Saturday, December 10, 2011
セミプロ
Thursday, November 24, 2011
よしんば。
Friday, October 7, 2011
Fructusからグラノラとコーディアルが届いた。
Sunday, October 2, 2011
おとといポップス#7 "練習板をカタカタ"
その年の12月、楽器を積んだ車とぼくらを乗せたワゴン車は、凍った道路をスリップに注意しながらノロノロと道内をひた走った。函館を皮切りに、室蘭、札幌、旭川と回り、最後は歌登というオホーツク海に近い人口2500人の山村まで、初めての北海道は一面雪に覆われた別世界だった。会場となった各地の市民会館では、かじかむ手に息を吹きかけながら手弁当のスタッフ達と楽器をセッティングした。心配した動員はどこもほぼ8割の席が埋まり、なにより小坂忠のライブに初めて接する熱気みたいなものに包まれた暖かい雰囲気だった。終了後の打ち上げは、居酒屋で北海道ならではの珍味を頂いたり、関係者が経営するカフェなどで和気あいあいと行われた。そんな時の忠さんはレコードやステージでの神妙なイメージとは違ってかなりのお茶目ぶりを発揮する。まずテレパシーを使った透視術で一座の人々をアッと言わせてしまう。もちろん、タネがある一種の座興なのだが、中には「やっぱり感覚が研ぎ澄まされてる人なんだ」と信じてしまう人もいる。そこらへんで止めておけばいいものを、ライターのガスを口に充満させて火を噴くなんてことまでやってしまうのである。その後お開き、就寝となるわけだが、ほとんどの宿は主催者の方の自宅や、その関連施設みたいな部屋を利用する。ある時は倉庫みたいなところに布団を持ち込んだのだけれど、暖房はなく、おまけに窓ガラスの一部が割れていて、そこから吹き込む小雪に見舞われてほぼ一睡も出来なかったりしたこともあった。もちろん、良い思い出である。
ツアーが終わり、東京に戻ると年が明けた。それから一年ばかり、都内のホールやライブハウスでぼくら単独だったり、忠さんのサポートをしながらの活動が続いたが、相変わらずドラムの腕はあまり上がらなかった。唄の方が”味があって”いいからと、新たにドラムを加入してヴォーカルに徹してみてはという話もあった。もともと高校の時にリンゴ・スターのシンプルなドラミングに憧れたわけで、8ビートはこなせても、当時勃興し始めていた16ビートには手こずっていた。危機感を抱き、下宿の風呂場にこもり、練習板をカタカタと叩きながら、指にまめを作ることにした。
Monday, September 12, 2011
多分もうセーフな年齢になってしまったが油断はできない。
Sunday, September 4, 2011
おとといポップス#6 ”やわらかな紫煙に包まれながら”
Friday, August 26, 2011
おとといポップス#5 ”自慢じゃないがコチトラ譜面が読めない”
ローカル・スタンダード。
Monday, August 15, 2011
おとといポップス <わくらば編>
Tuesday, August 9, 2011
おとといポップス <リビドー編>
前田武彦は放送作家であり、ポップスに強いわけでもない。だから、音楽情報みたいなことは通り一遍だったけど、そのかわりに当意即妙な話術があった。それは、時に時事風刺だったりもするのだが、決して強弁ではなく、押しつけがましさはなかった。それは、同じ放送作家でジャズのラジオ番組をやっていた大橋巨泉とは対照的でもある。後にふたりは『ゲバゲバ90分』でタッグを組むのだけれど、巨泉の押しの強さの前でマエタケは割を食っていたように思う。彼は、どちらかというと言葉少ない饒舌家で、テレビよりラジオが似合う人だったのだろう。
Saturday, July 23, 2011
おとといポップス#4 ”唄うニューヨーカー”
僕は映画と一緒に生活している
でも、マチネーは5時で終わる
まだ太陽がまぶしい外へ瀕死の状態で出なければならない
ああ、映画館の中へ戻りたい
そこはいつも夜なんだから
ワイドスクリーン、目が回るよ
たくさんの噓でボクを満たして欲しい
<”Widescreen”>
これではまるで、映画『ボギー!俺も男だ』とダブってしまう。同じ時期、ボクはウディ・アレンを知ってしまっていた。自分の様々なコンプレックスをカリカチュアライズし、ギャグに変えてしまう奇妙な才人は、まるでハンフリー・ボガートをレディメイドなものとしてリ・メイクしてしまうマジシャンみたいだった。それはさておき、ルパート・ホームズである。ニューヨークのティンパンアレイに連なる流麗なオーケストレーションと、ジャズやポップスのクリシェを用いて、アメリカの様々な表層文化をコラージュしたような彼の音楽もボクにとってはマジックみたいだった。それは、その後オーケストラ・ルナという、オフ・オフ・ブロードウェイの実験的ミュージカル仕立てめいたアルバムを彼がプロデュースしたことで一層明らかなものになった。正直に言って、今ひとつ乗り気になれなかったこの2枚目のアルバム製作で、彼へのオマージュを混入させることだけがボクの密かな願いになっていった。
Thursday, July 21, 2011
おとといポップス#3 ”死刑!”
そんなタイミングで聴いたのが10ccだった。「ロックマニエリズム」の仲間なのだけれど、とてもキャッチーでとっつきやすかった。まるでビートルズのリミックスをやっちゃう職人みたいなユニットで、英国人特有の辛辣な歌詞で文化や政治をおちょくった。「フェリーニの新しい映画、もう観た?」なんて歌詞を見つけて、すぐに『アマルコルド』を観ようとしたけど、僕が観たのはメル・ブルックスの『ヤング・フランケンシュタイン』だった。社会にコミットするよりもモラトリアムを決めこむことにしたわけだ。もちろんバンド暮らしはままならず、さまざまな欲望はすべて宙ぶらりんなまま。でも、そんな執行猶予の時間は山上たつひこ氏によって打ち破られようとしていた。
鳴かず飛ばずの我がバンドに事務所が突きつけた最後通告は「この企画を受けなければ、お前らお払い箱だよ」だった。練馬の駅近くの喫茶店で打ち合わせのために初めて会った山上氏は、『がきデカ』を描いた人とは思えないほどシャイで社会派の人だった。だから、と言うわけでもないが、やってみることにした。東京暮らしをこのまま続けても、失うものは多くはないのだから
歌詞を書くために、初めて彼の漫画を読み、キーワードをピックアップした。やはりポイントは「死刑!」だろう。問題はサウンドである。明快なノリがあり、かつ斬新なアレンジということで10ccをヒントにする案が浮上した。雑誌とのコラボでもあり、時間はあまりなかった。僕らは、「死刑!」のフレーズがそのまま生かせそうな「Silly Love」という曲を”参考”にすることにした...。
発売されたシングル盤『恐怖のこまわり君』は、あっという間に、確かオリコンの4位か5位まで駆け登ってしまった。もちろん、爆発的に売れた漫画のおかげなのだが、悪い気はしなかった。ある日、加藤和彦氏の深夜ラジオ、オールナイト・ニッポンで「10ccの曲をこんな風にやっちゃった器用なバンドがいます」と、なんと2曲続けて紹介されたことを聞き、それさえも嬉しく思った。ところが後日、10ccの楽曲を管理している音楽出版社からクレームが入り、それ以降プレスされたシングル盤のクレジットの作曲者名は10ccとの併記になってしまったのである。しかし、そのことさえも喜んでしまったほど、僕らはヘンテコなバンドだった。
P.S. その後の調査によると、『恐怖のこまわり君』は「要注意歌謡曲」には指定されていなくても、それに類するものとして「禁じられた歌」(ルック社)に掲載されているらしい。
Saturday, June 4, 2011
おとといポップス#2 ”Re-make/Re-model"
(1) 元来”マニエリズム”とは絵画用語で「一度完成されてしまった絵画をいかにして崩して新しい動きをみつけるかを模索していた時代」を指す。それを、大のロキシー・ファンだった今野さんがポップスに当てはめたもの。後にパンクやニューウェーブが出現するまでの過渡期的時代を言い当てた言葉として記憶にとどめたい。
(2)フランス語圏カナダ人ミュージシャン。シアトリカルでデカダンな世界には緒川たまきさんもゾッコンだと「モンド・ミュージック」でのインタビューで答えていたっけ。1985年自ら監督した映画『ナイト・マジック』ではレナード・コーエンとパートナーであるキャロル・ロールと(ファンにとっては)夢のコラボを果たした。
(3)ロンとラッセル兄弟により1960年代にロスアンジェルスにて活動開始。1971年、トッド・ラングレンのプロデュースによる「ハーフ・ネルソン」名義のアルバムを(なんと)ベアズヴィル・レーベルよりリリースするも不発。1974年イギリスで製作したアルバム「キモノ・マイ・ハウス」がヒット。当時我が青木君はロンに対抗してチョビ髭をたくわえてステージに立つことになる。
Tuesday, May 31, 2011
おとといポップス#1 "聴いた途端に「音痴」だと思った"。
(1)多分4枚目の「Country Life」だったかな? 間違ってたらゴメン、青ちゃん。
(2)行きつけだった [Movin'] はもはや存在せず、駅近くにできた何軒かのロック喫茶のうちのひとつ。名前は忘却。
(3)そういえば、ボブ・ディランにしても、「風に吹かれて」をラジオで初めて耳にしたとき、レコードの回転数が間違っていると疑った。
Friday, May 6, 2011
『I'm Your Fun』
AMPギャラリーを主宰する瀬下黃太さんはミュージシャンでもあり、彼のユニットであるGOGGLESを僕は勝手に贔屓にしている。初めて彼らのCDを聴いたのはずいぶん前だった。『Please Freeze Me』と題され、ビートルズを見事に換骨奪胎したかのような曲にノックアウトされてしまったのだ。そんな繋がりも感じつつ訪れた会場は、とあるカーマニアの方がヴィンテージ・カーを保管しているという広いガレージの一画にあった(以前は白州次郎が所有し、その後、伊丹十三、ムッシュかまやつへと受け継がれた名車ロータス・ヨーロッパも保管されていたというエピソードもあり)。
前置きはこれくらいで、肝心の個展である。YABUさん自身「まるで昔の音楽雑誌の投稿欄にある似顔絵みたいなものを描くとは思ってもいなかった」と恥じらうのもムベナルカナという感じのカリカチュアに思わずニンマリ。どこかで見覚えがある、おもに80年代ニューウェイヴ期以降に活躍した(り、そうでもなかった)ミュージシャン達の「ほぼ決定的瞬間」がさまざまな技法でFreezeされている。赤のクレヨンで単純化されてしまったデイヴィッド・バーン、クロッキーで鎮魂化されたイアン・カーティス、JRでふたりのオバサンの横に何気に座るベック( 写真 )、虚空を見つめながらベッドで放心しているサーストン・ムーア、赤のジャケットを着た本物よりも男前なイアン・デュリー。そのどれもが、YABUさんの優しい毒牙にかけられてスッカリ観念してしまっているのである。会期は残すところあと2日。間に合う方はぜひ足を運んでみてください。お腹が空いたらカフェで名物「ヤッホー・カレー」をドーゾ。
PS. GOGGLES待望の2nd " Come Togeta ( コメトゲタ)"もヨロシク!
Sunday, April 24, 2011
工芸美術館のBIBLIOTEK。
Thursday, April 21, 2011
Nyonya Malaysia Express
Sunday, April 17, 2011
カウンターを繰り出すのが上手い。
オランダはデザインの分野でも独特だ。90年代にドローグが登場し世界をアッと言わせ、マルセル・ワンダース、ヘラ・ヨンゲリウスを輩出したし、その後のマーティン・バースなど、ウィットと批評性に満ちた立ち位置がとても刺激的だ。僕には、その根っこにトーマス・リートフェルトの存在が感じられる。木片を積み木のようにくっつけて作った椅子や家具には、手練れの職人技の痕跡はない。有名な「ジグザグ・チェア」なんて、どうみても座り心地が良さそうには見えない。しかし、いったい「究極の座り心地を約束する椅子」とは何だろう、と思ってしまう。座った瞬間はどんなにラクチンでも、そのままの姿勢を保ちつつづけることは考えにくい。ヒトは動く存在なのだから。「椅子とはすべからく仕事椅子である」と言ったのは、それこそリートフェルト本人だったような記憶がある。そして追い打ちを掛けるように「もし休息がお望みならベッドがある」とも言っていたような...。そういえば、オランダでは安楽死も認められているのだ。
ポップスで思い出すのはフェイ・ロブスキーという女性シンガーソング&ライター。フォーキー&ジャジーなスウィンギン・スタイルがキュートで、90年代モンド・ミュージックなひと。80年代にはグルッポ・スポルティーヴォというアーティーでパンキッシュなバンドもいたっけ。オランダって、カウンターを繰り出すのが上手い。結論として、久々のアムステルダムはすこぶる楽しかった。出来ることなら、来週にでもまた行きたいほどだ。
Thursday, April 14, 2011
タンゴの調べ。
LLOYD HOTEL
Monday, April 11, 2011
ボーンホルム島
Sunday, April 10, 2011
物好きのほど。
再発ブーム
Friday, February 18, 2011
ローズ・キャバット。
96才である。さすがに足腰が少し不自由な為に車いすを使ってはいるものの、「手先の衰えはなく、作品も作ってるのよ」と娘さんが笑う。確かに、長いあいだ手を使ってきた人らしく頭はシャープ。それから小一時間あまりの間、様々なトピックをジョーク混じりにおしゃべりしてくれた。そのほとんどは画家で商業デザイナーだった亡き夫との思い出なのだが、ふたりは幼なじみで生涯にわたって良きコラボレーターであり、かけがえのないライバルだったようである。
ある日、たまたま陶土を手ひねりでポットに仕立て上げたのを見た夫が驚き、彼の薦めもあって職業訓練校に通い始め、そこで初めて蹴ロクロに触れたらしい。
「最初の頃は夫が絵付けをしていたの。でも、それじゃ私の作品じゃないと思って、自分なりにやることにしたの」
その後、様々なフォルムや釉薬の実験をかさね、いわば「トライアル&エラー」の結果として1960年代に誕生したのが、代表作である一連の”Feelies"と彼女が呼んでいる作品である。果物や野菜など、オーガニックな気配を感じさせる独特のフォルムと釉薬は、とてもエモーショナルで自由さに満ちている。そして、実際に手に触れることで、その独特のすべすべした「フィーリング」に驚くことになる。
ぼくは、思わず聞かずにはいられなかった。
「キャバットさんは北欧の陶器に興味はおありですか?」
「カトラリーとかデザインは好きだけれど、陶器はどうしても冷たい感じがしてしまうの」との答えだった。なるほど。
正直にいうと、ぼくはそれほどキャバットに熱心ではなかったかもしれない。しかし、信頼しているdieciの田丸さんから話を聞くにつれ、とにかく実物を見てみたくなり、やって来たのである。そしてキャバットの世界をとても楽しんでしまった。ツーソンの、まるで西部劇の舞台のような青い空の下で作陶をする彼女は、その名の通り、砂漠に咲いた一輪のバラだった。
Thursday, February 17, 2011
”GRAVEL & GOLD”
キュリオシティ・ショップ
ゼネラルストア。
Wednesday, February 16, 2011
ローカル・ビールが旨い。
Monday, February 14, 2011
アリゾナの歓迎ぶり。
Monday, January 31, 2011
距離感
その少し前、九電記念体育館で行われたビーチ・ボーイズのコンサートの帰り道でのことだ。初めての外タレ経験にすっかり興奮気味だった僕は、帰りの電車の中で彼らのヒット曲を小さく口ずさんでいた。すると、隣に立っていた若い外人さんが「ランランギルラン、アギルラン〜」とハモってくれるではないか! 多分、同じコンサート帰りなのだろうが、なにしろ突然の御唱和である。僕は完全にアセってしまい、ニッコリ笑って向こうを向いてしまった。彼は私服だったけど髪型はいわゆるGIカットだし、当時の福岡では米軍関係以外の外人を見かけることはなく、しかも電車は春日原方面へ向かっていたわけで、彼がキャンプからやってきたことを勝手に確信したのだった。つまり、そのランラン君に会えるかも、という淡い希望もあったのだろうか。
基地のゲートを抜け、敷地内にはいると、そこはアッケラカンとアメリカだった。広い芝生の間に点在するハウスを見て、その中に『うちのママは世界一』 や『パパ大好き』みたいな暮らしを想像した。庭にはバスケット・ボールのシュート板があったり、バーベキューセットが転がっていたりと、たしかに資本主義の豊かな暮らしを連想させてくれた。僕らは、まるで初めてのディズニーランドのようにキョロキョロしながら、いつしか重厚な造りの将校倶楽部に迷い込んでいた。そこで、生まれて初めて飲んだジンジャエールに、甘ったるいコカコーラとは違うヒリヒリとした辛い味を知ったのだった。
ここには、戦争中には飛行機を作る軍需工場があって、僕の母も動員されて働いていたと聞いた覚えがある。そして、戦後はアメリカ軍の基地となり、 僕が生まれた翌年の1950年には朝鮮戦争が勃発し、近くの板付飛行場は後方支援として重要な役割を果たしていたらしい。そして、僕らが闖入した1960年代半ばといえば、アメリカがベトナムに本格的に介入していた頃だったはずだ。それから30年以上が経過した夏、いまでは広大な総合運動公園になったその場所を横切ってハローワークへ行った。勤めていた仕事を辞め、失業保険を受け取るためだった。
あさってからアメリカ西海岸へ行くことになっている。現実のアメリカへは飛行時間10時間あまり。遠いような、そうでもないような、不思議な距離感である。
Wednesday, January 26, 2011
過ぎたるはナントカ。
Saturday, January 22, 2011
物故
さて、親しかった友人が先日突然他界した。中学時代に知り合い、音楽、映画、ファッション、異性など、青臭い時代に必須な事々をほとんど共有した。といっても、性格はほぼ正反対。せっかちで小心な僕とは違い、約束事が苦手でのんびり屋で辛辣なユーモアが得意だった彼は、不良達からも一目置かれる存在だった。タバコを吸い始めたのも、女性をモノにしたのも彼の方が早かった。出会いから大学の卒業まで、僕らはちょっとした”Odd Couple"だったと思っている(どちらがジャック・レモンとウォールター・マッソーだったかは言わずもがな)。
やがて僕がバンドを組んだ頃、彼は故郷に戻ってロック喫茶を始めた。ひょっとすると、東京でムーヴィンやブラックホークに通っていた時代の気分を福岡に持ち込んでみたかったのかもしれない。でも、商売に向いてるとはいえない性格もあって、生涯3軒やった店はどれも経営的には難しかった。もちろん、若い音楽好きな人達を、独特な磁力で惹き付けるという役割は果たしてくれたのだが。
人が死ぬ為に用意された言葉は意外に多い。死亡、死去、永眠、他界など比較的聞き慣れたものから、逝去、永逝、長逝などという詩的なものもあり、絶息、絶命、お陀仏なんてリアルなものもある。それだけ人の死は、その人の生に付随した「よしなし事」が多いということなのだろう。そこで、いったい彼にふさわしい通知は何だろう、と考えてみた。「物故」しかない、と思った。「さだめが過ぎる」というわけだ。
あたかも「事故」に近しいこの言葉面通り、彼は孤独に終えた。でも、こんなことを言ってはなんだが、とても彼らしい選択だったのではないか。些末な事情はさておいて、彼を知る人にとって、そのことはかならずしも義憤にかられるような不条理な出来事ではなかった、と思う。でも、やりきれなさは残ってしまう。彼の自前のニックネームはRoji。由来がトム・ウエイツの曲名だったか、はつみつぱいの『煙草路地』だったのか、もう尋ねるすべはない。
Sunday, January 9, 2011
ウズウズ。
Subscribe to:
Posts (Atom)