ドイツに生まれ、その後アメリカに亡命したユダヤ人女性哲学者を描いた映画『ハンナ・アーレント』を観た。1961年、ホロコーストに関わったアドルフ・アイヒマンの裁判を傍聴した彼女は、雑誌「ニューヨーカー」に文章を寄稿する。そのなかで、アイヒマンを”特別な悪の狂信者”としてではなく「ごく普通に生きていると思い込んでいる凡庸な一般人」であるとした。そして「悪はごく普通に生きている人によって引き起こされてしまう」と言ってしまう。その結果、アイヒマンを擁護したとして「世間」から激しいバッシングを受けることになる。”普通に生きている人々”の怒りをまねいたのだ。それだけではなく、ユダヤ人自治組織(ユダヤ人評議会、ユーデンラート)の指導者が、なんと強制収容所移送に手を貸したとする事実を公表してしまう。この内部告発ともとれる行為によって、とても親しかったユダヤ人たちからも縁を切られてしまう。その時彼女に投げかけられた問いとその答えは(うろ覚えだけど)、こんなふうだった。
「いったい君はユダヤ人やイスラエルを愛しているのか?」
「わたしは一つの民族だけを愛したことはありません。愛するのは友人です」
ナショナリズムは誰にだってあるだろう、多かれ少なかれ。しかし国家が国民にナショナリズムを要請する時には気をつけなければいけない。彼らは「戦争」をしたがっているのかもしれない。もし戦争になれば、たとえ国家は残ったとしても、人々は深く傷つく。ならばいっそ「ローカル」と言ってしまおうではないか。「国家」ではなく「社会」。「国民」というより「個人」であること。なによりも、自分や犬や猫を大事にすることだ。