Saturday, June 28, 2014
ポロトコタン
週一回のラジオのせいで、おいそれとは海外へ行けそうにないので、三泊四日で北海道へ行ってみることにした。
北海道は、江戸時代まで「蝦夷地」と呼ばれていて、当時の政府である幕府によって、ほぼ無視された「未開の地」だった。当然「ニッポン」という感覚もなかった。では、明治政府が「開拓」したあとの北海道はどうなんだろう。そんな関心もあっての旅だった。
まずは、新千歳からレンタカーで南下して、太平洋岸の白老町にあるポロコタンへ行ってみた。そこにある「アイヌ民族博物館」が、ぼくのような初心者にとって、とりあえずアイヌの文化に触れるためにはいいように思えたからだ。
入場時にもらったパンフレットに、ポロトコタンとはアイヌ語で”大きな湖の村”という意味とある。白老(しらおい)という地名ももともとはシラウ・オ・イであり”アブが多いところ”という意味らしい。それどころか、てっきり日本名だと思っていた札幌でさえ、サッ・ポロ・ペッが元来の発音で、意味は”乾いた大きな川”、室蘭はモ・ルランで ”小さい坂”なのだそうだ。なんと、北海道の地名の80%は、先住民族の言葉であり、漢字は後から入植した和人の「当て字」ということらしい。
美しい森と湖の間の土地に、4棟ほどのアイヌの伝統的な茅葺きの住居が再建されている。そこには興味深い様々な生活用具が展示されていて、関連したワークショップなども行われている。たまたまタイからやってきた大勢の観光客と一緒に、アイヌの歌や踊りを楽しむこともできた。そのほか、食料を保管する高床の小さな小屋、その裏手には「イヨマンテ」の儀式で天国へ帰っていったクマの頭蓋骨が残された祭壇などがひっそりと在った。博物館で一番興味深かったのはアットゥシと呼ばれる伝統的な衣服の文様だった。筒袖で和服にも似ているが、その大胆な文様が圧倒的な存在感を放っていた。それは、大昔から地球上の様々な場所にあったであろう、生命の放埒なエネルギーそのものだった。
そんななかで、ある女性のスタッフがこんなことを語った。
「今でも、差別は残っています。だから、自分がアイヌの血を引いていることを隠すひともいます。和人の男性や女性と結婚したひとたちの子どもは、自分がそうであることを知らずにいることも多いのです」
本などで、多少の予備知識はあったものの、面と向かってそう言われるとこたえる。自分に差別の意識が強くあるとは思わないが、まったくないともいえないような気がするからだ。たとえば、ぼくの生まれた北九州地方には、昔から多くの朝鮮系のひとが住んでいたので、小学校のクラスにはかならず何人かはいたのだが、ほとんど意識することはなかったが、本当のところはどうだったのだろう。
差別というのは根が深い。ヒューマニズムでは乗り越えれないような気がする。多分、アイデンティティと背中合わせだからだ。だからこそ、「他者」への関心だけは失いたくないと思う。