引き続き、歴史の勉強を少し。
近代国家としてのドイツの誕生は1871年、意外にも明治維新より遅く、スイスとは違って「国語」の成立が重要な役割を果たしている。1534年、ルターがドイツ中東部地方の方言で翻訳した聖書を使って「宗教改革」を始めている。そのことが、ラテン語で書かれた聖書の一元管理を打破し、普通の人々が読める開かれた「テキスト」へとつながることになる。翻訳された聖書が、当時発明された「印刷術」のおかげで出版されると史上初のベストセラーとなったのだ。そのことで、それまでのドイツ各地の様々な方言を次第に駆逐して、現在の標準ドイツ語へと認知されてゆき、結果的にゲルマン民族のアイデンティティ確立に寄与することにもなる。同じようなことはイタリアでも起こっている。ダンテがトスカーナ地方の方言で書いた『神曲』がイタリア語の規範とされ、そのことがドイツと同じく小国の乱立状態だった国を束ねる「ナショナリズムの原動力」となった。以上、柄谷行人の諸作からの付け焼刃的要約でした。
では、「日本はどうだったんだろう?」という疑問が起こるのだが、そんな片付かない話はさて置き、ここらで少しデザインの話題を。バーゼルでお世話になったゲストハウスから車で5分も走ったドイツ領に、ご存知ヴィトラ社がある。ひときわ目立つフランク・ゲーリーが設計したミュージアムでは、照明をテーマにしたエキシビショ ンが開催中だった。バウハウスから始まる家庭用の照明器具デザインの歴史は、大半がorganでも取り扱った経験があるもので、予想したよりオーセンティックな印象。僕のお目当ては敷地内の施設なのだ。しかし、内部を見るためには、2時間の英語解説付きツアーに参加しなければならない。12時に始まるということで、いそぎ申し込んだ。
のっけから背の高いハキハキした女性スタッフが飛ばすのである。「我が社は”デザインと建築”という今までの家具メーカーのイメージを超え、新たに”アート”という要素をプラスした製品を世界中に展開しています」と鼻息が荒い。もともとは"ドイツ的"堅実な家具メーカーだったというヴィトラが、大きく方向転換したのはチャールズ&レイ・イームズの家具に出会ってからとのこと。たしかに、ハーマンミラー社の製品をヨーロッパで展開するようにならなければ、今のヴィトラは存在しなかったのかもしれない。その証拠と言ってはなんだが、ここの住所自体がチャールズ・イームズ通り1番地だし、通用門脇の小道はレイ・イームズ通りと名付けられている。それにもまして、金網越しに見えるジャン・プルーヴェの小さなガソリンスタンドが気になってしょうがなかったのだが。