たまたま、東京から遅れて合流することになった人を迎えるために、サンフランシスコから車を飛ばし、早めにL.A.の空港に付いた僕らは到着ロビーで所在なげに待っていた。そこにはイームズの”タンデム・チェア(*1)”があるものの、わりと混んでいて座ることも出来ずにその側を通り過ぎようとした時、「Tさんですよね」と声を掛けられた。
振り返ると、タンデム・チェアの端っこに座っている二人(男はちょっとくたびれ感がある中年の白人、女性は若めの日本人)のうちの女性が僕に声を掛けたようである。
「やっぱりTさんだ」。
うれしそうな声と、特徴的なキョロッとした目を見て、突然20年前の記憶がよみがえってきた。当時、僕は輸入レコード屋に勤めていて、確か彼女はまだ中学生だったはず。笑うたびに、矯正ブラケットが光る口で「ロバート・ワイアットは、自動車事故で足を無くして唄に専念するようになったんですか?」などという質問を投げかける、若くマニアックなお客さんだったのだ。
「久しぶり。で、L.A.で何してるんです」、とりあえずの質問に、
「2年前からL.A.に住んでて、今日か明日、結婚するんです。で、家族が日本からやってくるのをここで待ってるんです」という言葉が返ってきた。
時の経つのは何とやら。進学で東京に行ったのが最後だったはずで、その後の消息は一切知らなかった。それにしても、「今日か明日」ってのはさすがL.A.,アバウトなのだ。
「へー、そうなんだ。ひょっとして隣の方が・・・」、と地味目なおじさんに目線を移すと、「ええ、スパークスのロン・メールです」と、もう矯正ブラケットは無い口から、実に驚天動地な答えが返ってきた。
SPARKS。このなんともシンプルな名を持つ兄弟ユニットの名前を何人の音楽ファンが記憶しているのか、僕には見当が付かない。アイドルっぽい風貌でヴォーカル担当の弟ラッセル・メールと、オールバックにチョビ髭、いつも白のランニング・シャツ姿でキーボードを弾く異形の兄ロン・メールは、当時、僕が参加していたバンドに少なからず影響を与えてくれた。1970年代、ロックの創生期は過ぎ、シーンが何となく煮詰まっていた時期だった。ザ・バンドに夢中だった僕らは台頭してきたイーグルスなどのウエスト・コースト・サウンドにはまったくなじめず、今野雄二さんが提唱する"ロック・マニエリズム(*2)"に傾倒していった。形骸化したロック産業をシニカルかつアーティスティックに批評するかのような、このキッチュで斬新な音楽の代表格はロキシー・ミュージックをはじめとするイギリス勢だった(SPARKSだけは、なぜかL.A.出身)。彼らは凝った演奏や衣装に加えて、ジャケット・ワークにも新しさを持ち込んだ。そんな中でも、スパークスは格別だった。デビュー作「キモノ・マイ・ハウス」が、ヨーロッパで受けたのはケバケバしく髪を振り乱した二人の日本人らしい着もの姿を使ったそのジャケットに一因があったことは確かだろう(ジャケに惹かれて買った人は、ファルセットっぽい素っ頓狂なヴォーカルを聞いてとまどったかもしれないが)。でも、僕らはそのキテレツなプレゼンスをとてもカッコイイと思った。現に、ヴォーカルのAちゃんなどはロン・メールまがいのチョビ髭をたくわえてステージに立ったりしたものだ。
ともあれ、その時、僕の目の前にはスパークスの中心人物がいたが、もはやチョビ髭ではなかった。彼は白くなったコールマン髭と、多分染めたのだろう真っ黒な髪で立ち上がり、近寄ってきて握手をしてくれた。もちろん僕は感激して、お定まりの言葉を口にした。
「僕は、ずっとあなたの熱烈なファンでした」と。
言った途端に、後悔した。なぜ、現在形じゃないんだ。あわてて、質問を浴びせかけてしまった。
「最近はアルバム出してないのですか?」。
彼は、真顔になって答えた。
「今年、出しました。聞いてくれましたか?」。
「・・・、実はまだ・・・」、
「後で送りますから、良かったら聞いてください」。
しかし、日本に帰ってひと月、今だにそのCDは届いていない。
といって、自分で買いに行く気配もない。
ただ、なんとなくハッピーな気分が残っているのは確かなんだけど。
*1 イームズがシカゴのオヘア空港の為にデザインし1962年にハーマン・ミラーより発売された。その後世界中の空港で使用されている。座り心地の良さは格別で、旅の気分も盛り上がる。福岡の老舗デパート「岩田屋」にも残っている。
*2 ビッグ・スターを輩出し商業化してしまったロック界を、一度壊してあらたな地平を築こうと模索した動き。美術用語を今野氏が独自に転用したものだと思う。後のパンクやニューウェーヴなどが生まれるまでの橋渡しをした功績は無視できない。セイラー、スプリット・エンズ、10cc、ルイス・フューレー、デフ・スクール、コックニー・レヴェル、アレックス・ハーヴェイ・バンドなどがいた。