tag:blogger.com,1999:blog-84553390830582443182024-02-07T12:37:36.354+09:00ひょんorganhttp://www.blogger.com/profile/05384115908245728235noreply@blogger.comBlogger365125tag:blogger.com,1999:blog-8455339083058244318.post-31839519047939676732019-12-26T15:24:00.000+09:002019-12-26T16:51:54.509+09:00寿限無寿限無五劫の擦り切れ<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiNdNxH1UdETAnAkXTDexrYqGOdaf936poGWQnWP4p2zc1o7Gux_RFoJkZavjhEa6IzH-W49LANbn6-r264E02GCy-ZTFFRRqhyphenhyphen8DH9bmi1nDRI5oLRg81HPF-_XplrguGfcE37qhvhz2da/s1600/IMG_0874.JPG" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiNdNxH1UdETAnAkXTDexrYqGOdaf936poGWQnWP4p2zc1o7Gux_RFoJkZavjhEa6IzH-W49LANbn6-r264E02GCy-ZTFFRRqhyphenhyphen8DH9bmi1nDRI5oLRg81HPF-_XplrguGfcE37qhvhz2da/s320/IMG_0874.JPG" width="320" height="320" data-original-width="1600" data-original-height="1600" /></a></div>東京とは、意外にもローカルなんだと知ったのは学生時代、間借りしていた地下鉄丸ノ内線の新高円寺から国電の高円寺にあった<ムーヴィン>までふらふら歩くときのことだった。果てなく続く商店街は、焼き鳥屋、電気屋、古道具屋、薬屋、パチンコ屋、洋品店などなど、生活臭く垢抜けなかった。<br />
ところが、いったん街へ繰り出しても事態はそう変わらなかった。たとえば自分のコースである原宿で降り<メロディハウス>で輸入盤をチェックする竹下通りも、当時はまだ普通の商店街にすぎなかった。たまに表参道側を明治通へとだらだら坂を下ってゆくと、<オリンピア>の前で青い目の子供がスケボーをしていたが、その高級アパートの住人の子供だった。ぼくの友人は東京でまだそこにしかないという地下のコインランドリーで一週間分の洗濯をするというプチ・ブルだったからたまに付き合ったのだ。なんだかアメリカの租界地みたいだった。<セントラルアパート>には大いに興味を抱いていたけど用事はなかったし、<同潤会アパート>はとても古びていた。原宿は垢抜けてはいたが、人もまばらでローカルな場所だった気がする。<br />
原宿から渋谷へは、ポケットが寂しかったから、今で言う裏原宿をだいたい歩いた。途中に名前は忘れたけれど、ちょっとフランスっぽいけど、よく見ると日本製だったりする日用雑貨屋があってかならず立ち寄った。そうして宮下公園のガードを抜け左に曲がって西武百貨店地下の<Be-in>へ向かった。<br />
そこは、言ってみればイギリスの出島だった。ポール・マッカートニーが映画『レットイットビー』で着ていたと思しきヘンリーネックの古着シャツを、なけなしをはたいて購入した。消防士が着るヒドく重いメルトンのコートも悩んだあげくの数週間後、工面して羽織った(でもヘヴィーすぎて結局着なかった)。”フール・オン・ザ・ヒル”だ。同じフロアにあった高橋幸宏のブティック<BRICKS>はとてもスノッブだった。隣には<COZO>という名のだぶだぶズボンを締めあげた飛び切りヒップなインディ・ブランドもあった。ある日など、加藤和彦がミカと連れ立って、ジョンとヨーコみたいにそぞろ歩いていて、そこだけは"突然ワンダーランド"だった。<br />
西武百貨店を出て道玄坂方面へ向かうと、人通りは多いがまぎれもなく商店街っぽく、靴屋とか布地屋などもあり戦後の闇市的な痕跡があった。坂を登り<YAMAHA>へ入り、輸入盤を物色。しかし買わずチェックだけ。通りの向こうには遠藤賢司のカレー屋<ワルツ>があるけど入らない。その手前を右に曲がり、迷わず百軒店の路地のロック喫茶<Black Hawk>へ詣でるのだから。<br />
ドアを開けるとすぐの場所に、松平さんがいつものように静かに座っている。ここはいわば音楽の寺子屋だったから、ひたすらカナダのSS&W達のレコードに耳を傾けるしかない。油断して友人とおしゃべりにかまけていると、女性スタッフが近づいてきて「お静かにお願いします」というボードを差し出されてしまう。退屈・渇望・焦燥が奇妙に同居していた。<br />
<br />
現在、昔の渋谷村だった所が恐ろしい勢いの再開発真っ最中らしいことは、編集者の岡本さんからも聞いていた。彼はぼくより5歳年下だが、70年代のカウンターカルチャーに触発されたことでは同じだろう。沸き立つ政治の時代にシラケながら、東京の街なかを徘徊していたにちがいない。そこは適度に雑多で、他の場所とは違う”独自の癖”をもつ場所だったはずだ。セレクトショップが押し込まれたビル群は、「進化」でもない。それは繰り返される「変化」にすぎない。寿限無寿限無五劫の擦り切れは続く。<br />
organhttp://www.blogger.com/profile/05384115908245728235noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8455339083058244318.post-58419541997450873482019-11-24T10:33:00.000+09:002019-11-24T19:33:44.245+09:00冷奴がコロッケに変わっただけ<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEh_B4QjsKllhXdZn7LkDNy28Nq4LLFdGrXCYZ6XTcwu99WDtFMN9IDJ5VUpaPmXWd7NqMSOyuMZ6lMP8zSp0s0LStDi_R0P2jKYm06wfr7He14xCMIDch9rClrCT9Ikj_BEK__7TZPY25-I/s1600/IMG_0889.JPG" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEh_B4QjsKllhXdZn7LkDNy28Nq4LLFdGrXCYZ6XTcwu99WDtFMN9IDJ5VUpaPmXWd7NqMSOyuMZ6lMP8zSp0s0LStDi_R0P2jKYm06wfr7He14xCMIDch9rClrCT9Ikj_BEK__7TZPY25-I/s320/IMG_0889.JPG" width="320" height="320" data-original-width="1600" data-original-height="1600" /></a></div>東京に行くことになってホテルを探すうちに、できれば知らない界隈に泊まってみたくなり、それも「江戸」っぽいところとを検索し、築地に決めた。朝飯を築地市場で食べるのもいいだろうと思ったし、訪れる予定の門前仲町も近いからだ。<br />
前夜のアフター・パーティーで飲み疲れた体に活を入れ、朝7時頃ホテルを出て大通りを歩いていると突然不思議な建物が現れた。築地本願寺らしい。想像していたのとは程遠く、モスクとギリシャ神殿が合体したかのように面妖な建造物だ。むかしは違っていただろうに、惜しいことをしたものだ。でも、諸宗教の人々に門戸を開いたと仮定すれば、悪いことでもない。記念に一枚撮ってみたら、逆光で真っ黒なシルエットだけが写っていた。<br />
少し歩くと、交差点の向こうが築地市場であることが見て取れた。外人らしき人たちがワンサカいたからすぐわかったのだ。人気スポットなので、予想しなかったわけでもないけど、早くも戦意喪失しそうになる。But、朝飯は必要だから突進した。<br />
まずは計画通り「玉子焼き」から。しかし、事前調査で候補だった店の名前が思い出せない。そのうえ、世界各国の腹ペコ達の勢いが凄すぎる。ままよと、一軒に当たりをつけて焼きたてを口に放り込んだ。とりあえず旨い。だが、その後が続かない。いくら日本人の端くれとはいえ、朝の起き抜けからトロやウニの握りや海鮮丼は、さすがに触指が動かない。敗残兵のような気分でホテルへ戻る道すがら、元祖木村屋築地店を発見し、アンパンを手に入れ朝飯とした。<br />
門前仲町にあるwatariは、店主の息遣いを感じることができる小さな店だ。品数は多くはないのだが、かならず手にとってみたくなるものがある。久しぶりにおじゃますると、イラン製の敷物が色とりどりに入荷していた。どれにしようかと迷ったが、うちの食卓で使っているアルヴァー・アアルトの木製イスにちょうどよいサイズで、色も好みの朱赤というのか臙脂を見つけ、いただくことにした。<br />
そのあと、watariから歩いて10分とかからない所にある古石場文化センターという公共施設に向かった。そこには小津安二郎の展示コーナーがあるらしく、ぜひ覗いてみたかったからだ。なにしろ小津はすぐ近くの深川の生まれである。ファンの端くれとして見逃せない。<br />
さすがに小さなスペースだったが、愛用の美しい着物や、達者な絵、大学受験に失敗した旨を父に報告する葉書、それに「へその緒」まであり、つい見入ってしまう。肝心のへその緒は小さな箱に入っていて見ることはかなわなかったが、小津の生い立ちや映画を紹介した15分ほどのヴィデオは3回観直してしまった。なぜなら、その最後に小津の短いコメントを聞くことができたからだ。初めて聞く彼の肉声は、勝手に想像していた洗練とはちがい、落語家のような独特の発声とイントネーションは下町風というのか、結構聞き取りづらい。うろ覚えだが、それはこんなふうだった。<br />
「ぼくは深川で生まれて、ウチの近所に(映画の)モデルになるような人間を知ってまして、昔はフンドシひとつで、冷奴で酒飲んでいたけど、今じゃそのへんでコロッケ買っておまんま食べてるわけで...」。<br />
聞きながら、ふいに夏目漱石の『硝子戸の中』という、漱石にしては珍しく自身の心情を吐露したエッセイ集の言葉を思い出した。<br />
「進歩もしない代わりに、退歩もしていなかった。」<br />
明治大正期の著名な講釈師、宝井馬琴の声を久しぶりに聞いた漱石の印象なのだが、期せずしてふたりの江戸人の「ためいき」が聞こえた気がした。「進歩」とは美辞麗句でしかない。良くも悪くも、功罪相半ばの「変化」くらいがせいぜいだろう。”騙されちゃいけないよ”というところか。<br />
もうすぐ師走。歳をとるのに理屈はいらないけれど、自分自身の改築だけは迫られている気がする。それがトタン屋根に落ちてくるそぼ降る雨の音に、耳をそばだてるだけだとしても。<br />
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organhttp://www.blogger.com/profile/05384115908245728235noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8455339083058244318.post-34391701142517302642019-11-13T09:58:00.000+09:002019-11-14T11:40:04.914+09:00変にチャーミングな綱渡り<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhREWugk9kus2PSkjhy9z2fzzFTYhzFOc2EANiVU3Y6wHIAby78vEIxXe2r_DPjzkqXC4nReJqS7_biyOGozvvu6hH9qmW0mb6IMf30ixZVRhRVnKjxx0ek_vuTgteEw7Hts-BuK9nppKyO/s1600/IMG_0986.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhREWugk9kus2PSkjhy9z2fzzFTYhzFOc2EANiVU3Y6wHIAby78vEIxXe2r_DPjzkqXC4nReJqS7_biyOGozvvu6hH9qmW0mb6IMf30ixZVRhRVnKjxx0ek_vuTgteEw7Hts-BuK9nppKyO/s320/IMG_0986.jpg" width="320" height="320" data-original-width="1600" data-original-height="1600" /></a></div>よほどじゃない限り、東京に足が向かないのだけれど、<OK>が代官山に出店するというので、お祝いのために馳せ参じた。L.A.にある店のラインアップと、なによりオーナーであるラリー・シェーファーが好きだったからだ。<br />
はじめてL.A.の店を訪れたのはもう15年ほど前になる。まるでネイティブ・アメリカンのように三つ編みしたロングヘアを2本後ろに垂らし、薄茶色でボストン型のセルロイド眼鏡をかけた彼の様子が変でチャーミングだった。早口の英語はボクのプアなヒアリングでは聞き取りにくかったけれど、陽気でフランク、そして案外気を遣い屋なことは確かに思えた。モダニズムとクラフトが混在する店のコレクションが新鮮で、それに関連した本の豊富さに彼のデザインへの熱量を感じた。若いスタッフがフレンドリーで、つまり敷居が高くなくカリフォルニアンなのも気持ちよかった。<br />
その何年か後、シルバーレイクにあるラリーの自宅へおじゃますることになった。オーストリア出身でユダヤ系アメリカ人の建築家ルドルフ・シンドラーが1930年代に設計した住宅のひとつらしいのだが、ぼくは「シンドラーってあの映画の主人公?」ってな感じだった。<br />
シンドラーは米国に渡りフランク・ロイド・ライトのもとで才能を発揮、独自の建築スタイルでL.A.周辺に革新的で実験的な住まいの提案をしたひとなのだ。それは、イームズがケーススタディ・ハウスでデビューする20年以上前、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の時代。それも、ローコストな住宅が得意だったというからとても先駆的なひとだった。<br />
傾斜地を利用した4世帯ほどの建物はビルではないのに全体が繋がっていて、階段を登りながら、どこが誰の玄関なのか迷ってしまう。ラリーの家は、そんなシンドラーの集合住宅の一番上段だった。入ってみると、その一印象は質素で、かつモダンだった。そう、コンクリートと木が合体した、ある種の和洋折衷だったけど、土足だった。<br />
実は、ここに来る前にラリーにインタヴューをしていた。その当時友人たちと作っていたYodelという冊子の為だった。その中で彼が言った言葉はこんなふうだった。<br />
「アメリカは他者同士が移り住んで出来た国だ。だから均質だとされている日本とは違う。銃を持つことに賛成なひともいるし、反対する人もいて、いつもコンフリクトがある。でも、L.A.には自由がある」。<br />
たしかに、ヨーロッパからアメリカに渡ってきても、東部は結構保守的だったろう。それに比べ西海岸は開放的で、自由な発想が可能だったはず。そういえば、映画産業が発展したのは、天候のおかげもあるけど、自由な発想が実験できたおかげかも。それも、亡命ユダヤ人達が映画作りに邁進したことが大きかったはずだ。<br />
自由ってなんだろう。現実を前にしても、突飛と言われようが、理想や理念を失わないことかもしれない。それは、変にチャーミングな綱渡りにちがいなく、ユダヤの人々の振る舞いに似ている。もちろん、人種のことではなく「スタイル」のことだけど。<br />
そうそう、春に福岡へやって来たラリーに、東京の店の名前は決まったの?と尋ねたら即答した。<br />
「I'M OKさ」と。<br />
もちろん、ジョークなんかじゃなかった。organhttp://www.blogger.com/profile/05384115908245728235noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8455339083058244318.post-1571609650159599782019-08-16T12:57:00.000+09:002019-08-21T12:06:04.720+09:00いつか行ってみたい場所<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEh5h0iDFk6lwDVKtr-6J75RXucBCPxoqBSE8FBJi0L31JFxde8HuFzbVNXEm9e5NByuVn_-8sy83nj999xUNJYmSH2OkapNWOEYe0tUzuZ_htk1BSGgur9B-j-xe80_0n66_EHLzLvFVXP_/s1600/IMG_0116.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEh5h0iDFk6lwDVKtr-6J75RXucBCPxoqBSE8FBJi0L31JFxde8HuFzbVNXEm9e5NByuVn_-8sy83nj999xUNJYmSH2OkapNWOEYe0tUzuZ_htk1BSGgur9B-j-xe80_0n66_EHLzLvFVXP_/s400/IMG_0116.jpg" width="400" height="400" data-original-width="1600" data-original-height="1600" /></a></div>"いつか行ってみたい場所”がだんだん少なくなってきた。でも、アイスランドだけは別だった。誰かがアイスランドを「裸の地球だ」と言っていたから、これは見てみたいと思った。ヘルシンキからアイスランドエアに乗り換えて3時間半で行ける。ヘルシンキで買付けをすることをセットにすれば言い訳も立つ(って誰に)。<br />
早速ガイドブックで下調べ。国土は北海道と四国を合わせたくらいで、人口は30万人ほど(少な!)。物価はハンバーガーで1500円(高し!)。温泉と氷河がたくさんで、地熱発電など実験的な試みも多く、音楽もユニークだ。ユーラシア大陸と北アメリカ大陸がこの島でぶつかっていて、そこで初めて「議会」が開かれたらしい(マジか!)。<br />
見所たくさんのガイドブックは、早々に読み飽きてしまった。オーロラ、ホエールウォッチング、海鳥観察、ブルーラグーン、その他数知れないエクスカーションにはあまり興味が無い。そんなとき、朋子が図書館で面白い本を借りてきた。その名もずばり「アイスランドへの旅 」。作者はウイリアム・モリス。アーツ&クラフツ運動のあのひとだ。1871年、ロンドンからスコットランドの港を経て友人3人と海路アイスランドへ渡り、アイスランド原産の小型の馬にまたがって訪ねた、3週間の旅日記である。<br />
モリスは「saga(サガ)」というケルトからゲルマンやヴァイキングに伝わる神話を元にした叙事詩や物語に熱中するあまり、実際にその地を訪れることになったようだ。文中にも「ここで誰々が誰々に殺されたとサガにあった」として、モリスが感慨にふけるシーンが何度も出てくるが、もちろんぼくにはさっぱりわからない。古くから、いろいろな民族が移住した島だけに、さまざまな闘いがあったにちがいない。面白かったのは、モリスが宿泊先の教会や農家で「ひょっとして銀製のカトラリーで譲ってもらえるものがありませんか」と乞うことだ。さすが目利きの道は果てしないのだ。<br />
アイスランドの南部をレンタカーで巡る旅が始まった。首都レイキャビクを過ぎてしまうと、家らしきものはほとんどなく、遠近感が狂ったかのように雄大な土地が延々と広がる。まるで、モリスの本のスケッチにあるような荒涼とした風景の連続。おまけに曇りから雨、そして晴れ間へ刻々と空模様が変化する。ラジオのスイッチをひねると、レゲエが流れている。いったいここはどこなんだ。天国ではないことだけは確かだ。やがて僕らはシンクヴェトリルと呼ばれる聖なるスポットへ足を踏み入れた。前述した地球の割れ目で議会が開かれた場所だ。<br />
車を降りると、やたらと何かが顔に触れまくる。虫だ。払いのけようとする手に、何匹もが当たる。蚊?いや、小さなハエのようだ。観光客の中には、用意周到に顔にネットをかぶった人もいるが、ぼくらは虫を無視して岩と岩の間の道をダラダラ歩く。ユーラシアプレートと北アメリカプレートがぶつかり、今も一年に2、3センチ広がっているスポットにしては平和だ。ここらへんの何処かでケルト人、ゲルマン人、ヴァイキング達の子孫が集まり、諍いを解決しようと“アルシンク”と呼ばれる世界最古の民主議会を誕生させたらしいが、どこがそこなのかはわからない。ただ、なんとなくありがたい気分がする。<br />
はじめてアイスランドに興味をもったのは、1986年レーガンとゴルバチョフがレイキャビクで軍縮交渉の首脳会談を行ったテレビのニュース画面だった。ふたりの指導者が、およそ会談場所に似つかわしくない白い2階建てのラブリーな建物の前で握手するシーンだった(会談は物別れになったけど、その後ソ連は崩壊し、冷戦は終わった)。アイスランドはおもしろい国かもしれない、と思った。なにか地場みたいなものを感じた。<br />
それから6日間、滝を見て、黒い海岸で荒波にさらわれそうになり、一面モコモコした苔地帯を横断して、シークレットな温泉に海水パンツをはいて浸ったりもした。ラム肉はとても新鮮で、旨い手長エビのスープを出すレストランでかかっていたBGMはオラフル・アルナルズだった。そこはHofn(ヘプン)という南東部では一番大きな町。といっても人口は1800人くらい。ヨーロッパで最大の氷河ヴァトナヨークトルの端っこに当たる漁港で、ホテルの窓からは、ふたつの氷河がぼくを待っていた。ぜったいにここへ来るべきだといわんばかりに。<br />
問題は、目的とした氷河がアクセスがあまり良くないローカルなビューポイントであること。アイスランドは島をぐるっと回る国道1号線以外はオフロードが多く、法令で4WD以外の車は走れない。ところが僕らのレンタカーは小さなものだった。1号線を外れると言っても、それほどの距離ではないし大丈夫だろうと高をくくってみたが、運転は朋子であり、彼女はまちがいなく拒否するに決まっている。ためしに、ホテルのフロントのお兄さんに大丈夫だろうかと尋ねてみると「コンパクトカーなら絶対にやめたほうがいい」とにべもない返事。しかし、愛想の良くない男の言葉を真に受けるつもりはなく、ヘプンの街にあるインフォメーションの明るい女子に聞いてみた。すると「ゆっくり行けばOK、わたしもたまに行ってるし」と、満額回答。決行が決まった。<br />
それにしても、朋子の不安は消えていない。国道1号を外れ、いっとき走ると、走る車どころかなにもなくなった。あたりは大小の石が作った大地と、ぼんやり続く道らしきもの。氷河がすこしづつ迫ってくるにつれて、車の底面に当たる石ころのゴツンゴツンという音が脳天に痛い。まるで乾いた河原を走るかのようにハンドルを取られてしまう。無言の彼女の気を紛らせようと、iphoneの動画のスイッチを押し「迫り来る氷河を前に、オフロードならお任せのドライバーを紹介します」と、言わずもがなの冗談を飛ばした途端、こちらを向き、中指をおっ立てながら「まったくシャレにならない、なにか起きても知らんけん」と一喝されてしまった。<br />
ところが、結果、静かに流れくる雄大な氷河を目の当たりにして、ふたりとも息を呑んだ。誰もいない。いや、よく見ると水際に米粒のような先客が3、4人いる。それすら、冷静にならないと見えてこないほどの圧倒。ぼくは思わず土俵入りをし、朋子は拾った氷河の氷のカケラをガリっと噛んだ。まったく冗談みたいに裸の景色だった。冷たい風が吹き、日差しは強烈だったが、あたりは恐ろしいほど無音。万年氷から滲み出した水たまりが触手のようにこちらへ伸びていた。<br />
ぼくらが訪れた氷河はHoffellsjökull、つまり「ヘプンの氷河」。アイスランドにある400あまりの氷河の一つ、決して有名でもなく、巨大でもない。しかし、御多分にもれず、アイスランドの氷河も年々溶けて消え去っている。「オラが街の氷河」もけっして例外ではない。<br />
organhttp://www.blogger.com/profile/05384115908245728235noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8455339083058244318.post-29526003248764784772019-08-02T16:13:00.000+09:002019-08-02T16:24:59.316+09:00ルート・ブリュックのテキスタイル<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhR1gKF6b7s0G2a8E486pgPI4FPuKvfzMiKaxbCbxj8bvwVQQGrXJJVE47R8n6KIiDCAQk9XptEwo4fOdIXQ7XjVaRNtWcSOVudXW1D7ZcSLHbWrRAd0W-nQ23Tr0B6ta1sm_qOzJQWpMVe/s1600/IMG_0565.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhR1gKF6b7s0G2a8E486pgPI4FPuKvfzMiKaxbCbxj8bvwVQQGrXJJVE47R8n6KIiDCAQk9XptEwo4fOdIXQ7XjVaRNtWcSOVudXW1D7ZcSLHbWrRAd0W-nQ23Tr0B6ta1sm_qOzJQWpMVe/s320/IMG_0565.jpg" width="320" height="320" data-original-width="1600" data-original-height="1600" /></a></div>ヘルシンキ郊外にある現代美術館EMMAで、幸運にも"Bryk & Wirkkala: Visible Storage"と題された展示を観ることができました。<br />
3年ほど前だったか、ルート・ブリュックの大規模な展覧会で、その独特な世界に魅了された身として、今回タピオ・ヴィルカラと初の夫婦揃っての展示企画とあっては興奮しないわけがありません。おまけに、その展示方法がちょっと意表をついたものだったからなおさらです。<br />
それは、まるで美術館の奥にある収蔵庫に潜入したかのような展示方法とでも言えばいいのでしょうか。棚や仕切り壁には、おなじみの作品に混じってプロトタイプや未発表作品がギッシリ、無造作に並べられているという趣向。そればかりか、スチール製の引き出しに保管されたスケッチや製作過程のメモなども自由に見れるのにはビックリ。広い空間にひとつひとつ間隔をあけて照明を当てた美術館演出を拒否した、タイトルどおりのVisible Storageで、二人の巨匠の生々しい製作スタイルがかいま見えるというわけです。さすが、フィンランド、あまのじゃく。<br />
うれしい発見だったのがブリュックが手がけたマルチカラーのテキスタイル。それらは1968年に夫婦で初めてインドのアーメダバードを旅行をした際に受けた色彩の豊かさにインスパイアされたもの。余談ですが、ふたりがインドに興味をもったのは、他でもないイームズとジラルドが1954年にインドに赴き収集したファブリックなどで構成した展覧会を、ニューヨークのMOMAで目にしたことが契機となったらしい。ワオ!意外なところで繋がる「フォークアートの環」なのです。付け加えると、ふたりはコルビュジェの建築群も目にしています。タピオ・ヴィルカラはたくさんの写真を撮影、イタリアのDOMUSにも掲載されたとのこと。<br />
余談ついでにもうひとつ。1968年といえば、ビートルズが初めてインドを訪れた年。意外かもしれませんが、ルート・ブリュックとタピオ・ヴィルカラはビートルズのレコードを愛聴していたのです。ふたりは当時共に50代なかば。いいですねえ。なんとそれもBraunの最新ステレオ・システムで。しかもそれはデザイナー自身から贈られたものとのこと。ということは、ディーター・ラムスとも親交があったってこと?またもやワオ!なのですが、肝心なことは一見ストイックなクリエイター然としたふたりだと勝手に決めつけていたら、あにはからんや、当時のアメリカやイギリスのヒップなカルチャーに充分コンシャスだったということ。世界は一色ではなく、マルチカラーだったこと。特にインドはサフラン色。ルート・ブリュックの後半生への転換点としてピッタリの場所だったのでしょう。<br />
organhttp://www.blogger.com/profile/05384115908245728235noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8455339083058244318.post-76343723390811262672018-04-28T22:58:00.000+09:002018-04-29T17:41:45.864+09:00変わらないようで、変わった画家<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEinnfYu4zh5fR-TxQgXypiXpMd1FHD2VmuC_gT0KsIub7HZQeop96wOIUgEJfDyjILlGpssph3Nip2FAguiv8ZHBP9CUfSd_Dnh0W5UBk1lLZ_xYKyk0BHo3ybjCLUNN7rPmB2P3f0dEUeA/s1600/IMG_6041.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEinnfYu4zh5fR-TxQgXypiXpMd1FHD2VmuC_gT0KsIub7HZQeop96wOIUgEJfDyjILlGpssph3Nip2FAguiv8ZHBP9CUfSd_Dnh0W5UBk1lLZ_xYKyk0BHo3ybjCLUNN7rPmB2P3f0dEUeA/s320/IMG_6041.jpg" width="320" height="320" data-original-width="1600" data-original-height="1600" /></a></div> ボローニャから1時間あまり、雪解け水を集めて流れる川へ寄り添って走るローカル線に乗って、山の谷間の小さな町ヴェルガトへ着いた。やれやれと思ったら、目指すグリッツァーナは、さらにそこから車で30分ほどクネクネと曲がる道をグングン登った人里離れた寒村だった。坂を登り切ってしばらく行くと、画家ジョルジョ・モランディの淡い黄色の家が、道路沿いにあっけないくらい忽然とあらわれた。それは、彼の描く絵とおなじように周りの景色に溶け込むでもなくポツネンとあった。<br />
幼いころモランディから絵を習ったという案内役のセレーナさんは、自身も画家だといった。石がゴロゴロして農耕には不向きだったというこの村を気に入ったモランディは、亡くなる5年前にこの家を建てている。その際、ある建築家が提出した、おそらくは工夫をこらした設計図を見て、「わたしはこれがいい」と、立方体に四角錐の屋根、それにシンプルな窓を持つ簡素な図を描き示したのだという。<br />
おそらく建坪は30坪に充たないであろうトラッドな2階建ての家は、モランディと3人の姉妹が夏を過ごすにはおそらく最適なサイズだ。1階にはリヴィングとダイニング、それに姉妹のベッドが2つ置かれた各8畳くらいの4部屋と、小さな台所部屋とバスルームがあるだけ。驚いたのは、玄関を入ってすぐ右にあるリヴィングルームだ。チークの本棚&チークの肘掛け椅子&テーブルと、まるでミッドセンチュリー・ダニッシュデザインのお手本のようではないか。ぼくのデザイン遍歴はコペンハーゲンから始まったわけで、まさかモランディがリアルタイムでそれを実践していたとは知る由もなく、勝手な親近感を抱かずにはいられなかった。<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgSJQtbNStjKQ8v7wEweQbsnimBN0L0vtZjuxaw3KS7sslf29i_Q6qGx_h63tgJtaD0UO3zf_2AwtNy23JBS-V4iHEqYV0d9coFWHE-7Muew2P0Fp4P0hnc_kHiuyFafn_RM8t3o38mxPrb/s1600/IMG_6074.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgSJQtbNStjKQ8v7wEweQbsnimBN0L0vtZjuxaw3KS7sslf29i_Q6qGx_h63tgJtaD0UO3zf_2AwtNy23JBS-V4iHEqYV0d9coFWHE-7Muew2P0Fp4P0hnc_kHiuyFafn_RM8t3o38mxPrb/s320/IMG_6074.jpg" width="320" height="320" data-original-width="1600" data-original-height="1600" /></a></div> コーナーに置いてある陶器も、フォルムや釉薬の色具合から北欧のものに違いないと思いセレーナさんに尋ねると、カルロ・ザウリというイタリアの陶器作家とのこと。モランディはこの人の作品が大好きだったらしい。未知のものへの興味を隠せないぼくに、セレーナさんはこっちにもあるわよといって、廊下に出て階段の下の物置の扉を開けてくれた。<br />
そこは、当座使わない皿やボウルの保管場所らしく、その中にフランスの夫婦陶芸作家ジャック&ダニ・リュエランを思わせるほっそりした形のベースが3脚、斜めに傾いだまま鎮座ましましている。ブルーのギンガムチェックの布の上にきちんと整理された様子は、モランディの絵における配置へのコンシャスさに通じるものだ。<br />
この家はモランディ没後、残された3姉妹の姉の遺言にしたがって、かれらの生前の暮らしが、ほぼそのまま保存されている。たとえば台所。流しの壁に並んだ薄緑色の皿類や小鍋やお玉は、まるですぐにでも夕飯準備にかかれそうにスタンバっている。と、棚の扉を開けて、セレーナさんが取り出したのはオレンジ色のラベルの小瓶。蓋を開けるとぼくらの鼻に近づけて、「モランディはカレーが大好きで、パスタにも掛けていたのよ」と微笑む。ということは40年くらい前のカレー粉か。ふいに高校受験時の深夜、台所でひとり「日清のママーカレースパゲッティ」を炒めて空腹を慰めた時の香りがよみがえる。<br />
モランディは掃除の際に「アトリエに積もった埃を取り払うことを禁じていた」という話をなにかで読んだことがある。うっすらと積もった埃は目にはさだかではなくとも、手に触るとその存在に気付く。それは、モランディがくりかえし描いた花瓶やピッチャーが、たとえ同じように見えたとしても、少し注意深く見ると、その筆址やタッチ、構図などが時代によって変化しているのに似ている。<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiHAawpMFOGQHpwzPeqiO1XHoBe7t9UfY1k8d-pq0cJRr6d6iB5eplX_E6sxn4LsMc7vXYayWYrwcwFHTmNinx2Vu7lA9fOXnteohfLnYcOcJbuLJ6xYweMNK3RaFjuZBntovg_rMeHRFWG/s1600/IMG_6157.JPG" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiHAawpMFOGQHpwzPeqiO1XHoBe7t9UfY1k8d-pq0cJRr6d6iB5eplX_E6sxn4LsMc7vXYayWYrwcwFHTmNinx2Vu7lA9fOXnteohfLnYcOcJbuLJ6xYweMNK3RaFjuZBntovg_rMeHRFWG/s320/IMG_6157.JPG" width="320" height="320" data-original-width="1600" data-original-height="1600" /></a></div> 2階に上がるとモランディのアトリエである。40本以上の絵筆はどれも細めで、筆先の素材はさまざま。よく見ると、幾本かの先っぽが鋭く尖っていたり、半分だけカットしてあったりと、カミソリで好みの形状にカスタマイズされている。イーゼルには絵筆を拭った布が2枚引っ掛けたまま。近寄って見ると、まぎれもないモランディの色たちが、まるでアクション・ペインティングのように生々しく残っている。そして台の上には、おなじみの陶器や彩色した缶が「さあどうぞ描いて」とでも言いたそうに、画家の帰りを待っている。少しこわくなった。<br />
隣は寝室だった。といっても、真っ白な部屋にあるのは、スチールパイプ製のシングルベッドとその脇の小さなサイドボード。あとはワードローブがひとつに三段のドローワー、いづれもパイン材。そんないたって簡素な小部屋で、サイドボードの上の壁に掛けてある15x10cmくらいの小振りな絵に目が留まった。そしてそれが、よく目にする幼いイエスを胸にいだいたマリア像とは違うものの、まごうかたなきイコンの奇妙な変種であることに気がついた。あたかも空中に浮遊しているかのような顔と手は、まるでシュールリアリズム絵画のようではないか。あらわになった木肌からすると、誰かが、もともとあった背景の色を削ぎ落としたとしか思えないのだ。そして、それをやったのがモランディ自身だったとしたら…。<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEg6PODUsuRITmktUalRfghNr4Gtmfz0LmeVlZpnhtr-iJ_lzVfBwcWcCTt6VfWx2nSPAlyBNE-kz-0E9la_AogmvOfALo5J77vyCFPgNG9Sm0brOQxcg5esZJo-y_dDTdxI6XUO07wPO9-6/s1600/IMG_6123.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEg6PODUsuRITmktUalRfghNr4Gtmfz0LmeVlZpnhtr-iJ_lzVfBwcWcCTt6VfWx2nSPAlyBNE-kz-0E9la_AogmvOfALo5J77vyCFPgNG9Sm0brOQxcg5esZJo-y_dDTdxI6XUO07wPO9-6/s320/IMG_6123.jpg" width="320" height="320" data-original-width="1600" data-original-height="1600" /></a></div> ところが、さらに追い打ちをかけるような出来事が待っていた。なにを思ったのか、セレーナさんがモランディのベッドマットの端を突然持ち上げた。すると、下から現れたのは1963年7月24日付の新聞と、茶色をした薄い板。無言で僕らの反応を待つ彼女は、なにか秘密を握っているのか。しかし、彼女の回答は、「わからないの…」というとてもシンプルもの。ただ、確かなことは、その翌年にモランディは亡くなっている。つまり、1963年の夏に、これが最後の滞在になることを予感したのだろうか。そして茶色の薄い板は、どうやらエッチングの銅板らしい。そういえば、モランディは若いころ、レンブラントの版画を見て絵をこころざしたはずだし、ボローニャの美術学校で長く版画を教えていたことがある。とすると、自分の一生をこの、ある種のインスタレーションに込めてベッド下に残したのかもしれない、と想像することも許される。家政婦は見た、気分だった。<br />
以上、さまざまな状況証拠に出会った以上、ジョルジョ・モランディを「癒し系画家」と呼ぶことにいささか疑義を感じる。いつも同じような絵を描きつづけ、一生涯ボローニャから外へは出ず(晩年にはパリへ行ってますが)、未婚で、同じく未婚のままだった3人の姉妹とひとつ屋根の下で暮らした男は、実のところ、変わらないようで、変わった画家だったにちがいない。<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiPjrXTwPnH1y-xsdzZgk_04AGIrSpv5CIdEyYuNgkMex0BmvAje_0ioq7W-h9fEX_PxH-BeIqg8ipew0tiao1B5puXrhe71jKtkOHTSeE1XqhUFyfUALFPKEiT8g55lMjHBeAryGHILzft/s1600/IMG_6119.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiPjrXTwPnH1y-xsdzZgk_04AGIrSpv5CIdEyYuNgkMex0BmvAje_0ioq7W-h9fEX_PxH-BeIqg8ipew0tiao1B5puXrhe71jKtkOHTSeE1XqhUFyfUALFPKEiT8g55lMjHBeAryGHILzft/s320/IMG_6119.jpg" width="320" height="320" data-original-width="1600" data-original-height="1600" /></a></div>organhttp://www.blogger.com/profile/05384115908245728235noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8455339083058244318.post-20831341741290012652017-05-28T10:09:00.000+09:002017-10-10T23:02:16.181+09:00モノの方便。<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjTXREaHvtxU1BLunJla95UrHXx-1RuQtY-gpDtBMc_ad-E164vaKP4g-KQj9b8i1GKwK-fu_zSOZK-j_JZ0TwkSCr1B6vyGwL_e0cB6J-RJFN9bLQkWeRvlsU9RXA5rHyBteu8JspxxEDO/s1600/IMG_2809.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1600" data-original-width="1600" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjTXREaHvtxU1BLunJla95UrHXx-1RuQtY-gpDtBMc_ad-E164vaKP4g-KQj9b8i1GKwK-fu_zSOZK-j_JZ0TwkSCr1B6vyGwL_e0cB6J-RJFN9bLQkWeRvlsU9RXA5rHyBteu8JspxxEDO/s320/IMG_2809.jpg" width="320" /></a></div>
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ウズベキスタンはイスラムだけど、お酒が飲める。ビールはもちろん、ワインの産地なのでコニャックだってOK。味の方はといえば、ちょっと甘いが悪くない。<br />
ウズベクはイスラムを国教としているけど、政教分離政策だ。さきごろ亡くなった大統領は、在任30年だかの間に、イスラム原理主義を徹底的に押さえ込んできたようだ。空港や駅のセキュリティが恐ろしく厳重なのは、そのためだろう。後日、日本に戻ってみると「共謀罪」が強行採決で衆議院を通過してしまった。オリンピックのためテロを防止するのだと政府は主張するが、方便っぽい。<br />
それはさておき、この地方は、歴史的には7世紀ころにイスラム化して以来、中央アジアのイスラム文化の中枢として栄えていた。僕らは、サマルカンド、ブハラ、そしてヒヴァという古い城壁都市を回ってみた。そこには、かならずメドレセと呼ばれる壮麗な神学校があった。学生たちは寄宿しながら、法学、神学、言語学、詩学などを中心に、数学、天文学、医学、哲学などを学んだ。メドレセとは、いわば今の大学のような教育機関なのだ。そのころのヨーロッパは、確かフランク王国が支配するきわめて野蛮な地域だったはずで、その意味ではイスラムのほうが進んでいたのだろう。<br />
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<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgUyeDX8TI0KR2Kuf-fAFJhs-nby_8uXhWUe2O9xnG8S-erqGv4m8YVXtqwt0ywQ6_RVFaREF47ykml-eZ33f42K62xKY1Cf4GfaCVWq49Sl3vWVMR8u6mXBhLz9h7K9X1bVVyr6Pw-AIek/s1600/IMG_3021.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1600" data-original-width="1600" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgUyeDX8TI0KR2Kuf-fAFJhs-nby_8uXhWUe2O9xnG8S-erqGv4m8YVXtqwt0ywQ6_RVFaREF47ykml-eZ33f42K62xKY1Cf4GfaCVWq49Sl3vWVMR8u6mXBhLz9h7K9X1bVVyr6Pw-AIek/s320/IMG_3021.jpg" width="320" /></a></div>
僕らは、イスラムのことを殆ど知らない。知っているのは、ニュースや、ハリウッド映画だったりと、つまりはどれもアメリカや西欧経由。結果、目をつぶって象を触るように、妄想と偏見が多くなる。西欧的価値観を通してしまうと、不可思議で狂信的な宗教に見えてしまう。僕にとって、そんなステレオタイプなイスラムのイメージを崩してくれたのは、アッバス・キアロスタミの映画”ジグザク3部作”と、武田百合子の『犬が星見た』だった。興味ある方はぜひ観て、読んでみてください。<br />
イスラムはキリスト教と並ぶ「世界宗教」なので、地球を網羅している。宗派もスンニ派とシーア派がいて、実際には場所によって、もっといろいろ濃淡があるようだ。ポイントは、先行する仏教やユダヤ教やキリスト教などを「批評」して生まれたことだろう。原始宗教が持っていたはずなのに失効してしまった”人間の幸福のための理念”を回復しようとして、7世紀に生まれた新しい宗教なのだ。ブッダもモーゼもジーザスも認める。ただし、彼らを神と同一視はせず、預言者として見る。あくまで人間として見る。つまりカントやジョン・レノンなんかも入っていいのだ(と、これは私希望です)。そして、偶像を否定する。神とは、目に見える存在ではないというわけ。賛成。そして、権力としての聖職者も否定する。大賛成。つい最近、「イスラーム(より正確にはこう発音するらしい)」とは「与える」という意味だと知った。宇宙の創造主から与えられたものを、自分も与える。富める人は貧しい人に、与える。「何を」与えるのかは、いろいろ。極端な場合は、命も与える。<br />
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<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEh2_tiGuGSOxNgF9Lkl2ljZqWSwShgPzW0yr3-Wy4huCLjig5qBe5-lPQKJaXI7yNJihIwgXmNxyLfGUk7rnkTl7z7Sv9mt3SWrA9HjnB2i2ohpHc5KtVQRrPXro3ANR8HJWOK6SeIwSFkW/s1600/IMG_2971.JPG" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1200" data-original-width="1600" height="240" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEh2_tiGuGSOxNgF9Lkl2ljZqWSwShgPzW0yr3-Wy4huCLjig5qBe5-lPQKJaXI7yNJihIwgXmNxyLfGUk7rnkTl7z7Sv9mt3SWrA9HjnB2i2ohpHc5KtVQRrPXro3ANR8HJWOK6SeIwSFkW/s320/IMG_2971.JPG" width="320" /></a></div>
ぼくがウズベキスタンまで行って「与えた」ことは、ない。あるとすれば、旅行者としての少しのお金だ。与えられたのは、たくさんの眼差しと笑顔。それは、日本にいては経験しないことだ。ぼくらは、違う顔、違う文化の人間と、出会う機会が少なかなったから仕方がない(のか、そう思いこんでいるのか)。すれ違う「他人」を無視することには慣れているけど、違うスタイルを持つ「他者」に目線を合わせるのはとても苦手だ。ぼくはモノから因縁をもらう人間で、おまけにお調子者だ。イスラムの帽子を被って、ヒョコヒョコ歩いていたから面白がってくれたのだろうか?モノが方便になってくれているのかもしれない。organhttp://www.blogger.com/profile/05384115908245728235noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8455339083058244318.post-32080777556947779832017-05-10T18:36:00.000+09:002017-05-10T18:36:01.707+09:00春を持たないエトランゼ…<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjoLjg0Xu1YNI5ZwPkL4Ai8Uf13Q6se8BjJIGdffVb_JENS-cgTNZgkwZn-ZWj4BuezHMx22_NzsfLHSIYgVK6T4Juo5W3sqT14n4boxK5ENCeAeOOX2zO158s835_nsIrDiXjllRJ4FW_u/s1600/IMG_2831.JPG" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="240" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjoLjg0Xu1YNI5ZwPkL4Ai8Uf13Q6se8BjJIGdffVb_JENS-cgTNZgkwZn-ZWj4BuezHMx22_NzsfLHSIYgVK6T4Juo5W3sqT14n4boxK5ENCeAeOOX2zO158s835_nsIrDiXjllRJ4FW_u/s320/IMG_2831.JPG" width="320" /></a></div>
サマルカンドでのB&Bの朝飯と夕飯は、宿舎者が中庭のパティオのテーブルを囲んでというアット・ホームなものだった。全部で12室くらいなので、人数も適度だったし、2泊の間に顔ぶれを、なんとなく覚えてしまった。てっきりアメリカ人かと思っていたが、「シティのやつらがどうしたこうした」という話が聞こえたのでイギリス人かもしれない男3人+女ひとりの賑やかなグループとは、幸い席が離れていた。インテリっぽいドイツ人夫婦は静か。女の子連れの中年夫婦は、旦那がノルウェー人で奥さんはスウェーデン人。僕らの隣で、「どこから来たの?」と声をかけてくれたふたりは、イギリス人とオランダ人のカップル。つまり、EU系ばかり。だけど、みんな英語。下手でも、文法おかしくても、なんとなく通じる現代のエスペラント語だ。で、結構、政治向きの話をする。まあ、EU離脱や右傾化は他人事ではないというご時世なのだろうが、日本人どうしだったら、旅先の政治話はまずありえないことだろう。<br />
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<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEji9owxWUhWpyCxm3lMGwQiuwFxLQXdb-dRkmXO2-UpCttZ9Nc5AJLATCpclTnnwlnr886L8MLWBvTu-QXiQu9TNTAp0bvKsJMt2zZs5S7oDEkDWvvCVC74cK3S2cHoURUu75w7rDuhuhwd/s1600/IMG_3238.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEji9owxWUhWpyCxm3lMGwQiuwFxLQXdb-dRkmXO2-UpCttZ9Nc5AJLATCpclTnnwlnr886L8MLWBvTu-QXiQu9TNTAp0bvKsJMt2zZs5S7oDEkDWvvCVC74cK3S2cHoURUu75w7rDuhuhwd/s320/IMG_3238.jpg" width="320" /></a></div>
外を歩くと、観光地なのでツアー客が多く、ガイドさんの言葉でどこの国かわかる。フランス語やドイツ語、ロシア語が多い。時々英語に中国語。ウズベクの男の子たちが、あちこち遺跡のそばでサッカーをしている。将来、このなかから日本とワールドカップのアジア予選を競う選手が現れるやもしれぬ。女の子たちは、民家の軒下に座ってカード遊びをしている。ぼくらが通りかかると、ちらっと目を合わせる。ときどき、調子に乗ってこちらがiphoneを構えると、すっくと立ち上がって、しっかりこちらを見つめる。なんだか、他者慣れしている。<br />
この国のあちこちに、アレキサンダー大王や、チンギス・ハーンや、その他さまざまな帝国や民族がやってきて、それまでの王朝を倒し、自分たちの文化を移植して去っていった。それも、気が遠くなるほど時間と労力をかけて。だから、いろいろな民族の顔をした人が歩いている。イラン系、トルコ系、アラビア系、蒙古系、そしてアーリア系、ユダヤ系などなど。だから、朝青竜と琴欧洲、原節子に樹木希林、セルジュ・ゲンズブールやレナード・コーエンそっくりの顔に出会っても驚くことはない。この地には、東西の民族が先行して交錯した残照が、確かにある。 <br />
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<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEj_-0gLV-lmNOeRZM3fpsuxTCPVtx5zop0LAOQBz4QjQqP-ht0KVxCBH4V2GNVuUbjFYAlLNzKRhs2Mj5XYNCqRgHl0c3ObT-u2VJM7slYl-a5a1tyrBBjwALSPvEe_CNGyc0Ov6m8qWfsS/s1600/IMG_3142.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEj_-0gLV-lmNOeRZM3fpsuxTCPVtx5zop0LAOQBz4QjQqP-ht0KVxCBH4V2GNVuUbjFYAlLNzKRhs2Mj5XYNCqRgHl0c3ObT-u2VJM7slYl-a5a1tyrBBjwALSPvEe_CNGyc0Ov6m8qWfsS/s320/IMG_3142.jpg" width="320" /></a></div>
バザールでCDを買った。帰国後、パンダの絵がついた中国製のROMに焼きつけられた現地のポップスは、残念ながら僕のコンピューターではどれも認識しなかった。代わりに、音楽博物館でエキゾチックな美人から買ったウズベクの伝統音楽集だけは、なんとか再生できてホッとした。聴いてみると、フルートのような笛がゆっくりとしたテンポで切々としたメロディーを奏でる曲や、くねくねと変調する弦楽器の調べとパーカッシブなリズムに、しばし頭がクラクラ、船酔い状態。すると、スルリと男性の唄声が侵入してきた。もちろん、コブシたっぷりだ。ただし、朝鮮や日本とはちがい、湿り気はない。恨みっこなしのブルースだ。ディック・ミネが歌って「春を持たないエトランゼ…」を思い出した。organhttp://www.blogger.com/profile/05384115908245728235noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8455339083058244318.post-71944851767634370512017-05-05T19:30:00.001+09:002017-05-05T19:30:40.104+09:00あなたのラストプライスはいくら?<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEg_yNw0_FRB-2uvsEVfqEwkIdwCoKyruJJ_W21Udd1PjHhFZOjdl2uBNG61TzVpDoUi71a-HTUva2mLJYTBmVqC2GX93FyJBypCa99EW18BiaTGxX6M4uslE7Xbm8LJb7L1UFtSdbfRjomW/s1600/IMG_6325.JPG" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEg_yNw0_FRB-2uvsEVfqEwkIdwCoKyruJJ_W21Udd1PjHhFZOjdl2uBNG61TzVpDoUi71a-HTUva2mLJYTBmVqC2GX93FyJBypCa99EW18BiaTGxX6M4uslE7Xbm8LJb7L1UFtSdbfRjomW/s320/IMG_6325.JPG" width="320" /></a></div>
友人へ「ウズベキスタンへ行く」と言ったら、「それって、どこらへんでしたっけ」という質問が返ってきた。「中央アジア、アフガニスタンの上らへん」と答えると、「え!大丈夫ですか」と訊き返された。「ウン、地下鉄に乗るにも、警官がパスポートの提示を求めるくらいだから、治安はいいみたい」とガイド本に書いてあった通りに答えた。友人は「へーえ」と返したが、実際のところ、行ってみなけりゃわからない。<br />
首都タシケントに着き、馬鹿みたいに広い交差点で「さすがソビエト連邦の一員だったわけだ」、と呆れながら動画を撮っていると、グリーンの制服を着た男が近づいてきてiphoneを指差した。この国では、空港や駅では写真撮影は禁止なのだ。そして案の定、パスポートの提示を求められた(のだと思う、ロシア語だ)。彼は一瞥すると、パスポートを返してくれたので、恐る恐る暗く広い階段を降りた。そこはだだっ広い改札口で、チケット売り場はパチンコ屋の換金所のような小さな窓口。スム札を出し、ちびたプラスティックのトークンを受け取り、自動改札機に放り込んで無事に改札を通過。やれやれ。<br />
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<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjHoFP_onSY4vWwn9XYc_y1sa9bpf9y28JgNyFtIHnHimNBC2Zlpbs4soYjy_bczZ5vhVm3Pp2OVGkQN1R-7l3xBHPdE3tepqGc4mAGLzWZWlLyidZWNWOmxfzaozc58abgIGnuRIiSVSOZ/s1600/IMG_2697.JPG" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="240" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjHoFP_onSY4vWwn9XYc_y1sa9bpf9y28JgNyFtIHnHimNBC2Zlpbs4soYjy_bczZ5vhVm3Pp2OVGkQN1R-7l3xBHPdE3tepqGc4mAGLzWZWlLyidZWNWOmxfzaozc58abgIGnuRIiSVSOZ/s320/IMG_2697.JPG" width="320" /></a></div>
工芸博物館と市場を見たあとは、さっさとタシケントにおさらばして、列車でサマルカンドへ向かった。古代から、シルクロードの中心都市として栄えてきた「青の都」だ。予約したB&Bに着くと、若いスタッフが英語で陽気に出迎えてくれ、一安心(この国はいちおうウズベキスタン語なのだが、聞こえてくるのはロシア語が多く、「ダー」だったり「スパシーヴァ」しかわからんけど、両方喋れるひとが多いらしい)。なによりも、この宿から歩いて10分でレギスタン広場へ行けるからうれしい。14世紀以降建てられた美しく巨大な3つのメドレセ(イスラムの神学校)が鎮座する名所だ。今は神学校としての機能はなく、サマルカンドのシンボル的存在なのだが、その壮大なスケールからは、イスラムという”世界宗教”の威光を感じざるを得ない。ただ、モニュメントに対して冷淡な僕は、一応感心したあと、いそいそとアンティック屋を物色することにした。 それは、壮大なメドレセの中庭を囲んでズラリとある、当時の学生たちの部屋(広さ5坪くらいか)を利用した土産物屋の一軒だった。しかし、なにしろ売り口上がうるさい。さすがは砂漠の交易商人の末裔。アレヤコレヤと、次々に代表的なお土産物をまくしたてる。「僕はディーラーなんで、自分で選ぶ。しばらくほっといてくれ」、ときっぱり断ったら、他の客に矛先を向けたので、そのすきに店内の上から下までジロリと見分する。で、交渉の末、気に入った40年くらい前のスザニを3枚買ってしまったが、後で買うことになる田舎に比べると、かなり高めだった。この国では日常品からほぼ全て定価なし。観光客とみると、ふっかけるのは覚悟していた。それにしても、ヨーロッパの蚤の市よりも、ふっかけかたがスゴイ。<br />
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<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEh28Or7U7Yu_cIVb_xEx_lF-bVkYsmK9wciF92tP8FUwK7PhzhzGgGsNK42Ybex9jhdDCJxnDxfpuqTFPpgd9CvOpFcK1w_o2rTKOJaP7YGESqR1kgm9Zo3THIoZgqPij6yTUBbd44c8ZpO/s1600/IMG_6424.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEh28Or7U7Yu_cIVb_xEx_lF-bVkYsmK9wciF92tP8FUwK7PhzhzGgGsNK42Ybex9jhdDCJxnDxfpuqTFPpgd9CvOpFcK1w_o2rTKOJaP7YGESqR1kgm9Zo3THIoZgqPij6yTUBbd44c8ZpO/s320/IMG_6424.jpg" width="240" /></a></div>
まず値段を尋ねて、10ドルと言われたとしよう。対する、われら定価の国の住民は、半額の5ドルを提示するのが関の山だ。すると、相手は8ドルが限界だと返し、それで納得してしまうか、ちょっと粘って7ドルがいいところ。これでは、相手の思うツボ。まずは2ドルと言ってみよう。すると「えー、それは無理」と来る。「じゃ、さよなら」と言って立ち去る。すると、ほぼ間違いなく「ミスター、待って。いくらなら買う?」と背中へ問いかけてくる。ここで、あせってはならぬ。値段の開きが大きいから、と無視する。そうすると「ミスター、これはゲームだから、遠慮無く言って!」と来た。そうまでいうならと「3ドル」と言ってしまおう。すると相手は笑いながら「無理ね、あなたのラストプライスはいくら?」となる。そこで満を持して「4ドル」と言い放つ。そこで、ようやく「じゃ、5ドルね」と来て、ようやく商談成立の運びとなる。これをいちいち繰り返すのだから、かなわない。しかも、毎回この手でお互い納得してゲームセットとなるとは限らない。ラストプライスを言い放ったものの、相手は承諾せず、そのままドローとなる場合もある。で、宿に戻り、「やっぱり、買っとけばよかった」と後悔するのである。organhttp://www.blogger.com/profile/05384115908245728235noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8455339083058244318.post-68636777297194385952017-04-13T20:09:00.000+09:002017-04-13T20:09:18.120+09:00チェンマイ周辺の焼き物。<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEh7ecsJQiIlIpNTuo7jAh_6SqEM9pR5Oz8wbbbPWCrVj9eKBOkNCAgeRP-iktOVBpdOzyXMrUDuQAd0JgY9nn9uFpNSYFvEjf0KUmtMYf8U2wmfJUTxiHGJoFiJaCPOWZqFn3EJsCmBrXOs/s1600/IMG_2537.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEh7ecsJQiIlIpNTuo7jAh_6SqEM9pR5Oz8wbbbPWCrVj9eKBOkNCAgeRP-iktOVBpdOzyXMrUDuQAd0JgY9nn9uFpNSYFvEjf0KUmtMYf8U2wmfJUTxiHGJoFiJaCPOWZqFn3EJsCmBrXOs/s320/IMG_2537.jpg" width="320" /></a></div>
有吉さんのインスタレーションでsabieの器を見て、てっきり木製だと思ったら陶器だった。漆を塗りこみ、焼き締めたもので「陶胎漆器」と呼ばれ、日本が日本と呼ばれる前から存在したらしい。しかし、大陸から釉薬が到来して、奈良時代には廃れてしまったとのこと。そんなに古い手法だったんだ。どうりで、「木」や「土」っぽく感じるわけだ。考えてみると、「陶器」って人類最初のプロダクトだったわけで、その中でも、埃をかぶったようなイニシエの技に可能性を見い出すなんてクールだ。なにより器のカタチがイイ。西洋と東洋が、とても美しくバランスしている。後日、さっそく、作った花田さん夫妻にorganでの個展を提案し、快諾を得ることになった。ちょうど僕らは、チェンマイへ行く寸前だった。陶器と漆といえばアジア。個展を前に、なにか共通するものがありゃしないか、と思った。<br />
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<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgqAvpc-AYRaFeHWGG8004IvWsCaDM6-aKfLPKBL8B5fBM3LhyOUzTWzm4gdQdoX4U_ZLXTgnqdpLvSuTfQE5szKMaBt7mWSqBEA5U8gorgaV6eg6k08VCRmxGmb7TD33cFqwQs-_sP3WBo/s1600/IMG_2534.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgqAvpc-AYRaFeHWGG8004IvWsCaDM6-aKfLPKBL8B5fBM3LhyOUzTWzm4gdQdoX4U_ZLXTgnqdpLvSuTfQE5szKMaBt7mWSqBEA5U8gorgaV6eg6k08VCRmxGmb7TD33cFqwQs-_sP3WBo/s320/IMG_2534.jpg" width="320" /></a></div>
チェンマイは1292年から1939年まで、長くラーンナー王国の都だった。ラーンナーとは「百万の田」という意味で、国内はパンナー(千の田)と呼ばれる行政区分があり、その下にはパークナー(百の田)と呼ばれる村の連合体があった。ポイントは村の「自主性」が高かったといいうところで、ヒエラルキーもなかったという。つまり、中央集権が弱く、統一性が薄く、国家としてはかなり”ユルかった”のではないか。<br />
日本の骨董用語で「下手物(げてもの)」「上手物(じょうてもの)」という区別がある。前者は粗雑で大衆的、後者は高級で富裕層向きとされるが、チェンマイ周辺から出土する陶器には下手物が多い。たぶん、このユルい風土が生み出したものかもしれない。空気を読みすぎる国からやって来て、そんなユルい陶器に出会うのは、じつに悪くないものです。<br />
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<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjBRS9OYpAjNYnJqZO7MAlkAuhcWcNYohyDd_QpObZ5LblhudDJ_DIimEi_oVhlbdxuPxNpXxd6T8YMnrZ_WcQn6kp77rpuYmKsLLyYmQ2uhv5AUiVxgwo1n8XGW1jdeU1DCoVysEGcBPpA/s1600/IMG_2593.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjBRS9OYpAjNYnJqZO7MAlkAuhcWcNYohyDd_QpObZ5LblhudDJ_DIimEi_oVhlbdxuPxNpXxd6T8YMnrZ_WcQn6kp77rpuYmKsLLyYmQ2uhv5AUiVxgwo1n8XGW1jdeU1DCoVysEGcBPpA/s320/IMG_2593.jpg" width="320" /></a></div>
たとえば、最初の写真、”Phan”という窯で焼かれたであろう高さ11cmほどの耳付き花器。やや黄色がかった丸い胴が緩く凸凹している。ロクロではなく手ひねりでこしらえたのだろうが、両手の掌でころがすと、そのイビツさが変に心地がいいから困る。続いてふたつ目の高さ14cmほどの染付花器も、なかなか負けていない。”Kalong”というチェンマイ北部で焼かれたもので、こちらはたぶんロクロ。にもかかわらず、首にかけて、全体がやや傾いでいるのが写真でおわかりだろうか?お世辞にも上手いとは言いがたい絵付けも、見飽きないから不思議なもんだ。そして、最後のコブ牛。これについては、どこの窯と特定するのはむずかしいが、文句無しにラブリーである。<br />
ラーンナー王国の焼き物は、王女から家臣、そして僧侶から一般人までが、仏事&デイリーユースに使うためのもの。輸出されるためのものではなく、この地方で消費されるために作られた。だからなのか、マス・プロダクトへのプレッシャーを感じない。あえて”クラフト”と呼ぶのも恥ずかしいほどにセルフィッシュだ。organhttp://www.blogger.com/profile/05384115908245728235noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8455339083058244318.post-31013319197342290882017-04-06T15:51:00.000+09:002017-04-06T16:12:41.383+09:00チェンマイ、おさらい旅。<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjxskhz9bV1EtPjPGGQdEMuEloXn-R7ke6mXfZqHlycMSQTKGOgYtNh3z-Pv3V8swgkY1JwAonYu5T1z6N-LxOYfxrKnkXYuixbNBRm4fNFoBRs7oAJvXCVQIYAIYFUq6kaXpnrK9SABQQJ/s1600/IMG_5218.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjxskhz9bV1EtPjPGGQdEMuEloXn-R7ke6mXfZqHlycMSQTKGOgYtNh3z-Pv3V8swgkY1JwAonYu5T1z6N-LxOYfxrKnkXYuixbNBRm4fNFoBRs7oAJvXCVQIYAIYFUq6kaXpnrK9SABQQJ/s320/IMG_5218.jpg" width="320" /></a></div>
久しぶりにチェンマイへ行き、以前と同じホテルの同じ部屋に泊まり、ほぼ同じ店で買い付け、同じ食堂で食べてきた。ホテルは、建物や部屋にそれなりの経年変化はあるもののいたって清潔で、スタッフの自然な応対も良かった。フォークロアな店やアンティック屋も健在で(一軒は、郊外の古い農家に移転していたけど、それは店主の自主的な決断であり、正解)気に入ったものをじっくり選ぶことができた。<br />
そして、なにしろメシである。前回は岡本仁さんと一緒だったから、チェンマイ中の美味しい食堂を食べ歩く、めくるめく初体験ずくしだったから、今回はおさらい旅というわけだ。<br />
まずは「カオソーイ」。いわばカレーラーメンといったところだが、日本のそれとはかなり違う。カレー+ココナツミルク・スープ+卵麺&高菜の漬物+ライムたっぷり絞りというエキゾチックなしろもの。インドや中国、それに南国がミックスした、この地やラオス北部ならではのローカルな食べ物なのだ。久しぶりだったので、最初口にした時には「えっ、こんな味だっけ?」と思ったが、食べ進むにつれて夢中になってしまい、スープも全部飲み干してしまった。この複雑な味わいは、一体なんなんだろう?きっと、いろいろな民族が交錯したあげくの、国境を超えた味わいにちがいない。<br />
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<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiI7Cp8sCm1t58Ly4vDrV1G-rH8pCHTGtw-fvBmNewQiMaxFpOBnjw-9PgpJ0jjkXJOtvXXbuD7ki7OaM5v03W2Wen6svXyp-qQSUT_ic8RKlxG1W8DzGuANSB58MXjyUJlPnW7sK4Y91FI/s1600/IMG_5063.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiI7Cp8sCm1t58Ly4vDrV1G-rH8pCHTGtw-fvBmNewQiMaxFpOBnjw-9PgpJ0jjkXJOtvXXbuD7ki7OaM5v03W2Wen6svXyp-qQSUT_ic8RKlxG1W8DzGuANSB58MXjyUJlPnW7sK4Y91FI/s320/IMG_5063.jpg" width="320" /></a></div>
タイ料理は「辛さ、甘さ、酸っぱさ」のミックスといわれているけど、それに加えて、チェンマイや北部では「独特の香りと苦味」つまりハーブを多用した家庭料理が味わえる店がある。ただし、外観は思いっきり普通の国道沿いドライブインっぽかったり、何の変哲もない食堂だったりしてオシャレとは無縁。でも、そこで味わう料理はまさに医食同源、ハーブ(というか野草)も一緒に、自然の恩恵を体に取り込む感じがする。お馴染みになったパクチーやレモングラスはもちろん、コブみかんや、クミン、それにドクダミだって豚肉と一緒に食べると不思議に清涼感が増してイケる。おかげで、6日間の滞在中は日本にいる時と違い、朝のルーティーンもどっさり快調だった。<br />
前回訪れて、今ひとつピンとこなかったのがベジタリアン食堂。ホテルから歩いて10分とあって、相棒はホテルの朝食を無視ってイソイソと出かけ、感無量で戻ってきた。あまりにも幸せそうな彼女にほだされて、翌朝は僕も同行することに。で、結果はというと、野菜や豆腐、それにキノコなどを使った、とてもバラエティに富んだスパイシーな味は、とても良く工夫されていて、あらためてビックリ。ただ、どれも煮込み系なので見た目は似通っていて「甘いか辛いか、食べてみらんと分からん」というスリルが苦手なのかも。昨夜食べたコブ牛のステーキの噛めば噛むほど味が増す赤身が忘れられない自分は修行が足りない肉食老人なのか。<br />
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<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjkPb2ekqNUeIN6nwW-uweCGjR8BPzmZVv7zsLGS6uvDPNcaf1V5Er8pLZpA1sn0YU18H00hK3uNjssaTm0Mcjlgj66jvNlqMc-AQ4D04eTmjXA1guwIT7E1nxqjy04WCEiL8xK8hIvBzSi/s1600/IMG_4843.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjkPb2ekqNUeIN6nwW-uweCGjR8BPzmZVv7zsLGS6uvDPNcaf1V5Er8pLZpA1sn0YU18H00hK3uNjssaTm0Mcjlgj66jvNlqMc-AQ4D04eTmjXA1guwIT7E1nxqjy04WCEiL8xK8hIvBzSi/s320/IMG_4843.jpg" width="320" /></a></div>
そこにいくと、カオニャオ・マムアンは老若男女を問わずおすすめできるスウィーツといえる。ただし、熟したマンゴーとお米という組み合わせに、まずはドン引きする。我が日本人にとって、神聖なる主食であるコメと甘い果物を一緒くたに食するのは、どうにも腰が引けるのである。ところがドーシテ、これが美味しい。まず、コメと言っても少し塩味を利かせたもち米、それにお好みでココナツミルクを掛け、完熟の甘いマンゴーと一緒に口へ放り込む。すると予想だにしなかった至福の口内融和がはかられ、一気に完食へとひた走るはめになってしまうのだ。ぜひとも、ワルロット市場内でお試しあれ。やみつきになります。<br />
とまあ、コウ・ケンテツさんじゃないけど、試すとやみつきになるタイ北部の家庭料理ですが、これもひとえに”ヴァナキュラー”、つまり「土着」の精神から生まれたものじゃないかと思ったわけです。一方、「ローカル」というと、ややもすると「中心」から離れた地域の特性を利用した経済活動に起因する言葉のような気がする。そうではなく、”土着”って、そこにいる人達が自分らしく自立して生活をしてきたスタイル(様式)なのではないか、と思い知らされたチェンマイ旅だったわけです。organhttp://www.blogger.com/profile/05384115908245728235noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8455339083058244318.post-69602906865630692342017-01-13T13:25:00.000+09:002017-01-13T13:25:45.076+09:00ささやかな選択。<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
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<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiOA1j5Rw-N8Ot09GHA9aIubkLdVSJBmabD2i9rE6z5EOhfOZEve4USq-R9MukkTa3fUxMJF4gzcVmjV2RAl2ZooLO7FBp8VFT-ingkFz_xtvfFWnFnNjVijku6qjQZmNkvrACLfOMDn2aL/s1600/IMG_0916.JPG" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="240" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiOA1j5Rw-N8Ot09GHA9aIubkLdVSJBmabD2i9rE6z5EOhfOZEve4USq-R9MukkTa3fUxMJF4gzcVmjV2RAl2ZooLO7FBp8VFT-ingkFz_xtvfFWnFnNjVijku6qjQZmNkvrACLfOMDn2aL/s320/IMG_0916.JPG" width="320" /></a></div>
東欧にモダニズムを探しに行こうと思い立ったのはいいけれど、チェコやオーストリアは「東欧」ではなく「中欧」らしい。「東欧」はベルリンの壁が崩壊する前、つまりバルカン半島の国家群がソビエトの衛星国だったころの呼称なのだ。イデオロギーしだいで呼び方も変わるとは、なんだかくやしい。だったらいっそ足を延ばしてロシアのお隣ポーランドへ行ってみようか、と思ったら、とっさにアウシュヴィッツが浮かんだ。ウィーンから車で5時間、まあ許容範囲だろう。運転するのは奥さんだから、彼女さえOKしてくれれば行ってみたい。死ぬ前に一度は行ってみたい場所なのだから。奥<br />さんは、一つ返事で「いいね」と答えてくれた。<br /> オーストリアからチェコを抜けポーランドの高速に入ったら、制限スピードが130から140kmへと変わる。気が付かなければ、いつ国境を超えたのかまるでわからない、ここはEUなのだ。しかし、難民やテロ問題のせいで、このシステムも将来的にはなくなってしまうかもしれない。パスポート・コントロール無しで国境を行き来できることが、一瞬の間だけ、地球上で実験されたことがある、なんて将来歴史の教科書に載るのかもしれない。ナチス・ドイツが突然ここポーランドに侵攻したのは1939年だったか。無論パスポート無しだった。<br />
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<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhTNve81KBNrBvmLgpFsWUP6xHsMDQ65VcRSDLnbCk55IRWcINJXwaGYUUvwuP0_SRmGgpgIQEr8_Xfad_am8XGjmtAdJwBiCQBpoLjOs7Mk3cTGulXegSQ19l-BWWjREA2fwru3SbmD1dH/s1600/IMG_1069.JPG" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="240" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhTNve81KBNrBvmLgpFsWUP6xHsMDQ65VcRSDLnbCk55IRWcINJXwaGYUUvwuP0_SRmGgpgIQEr8_Xfad_am8XGjmtAdJwBiCQBpoLjOs7Mk3cTGulXegSQ19l-BWWjREA2fwru3SbmD1dH/s320/IMG_1069.JPG" width="320" /></a></div>
11月の東欧の地面は堅く冷たく、どんよりと重い雲の間から時おりお情けのように陽が差していた。目の前の広大な敷地に残る数個のバラック建ての小屋にびゅーびゅー寒風が吹きつける。ここは、ビルケナウ。隣接するアウシュヴィッツが手狭になり、「選別」された人々が限られた時間を過ごした絶滅収容所。虚無の光景。<br />家畜用の列車で運ばれてきた人々のうち、まず労働力と見なされない子供や老人、衰弱した人などはガス室へ直行。その割合は到着した人の70%ともいわれる。残った人々はユダヤ人、ロマ、政治思想犯、同性愛者などに仕分けされ、劣悪な環境の施設へ押し込まれる。その後も選別は定期的に行われた。素裸にされ、SSや医師の前を走らされるのだ。だれを選ぶのか。基準はあいまい。セレクターの気分次第。誰もが精一杯元気なふりをして走り抜けるしかない。人間は、選別されることに慣れていない(どちらかといえば、選別することを好んでいる)。そして「死のオーディション」をスルーした人にとっても、その後に「生活」が待っているわけでもない。<br />アウシュヴィッツの展示室には、到着した収容者の所持品が展示されている。名前と住所が書かれたトランク、皿やコップ、入れ歯、眼鏡、靴、ブラシ。どれも、ひとりひとりの生活に密着したものばかりだ。<br />
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<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEj6TGetR-G4ZcnqwvmNFs8hqoCIQzU_86GsynPE8Prkf_Aie6Ii7wQryCstWwzE5s6cv8OYee558u7z-DT3eX2TFJQH621N8mkY8ctDQ9DNyy54zyu0qun2LfDeyLmIx-R67Z-WUrtO0Rmu/s1600/IMG_0941.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEj6TGetR-G4ZcnqwvmNFs8hqoCIQzU_86GsynPE8Prkf_Aie6Ii7wQryCstWwzE5s6cv8OYee558u7z-DT3eX2TFJQH621N8mkY8ctDQ9DNyy54zyu0qun2LfDeyLmIx-R67Z-WUrtO0Rmu/s320/IMG_0941.jpg" width="240" /></a></div>
大江健三郎だったか、「生活とは習慣をつづけること」と言ったのは。朝起きると、いつも通り、顔を洗い、歯を磨き、トーストにバターを塗り、砂糖を少し入れた紅茶を飲み、新聞を開いて「あ~、やっぱり今日も総理大臣が変わってない」とため息をついてトイレに入る。そんなルーティーンは、思っている以上に大切なもので、案外「自由」というものに近い。それらは老いや病によって次第に変化し、制限を受け、最後には手放さざるをえない。ところが、ここでは列車から降りた瞬間から、剥奪されてしまう。山と積まれた色とりどりのホーローのコップやジャグには、今も、ひとつづつのささやかな選択が残されたままである。organhttp://www.blogger.com/profile/05384115908245728235noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8455339083058244318.post-35947010459839281292016-12-13T13:10:00.000+09:002016-12-13T20:23:26.635+09:00ウィーン世紀末の試み。<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEi_WzHjnWj-HKbaRgC26Ssq-6pw_FO-QeTAcQi3cegVm71nxwzgBjY_pDxWY-iPYIKsp7fp61_DyfHINUeXeAsHRp5V_m-TDG7wDMfIIIWhW8IG49VuoLrtDNZOtUvbm9O4_aKkZNHuMFvr/s1600/Josef-Hoffmann.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEi_WzHjnWj-HKbaRgC26Ssq-6pw_FO-QeTAcQi3cegVm71nxwzgBjY_pDxWY-iPYIKsp7fp61_DyfHINUeXeAsHRp5V_m-TDG7wDMfIIIWhW8IG49VuoLrtDNZOtUvbm9O4_aKkZNHuMFvr/s320/Josef-Hoffmann.jpg" width="266" /></a></div>
「装飾は犯罪である」と言ってのけたアドルフ・ロースに対し、同時代のヨーゼフ・ホフマンは装飾そのものは否定せずに、装飾にヴィジョンを持ち込もうとした。そのために設立したのが「ウィーン工房」。といっても個人アトリエではなく、正式名称は「ウィーン工芸美術家生産協同組合」。建築、インテリア、家具、照明、器など、それまでは富裕層しか買えなかったスグレモノを、さまざまなデザイナーと職人が協力して、安価で洗練された作品として生産することを模索した社会主義実験ともいえる。しかも、その製品を自分たち自身で販売するという、当時としては画期的な試みだったのだ。<br />
その母体となったのは1897年世紀末ウィーンの画家として有名なグスタフ・クリムトらが結成した「ウィーン分離派」と呼ばれる芸術家グループ。その立ち上げに参加したホフマンは「セセッション館」と呼ばれる、世界初のインディペンデントなギャラリーを開設する。制作から、販売、プロモーションまでを統一したいというヴィジョンだ。これは、同じくイギリスの「アーツ&クラフツ」から影響を受け、同じようなヴィジョンを持ったバウハウスが登場する以前だから驚く。<br />
「セセッション館」の比較的広い1階スペースは、あいにく何かの展示の準備の真っ最中らしく、資材があちこちに散らばっていた。ぼくらは地下にあるクリムトの壁画や、2階の企画展を観てしまうと、このこじんまりした通称”黄金のキャベツ”をあとにしようかと1階のエントランスに向かった。そして、準備中とおぼしき広いスペースの向こう側をドアのガラス越しにもう一度覗いてみた。すると、入り口から真正面、距離にして30メートルほど先にスッポリと開口部が見え、そこから庭の木々と明るい陽光が差し込んでいて、まるで写真だ。<br />
「やられた、これは作品なんだ!」 <br />
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<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEj7_jVs6vGNJ1PUxWCXWKKUwkIK-1WPXAX0otwnij1xNEEXaFHyevuK7ZebWNJDSkvElk0U95qDyjkp4UwbMJdbKizmxzIkCcaJszf78K10Hsr73XR9quW1MY9cY-grYi9lj24x7PTvs4SU/s1600/IMG_0799.JPG" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="217" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEj7_jVs6vGNJ1PUxWCXWKKUwkIK-1WPXAX0otwnij1xNEEXaFHyevuK7ZebWNJDSkvElk0U95qDyjkp4UwbMJdbKizmxzIkCcaJszf78K10Hsr73XR9quW1MY9cY-grYi9lj24x7PTvs4SU/s320/IMG_0799.JPG" width="320" /></a></div>
「準備中」に見せかけたスペースはまるごとマルセル・デュシャンのレディメイドやクルト・シュヴィッタースのメルツ芸術やダダイスム、そうそう、ドナルド・ジャッドのミニマリズムに大竹伸朗も紛れ込んだようなインスタレーションだったのだ。<br />
作者はベルリン在住でグルジア出身の女性アーティスト、テア・ジョルジャッツェ。彼女によって発見された日用品や廃棄物と、彼女が制作した作品が静かに再構成され、ジャストな位置に配置されている。しかし、どれが「ファウンド・オブジェクト」で、どれが「制作物」なのか判然としない。これは、さまざまな緊張関係の中で生きていかざるをえない現代生活への「気づかせ」なのか、それとも直感的で個人的なスタイルか?ネットで見つけたインタビューでのテアは、黒髪と黒い瞳にハッキリとした眉毛が印象的な美人(アッバス・キアロスタミが生きていたら、きっと映画に起用したに違いない)。ヨーゼフ・ホフマンが模索した「ヴィジョンとしての装飾」は、形を変えながらも、このセセッション館で今もなお「続行中」なのだ。ウィーンに行く機会があれば、ぜひ覗いてみてください。<br />
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<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEifynvuHhB6v0P-a4vvsCrSsVvffUR5L5C_cmWZb1zSJLncWFai0pkgms8tWwrNkVlI_OHin2hAg2P0q9SYnHNIj8xlfeayflwVBxWJUG8I9Vu4sP_T27aL73LA_yi8BiDUzUZ-Hb43W0Yq/s1600/IMG_1374.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="319" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEifynvuHhB6v0P-a4vvsCrSsVvffUR5L5C_cmWZb1zSJLncWFai0pkgms8tWwrNkVlI_OHin2hAg2P0q9SYnHNIj8xlfeayflwVBxWJUG8I9Vu4sP_T27aL73LA_yi8BiDUzUZ-Hb43W0Yq/s320/IMG_1374.jpg" width="320" /></a></div>
ところで、日本に帰ってきてふとルーシー・リーを思い出したのは、彼女がウィーン出身だったから。急いで作品集を引っ張りだして拾い読みしてみた。すると、ルーシーがウィーンの美術工芸学校で初めて陶芸を学んでいたころ、その学校と関係の深かったヨーゼフ・ホフマンが彼女の作品を高く評価していたくだりが見つかった(実はアンダーラインを引いていたくせに、すっかり忘れていたのだけど)。そればかりか、彼が設計したブリュッセルのストックレー邸に、クリムトの壁画とともにルーシーの作品を配置し、もちろんウィーン工房でも販売し(ほとんど売れなかったらしいが)、その後ヨーロッパ各地の展覧会に出品して賞も得ている。つまり、ホフマンはルーシー・リーのスタイルを最初に発見した人。なぜかエヘン、と言いたくなった。それ以来、エンドレスな陶芸への道を歩むことになるルーシーにとって、「世紀末ウィーン」こそがスタートラインだったのだ。<br />
<br />organhttp://www.blogger.com/profile/05384115908245728235noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8455339083058244318.post-17488097287483386512016-11-26T18:16:00.000+09:002018-01-26T09:39:52.445+09:00中欧は民族の臨界点なのだ。<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjj7KdR_-DawKjakwf7lb3dhVqvB6Au42ziOrUOGoyjj60TqXMrfT8HJzDfZ8-iohlCfoJae-IO0MyDUUPDgaDwLUZYhnNrX-zSrMzQJpvY62caBYdB_cFFj7SXWaXNvSQVGAEvvn_B2ScK/s1600/2005-08-04.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjj7KdR_-DawKjakwf7lb3dhVqvB6Au42ziOrUOGoyjj60TqXMrfT8HJzDfZ8-iohlCfoJae-IO0MyDUUPDgaDwLUZYhnNrX-zSrMzQJpvY62caBYdB_cFFj7SXWaXNvSQVGAEvvn_B2ScK/s1600/2005-08-04.jpg" /></a></div>
<br />
チェコとウィーンにやって来たのは、モダニズム寸前のムーヴメントを感じてみたかったから。その中心にいたのがアドルフ・ロースという建築家らしい。彼はオーストリアの人だが、チェコのプラハには代表作の一つである<ミュラー邸>があるし、ウィーンには<ロース・ハウス>がある。ここらへんはハプスブルク王国だったわけだ。写真で見る限り、老けたブライアン・フェリーにそっくり。つまり悲しくダンディな顔である。<br />
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ロースは著作のなかで「装飾は犯罪である」と言ってのけ、<wbr></wbr>当時のヨーロッパ建築界をおどろかせた。1908年だから、<wbr></wbr>コルビュジェの「住宅は住むための機械である」<wbr></wbr>発言の14年前のこと(ちなみにコルビュジェは、<wbr></wbr>ロースに触発されたと語っている)。<wbr></wbr>ふたりの着眼点は似ているが、<wbr></wbr>ロースのほうがより直接的な表現だけに反発も大きかったようだ。<wbr></wbr>プラハもウィーンも神聖ローマ帝国の首都だった街。<wbr></wbr>権威的で御大層な装飾だらけの宮殿や教会などが立ち並んでいるこ<wbr></wbr>とこそが”ウリ”だと信じて疑わない人々の反感を買ったのだ。<wbr></wbr>実際、<ロース・ハウス><wbr></wbr>は装飾がないという理由で建築許可が降りなかったという。<wbr></wbr>これに対して、<wbr></wbr>窓にプランターを付けることで許可を取ったらしい。<wbr></wbr>ロースという人はウィットの持ち主でもあったようだ。<br />
このロース・ハウス、今見ると特にモダンというわけでもなく、<wbr></wbr>どちらかといえば端正でクラシカルなたたずまいで、<wbr></wbr>まわりとそんなに違和感がない。エッフェル塔もそうだけど、<wbr></wbr>建設当時にはケンケンガクガクでも、<wbr></wbr>時間が経つと馴染んでしまうのは、人のほうが「経年変化」<wbr></wbr>するからだろう。</div>
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<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEi2bHMiC0Xr43_5RsQCB7K_G1Hp98WYBe4SONUTrwK4iuyb07FKJ38zSZ7Y5y99bL8D6RhmL_L3LwQaaxcprSd2mB67VSyvjIaXLwqGlJCfznEayGi-Od7ucbBX1R8_fa6jX36jVmmuo7-c/s1600/IMG_0840.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEi2bHMiC0Xr43_5RsQCB7K_G1Hp98WYBe4SONUTrwK4iuyb07FKJ38zSZ7Y5y99bL8D6RhmL_L3LwQaaxcprSd2mB67VSyvjIaXLwqGlJCfznEayGi-Od7ucbBX1R8_fa6jX36jVmmuo7-c/s320/IMG_0840.jpg" width="240" /></a></div>
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一方、ミュラー邸はといえば、外見はかなりモダンだが、<wbr></wbr>一歩内部に入るとなかなかどうして凝っている。<wbr></wbr>後日調べてみると建築用語で「ラウムプラン」と呼ぶらしく、<wbr></wbr>部屋ごとに段差をつけることで連続的に構成した空間なの<wbr></wbr>だ。1階大理石の比較的広いラウンジは主人と来客が主役、<wbr></wbr>半階上にはご婦人方専用のこじんまりしたティールーム、<wbr></wbr>その他さまざまな用途の部屋が、ひとが移動するに連れて忍者屋敷のように<wbr></wbr>現れる。そして一番上のバルコニーへ通じるとっておきの部屋は、<wbr></wbr>なんと日本風エキゾ!その東洋趣味の部屋で突然ガイドさんから「<wbr></wbr>あなたにはこの部屋は、日本、それとも中国、<wbr></wbr>どちらに見えますか?」<wbr></wbr>と参加者中唯一のジャパニーズに質問を浴びせる。一瞬答えに窮<wbr></wbr>したが、素直に「どちらにも見えない」と答えた。ぼくには<wbr></wbr>金持ちの”風流趣味”にしか見えない。<wbr></wbr>個人の趣向やライフスタイルを反映したまでで、<wbr></wbr>装飾じゃないというわけか。<br />
若くしてアメリカへ渡り、<wbr></wbr>シカゴの高層ビルを見て影響を受けたロースは、<wbr></wbr>旧弊なヨーロッパと、<wbr></wbr>工業化で資本主義の道を独走するアメリカとの差に驚いただろう。<wbr></wbr>王権や教会の権威とは無縁の市民社会の急速な発展は、<wbr></wbr>プラグマティックで自由な新興ブルジョワジーの住宅建築でモダニ<wbr></wbr>ズムへの道を開いたのだ。<ミュラー邸>はその一例なのだろう。<wbr></wbr>ゴシックでもバロックでもビクトリアンでもなければ、アール・<wbr></wbr>ヌーヴォーでもない。時流に乗って流行を取り入れるという「<wbr></wbr>ポピュリズム」への異議申し立てだったのだろうか。でも、”<wbr></wbr>ジャポニズム”って当時の流行じゃなかったっけ?</div>
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<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgF7X_hGeTUhUyY9XBt1pWNuM-vahd5EfKA5RouP7YOgJjfR1Gdb8SPsH3VBHrkkYECdLAw2NkgXt4BcFFkpb3652ErOtpEo_YqeHmXnbacDKfi8qEGwYDCUVzi51ErqYkDiKuvt3omk-P6/s1600/440px-Ludwig_Wittgenstein.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgF7X_hGeTUhUyY9XBt1pWNuM-vahd5EfKA5RouP7YOgJjfR1Gdb8SPsH3VBHrkkYECdLAw2NkgXt4BcFFkpb3652ErOtpEo_YqeHmXnbacDKfi8qEGwYDCUVzi51ErqYkDiKuvt3omk-P6/s320/440px-Ludwig_Wittgenstein.jpg" width="218" /></a></div>
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アドルフ・ロースの友人にルートウィッヒ・<wbr></wbr>ウィトゲンシュタインがいる。<wbr></wbr>柄谷行人の著作の中で何度も言及された哲学者で、<wbr></wbr>寡聞にしてよく知らないが、変わり者だったようで、デビッド・<wbr></wbr>バーンに似た深刻そうなルックスを含め、気になる人。<wbr></wbr>今回一瞬だったけど訪れたのは、<wbr></wbr>そんな哲学者がロースの弟子と一緒に姉のために設計した住宅。<wbr></wbr>現在はブルガリア大使館の文化施設となっているのだが、<wbr></wbr>外部も内部もモダンをすっ飛ばして恐ろしく無装飾。<wbr></wbr>松岡正剛によると、ウィトゲンシュタインは「<wbr></wbr>わたくしの言語の限界が、わたくしの世界の限界を意味する」<wbr></wbr>と結論した人らしい。背の高いガラス窓だらけで、<wbr></wbr>しかもカーテンさえ付けないというミニマリズムは、<wbr></wbr>ほんとうにここに人が住んでいたんだろうかと思わせるほど限界的<wbr></wbr>に素っ気ない。そういえば、<wbr></wbr>受付の若い女性の受け答えもクールだった。<wbr></wbr>ゲルマン人の冷静さかな。</div>
<div dir="ltr">
蛇足だが、<wbr></wbr>ウィトゲンシュタインとヒットラーは小学校で同級生だったらしい<wbr></wbr>。駄蛇足だが、ウィトゲンシュタインはユダヤ系、ロースはゲルマン系、中欧は民族の臨界点なのだ。</div>
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<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgdIfaPel9zmmFcTGvAX9TYMpILMVq9dq3gHLpbswZdqW2x7S4U6hAdGNlB5qi3sDnAczxgSyr0RWN8vnzhNhMf8wO2w6JwNhA_NfECLghajcPFCnq3Lkte80l1zvnHo59AOI8OOcB9fh3_/s1600/IMG_1536.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgdIfaPel9zmmFcTGvAX9TYMpILMVq9dq3gHLpbswZdqW2x7S4U6hAdGNlB5qi3sDnAczxgSyr0RWN8vnzhNhMf8wO2w6JwNhA_NfECLghajcPFCnq3Lkte80l1zvnHo59AOI8OOcB9fh3_/s320/IMG_1536.jpg" width="320" /></a></div>
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organhttp://www.blogger.com/profile/05384115908245728235noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8455339083058244318.post-56926166612777818002016-11-19T23:46:00.000+09:002018-01-26T10:02:06.801+09:00社会主義の乗り物食べ物。<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEg21HZE7YP_LvfsUjw0dGXBURjdmr0DmdAgMZIgwqxS_Oo_kGUpW3LMx5AMGSzNfHWAAxFy5kOWgGSxsPAg5yOFEufdZA1QAChTZHy9PgdCek2zmrKt89FzR4faZ6Fx33wcshg9AhMDz45p/s1600/IMG_0559.JPG" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="240" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEg21HZE7YP_LvfsUjw0dGXBURjdmr0DmdAgMZIgwqxS_Oo_kGUpW3LMx5AMGSzNfHWAAxFy5kOWgGSxsPAg5yOFEufdZA1QAChTZHy9PgdCek2zmrKt89FzR4faZ6Fx33wcshg9AhMDz45p/s320/IMG_0559.JPG" width="320" /></a></div>
プラハでの4日間は、地下鉄とトラムを楽しんだ。ヘルシンキもそうだけど、トラムの走る街はホッとする。レトロな車両が最新型に混じってまだまだ現役で走り回っている風景を見ると、ヨーロッパに来たんだなー、と思ってしまう。町並みを眺めながら乗っていて、ふとアンティック屋が目に入ると、思わず途中下車してしまう。遠距離だと地下鉄を使うしかないけど、地下鉄は景色が見えないので、方向感覚がなくなり、地上に出た時に一体全体どっちに向かえばいいのかわからず、けっこう往生する。<br />
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<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgxr6nog9HuZ0m0iSaE1E1ThWbSIomvEX9XRrfj1oY9PZ5lkhtlZEBfJErYl1xgIPAIb6_5ER3VZUz5hyphenhyphenA1K0reiN6WL8eiyV_HV0Lh5WbBp4vSQ75o7vUiLgWYm3TX9GdF-9BThx0vrCX7/s1600/IMG_0623.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgxr6nog9HuZ0m0iSaE1E1ThWbSIomvEX9XRrfj1oY9PZ5lkhtlZEBfJErYl1xgIPAIb6_5ER3VZUz5hyphenhyphenA1K0reiN6WL8eiyV_HV0Lh5WbBp4vSQ75o7vUiLgWYm3TX9GdF-9BThx0vrCX7/s320/IMG_0623.jpg" width="240" /></a></div>
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プラハの地下鉄はフューチャリステイックだ。<wbr></wbr>かなりの深さにあるようで、エスカレーターがやたらに長く、<wbr></wbr>急角度で一気に異界まで連れて行かれそうでマジ怖い。<wbr></wbr>スピードだって日本のに比べるとかなり高速だ。<wbr></wbr>エイヤッっと飛び乗り、手すりにつかまり、<wbr></wbr>着地点ではすばやく飛び降りることが肝要なのだ。で、<wbr></wbr>地底に到達したら、目の前にまるでスタンリー・<wbr></wbr>キューブリックの映画のような世界が待っているから驚いた。<br /> チェコは、ソ連が進めた東欧諸国の共産主義化の影響下、「<wbr></wbr>プラハの春」などで民主化への運動も盛んだったわけで、<wbr></wbr>中庸的な社会主義を目指した国だったのだろう。<wbr></wbr>このSF的な地下鉄の光景には、<wbr></wbr>そんな社会主義のインフラ整備力を見せつけられる。<wbr></wbr>まあ今となっては共産主義の夢の果て、<wbr></wbr>という感が無きにしもあらずだけれど。<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
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話は変わるけど、<wbr></wbr>博多駅の陥没事故の復旧は素早かった。メディアは「<wbr></wbr>素晴らしい日本の技術力」などと自賛するが、<wbr></wbr>けが人が出なかったのはとてもラッキーだったわけで、<wbr></wbr>事故原因の検証はキチンとなされるのかな。「<wbr></wbr>日本一住みやすい街FUKUOKAのさらなる発展」などと、<wbr></wbr>経済発展を優先するのではなく、<wbr></wbr>社会資本としてのインフラには市民も参加するシステムが必要では<wbr></wbr>ないだろうか。<br /> <div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEie_duWi3btmoYWh4keWsnQPGayNGsjC4tdSz_LPRQNCfXhMghckICPyhnGKPFJvWsIAN9BGu7y0cXc376L6pMnPRgj3E_Uit6EDRB8dv0LTKs3VkjEBfzq5BhMmSRZXGG2ArylcfndLGDn/s1600/IMG_1167.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEie_duWi3btmoYWh4keWsnQPGayNGsjC4tdSz_LPRQNCfXhMghckICPyhnGKPFJvWsIAN9BGu7y0cXc376L6pMnPRgj3E_Uit6EDRB8dv0LTKs3VkjEBfzq5BhMmSRZXGG2ArylcfndLGDn/s320/IMG_1167.jpg" width="320" /></a></div>
もうひとつチェコの社会主義の名残といえば大衆食堂だ。<wbr></wbr>観光地なのに格安、ただしセルフサービス。<wbr></wbr>豚のシチューやカツレツ、<wbr></wbr>ソーセージにザワークラウトなどの他に、よくわからない地味な料理<wbr></wbr>がイッパイ並んでいる。いわば学食のように、おばさんに「コレ」<wbr></wbr>と指差しで注文するから楽である。味の方は、まずくはないけど、<wbr></wbr>といったところ。ここは、<wbr></wbr>大賑わいの大聖堂のすぐ近くの路地にあるのだが、<wbr></wbr>観光客よりもっぱら地元のひとで賑わっている。なかには、<wbr></wbr>修学旅行生らしき一団が並んでいたりもする。多分、「昔はこんな食堂ばかりだったのです」<wbr></wbr>という社会科の見学なのかもしれない。実際、観光客向けの「<wbr></wbr>共産主義ツアー」をプラハに限らず、<wbr></wbr>旧共産圏だった都市でけっこう見かける。”<wbr></wbr>レーニンが隠れていた部屋”なんて、<wbr></wbr>見てみたいと思わないでもないけど。</div>
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organhttp://www.blogger.com/profile/05384115908245728235noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8455339083058244318.post-48912158985736403122016-11-12T16:08:00.000+09:002016-11-13T09:16:18.499+09:00一瞬だけ花開いた建築とデザインのムーヴメント。<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEidxeTldh6jmxVBlSkF7bgB0zb_sSUPVuj8diiHPgXIjcPq6GG7VK1utRfstqAKTvm5Ji4j7foLqQh2HkuPObShkf1rs4bEWPG8tZkDLzATXsZwrJFTyJJn-cBGSQQnDYmTa5UZPZJs-ZEE/s1600/IMG_0393.JPG" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="240" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEidxeTldh6jmxVBlSkF7bgB0zb_sSUPVuj8diiHPgXIjcPq6GG7VK1utRfstqAKTvm5Ji4j7foLqQh2HkuPObShkf1rs4bEWPG8tZkDLzATXsZwrJFTyJJn-cBGSQQnDYmTa5UZPZJs-ZEE/s320/IMG_0393.JPG" width="320" /></a></div>
プラハの街を歩きながら「ここはチェコスロバキアではないゾ」と自分に言い聞かせた。東京オリンピックで、しなやかな肢体と優雅な笑顔で日本中を沸かせた”体操の名花”チャスラフスカは、とっくの昔の話だ。「鉄のカーテン」はなくなり、スロバキアは別の国となった。元祖ヒッピーとも言える、放浪の民=ボヘミアンを生んだチェコという国にやってきたんだってば。<br />
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ヨーロッパの主要な街がそうであるように、<wbr></wbr>プラハにもモルダウ川という河が中央を流れている。<wbr></wbr>それを挟んで西には14世紀以来、<wbr></wbr>神聖ローマ帝国の首都だったプラハ城がそびえ、<wbr></wbr>東には旧市街が広がっていて、そういわれればローマっぽいかも。<wbr></wbr>街中にはロマネスクからゴシック、<wbr></wbr>ルネサンスにバロックと様々な時代の建築物が残っていて、<wbr></wbr>建築好きにはたまらないのだそうだが、ぼくには関係ない。<wbr></wbr>目指すのは「チェコ・キュビズム」。<wbr></wbr>20世紀初頭に一瞬だけ花開いた建築とデザインのムーヴメントだ<wbr></wbr>。</div>
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<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgfAxAd5KZ82ejb8GiOAsNEIYqPUWOs8CkYv7HvL-0CR5HyViJTi2kDMtABJSm9xVfNX4axfI6FE50pWD_1kXgOH3wRIhycWcaKZtg0GwPMqeLEu1OJ3QyrXaSYWVAT4ql8NWl3te80yWqL/s1600/IMG_0401.JPG" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="240" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgfAxAd5KZ82ejb8GiOAsNEIYqPUWOs8CkYv7HvL-0CR5HyViJTi2kDMtABJSm9xVfNX4axfI6FE50pWD_1kXgOH3wRIhycWcaKZtg0GwPMqeLEu1OJ3QyrXaSYWVAT4ql8NWl3te80yWqL/s320/IMG_0401.JPG" width="320" /></a></div>
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まずは1912年に設計された「ブラック・マドンナ」<wbr></wbr>という4層のビルへ。名前からして、挑戦的ではないか。3,<wbr></wbr>4階は「キュビズム美術館」。ギクシャクとした脚や、<wbr></wbr>幾何学的な形をした家具や椅子などが並んでいる。<wbr></wbr>ウーンかなり変だ。とはいっても完成度は高く、<wbr></wbr>ちゃんと座れるし、機能する。精緻な作りには、<wbr></wbr>この地の職人技が生かされているし、絵画にはジョセフ・<wbr></wbr>チャペックなど、<wbr></wbr>新しい芸術運動を起こそうとした当時の気運が感じられる。「<wbr></wbr>キュビズム」というネーミングこそピカソの影響かもしれないが、<wbr></wbr>「チェコ・キュビズム」には建築や家具などを通し、<wbr></wbr>成熟した市民社会感覚から生まれた、<wbr></wbr>独自の実験性があってかなり楽しめた。そのうえ、<wbr></wbr>ビルの1階には、その名も「Kubista」<wbr></wbr>というショップがあって、<wbr></wbr>日本ではなかなかお目にかかれない本や陶器などを買い付けてくた<wbr></wbr>びれる。なので、2階にあるキュビズム様式のカフェで休憩。<br />
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<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEisWQryJusezkszohUE-878n4KkHGenASSx6ntr8bYSwHTq_BJKZWct3cuPcIHMCMwOBPvPDKYUMrk_6873ZNAPR3IJPGvWkPL5Fajp88u1aFKePFg8oVS08LmbcVKsXRFaKDSzcvaLwSEl/s1600/IMG_0556.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEisWQryJusezkszohUE-878n4KkHGenASSx6ntr8bYSwHTq_BJKZWct3cuPcIHMCMwOBPvPDKYUMrk_6873ZNAPR3IJPGvWkPL5Fajp88u1aFKePFg8oVS08LmbcVKsXRFaKDSzcvaLwSEl/s320/IMG_0556.jpg" width="240" /></a> </div>
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さていよいよ建築めぐり。まずモルダウ川に添っていくつかのキュビズム建築を見る。でも、風景に馴染んでいるからか、そう言われなければ見過ごしたかもしれないな。しかし、1913年にヨゼフ・ホホルが手がけた集合住宅はさすがにカッコ良かった。傾斜した鋭角的な角地という立地を利用したアパートメントは、まるでボヘミアン・グラスのようにエッジーだ。ここには曲線だらけのアール・ヌーヴォーから、直線を使ったアールデコの装飾性への決別がある。いわばモダニズム直前のシンプルネスというわけだ。しかし、残念ながらその後のチェコ・キュビズムは、「ロンド・キュビズム」といわれるゴテゴテとした装飾性へ逆行することになってしまい、その革新性は歴史の中に埋没することになる。まあ、その後モダニズムがユニヴァーサルになった後、「ポスト・モダン」という名前で再登板することになるのだけど...。</div>
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organhttp://www.blogger.com/profile/05384115908245728235noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8455339083058244318.post-86687611859092782922016-10-25T18:36:00.000+09:002016-10-25T18:44:24.412+09:00疾走する庶民。<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEi7WXDrOAxQ9kr1vKXJ_ZNkSogmpgaAOjK5_j6_gHVzG0Uw7WDB94H8YI5uMz5maWM4-O6ARLsZbMcyOFiwdrnnn6V211riwyVbj00Z5ZOW57jdoVdRANANPe7TrC7YbIGBAktmfxjXdQ1H/s1600/IMG_0327.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="240" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEi7WXDrOAxQ9kr1vKXJ_ZNkSogmpgaAOjK5_j6_gHVzG0Uw7WDB94H8YI5uMz5maWM4-O6ARLsZbMcyOFiwdrnnn6V211riwyVbj00Z5ZOW57jdoVdRANANPe7TrC7YbIGBAktmfxjXdQ1H/s320/IMG_0327.jpg" width="320" /></a></div>
平野太呂さんが新作写真集『LOS ANGELS CAR CLUB』をひっさげて福岡へやってきた。そこで、TAG STAで”本の即売と、お話の会”をやりましょうということになり、相手を努めさせてもらった。お題は「僕らはどうしてこんなにアメリカに影響されちゃったんだろう」。<br />
これはロサンゼルスのハイウェイを走る車だけで構成された写真集だ。それも高級車ではなく、庶民の足か仕事兼用がほとんど。洗車なんて無縁、色違いに修理されてしまったフェンダーがボコボコだったり、年季の入ったビーイクルばかり。それが妙にカッコいい。今ではすっかり見なくなった日本車だってまだまだ現役だ。運転しているのは白人、メキシカン、黒人、イスラムのチャドルを被った女性もいる。かれらはまっすぐ前を見ながらひたすら運転する。空も道路も、乾いたカリフォルニアの空気を映して白っぽい。車は疾走しているのか静止しているのか判然としない。宙に浮いているかのようにも見える。<br />
40年前にぼくは『MADE IN USA カタログ』という雑誌で、アメリカの「これでもか!」というほどのモノやアイテムにはじめて触れた。なかでもワークウエアのデザインや素材感を切望した。太呂さんが写した写真をその延長戦のようだと思った。疾走する庶民の瞬間だ。<br />
太呂さんはスケボー少年だったらしい。”スピード移動する道具”という意味では、小さく無防備なクルマである。それを駆って、動体写真への感を養っていたのだろうか。100キロ超えの車が走る4車線のハイウェイで「これぞ」という車を発見し、追走し、並走し窓越しにパシャリとやるのはそんなに簡単ではなかったらしい。乗っている人が何を考え、悩み、期待しているのか、ぼくらは2車線離れたレンズを通して、少しだけ想像するしかない。<br />
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<br />organhttp://www.blogger.com/profile/05384115908245728235noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8455339083058244318.post-47682996688535040242016-10-18T09:46:00.001+09:002018-01-26T10:18:40.440+09:00アイノ・アールトのこと。<div class="ii gt adP adO" id=":nl">
<div class="a3s aXjCH m157c1d1331e930e5" id=":o0">
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<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhHG4WmWXqLJ3ISUV-NbvO9wITz-z9O9BK3xxP3GPAZwXb4TMrbAbyXIzc44ZuFjKaYYKJXQp1PWGP_EZqRzZFZgvjwQ-Rfxwltx6EBbmHNtMmSLRynmMA1JFBeM-gDAoXgx7g6ixp2TdZB/s1600/IMG_9829.JPG" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhHG4WmWXqLJ3ISUV-NbvO9wITz-z9O9BK3xxP3GPAZwXb4TMrbAbyXIzc44ZuFjKaYYKJXQp1PWGP_EZqRzZFZgvjwQ-Rfxwltx6EBbmHNtMmSLRynmMA1JFBeM-gDAoXgx7g6ixp2TdZB/s320/IMG_9829.JPG" width="320" /></a></div>
<div dir="ltr">
パイミオのサナトリウムではアルヴァ・<wbr></wbr>アールトがデザインした有名な椅子をいろいろ見ることができる。<wbr></wbr>そのなかでひっそりと異彩を放つスツールがある。<wbr></wbr>スチール製の3本の脚の2/<wbr></wbr>3が接地面で円を描いて連結されたこの美しいスツールは、<wbr></wbr>アルヴァの妻であるアイノがデザインしたもの。ぼくは以前から、<wbr></wbr>アイノがデザインした同心円を描く"湖の波紋"<wbr></wbr>のようなガラス製品は大好きだったのだが、<wbr></wbr>彼女こそが建築家アルヴァ・<wbr></wbr>アールトにとって無くてはならない存在だったことを知ったのはつ<wbr></wbr>い最近のこと。<br />
1910年代、<wbr></wbr>ふたりはヘルシンキ工科大学で建築を学んでいた。<wbr></wbr>先輩のアルヴァは快活で議論好きで学内でも目立つ存在、<wbr></wbr>かたやアイノは内気で控えめと対照的。<wbr></wbr>そんなふたりが結婚したのは1924年、<wbr></wbr>卒業したアイノがアルヴァの最初の建築事務所で働き始めてほどな<wbr></wbr>くのことだった。アイノのドラフト(製図)<wbr></wbr>の腕前は卓越していたのだ。彼らの仕事は平等で対等で、<wbr></wbr>完成した設計図には二人がサインをしたばかりか、<wbr></wbr>アイノの名前を先に記していたという。さすがなアルヴァ。ル・<wbr></wbr>コルビュジェのシャーロット・ペリアンへのクールな対し方とは違う(<wbr></wbr>ふたりは夫婦ではなかったけれど)。どちらかというと、<wbr></wbr>チャールズとレイ・イームズ夫妻による「協働スタイル」に近い。<br />
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<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjJga1kH6_nMLyFJMYYzJj4qv3mRTtQjnBm6KiEWiA13LfEpQDOzwou2GIifkQhkJn6tNq_wnaGBCDEBxctYLZlgrVf-Bal3hgb1bkJ_w_HE-Nj15tuIRw4aeQdkWGnwjfrHgywTVBHJjze/s1600/IMG_0276.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjJga1kH6_nMLyFJMYYzJj4qv3mRTtQjnBm6KiEWiA13LfEpQDOzwou2GIifkQhkJn6tNq_wnaGBCDEBxctYLZlgrVf-Bal3hgb1bkJ_w_HE-Nj15tuIRw4aeQdkWGnwjfrHgywTVBHJjze/s320/IMG_0276.jpg" width="320" /></a></div>
たしかに夫婦協働は、やり方によっては強い。<wbr></wbr>パイミオのサナトリウムのためにデザインされた椅子たちは、<wbr></wbr>その後アイノが友人と設立したアルテックという会社からプロダク<wbr></wbr>ト生産され、<wbr></wbr>大戦後の好景気に湧くアメリカを始め世界中に輸出されることにな<wbr></wbr>る。そして家具や内装、<wbr></wbr>テキスタイルなどのデザインを手がけることになったアイノは、<wbr></wbr>建築家アルヴァとは違った仕事の立ち位置へシフトしていく。<wbr></wbr>それらはいずれも簡潔なのに、温かさとウィットにあふれるアルヴァのデザインにも通じるが、なんというか、より冷静さが感じられる。<wbr></wbr><br />
ふたりはそれぞれ「同士」としてモダニズムへと邁進した。<wbr></wbr>もちろん、いつもツーカーとは限らない。目標こそ近いとしても、<wbr></wbr>どうしてもお互いの個性が出てしまう。たとえば服装だけど、<wbr></wbr>ボヘミアン・タイプで無造作だったアルヴァに対して、<wbr></wbr>アイノはファッショニスタだった。料理はしなかった。<wbr></wbr>どちらかというとロシア人っぽく、ぽっちゃり体型のアイノの、<wbr></wbr>短髪にアレクサンダー・<wbr></wbr>カルダーがデザインしたネックレスを付け、<wbr></wbr>モダンで個性的なドレスを着た写真を見ると、<wbr></wbr>つい樹木希林さんを思ってしまう。ついでに言うと、<wbr></wbr>女性関係でも無邪気だったアルヴァを本気で怒らなかったというと<wbr></wbr>ころも、似ているのかも。<br />
主人公ノラを通して”女性の自立”を描き、一大センセーションを起こした戯曲『<wbr></wbr>人形の家』を書いたヘンリック・<wbr></wbr>イプセンはノルウェーの人だったし、『ムーミン』<wbr></wbr>でおなじみのトーベ・<wbr></wbr>ヤンソンはフィンランド人で同性愛者だった。そう思えば、<wbr></wbr>北欧にはヨーロッパ的旧習から自由であろうとした女性がいい仕事をしている。「可愛いく」て「お洒落」なだけじゃない、独特のオーラを持った北欧デザインの奥には、アイノのような女性の存在があったのだろう。<br />
アルヴァとアイノの協働関係は、<wbr></wbr>アイノが悪性腫瘍と診断された後の約20年間にも渡り、<wbr></wbr>55歳で死が訪れるまで続いた。彼女は最後まで現役だった。<wbr></wbr>ちょっと早すぎた感もあるけど、<wbr></wbr>濃密でフェアな時間を共有したふたりにとっては、<wbr></wbr>短くはなかったはずである。</div>
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<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjhx61jrg7_dDeQ3j39Mb64mR1HmwnxYAgz2CEluP3qiWNndMEyUWucochZgqhmyIpyLAJCSIaZocsHld-mZPI0HT4op5oRHM-p0iQyd69o5V3jK4uevdB7NhLESVWVvUwq6aTlBh0vx-d0/s1600/IMG_0277.JPG" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjhx61jrg7_dDeQ3j39Mb64mR1HmwnxYAgz2CEluP3qiWNndMEyUWucochZgqhmyIpyLAJCSIaZocsHld-mZPI0HT4op5oRHM-p0iQyd69o5V3jK4uevdB7NhLESVWVvUwq6aTlBh0vx-d0/s320/IMG_0277.JPG" width="320" /></a></div>
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organhttp://www.blogger.com/profile/05384115908245728235noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8455339083058244318.post-82687368879053703712016-06-14T13:51:00.001+09:002016-06-16T14:52:55.762+09:00オキナワへ行って、琉球をさがす、そのニ。<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
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<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgWlzXbWMC4etCU-XRBAz0BC1g3vb8fzoOvKapcfANdzvYNmb7Ddirr15dJ2O77OcUWBPjeYHSHnywfRuj3kp7WGoGhQbsr0LcLwmlWOW5AVPFx42U6GdJxVfy-YtHn6mj6uB8a1DglAvh7/s1600/IMG_9203.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgWlzXbWMC4etCU-XRBAz0BC1g3vb8fzoOvKapcfANdzvYNmb7Ddirr15dJ2O77OcUWBPjeYHSHnywfRuj3kp7WGoGhQbsr0LcLwmlWOW5AVPFx42U6GdJxVfy-YtHn6mj6uB8a1DglAvh7/s320/IMG_9203.jpg" width="240" /></a></div>
古い中国の書物において「琉球」と呼ばれていた奄美群島から先島諸島を含む長ーいサンゴ礁列島。15世紀に本島の尚真王という人が諸島の勢力を平定し、那覇の首里に立国したのが「琉球国」だ。その後、国家としての琉球王朝は約450年も続くのだが、その間、アジアの盟主である明に朝貢を続け、その緩やかな支配圏に入ることで守護されつつ、遠くマラッカから朝鮮、日本までの海洋交易の中継貿易地として栄えた。その後1609年に薩摩藩の侵攻を受けてからも(イクサ上手の、サツマに短期間で降伏)、中国と日本というふたつの国とのバランスをはかりつつ存続していた(ただし人々は重税に苦しんでいた)。その均衡を破ったのは明治維新後の1879年に日本が行った「琉球処分」というなんともブッソーな宣告だ。明治政府の狙いは、琉球王国を解体し、日本国に編入することで近代国家(帝国主義)のスタートを切ることだった。それが可能だったのは、当時の中国、清が欧米の侵略を受け、弱体化していたことがあった。ここに驚くべき史実を発見。日本と清は、当時の前アメリカ大統領グラントを仲介にして、琉球の分割統治案を勝手に協議、なんと調印一歩手前だったというのである(実現していたらいまの沖縄の地図はまるっきり違っていたわけだ)。具体的にはこうだ。日本側は「本島以北を日本」、「宮古・八重山を清の領土」とする2分割案。清側は「奄美以北を日本」、「本島と周辺は琉球王国として独立」させ、「宮古・八重山を清の領土」とする3分割案である。しかし、結局この問題は「棚上げ」されることになる(瀕死状態の清は北方からのロシアの脅威に、それどころではなかった)。その後、両国は日清戦争に突入し、1895年の日本の勝利によって「琉球」の時代は終わり、「オキナワ」という時代が始まることになる(結局、尖閣列島を含めた帰属の問題は棚上げのまま?)。<br />
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<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEg9L-jTS855EcQuUOHkYwAFvofnXPurG1w3diV79lPc8Xt7LgQT0aviXzcowJXpjhbgj7mQwWuWfi2f-oHN5eeLfigpYRNLNQ3t-Eb3fMhmHCp63-JdysfV_9FEWCGaCGo_EI4qjSx6KMmE/s1600/IMG_9279.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEg9L-jTS855EcQuUOHkYwAFvofnXPurG1w3diV79lPc8Xt7LgQT0aviXzcowJXpjhbgj7mQwWuWfi2f-oHN5eeLfigpYRNLNQ3t-Eb3fMhmHCp63-JdysfV_9FEWCGaCGo_EI4qjSx6KMmE/s320/IMG_9279.jpg" width="240" /></a></div>
歴史はこれくらいにして、話を「壺屋焼」に戻そう。12世紀ころから琉球には「南蛮焼」といわれるタイやベトナムとの交易の影響を受けた瓦や瓷(かめ)が数カ所の古窯で生産されていた。そして17世紀になると薩摩から朝鮮陶工を呼び、また中国から「赤絵」の技術も導入して新しい窯場としての「壺屋焼」が誕生する。琉球王府の官窯なのだが日用品の生産も盛んで広く普及した。しかし、前述のように「琉球処分」が行われると、日本本土からの大量の陶磁器に駆逐され、「やちむん」は次第に姿を消してゆくことになる。その時期に沖縄を訪れたのが柳宗悦、濱田庄司たちだった。”目利きたち”が、この素朴で奔放でありながら、東南アジア、中国、朝鮮などの記憶を残した稀有な焼き物に瞠目したのも無理はない。おかげで沖縄の陶器は「民芸」の名でヤマトンチュの注目を浴びる。また柳は当時、日本への同化政策の一環として行われていた「琉球の方言撲滅運動」を「他県にこのような運動はない」と、反発している。一見まっとうな異議申立てだが、そこに琉球を日本の「海外県」と見ているような視線を感じてしまうのは私だけだろうか。陶芸家、大嶺さんが、濱田庄司の話のなかに、幼いながら感じた「オキナワ」というワードへの違和感の原因も、そこらへんにあったのかもしれない。<br />
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<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjbbDU1GQaHZVIAfbYmikPOuO55rQDnfBZw8QAkKuiglTTwF9ySpz1eIMerqmkbfRfyW_tivtM1kxn4qNokO-qwuZFc3BZWn2ysuVBc0qx0-iOliuHyPy6Ib9ePxevlRb64-avxxiEp1OtQ/s1600/IMG_9210.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjbbDU1GQaHZVIAfbYmikPOuO55rQDnfBZw8QAkKuiglTTwF9ySpz1eIMerqmkbfRfyW_tivtM1kxn4qNokO-qwuZFc3BZWn2ysuVBc0qx0-iOliuHyPy6Ib9ePxevlRb64-avxxiEp1OtQ/s320/IMG_9210.jpg" width="240" /></a></div>
大嶺さんの故郷は、「オキナワ」ではなく「琉球」だ。日本の統治によって「万世一系」という戦時下のスローガンを強要する日本に疑問を持ったとしても不思議ではない。「やちむん」とは、異文化交流のなかで、ダイナミックな変化を受け入れざるをえなかった「琉球の独自性」の中からこそ生まれたもの。「民芸」という日本からの一方的な視線ではなく、もっと自由な「やちむん」に挑戦する大嶺さんの作品に、これからのオキナワに込めた思いを感じる。<br />
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P.S.<br />
20年ほど前、琉球音楽研究家の照屋林助(a.k.a.テルリン)が「コザ独立国」の建国を宣言し、自身も「終身大統領」を名乗っていたことを、私は「ジョーク」のように受け取っていた。ここに訂正したい。<br />
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<br />organhttp://www.blogger.com/profile/05384115908245728235noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8455339083058244318.post-22136749656289654382016-06-12T12:46:00.000+09:002016-06-12T14:10:34.336+09:00オキナワへ行って、琉球をさがす、その一。<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<img border="0" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEi7-wy-i6r0L5GwVNSljqhHCNKU3abA0HNpvSQ-2q2c2VOIAZaGZ5MIvERvLZnE7Rlu770VVRWIN2JSAIj8GOHRB8cvLWbBwmXF9aIvTn7_hhLKlcBNdi3HwBlXq5fwHEbXiXg8zcuho37r/s320/IMG_6942.jpg" width="320" /></div>
キューバに行きたいと思った。アメリカナイズされてしまう前の今なら、あのブエナビスタ・ソーシャルクラブ的世界が残っているかもしれない。でも、キューバは遠い。限られた日数では無理だと諦めたら、沖縄が浮かんだ。日本にとっての沖縄とは、アメリカにとってのキューバなのではないか、と独断した。どちらも身近の楽園と位置づけられながら、基地がある。そんなわけで、あまりラグジュアリーじゃないホテルに泊まって、レンタカーで本島北部を回ってみるのはどうだろう。もちろん、沖縄ならではの「やちむん」をさがすという楽しみもある。ところが、出発の寸前にアメリカ軍属による事件が起こった。それも滞在予定のうるま市での出来事だった。タイミングがビミョーすぎる。<br />
那覇から北へ走る県道58号線の景色が、10年前に訪れた時とあきらかに違って見える。街も変わったし、私も変わった。以前には気がつかなかった「軍用地、売ります、買います」という赤い看板を目撃する。えっ、軍用地って勝手に買ったり売ったりできるんだろうか。どういうことなんだ、タフ過ぎる。<br />
ひとまず、ハンバーガーで腹ごしらえをして、若き友人の友人がやっているというアンティック・ショップに行って情報収集することにした。<br />
ミュージシャンでもある東京出身の須藤ケンタさんが、奥さんの里である沖縄に移住して開いた「20世紀ハイツ」は、普天間基地のすぐ側の高台。もと米軍ハウスの店内には、昭和日本や古い中国、朝鮮、ヨーロッパなどの品々が所狭しと並んでいる。のっけから沖縄という島の持つ多様なカルチャーに出くわした気分だ。ところで、福岡で会ったときの陽気に酔っ払った彼が、ここではジェントルで妙におとなしい。<br />
「コザのディープでヤバそうなバーかライブハウス行きたいんだけど」と水を向けてみた。<br />
「コザは今や沖縄のガラパゴスだよ」と彼。やっぱりおとなしい訳じゃない。<br />
それではと、お薦めのやちむん屋とタコライス屋、それにそば屋など無難な所を教えてもらうことにして、1963年に出版された超レアなコルビュジェ本(私用)と本チャンのパナマ帽(妻用)を買い求め、ひとまず県道58号線へ取って返した。<br />
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<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEh13T9383_jEitZkg5oAkcjGAlI7hz-_-WB-D646sJSGRRdU5MN7nYwIRaZ0zxpt2X5xxQImH0zB-nTgTf7Fldp35t59pXcyKtXqRMclzHN4rQcCUgqahmEEcMUkboEO5He-ydrOuh25PSt/s1600/IMG_9202.JPG" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="240" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEh13T9383_jEitZkg5oAkcjGAlI7hz-_-WB-D646sJSGRRdU5MN7nYwIRaZ0zxpt2X5xxQImH0zB-nTgTf7Fldp35t59pXcyKtXqRMclzHN4rQcCUgqahmEEcMUkboEO5He-ydrOuh25PSt/s320/IMG_9202.JPG" width="320" /></a></div>
「やちむんの里」にある10数件の店の中でも、彼が教えてくれた窯はいちばん奥まったところにあった。陶芸家の名前は大嶺實清(おおみね じっせい)。家のたたずまいからして、いい。梅雨空に爽快な風を呼び込んだ部屋の床や棚には、作陶した器たちがテキトーに、しかしジャストな位置にちらばまっている(ヤバイ、きっと私は買うに違いない)。<br />
それから1時間ほど、赤のボーダーシャツを着た快活な老人は、エジプト、トルコを経て今でも人を惹きつけてやまない”ペルシャン・ブルー”の釉薬の魅力について語った。それは「やちむん=壺屋=染付」という固定観念を抱いていた私に、新たな視線を感じさせてくれた。そしてその「壺屋」についても、大嶺さんは興味深い話をしてくれた。<br />
沖縄の焼き物の代名詞でもある「壺屋焼」は、日中戦争さなかの1938年、民芸運動の人々によって「発見」された。なかでも、濱田庄司は壺屋に滞在し、その「手癖」のように純朴な絵付けの技を学ぼうとしている。そして、その際行われた濱田の講演に、絵が大好きだった大嶺少年は参加していたという。<br />
「濱田さんの話をとても興味深く聴いたことを憶えています。ただ、ひとつだけ不満だったのは彼が琉球とはいわず、ずっとオキナワで通したことかな」。<br />
「琉球」と「オキナワ」…どうちがうのだろう?私は、とっさにその意味を尋ねることを控えた。これは、日本に戻って自分で調べるべきことだと思った。<br />
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<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiSUdDpts9ckFLZIBER9EcGFUVOLFdY1p12AmNXR8paUiARor4WyaV2KBjxdX5gqSL1eKH5f4nNmmSLfwH_4bA2FD4oBldli_UQW05JUM8w8zAhOlfDzaPxDFW4oZcGwlvZTUt8wboV8uWf/s1600/IMG_9183.JPG" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="240" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiSUdDpts9ckFLZIBER9EcGFUVOLFdY1p12AmNXR8paUiARor4WyaV2KBjxdX5gqSL1eKH5f4nNmmSLfwH_4bA2FD4oBldli_UQW05JUM8w8zAhOlfDzaPxDFW4oZcGwlvZTUt8wboV8uWf/s320/IMG_9183.JPG" width="320" /></a></div>
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<br />organhttp://www.blogger.com/profile/05384115908245728235noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8455339083058244318.post-68953861611935901942014-09-08T19:42:00.000+09:002014-09-08T19:46:33.832+09:00重いバトン。<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEg61tm9V9vteoP-iMRpl4vZWiGS_ChvSdAh8SXENWAdVzGo43xjORNlaJBhyphenhyphenMxnbT0KvaMGO7s6T98nSTHvZx_ml20z7wTwezmkaqfaNjeNzpjuTvb1GAlDPHWH50vfcNL9vom_I9fwBMWY/s1600/IMG_2679.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEg61tm9V9vteoP-iMRpl4vZWiGS_ChvSdAh8SXENWAdVzGo43xjORNlaJBhyphenhyphenMxnbT0KvaMGO7s6T98nSTHvZx_ml20z7wTwezmkaqfaNjeNzpjuTvb1GAlDPHWH50vfcNL9vom_I9fwBMWY/s1600/IMG_2679.jpg" height="320" width="240" /></a></div>
ある日、佐賀の友人、馬場くんからSNSでメッセージが届いた。北島夫妻が主宰するperhaps galleryで、”平和と戦争について”のグループ展「きっかけのてんじ」をやるらしく、ついてはトークイヴェントでなにかしゃべってほしいという旨だった。テーマがテーマだけに、果たして自分にそんな役が勤まるのか不安だったが、以前一緒に飲んでいて、「”佐賀の乱”をやるのは君しかいない」などとけしかけた手前もあり、すぐ引き受けてしまった。<br />
馬場くんのオファーは、「戦争体験がない自分たち世代に向けた話を」ということだった。といっても、僕は敗戦後すぐの生まれなので、戦争中の体験はない。なので、父から聞いた話をすることにした。かれが陸軍少尉として、満州にいた頃の話だ。<br />
父は日本刀が好きで、戦後も趣味として何振りかの刀を(警察署から所持許可を得て)大切に保管していた。正月などは、床の間に抜き身の刀を飾り、これは誰それの刀工による名品だ、などと説明してくれた。夜には、「心が落ち着く」と言って、ひとり座敷に座り、刀を丁寧に拭いている姿を見た。一方ぼくは、少年漫画雑誌に夢中で、ゼロ戦や戦艦武蔵のプラモデル作りに熱中していた。多分、ニッポンのために戦った「勇気ある人々」の存在を、なんとなく信じていたのだろう。それと同時に、なにかで知った中国人斬首のことも、頭を離れなかった。それは、日本刀を使った「恐ろしくも勇気が必要な」ことに違いなく、「ひょっとして父もそのことに関わったのではないか」という疑問となっていった。しかし、父に直接そのことを尋ねることは出来なかった。訊いてはいけないような気がしたのだ。ようやく尋ねてみることにしたのは、漫画雑誌を読まなくなった中学生の頃。しかし父の答えはなんだか曖昧だった。彼は、そのような状況に自分が居合わせたことを認めただけだった。<br />
そんなモヤモヤが決着したのは、高校生になってからのこと。そろそろ話してもいい頃だと、父は思ったのだろうか、ぼくにある種の3段論法を展開した。まず、斬首は、おもに「肝試し」、つまり戦闘に必須な、ヒトをアヤメル度胸を身につけるためであること。方法は「志願もしくは命令」であり、特に志願する下位の兵隊は、昇進という恩恵を期待していること。そして、自分は当時将校であり、昇級する意思も必要も感じなかったから、見ていただけだった、ということである。それを聞いて、父が斬首に、直接には関わらなかったことに安堵した。同時に、見ていて、どんな気持ちだったかということも思ったが、訊かずじまいだった。なにか、重いバトンを渡された気がした。<br />
その後、老年に差し掛かった頃から、父は何度か中国へ行っている。そこで、昔知り合った中国の人たちと会ってきたらしく、水墨画などをいただき、事務所の壁にかけていた。その方面には素人の僕が見ても、あまりパッとしない出来だったが、彼はけっこう気に入っていたようだった。そんな父も亡くなってずいぶん経つ。そろそろ、水墨画を引き取りに行かなければ、と思うのだけれど。organhttp://www.blogger.com/profile/05384115908245728235noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8455339083058244318.post-59983819444248265432014-08-12T17:26:00.001+09:002014-08-12T17:26:55.862+09:00「センス」という言葉には「正気」という意味があったはずだ。<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjUJvgNRMvYAMlkuMuij0qq1ryIL0yoJiRYP5SVcI6g7O5HfPTLp4041mrnTPCgTC4y7s3Q9XKyqBdyU8MooX_9AzvogVKtj5d2t1g6ZOeOZgylO-KwDvN6q5Rxxmx9adv20IOB1KYVYCD1/s1600/IMG_7602.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjUJvgNRMvYAMlkuMuij0qq1ryIL0yoJiRYP5SVcI6g7O5HfPTLp4041mrnTPCgTC4y7s3Q9XKyqBdyU8MooX_9AzvogVKtj5d2t1g6ZOeOZgylO-KwDvN6q5Rxxmx9adv20IOB1KYVYCD1/s1600/IMG_7602.jpg" height="320" width="320" /></a></div>
フィンランド内陸部にあるユバスキュラをあとにして向かったのは、西海岸に近いポリという町。車でかれこれ4時間、なだらかな丘陵地帯と白樺の林をぬって、制限速度120kmいっぱいで先を急ぐ僕らの前には、悠々と走るキャンピングカーや、後ろにボートを牽引したワーゲン、そしてノロノロ走る耕うん機。もちろん何台となく追い抜かせてもらった。日本よりちょっと小さな国土に、500万人しか住んでいない広すぎる空の下を急ぐのにはわけがある。アールトの最高傑作といわれるマイレア邸へゆくのだから。<br /> 国道から逸れて、牧草地かと思うほど青々とした麦畑の中の並木道に入った途端、辺りの空気が変わった気がした。まもなく”Mairea”という標識があり、パーキングが見えてくる。ここからは私有地なのだろうか。車を駐めて、赤松林のゆるやかな坂道を歩き始めると、その感じがじわじわと増してくる。脇に立っている街灯はまちがいなくアールトのデザインだ。ここはたしか、木材による製紙業で財を成した人の別荘のはず。だから広大な敷地なのは当然だ。しかし壁もゲートもない。オープンである。それは、不思議なほどの開放感だった。<br /> ハリー・グリクセンが妻であるマイレと、祖父の別荘地に自分の家を計画したのは1938年。フィンランドはソヴィエトとの戦争を準備し、ナチス・ドイツはオーストリアを併合、日本も中国への侵略を深めていた時期だ。そんな狂気の時代に、ふたりは以前からの友人でもあったアルヴァー&アイノ・アールト夫妻に設計を任せることにしたのだ。<br /> 建物内部に一歩足を踏み入れると、たちまち柔らかく充足した世界に包まれてしまった。ピカソやレジェ、アルプなどの作品が、つい先日ここにやって来たかのように微笑んでいる。すべてに無駄がなく、自由だ。サンルームでは様々な植物が伸びやかに葉を茂らせ、白い花が咲いている。ここは、暗い時代にありながら、友人を含めた自分たちの美意識の開花を実験し、実践する場所だったにちがいない。しかしここには、裕福さというものが持っている虚飾や華美を感じる隙がない。ガイドさんによると、建築されて70年以上たった今でも、この家は孫達によって活用されているらしい。そのせいなのか、そこここに、今でも生活している人のセンスを感じることが出来る。そういえば、「センス」という言葉には「正気」という意味があったはずだ。<br />organhttp://www.blogger.com/profile/05384115908245728235noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8455339083058244318.post-22646174757852806912014-08-03T10:20:00.000+09:002014-08-08T23:09:35.701+09:00北欧の短い夏を快適に過ごすためのユーティリティ。<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhbDSdJY6wvFaXo11zF3Xt2Dd_-iybdZet1PrhLXJ0gX4u4tC-swrJTVxSo_-GWsyLlBHtQo1wlCD0dD1XOeVFn0wsc-K2JIi_doC64PWp7-l9IKFuPxiWiGaFC9xsPckAgFnHFx55WCTkM/s1600/IMG_1242.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhbDSdJY6wvFaXo11zF3Xt2Dd_-iybdZet1PrhLXJ0gX4u4tC-swrJTVxSo_-GWsyLlBHtQo1wlCD0dD1XOeVFn0wsc-K2JIi_doC64PWp7-l9IKFuPxiWiGaFC9xsPckAgFnHFx55WCTkM/s1600/IMG_1242.jpg" height="239" width="320" /></a></div>
コエタロの実験住宅で、まず目に飛び込んできたのは、中庭に面した壁に躍動するレンガ。大小様々な赤レンガが縦や横に、平面的に、または凸凹に、表情豊かにコラージュされている。プライベートな別荘らしい自由で奔放な表現に唖然とする瞬間である。<br />
建築家としてのアルヴァー・アールトは1933年、コンペティションを勝ち抜き、パイミオのサナトリウムで華々しくデビューしている。当時不治の病と言われた結核の療養所を、いかにもモダンな鉄筋コンクリートで、まるで遠洋航海に出発する大型客船のようなデザインで革新した。ところが、20年後に手がけたサイナッツァロの村役場や、このコエタロなどでは、赤レンガを多用した作風に変容している。いったい、彼にどんな変化があったのだろう。<br />
その間アールトは、波型にうねるような曲線による独自のデザインを考案し、建築やガラス製品に反映させることに執着する。後に彼のトレードマークとなるこのオーガニックなフォルムは、湖水地方に多く存在する湖や波形からインスパイアされたといわれている。その後、フィンランドにソヴィエト軍が侵攻し、第二次世界大戦が勃発すると、彼は戦後の復興計画などを練って過ごすことになる。戦後、アメリカからの招きでMITの客員教授を務めるなどして3年ほど滞在するが、高層ビルに代表される画一的で楽観的なアメリカ型資本主義に失望したのかあっさり帰国する。そして、戦争で破壊されたフィンランドの都市復興計画に携わることになるのだが、そこで使われたのが赤レンガと木材なのである。<br />
「鉄やコンクリート」と「赤レンガや木材」との違いは一目瞭然だ。「硬質で冷たい」対「柔らかく暖かい」であり、「均質性」対「多様性」といってもいい。さらに、「プロダクト」と「クラフト」や、「普遍主義」と「ローカル主義」にさえ対置できるかもしれない。そんなぼくの妄想にも似た考えは、どうやらフィンランドという国がうっすらと持っている”社会主義の記憶”が、関係しているのかもしれない。<br />
かといって、アールト自身が、いわゆる社会主義者だったとは思えない。多分筋金入りの個人主義者だったにちがいない。さまざまな疑問を持ち、個人的な実験を重ねることで問題を内面化するということ。それは、絶え間ない社会との葛藤を、あきらめずに持続する強い気持ちがあってこそなせる技なのだから。思うに、個人主義が強い人ほど、社会主義を意識するのではないだろうか?逆に言えば、「世間主義」の人は、国家主義に馴染みやすいだろう。ソヴィエトがやった社会主義は国家主導で失敗した。そして、今世界は新自由主義という美名のもとに、国家とグローバル企業が超資本主義経済を正当化している。そこでは個人主義の視点はことごとく否定されかねない状況なのだ。ユートピアでも構わない。いまこそ、自分なりの社会主義を夢想することは、無益なことではないだろう。<br />
ちなみに、コエタロの実験住宅の内部は、いささかのラグジュアリー感もなく実に質素。北欧の短い夏を快適に過ごすためのユーティリティだけが、とても美しく準備されていた。organhttp://www.blogger.com/profile/05384115908245728235noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8455339083058244318.post-66960804838040482852014-08-01T17:43:00.003+09:002014-08-03T10:22:08.695+09:00コエタロの実験住宅。<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhThxYiOM0iMa2Z-2du49wei8K5TBwKDOeSCTRCf5g4glCi4ZvIGHfl9SM0PR72Tw7qeaQHkg0Nt6I_L0-wEG50ZOtS3apvuVRaBc59qzDMNihf4aKf5fi29wR3XQ6Mf10QY5kVzSW7PzeX/s1600/IMG_7536.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhThxYiOM0iMa2Z-2du49wei8K5TBwKDOeSCTRCf5g4glCi4ZvIGHfl9SM0PR72Tw7qeaQHkg0Nt6I_L0-wEG50ZOtS3apvuVRaBc59qzDMNihf4aKf5fi29wR3XQ6Mf10QY5kVzSW7PzeX/s1600/IMG_7536.jpg" height="320" width="240" /></a></div>
今回のフィンランドの旅の目的のひとつに、アルヴァー・アールトの建築を訪ねることがあった。最初に向かったのは、ヘルシンキから270km、フィンランド中央の湖水地帯にあるユバスキュラという街。アールトは、美しい湖と森林にかこまれ、教育や文化施設が整ったこの街で少年時代を過ごし、ヘルシンキやスウェーデンで建築を学んだ後ここに戻って、建築家としてのキャリアをスタートしている。そのため、街の中や周辺には彼の初期、そして中期の代表作が多いのだ。<br />
まずはアールト美術館、ユバスキュラ教育大学、労働者会館、自警団ビルなどを見学。1920年代の建物は、モダンというよりも新古典主義というのだろうか、イタリアの影響が垣間見えるようでちょっと意外だった。その後、ユバスキュラから30分ほどのセイナッツァロという村にある元役場へたどり着いたのは夜8時過ぎ。もちろん夏の北欧はまだ明るい。1952年に建てられた赤レンガ造りの代表作なのだが、幸運にもゲストルームに宿泊することが出来た。宿直室だったのか、部屋はとても狭いけど、蔦の絡まる窓からは中庭が見える。すべてがアールトの設計なのだ。ふたりで80ユーロなり。<br />
翌日は、役場から5kmの距離にあるムーラツァロという島にアールトが建てた夏の別荘「コエタロ」へ。今回の旅で、一番訪れたかった場所なのだ。一日一回の英語のガイドツアーに参加したのは、色々な国の人達25名ほど。僕らの他に、若い日本人が4人。あたりまえだが、この辺鄙な場所へやって来たアールト大好き達である。理由は様々かもしれないが、ここは「別荘」でもあるが、「実験住宅」であるというところもあるだろう。”モダン建築の巨匠”が、コンペティションや要請によらず建てたプライベートな作品とは、いったいどんなものなのか、そこが一番ポイントなのだから。<br />
おそらくサーミ系かと思われる、エキゾティックな顔立をした女性ガイドのわかりやすい英語の注意事項の説明が終わり、我々はいよいよ公道わきの集合場所から、白樺林の私有地へ一歩足を踏み入れた。そこから10分も歩けばアールトの隠れ家へと到達するというわけだ。ちょっと急な傾斜地には、人ひとりがやっとの「けもの道」が続いている。途中で、白人の男性が小さな発見をする。どうやら下草のなかにブルーベリーを見つけたらしく、口に入れている。見ると、たしかにそこここに紫色の果実があるではないか。自生する森の贈り物は、どんなウエルカム・ドリンクよりも嬉しい。みんなの顔がほころんだことは言うまでもない。ガイドブックに書いてあった言葉を思い浮かべた。<br />
「森は人力などを必要としないが、人間にとって森は不可欠である」。<br />
ブルーベリーのおかげで、疲れ気味だった両の目が、なんだかスッキリした。さあ、しっかり見てやるぞ!organhttp://www.blogger.com/profile/05384115908245728235noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8455339083058244318.post-47627069761449003812014-07-29T05:39:00.000+09:002014-07-29T05:39:17.326+09:00垢抜けなくても美しい。<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiojU_oTP5P1N8ehzuMXxYj-DEBbzvAkfuTxPOMAy5P3Za33hEIQbk1KC37v263_OBMZriYjntDzI0_FHB3pfIdt8MEg4ED3vxLSX3lWXXpSks_WlMsOepYEO2H40QhvpgSO9pZFjXcR-4S/s1600/IMG_7812.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiojU_oTP5P1N8ehzuMXxYj-DEBbzvAkfuTxPOMAy5P3Za33hEIQbk1KC37v263_OBMZriYjntDzI0_FHB3pfIdt8MEg4ED3vxLSX3lWXXpSks_WlMsOepYEO2H40QhvpgSO9pZFjXcR-4S/s1600/IMG_7812.jpg" height="320" width="240" /></a></div>
久しぶりの買い付け旅は、昨年に続いてのフィンランド。<br />
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<wbr></wbr>ヘルシンキの中央駅からレンタカーを借りて走ること一時間半。<wbr></wbr>小さな村で行われるアンティック・<wbr></wbr>フェアで探しものをするためにやってきた。<wbr></wbr>写真はその駅のすぐそばにある郵便局の上から撮ったもの。<wbr></wbr>これを見ると、<wbr></wbr>はじめてこの地を訪れた10年前の印象がふいに蘇ってくる。<wbr></wbr>古びた路面電車に広い道路、<wbr></wbr>立ち並ぶビルディングはいかめしくて、<wbr></wbr>他の北欧の国とはどこか違う雰囲気に戸惑ったことを思い出す<wbr></wbr>。<br />
それは、明らかにヨーローッパ的なデンマークやスウェーデンとは違い、<wbr></wbr>今ひとつ垢抜けない街へ迷いこんだような感覚だった。<wbr></wbr>そこがかえって新鮮だった。そして、これはひょっとすると「<wbr></wbr>社会主義の残り香」ではないか、と自問した。<wbr></wbr>日本へ帰り、すこし調べてみると、当たらずとも遠からずで、<wbr></wbr>フィンランドという国の独特の立ち位置がわかってきた。<br /> スウェーデン王国の属領だったフィンランドは1917年、<wbr></wbr>ロシア革命の混乱の中で「フィンランド社会主義労働者共和国」<wbr></wbr>として独立している。つまり、一時、共産化したのである。しかし、<wbr></wbr>内戦を経て反共産派が勝利すると、<wbr></wbr>第二次大戦ではソヴィエトと東部のカレリア地方をめぐりたびたび戦火を<wbr></wbr>交えている。<wbr></wbr>戦後はソヴィエトの勢力下に置かれることになるのだが、<wbr></wbr>それでも共産主義への道を選ばなかった。結果として、<wbr></wbr>独自の路線で生き延びるしかない。それは資本主義でありながら、<wbr></wbr>西側ベッタリにならず、<wbr></wbr>ソヴィエトとの微妙な舵取りも忘れない両面外交のようなものだっ<wbr></wbr>た。<br /> 冷戦が終わり、グローバルな新自由主義が世界を席巻したことで、<wbr></wbr>共産主義や社会主義は「過去の失敗」<wbr></wbr>として完全に忘れられてしまった。たしかに、<wbr></wbr>国家がコントロールする強権的統制経済に未来はないだろう。<wbr></wbr>でも、いま普遍的に語られるているグローバル経済には、<wbr></wbr>たくさんの不合理や矛盾が露呈していることを、<wbr></wbr>僕らは知っている。<wbr></wbr>フィンランドに生まれたたくさんの優れたデザインには、<wbr></wbr>そんな忘れかけた理念をふと思い出させくれる瞬間がある。<wbr></wbr>垢抜けなくても美しい。</div>
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