかにアールを描いた水平線と空との境界がうっすらと煙り、なんだかあの世の景色みたいに幻惑的。ここからそのまま西へ向かえば、確かニューヨークに到達するはずだ。この未知の海原を越えて新大陸を目指した男どもは、本当に向こう見ずで野心タップリだったに違いない。なにしろ彼らは喜望峰を周りインド洋からマラッカ海峡を抜けはるか種子島まで到達した。そう「黄金の国ジパング」にコンタクトした初の南蛮人となったわけだ。
 なんとかこの景色をカメラにおさめようとアレコレしていると、突然オジサンが僕ら二人を撮ってあげようかと声をかけてきた。お言葉に甘えて i Phone のシャッター位置を教えてあげていたら「わかった、ここだね」と言った瞬間が残っている。レイバンのサングラスが似合う「良きバテレンさん」である。

Thursday, June 28, 2012

こりゃー気持ちいいい。

Img 0987  8 世紀にムーア人が造ったという砦のもっと上、標高 500 mの山のてっぺんにペーナ城というポルトガル王の夏の離宮がそびえている。「一大パノラマ」という言葉に弱いぼくは、まずはそこを攻め、然る後にムーアの城跡を訪ねる作戦に出た。 
 ガイド本によると、ペーナ城は 19 世紀にドイツのルードヴィッヒ 2 世のいとこが建築を命じたとある。イスラム、ゴシック、ルネッサンスなどの様式が混在した城らしい。ビスコンティの映画で見る限り、ルードヴィッヒの趣味はかなりビザールだった記憶があって、どんな具合なのかちょっと興味がある。
 狭い山道を、猛烈な勢いで駆け登るバスのおかげで、あっという間に到着。傾斜のきつい庭園の坂を登り切ると、目の前に映画のセットみたいな風景が目に飛び込んできた。城の内部に入ってみると、中国趣味や、トルコ風、果てはトランプルイユまで、これまた各部屋がテーマ別にしつらえてある。もちろん調度品もいかにも手の込んだ工芸品ばかり。帝国主義に至る時代の王様達が、いかにエキゾティックな世界にハマっていたかを垣間見る思い。元祖 VIP によるプライベート・ディズニーランドを見る思いだった。唯一面白かったのは台所。もちろんかなり広いのだけれど、鍋、窯、バスケット、などの道具類には生活を感じた。ちょっとしたブロカントへ紛れ込んだような気分で「もし買い付けるとすれば、あの手作りっぽいテーブルかな ... 」などと妄想に耽る。
 ふと気が付けば、閉館まであとわずか。文句言いつつ、結構な時間を過ごしてしまったようだ。この様子ではムーア人の砦は諦めるしかない。最後に城壁の上をグルっと回って帰ろうとしたら、見えるではありませんか、はるか眼下に大西洋を睥睨するかのような古城が!こりゃー気持ちいいい。

Sunday, June 24, 2012

オッと、これは、どう見てもイスラム世界である。

Img 4723 買い付け旅では観光らしい観光をすることはないのだが、今回はリスボンから列車で 1 時間ほどにあるシントラという所へ行ってみた。前々から気になっていたムーア人の古城があるからである。さて、謎に満ちた彼らの足跡はいかに?
 ムーア人のことで印象に残っているのは『トゥルー・ロマンス』という(またまた)映画。デニス・ホッパー扮する警官がクリストファー・ウォーケン扮するマフィアの親玉に向かって「その昔ムーア人達がお前の祖先とファックしたおかげでイタリア人は黒髪と黒い目になったんだ」と罵倒してあっさり撃ち殺されるシーンである。そしてもうひとつ、随分前に『モーリス』という映画がヒットした際、イギリスに多いモーリスという名前の語源がムーアであることも。
 ムーア人がイベリア半島を席巻したのは 8 世紀くらい。イスラム化した北アフリカのベルベル人である彼らは、西欧に先駆けた様々な知恵を携えていたようだ。たとえば星々を観測して方角や位置を知る方法は、砂漠を交易する民として不可欠であり、それが航海術として地中海を帆船で自由に交通することを可能にしたはずで、ジブラルタル海峡を渡るなんてオチャノコサイサイだっただろう。その後、そんな先端技術を利用したポルトガルが世界に先駆けて、いわゆる大航海時代に乗り出す下地ともなったと考えられている。なにせ、ローマ帝国はまだガレー船という人力でオールを漕いでいた時代、イスラムのほうが断然進んでいたわけである。とまあ、ヨーロッパが好きな割には、西欧からの視点による歴史観に少々異議がある身として現場検証的な興味もあったのだ。
 王侯貴族の城館や金持ちの別荘が点在する静かな山間の町シントラは、イギリスの詩人バイロンをして「この世のエデン」と言わしめたらしい。坂道をしばらく歩くと、「ムーアの泉」があった。オッと、これは、どう見てもイスラム世界である。

Friday, June 22, 2012

ドロボー市。

Img 1274 「ドロボー市」といえば、パリのモントルイユで毎週末に開かれるのが有名だ。日用品を始めとしたガラクタも多く、その昔は盗品なども出回っていたらしい。中には「めっけ物」もあったりするが、見つけるのには相当の時間と忍耐を要する。もちろん、混雑を狙った現役のドロボーさんも徘徊しているので油断はできない。
 そんなわけで、リスボンのドロボー市にもあまり期待せずに出かけたのだけれど、予想以上に面白かった。キリスト教系のモノを始め、イスラム風手描きのアズレージョ、東洋を意識した陶器類、錫のコップなど、いずれもこの国の古い歴史と多様な文化を感じさせてくれる。値段も悪くない。それにしても日差しが強い。 1 時間も探索していると、手の甲がうっすら日焼けしているのが分かるほどだ。
 そんな中で、いわくあり気な 5,6 個の土くれめいたものを置いた小さなテーブルに足が止まった。聞くと、どれもが大西洋に沈んだ船から引き上げられたローマ帝国時代の遺物だという。一生懸命英語で説明するおじさんは、いたって真面目そうである。自分で作ったという小さな冊子には、沈没船が見つかったイベリア半島沖の場所がたくさん載っている。僕が興味を持った塑像は、ちょっとリサ・ラーソンのスタジオものを思わせる風情があって、古いコインと一緒にいただくことにした。腰布をまとっただけの石の像はすっかり彩色も薄れ、少し湿り気があって、触るとひんやり、そして思った以上に持ち重みがした。

Thursday, June 21, 2012

リスボンの過ごし方。

Img 4817 初めて訪れたリスボンはまぶしい 5 月の陽光のなかだった。アラン・タネールの『白い街』やヴィム・ヴェンダースの『リスボン物語』の映画のシーンみたいに、古いアズレージョ(イスラム風タイル)の壁には洗濯物がハタハタと気持ちよさそうに風にたなびいていた。おかげで、空港からのタクシー代をボラレたうえに、大荷物を抱えてホテルまで 3 ブロックも歩く羽目になったことなど、すっかり帳消しになった。
 焼いただけのイワシとフレッシュな白ワインがとても美味しかった。檀一雄が好きだったという ”Dao" というワインも良かったけど、昼間からやるには何と言っても冷えた白がいい。路地裏の大衆食堂で、小さなピシェ( 2.5 ユーロくらい)と白身魚のトマト味雑炊(パクチーが載ってる)をぱくつく。悪くないリスボンの過ごし方だ。
 ただし、 28 番線の古ぼけたトラムにはご用心。僕はあっさりスリに遭いました。買付け旅を始めて 15 年、初の体験でした。アップダウンが激しく、眺めのいいところや旧市街を通る人気の路線が、スリの活躍の場であることはガイドブックで読んでいたのだけれど、まったくもって情けない。ただでさえ混んでいる車内で、年寄りを通すために道を開けてくれと強引に体を押し付ける男に気を取られている間に、別の男にズボンに入れていた現金を抜かれてしまったのです。どうやら、年寄りも含めた 3 人は一味だったようです。
 だからと言って、この街が嫌いになることはなかったから不思議。次の日は、ケロッとして泥棒市へと向かいました。

Saturday, May 5, 2012

キム・ヘジョンさんの器

Imgp7601 来週月曜から始まる ”ash (satsuma design & craft) at organ ” に向けて、鹿児島から荷物が続々到着。どの商品もそれぞれに興味深く、なかでも "CHIN JUKAN POTTERY" から届いたキム・ヘジョンさんの焼き物に驚いた。どれもビッシリと貫入(かんにゅう)が入っている。まるで細かな蜘蛛の巣のような模様(というと、貫入が苦手な人は腰が引けそうなのだ)が、器自体の美しい形に格別の表情を与えることに成功している。 1200 度くらいの高温で焼きあがった作品が冷えてゆく過程で、表面が溶けてガラスのようになった釉薬が収縮してヒビのような状態になって固まるのが貫入なのだが、使ってゆく過程でゆっくり貫入が進むこともあり、昔の茶人などは茶渋やシミが入り込んだ抹茶茶碗などを「景色」として楽しんだのは御存知の通り。そこまでではないにしても、ぼくが「貫入好き」になったきっかけは李朝の茶碗。 8 年ほど前だったか、ソウルへ出かけてアンティック屋めぐりをしたこともあった。でも、キムさんの器の魅力はなんといっても色と形。この柔らかな黄色もいいのだが、透き通るような青磁に浮き出る貫入はとても美しい。そう、葉脈のようだと言い直しておこう。

Wednesday, April 25, 2012

おとといポップス#8 ”ザ・バンドに肉薄したつもり”

Img 0501 バンドを結成するからには、名前が必要だった。随分考えたのだけれど、どれもピンと来ない。ある日、いつものように高円寺駅の高架下をすり抜けてムーヴィンへ向かう途中で古本屋のワゴン 100 円均一を漁っていた。すると、わら半紙のいかにも古めかしい薄っぺらな本が流し目をくれた。粗末な印刷だったが、確かに『葡萄畑の葡萄作り』と読めた。なんてイカレたタイトルなんだ、と思った。だって、葡萄畑で葡萄を作るのはアタリマエでしかない。作者はジュール・ルナールだった。読んだことはないが『にんじん』という赤毛の子供を主人公にしたフランスの小説を書いた人である。ページをめくると、エッセイとも警句ともつかない短い文章が並んでいた。そして、どうやら作者自身によるいたずら書ききみたいな挿絵が添えられている。たとえば〈ごきぶり〉というタイトルには黒い物体がチンマリと描かれ、「鍵穴みたいなものである」という文章だけという具合なのだ。その瞬間、名前が決まった。しかし、できるだけ意味のない名前を選んだつもりだったが、もちろんザ・バンドという、当時彼らがコミューンみたいな暮らしをしていたウッドストック村の住民から名付けられた名前にかなうものではなかった。その村には他にバンドはいなかったという単純明快な理由もあったのだろうが、「自分たちのためだけに音楽を演る」という彼らの姿勢には、これ以上の名前がなかったのだと思う。そのバンドのドラマーでヴォーカリストだったレヴォン・ヘルムが亡くなった。 5 人のうち、唯一のアメリカ人、それも生粋の南部人の存在は、どちらかと言えばペシミスティックなザ・バンドの音楽にまっとうなドライブ感を与えてくれた。鈴木慶一氏もツイッターで言っていたように、これで 3 人のヴォーカリストはすべていなくなってしまったわけである。写真は 1972 年くらい、ツアー先で撮った葡萄畑。ザ・バンドに肉薄したつもりなのである。

Friday, March 30, 2012

aka ソーエツ。

Img 0426 さて翌々日、道頓堀にある老舗喫茶店のモーニング(タマゴサンドセットで 1200 円というメリハリの効いた値段)でケリを入れて、いよいよ大阪城の近くにある歴史博物館へ向かった。結論から言うと、とても素晴らしい内容だった。「西洋から東洋」へと柳宗悦の関心がシフトしてゆくきっかけとなった朝鮮の焼き物など、以前民芸館で観たものよりこちらもメリハリが効いていて、実に見応えがあった。場所と展示の仕方が変わると、モノの見え方も変わるということか。若き白樺派時代のキリッとしたポートレイトにも、明治生まれの日本人らしい品格を感じた。話が横道に逸れるが、僕はいまでも彼の名前を「そうえつ(発音的にはソーエツ)」と呼ぶことのほうが多い。これは、僕にかぎらず、周りの友人や仕事仲間も同じで、時々「やなぎ・むねよし」と訓読みする人がいると思わず「ソンケー」してしまう。でも、展覧会の冒頭の所にも宗悦(むねよし、通称そうえつ)と書いてあるので、案外みなさんそう呼んでいたに違いない。 1500 年ほど前、日本に文字がないころに中国から漢字を輸入し、(勝手に)日本語の読み方にしたのが訓読みであり、元の発音に近いのは音読みだろう。そういう点では「そうえつ」のほうが彼らしいとも言える。だって、彼は朝鮮やその向こうの中国への思いを大切にしていた人だから。いっそのこと「ソーエツ」とカタカナにして、ことさら外来っぽくするのも手かもしれない。イチローの例もあるように、そのほうがポピュラリティも増すってこともある。そういえば、息子の柳宗理にいたっては、ほとんどの人が「ソーリ」と呼び、「むねみち」とは呼ばない。それだけ親しみが増した証拠にちがいない。

Friday, March 23, 2012

”たれ”の2度漬けは厳禁。

Img 0341-1 「柳宗悦展へ行きませんか」との誘いに同意したものの、 ” ミンパク ” での展示につい時間を忘れたためなのだが、気がつくと夕方、今からでは間に合いそうにない。明日は休館日らしく明後日の最終日に駆けつけることにして、ひとまずごはんを食べることに。なにか食べたいものと言われて、未経験の大阪といえば「アレ」しかないと思い「串かつ」をリクエスト。それなら、ということで通天閣へ向かった。「新世界」という地名も面妖なこのあたりは、泥臭い独特の雰囲気で、パリで言えばバルベスってとこか、いや、行ったことはないがジャマイカはキングストンっぽいのかも。気が付くと、先導する田丸さんはさっさと男の人と一緒に先を歩いている。てっきり友人かと思ったのだが、実は美味しい串カツ屋を知っているというので案内してもらうことになったらしい。ほどなく店に着いてみると、男はそこで働いている人であり、なんのことはない客引きだったのだ。それはそれとして、さっそく初の串カツに挑戦しようとすると、 ” たれ ” の2度漬けは厳禁というナニワの掟が告げられる。思い切りドブンと沈没させないと、やり直しは効かない。少なくとも一人 20 本以上は平らげただろうか、気がつくと串入れはみんなの竹串で一杯になっていた。大阪には、そのつど経験しなければならない事がある。

Sunday, March 18, 2012

「ミンパク」

Img 0326 大阪出張の際、国立民族学博物館へ行ってみた。「ミンパク、面白い!」と、何人かの友人から聞いていたが、その半端ない数と量に驚いた。世界中から集めた、主に生活にまつわる道具や用具、衣服、装身具などがコレデモカという感じに集められている。地球誕生から現在までの 46 億年の歴史を 1 年 365 日のカレンダーで表わすとすれば、 12 月 31 日大晦日にホモ・サピエンスが現れ、午後 11 時 59 分 58 秒に産業革命が起こったことになるらしい。つまり、これらのモノたちが作られたのは一瞬前の出来事なのだということか。そんなことを思いながら見るうちに、世界各地の「用の具」には、その土地の風土に根ざした独特の発展をしたモノもあるのだが、おしなべて言えば、やはり共通する形や機能が備わっていることがわかる。ところが、日本の展示室に入った途端、様子が一変した。それまでの石や鉄などから、一気に紙や竹の世界へガラリと変わってしまい、なんだか異空間に入ったような錯覚におちいった。それも祭祀なのに使うオーナメントが多い。「八百万の神々」とともに生きてきた人々の生活が色濃く反映されているのだろう。
大阪出張の際、国立民族学博物館へ行ってみた。「ミンパク、面白い!」と、何人かの友人から聞いていたが、その半端ない数と量に驚いた。世界中から集めた、主に生活にまつわる道具や用具、衣服、装身具などがコレデモカという感じに集められている。地球誕生から現在までの46億年の歴史を1年365日のカレンダーで表わすとすれば、12月31日大晦日にホモ・サピエンスが現れ、午後11時59分58秒に産業革命が起こったことになるらしい。つまり、これらのモノたちが作られたのは一瞬前の出来事なのだということなのだ。そんなことを思いながら見るうちに、世界各地の「用の具」には、その土地の風土に根ざした独特の発展をしたモノもあるのだが、おしなべて言えば、やはり共通する形や機能が備わっていることがわかる。ところが、日本の展示室に入った途端、様子が一変した。それまでの石や鉄などから、一気に紙や竹の世界へガラリと変わってしまい、なんだか異空間に入ったような錯覚におちいった。それも祭祀なのに使うオーナメントが多い。「八百万の神々」とともに生きてきた人々の生活が色濃く反映されているのだろう。

Friday, February 17, 2012

「がっぷり四つ」

Img 3228 日中戦争の末期、僕の父は汕頭(スワトウ)という街に配属されていた。台湾の対岸、中国本土を南に下った亜熱帯に属する所である。アルバムの中の父は、軍帽に半袖の開襟シャツ、脚にはピカピカの革の長靴を履き、両手で軍刀を支えていたっけ。他にもたくさんの写真がきちんと整理されていて、なかには乗馬姿もあった。「しょっちゅう馬に乗っていたおかげで痔になってしまった」などと言っていたが、僕は折につけそんな写真を見せてもらうことを密かに楽しみにしていた。プラモデルで零戦を作ったり、戦争ごっこに興じていた昭和 30 年頃の話である。
 父はたしか少尉だったかで、実戦に参加したこともなく、どうやら彼の戦争はそれほど辛いものではなかったのだろう。そういえば、アルバムを見ながら聞いた話にも悲惨さはなく、どちらかと言えば懐かしむ様子すらうかがえた。もちろん愉快な話ばかりではなく、時には子供ながらもドキッとするようなこともあった。それは例えば、中国人のことを当時は「チャンコロ」などと蔑称で呼ぶ人がいたこともそうだったのだが、極めつけは日本兵による斬首というショッキングなことを聞かされたことだった。いくら東映のチャンバラ映画が好きでも、それとこれとは話が別である。それに父は日本刀が好きで(もちろんライセンスをもらって)、正月などには庭で竹にわらを巻いたものを居合い抜きのように試し切りしたりするような人である。幼い僕は、てっきり父もそんなことをやったんだと思い込んでしまったようだ。
 そんな疑問が解けたのは、ずっと後になってからだ。どちらかといえば気難しかった父も老年となり、僕のファーザー・コンプレックスも薄らいだ頃、何かの話のきっかけもあってその事を尋ねてみたことがある。すると彼は、目撃はしたが自分はやっていないこと。また、そのような行為は肝試しにやらされるか、みずから昇進をねらってやるものであり、自分にはその気はまったくなかったことを語ってくれた。
 中国ツアー最後の夜、僕は小雨降る南京東路の雑踏を歩いていた。そして気まぐれに一軒の土産物屋へ入ったものの欲しいと思うものもなく、出口へ向かおうとしていた。すると、親子三人連れが狭い通路を塞ぐようにして品物に熱中して、特に小学生くらいの、明らかに肥満した男の子の体が両親から締め出された感じでほぼ通路を遮断している。この国の作法に従ったわけではないが、僕はつい黙ってその子の脇を割って前へ進もうとした。その瞬間、その子は後ろを振り向きざま僕を見上げた。そして口から溢れ出るお菓子をくわえたまま、きかん気に燃えたぎった目をして、力まかせに押し返してくるではないか。僕はかなり本気で押し戻した。小さな朝青龍と老いた魁皇との一番だ。大人気ないことをしてしまった。しかし、おそらく「一人っ子政策」の落とし子である朝青龍は、決して側にいる両親に助けを求めることをしなかったナー、とそこのところは感心した。そんなふうにして「近くて遠い隣人」への旅は終わった。
 広大な国土にたくさんの異民族が貧富の差をかかえながら同居している様は、もはや裏アメリカの様相を呈している。 2 つの大国はそのうちきっと「がっぷり四つ」になって勝負をするのだろうか。そしてその昔、中国から圧倒的な影響を受けながら、明治維新以降はアメリカに範を求めた日本。さて、これから何処へ向かってさまよい続ければよいのだろう。

「がっぷり四つ」

日中戦争の末期、僕の父は汕頭(スワトウ)という街に配属されていた。台湾の対岸、中国本土を南に下った亜熱帯に属する所らしく、アルバムで見る彼は、軍帽に半袖の開襟シャツ、脚にはピカピカの革の長靴を履き、両手で軍刀を支えていた。他にもたくさんの写真がきちんと整理されていて、なかには乗馬姿もあった。「しょっちゅう馬に乗っていたおかげで痔になってしまった」などと言っていたが、当時としても小柄だった父がなんだか大きく見え、折につけそんな写真を見せてもらうことを密かに楽しみにしていた。僕は幼く、プラモデルで零戦を作ったり、戦争ごっこに興じていた昭和30年頃の話である。
父はたしか少尉だったかで、実戦に参加したこともなく、どうやら彼の戦争はそれほど辛いものではなかったのだろう。そういえば、アルバムを見ながら聞いた話にも悲惨さはなく、どちらかと言えば懐かしむ様子すらうかがえた。もちろん愉快な話ばかりではなく、時には子供ながらもドキッとするようなこともあった。それは例えば、中国人のことを当時は「チャンコロ」などと蔑称で呼ぶ人がいたこともそうだったのだが、極めつけは日本兵による斬首というショッキングなことを聞かされたことだった。いくら東映のチャンバラ映画が好きでも、それとこれとは話が別である。しかも父は日本刀が好きで(もちろんライセンスをもらって)、正月などには庭で竹にわらを巻いたものを居合い抜きのように試し切りしたりするような人である。幼い僕は、てっきり父もそんなことをやったんだと思い込んでしまったようだ。
そんな疑惑が晴れたのは、ずっと後になってからだ。どちらかといえば気難しかった父も老年となり、僕のファーザー・コンプレックスも薄らいだ頃、何かの話のきっかけもあってその事を尋ねてみたことがある。すると彼は、目撃はしたが自分はやっていないこと。また、そのような行為は肝試しにやらされるか、みずから昇進をねらってやるものであり、自分にはその気はまったくなかったことを語ってくれた。
中国ツアー最後の夜、僕は小雨降る南京東路の雑踏を歩き、気まぐれに一軒の土産物屋へ入った。しかし欲しいと思うものもなく、出口へ向かおうとしていた。すると、親子三人連れが狭い通路を塞ぐようにして品物に熱中して、特に小学生くらいの、明らかに肥満した男の子の体が両親から締め出された感じでほぼ通路を遮断している。この国の作法に従ったわけでもないが、僕はつい黙ってその子の脇を割って前へ進もうとした。その瞬間、その子は後ろを振り向きざま僕を見上げた。そして口から溢れ出るお菓子をくわえたまま、きかん気に燃えたぎった目をして力まかせに押し返してきた。僕は大人気ないことは百も承知だったが、かなり本気で押し戻した。まるで朝青龍と老いた魁皇との一番だ。しかし、おそらく「一人っ子政策」の落とし子である朝青龍は、決して側にいる両親に助けを求めることをしなかったのである。そんなふうにして中国への初めての旅は終わった。「近くて遠い隣人」であることだけは思い知ったのだが、もちろん、そこから何らかの結論を引き出すことは、とてもできそうにない。ただ直感の上なのだが、この国がなんだかアメリカに似ているような気がしたことは確かである。2つの大国はいつかきっと「がっぷり四つ」になって勝負をするに違いない。

Thursday, February 2, 2012

「魯迅は日本で言えば夏目漱石です」

Img 0266 タクシーを利用して15分で福岡国際空港、そこから上海までのフライトは1時間40分。たった2時間足らずで行ける外国なのに、中国へ行くことを先延ばししてきたのは、行きたい国としてのプライオリティが低かったからだ。なにしろ「脱亜入欧」丸出しで、ヨーロッパやアメリカへ行くことばかりを考えていた。しかし、そろそろかな、という感じで行ったわけです。
 買ったものは少ない。紹興酒と茶、それに蘇州で見つけた小さな陶器を二個だけ。欲望の対象となるモノがほとんど見あたらなかった。ゴダール映画の影響なのか、密かに「毛沢東語録」を狙っていたのだが、中国人ガイドのKさんから「そんなもの今ダレも読まないヨ。骨董屋にでも行けばあるかも」と言われた。時間があれば、案外面白いモノがあったかもしれない。そういえば2,3年前だったか、U君が杭州へ古い中国建築を調査研究のため訪れたことがあった。そこで、かの魯迅も被っていたという、その地方独特の帽子をおみやげにプレゼントしてくれたことがあった。もともと農民が”雨にも負けず、風にも負けない”為に使った、恐ろしく分厚いフェルトで出来た三角錐をした帽子は、見ようによっては高等ルンペンみたいで面白い(なので、U君が杭州を再訪する際に10個ほど買ってきてもらい、店で販売したことがあった)。そんなこともあって、魯迅博物館へ行った。
 博物館の人から「魯迅は日本で言えば夏目漱石です」と教えられた。そーか、二人は文語体ではなく初めて口語体で小説を書き、二つの国の精神的近代化に寄与した作家なのだ! そのうえ、ほぼ同時期に魯迅は日本へ、漱石はイギリスへと留学している。ただし、ひとあし先に近代化の歩みを始めた日本で知己を得た魯迅と逆に、漱石は西洋文化へ失望し、神経衰弱となり帰国、のちにアジア回帰ともとれる境地に至ることになる(というか、西洋と東洋、もしくは日本との価値観のハザマで自問自答を続けたのだと思う)。もともと中国思想に傾倒していた漱石の中国観は、老荘思想や禅、漢詩などから掴みとった彼独自の悩めるイデアだったんじゃないか。いわゆる「和魂洋才」とは違うような気がする。まあ『阿Q正伝』すらちゃんと読んでない僕にはよくわからないのだが。
 ところで 蘇州へ向かうバスの中で、前述した同行の老人が突然Kさんに言った。「中国にはカラスが見あたらないけど、全部食ってしまったんだろ」。これにはさすがのKさんも閉口して、一瞬車内に気まずい空気が流れると思いきや、案外ケロッとしていた。彼は生粋の上海人、都会ッ子である。様々な地方から来た人々で今や人口2400万人にふくれあがった経済都市に生きている。まるで戦前の日本人のような発言にいまさら驚くだろうか。中国は多様性と他者性にあふれた一大集合体なのだ。誰かさんのようにウェットではない。

Wednesday, January 25, 2012

「蘇州と上海の旅5日間」

Img 0258 浦東国際空港を出発したマイクロバスは、冷たい雨の中、上海郊外にある経済開発区のハイウェイを猛スピードで走っていた。窓の外を、イルミネーションに飾られた奇抜な高層マンション群が次々に流れてゆく。これがモーレツに発展する中国沿海部なのだ。流ちょうな日本語を喋る男性ガイドKさんは、こんなに少人数のツアーは久しぶりだと、愚痴ともラクチン表明ともつかない言葉を放った。たしかに、乗客は僕らふたりの他3名。70歳代の老人(実はカクシャクとした長躯)は常連らしく、早速「何々さんをアンタ知っとるね?」とKさんに言いながら携帯で電話している。前回知り合ったという女性ガイドさんを、最終日に一緒に食事しようと誘っているようだ。老いて盛んなのである。あとのふたりは60歳代と30歳代のふたり組。いかにも社長さんと腹心の部下という感じで、満州の工業都市である瀋陽で3万坪の土地に最新の外壁材の工場を新設する商談を終え、その後に蘇州観光するため参加したらしい。思わず、映画「社長シリーズ」の森繁久弥と小林桂樹とダブる。そんなカンジで「水の都、蘇州と上海の旅5日間」ツアーが始まったのだった。
 一日目、170kmをひたすら走って着いたのは無錫という街。大昔は錫(スズ)の産出で栄えたらしいのだが、ある時パッタリ採れなくなった為にそう呼ばれているとのこと、寂れてしまったあとの名前というのがなんだか哀しい。 規模としては久留米よりちょっと大きいくらいかと思ったら、とんでもない。人口600万人と聞き唖然。夕食は江南料理。いかにも団体ツアー御用達といったガランとした酒店で円卓を囲む。内容は一応日本人好み的中華料理コースで味は濃いめ&甘め。ぼくは早速紹興酒を頼む。老人はちゃっかり手持ちの麦焼酎を飲むばかりで一向料理に手を付けない。どの料理も油がテカテカしてダメだといいながら、やはり手持ちの”振りかけ”を配給してくれる。社長さんたちは青島ビールを飲みながら、色も味も薄いですなー、といいつつ努めて陽気に冗談を飛ばしている。食後、街中にある高層ホテルへ。買付の旅では泊まることのない立派なバスタブも完備した部屋は申し分あるわけがなく、早めの就寝。明けて二日目は朝から淡水真珠の店を見学。その後なんとかという新造の公園へ。江南と呼ばれるこの地方独特の湿地を利用した大型の大濠公園といった風情。続いて三国志で有名だという太湖で15分間(!)の遊覧船。その脇にある「三国城」は映画『レッドクリフ』の撮影に使われ、その後観光施設になったものらしいが映画も観ていないのでピンと来ない。唯一、諸葛孔明という賢人の名前だけはピンポーン。昼食は「ところ変われどナントカ」で、さむーい感じのレストランにて5,6品を取り分ける中華コース。多分鯉なのだろう、スライスした魚の煮付けが妙に油っぽい。午後は木涜(モクトク)という古い水郷の村へ行く。細い水路沿いを歩きながら、これぞイメージしていた江南の景色とばかりに気分を鼓舞するがしかし寒い。冷気が大地からしみ出るようにジワジワと足に来るが、せっかくの自由時間なので動画を撮りながら『世界ふれあい街歩き』ごっこをする。
 とまあ、そんな具合に3日目以降も決められたスケジュールをこなしつつ、と言いたいところだが、さすがにワガママ心がむくむくと。蘇州最終日は、Kさんにどうしても行きたいところがあると単独行動を申し出ると、今回人数も少ないことだし、いいでしょう、ということになり友人から薦められた平江路という地区のカフェを探訪。そして最終日の上海では、夕食を僕ら2人で早めに済ませ(というかその時点で他の3人もどこかへエスケープ)、その昔に高杉晋作や大杉栄、金子光晴たちも闊歩したであろう南京東路をそぞろ歩いて和平飯店へ。目指すは、イギリスとアメリカが租借した共同租界と呼ばれる地域最古のホテル。1908年に完成した当時には、そのモダンさで人々の度肝を抜いたであろうそのホテル1階にあるバーで、老年ジャズバンドの演奏を聴きながら、「魔都」と呼ばれたこの街の事を思ってみた。

Tuesday, January 10, 2012

60〜70年代フランス映画で活躍した作曲家の話と聞いて嬉しくなった。

Img 0152 小柳帝さんによる今年最初のROVA公開講座は来週だ。今回はミシェル・ルグラン、フランシス・レイ、ジョルジュ・ドルリュー、フランソワ・ド・ルーベという60〜70年代フランス映画で活躍した作曲家の話と聞いて嬉しくなった。4人とも大好きだし、ぼくの青春時代のささやかな映画&音楽史をくっきりと飾ってくれた、なくてはならない存在だったのだから。
 最初に知ったのはフランシス・レイ。もちろん映画『男と女』のダバダバ・スキャットだ。1966年ということは高校生だったはず。大ヒットした映画だが、封切りではなく、「センターシネマ」という今のソラリアの場所にあった二番館で親友のN君と一緒に学割80円くらいで観たのだと思う。スタイリッシュな映像に見入り、いかにも大人なアヌーク・エーメのベッド・シーンにドギマギするしかないハナタレ小僧だったのだけれど、おかげでピエール・バルーという不出世のヴァガボンドを知ることになる。
 次に出会ったのはフランソワ・ド・ルーベ。といっても、それとは知らず親しんでいたのが1967年の『冒険者たち』で流れる哀愁の口笛メロディー。日本でも人気スターだったアラン・ドロンがリノ・ヴァンチュラと共演、ジョアンナ・シムカス演じるレティシアという儚げな女性をめぐる男の友情を描いた映画の中で印象的に使われていた。その曲が、同じくリノ・ヴァンチュラとブリジット・バルドーが共演した『ラムの大通り』のサントラと同じ作者によるものだと知ったのはずっと後のこと。そして、若くしてスキューバ・ダイビング中に事故死したド・ルーベと、『冒険者たち』で水中に没してゆくレティシアのシーンを勝手にオーヴァーラップさせ、グッと来ていたものだ。どこか懐かしいメロディーと、いきなり急展開する独特のスコアを残し海に消えた彼は、その後の『グランブルー』を持ち出すまでもなく、とてもフランス的なイコンだったのだろう。
  ミシェル・ルグランとジョルジュ・ドルリューは大学生時代、新宿の名画座あたりでヌーヴェル・ヴァーグへの関心もあって、それぞれアニエス・ヴァルダの『5時から7時までのクレオ』と、フランソワ・トリュフォーの一連の映画で知ることになる。もちろん、ルグランに関してはそれ以前に『シェルブールの雨傘』の素晴らしいサントラにノックアウトされていたのだが、映画の中でピアノを弾く彼は才気走った音楽家の役を軽々と演じていて驚いた。実際に彼はアメリカに渡りマイルス・デイヴィスをはじめ、いろんな実力派のジャズメンと交流をするなど、フランスのミュージシャンとしては異例ともいっていい活躍をした国際派。ドルリューに関しては重厚でセンチメンタルな楽曲という印象で、トリュフォーの映画に欠かせない人なのだが、ゴダールの『軽蔑』にもマーラーを思わせる素晴らしいスコアを提供したことを忘れることが出来ない。そんなことを思い出すと、帝さんの話がますます楽しみになった。