僕にとって映画とは、見ている間、自分がいかに反応出来るかという、いわばリトマス試験紙のようなもの。だめだと思ったら、すぐに席を立ちたくなってしまう。もちろん、お金はもったいないけど、反応できずにストーリーだけ追うほど苦痛なことはない。なにより最近はDVDの自宅鑑賞なので、つまらないと思ったら遠慮せずにベッドに直行できてしまう。
オタール・イオセリアーニ。この旧ソビエト連邦、グルジア出身の監督の映画は初体験だったけど、タイトルバックのピアノ音楽が流れた瞬間になんだか良い予感。本編が始まって5分もすると、それは確信に変わった。なんか人を食ったような登場人物と、少ないせりふ、コミカルな所作は、あのジャック・タチに通じる。ただし、タチのホノボノ感の代わりに漂うのは、かなりニヒルな視点。例えば、金持ちのボンボンがパリのカフェで皿洗いをして、隣のカフェのネエちゃんに恋するも、彼女はイカレたバイク野郎になびいてしまう。だいたい、なんでボンボンがわざわざ労働者ぶるのか、レイプされそうになったネエちゃんはどうしてバイク野郎と結婚するのか、その他いっさい説明めいたことがない。これに比べると、同じ群像劇を描いたロバート・アルトマンのブラック・ユーモアは道徳的とさえいえる。
この映画には、いい人、悪い人、幸せ、不幸せ、金持ち、貧乏などという類型的な構図はなく、すべての登場人物が、清濁合わせ持つアンビバレントな状態で、それなりに勝手に生きている。それがいい。それぞれがひたすらワインを飲み、セックスに励み、泥棒をして刑務所に入ったりしながら、人生という時間をせっせと費やしている。楽しいかどうかは、多分本人にさえわからない。時々そうだし、おおむねそうじゃない。かといって、失望しないし、希望なんて絵空事にも同意できない。いっそ幻想くらい持てればまだしも・・。
それにしても、映画の最後で南の島に出奔してしまう金持ちじいさんという「おいしい役」をけろっと演じてしまうイオセリアーニ。ソ連をおん出た監督ならではのアナーキーさなんだろう。近々新作が公開されるらしい。ただし、東京での話。福岡で見れるのはやはりDVD化されてからなのだろうか。たまには映画館で化学反応してみたいもの。