バーゼルから西へ向かうフリーウェイは、しのつく雨だった。僕らが乗った小型のオペルは、カラフルな企業ロゴの幌をかぶったトラックを何台も追い抜いてゆく。まるで大きな「フライタグのバッグ」が走っているようで、見ていて飽きない。つい追い抜き際にiPhoneでパシャパシャやってしまう。しかし130キロで疾走する車からではうまく写るわけがない。そのうちにゆるやかな起伏がある田舎道へ降りてしまった。家々の雰囲気が色っぽいのでフランスだとわかる。めざすロンシャンの礼拝堂は近い。
コルビュジェは、もちろん建築家として有名だけれど、初期にはダダイズムへも傾倒していて『エスプリ・ヌーヴォー』という雑誌を出したり、キュビズム的な絵や彫刻を志向していたアーティスト肌のヒト。駐車場からなだらかな坂を登り、突然「蟹の甲羅」をイメージしたという例の屋根が目に入った途端、そのことを思い知った。そして礼拝堂に近づくに従って、見る角度ごとに変化する塑像のような曲線立体物になかばあきれた。側面に回ると、まるでニューメキシコのタオス・プエブロにあるアドビレンガ造りの教会のようにプリミティブに見える。こんな前衛的な宗教施設が、1955年によくもまあ建てられたものだ、と施主さんというか神父さまの勇気に脱帽。
ずっと前、コルビュジェは無宗教だったと聞いたことがあった。でも本当にそうなのだろうか。たしかにロンシャンにはキリスト教を特徴付けるさまざまな「権威的装飾」はほぼないといっていい。代わりにあるのはオーガニックな曲線と、光と影を巧みに使ったセンシティブな空間。特に、対になった小礼拝堂の、採光を巧みに利用した神秘的な美しさには、おもわず息を呑む。ステンドグラスの代わりに自身で描いたイタズラ書きのような絵も素晴らしい。それらは、彼がデザインしなければこんな風にならなかったであろう、いわば「自己本意な美学」に満ちている。しかし、他者に迷惑をかけずに自己本位であることは、とてもむずかしいことであり、誰にでもできる仕業ではないだろう。建築中の写真からは、迷惑というわけではないが、なんだか戸惑いと好奇心にあふれる人々の様子がうかがえる。コルビュジェの「住宅は住むための機械である」という有名なフレーズを、「礼拝堂は祈るための機械である」と読み替えてみる。それは、悪しき常識に頼らない、自由な個人の試みなのだ。惚れなおしだ。