探していた店は、ネオンのおかげですぐに見つけることができた。その名もSea Horse 。店に入ってみると、奥の壁一面に描かれた大きなタツノオトシゴが、フィンランドらしいレトロ&キッチュなデザインで迎えてくれた。だが待てよ、その「フィンランドらしい」というのが、わかっているようでよくわからない。10年ほど前だったか初めてヘルシンキを訪れた時、広い道路や、重厚な建物、歩く人々のちょい暗めな表情が、他の北欧の都市とは決定的に違っていた。僕は多分、共産主義の残り香みたいなものに勝手に敏感になっていたのかもしれない。今のフィンランドは資本主義の国だが、古くからスウェーデン、ロシアとの関係に身を砕いてきた国でもある。独立したのは1917年ロシア革命のさなかで、第二次大戦後はソビエト連邦の強い影響下にありながら、自由主義圏に留まるために微妙な舵取りをやってきたようだ。だから一見「オフ・ビート」なこの街は、実はいくつもの政治的な季節を知っている。それはカウリスマキの映画を観ていても感じる、ある種のヤルセなさに通じる。ところで僕は、共産主義は支持しないが、社会主義だったらかなりの度合いで肩入れしてもいいと思っているフシがあり、フィンランドという国にとても興味がある。そういえば、アルヴァー・アールトの椅子って、今思えばかなりソレっぽいと思う。特に代表作である三本足のスツールは、使う人を選ばない、とても社会的&アノニマスなツールなんだと、今更ながら恐れ入ってしまう。パイミオというサナトリウムの為のデザインでデビューしたのは1932年。”パブリックこそ美しく”を自身のモティベーションに取り込んだアールトのセンスはやはりスゴイ。センスといえば、Sea Horseの料理のセンス、つまり味はとても良かった。基本ベーシックな魚料理は、ナショナルではなく、地味にコスモポリタン。不気味な風が吹くこの季節には、ここのサーモンのクリームスープはかなりオススメです。
Wednesday, November 28, 2012
Wednesday, November 21, 2012
オフ・ビートな街、ヘルシンキ。
Thursday, November 1, 2012
里帰りしたヒッピー。
先日のトークショーで、プチグラの伊藤高さんが見せてくれた映像は、ムーミン生みの親トーベ・ヤンソンの暮らしを記録した8ミリだった。当時ヒットしていたS.マッケンジーの『花のサンフランシスコ』に合わせて、ひとりダンスをするトーベは、スウェーデン人らしいシルバーブロンドのボブカットがお似合いで、明らかに年齢不詳。まるで彼女自身が”トロール(妖精)”のような存在。彼女のパンクめかした独特の動きが、僕にはまるで「里帰りしたヒッピー」みたいに見える。
日本を始め世界中が受け入れた「ムーミン」の物語は、ヘルシンキ湾に浮かぶ、周囲歩いて8分というこの極小の島に建てたサマーハウスで、ひとり静かに書かれたものだとされていた。しかし、このフィルムにはもう一人別の女性が顔を出している。アーティストである同性の恋人とふたりで創作に打ち込みながら平和な夏を過ごすというのが、トーベの現実のスタイルだったようだ。思えば20世紀半ばに「北欧」がアメリカで話題になったのは家具、インテリアだけではなかった。たとえば「フリーセックス」。今となっては、それが男女差別反対の意思表示であったことに思い当たるが、当時の「常識」からは好奇の目で見られても仕方がなかった。トーベ本人は特に隠す様子はなかったらしいのだが、著作が「子供向け」であるということもあっての「メディア自主規制」だったのだろう。そんな難しいことを考えていたら、脇からノミさんの「やっぱり彼女の古い絵はサイケデリックですよね」という言葉が聞こえてきて、確かにソーダと思った。
日本を始め世界中が受け入れた「ムーミン」の物語は、ヘルシンキ湾に浮かぶ、周囲歩いて8分というこの極小の島に建てたサマーハウスで、ひとり静かに書かれたものだとされていた。しかし、このフィルムにはもう一人別の女性が顔を出している。アーティストである同性の恋人とふたりで創作に打ち込みながら平和な夏を過ごすというのが、トーベの現実のスタイルだったようだ。思えば20世紀半ばに「北欧」がアメリカで話題になったのは家具、インテリアだけではなかった。たとえば「フリーセックス」。今となっては、それが男女差別反対の意思表示であったことに思い当たるが、当時の「常識」からは好奇の目で見られても仕方がなかった。トーベ本人は特に隠す様子はなかったらしいのだが、著作が「子供向け」であるということもあっての「メディア自主規制」だったのだろう。そんな難しいことを考えていたら、脇からノミさんの「やっぱり彼女の古い絵はサイケデリックですよね」という言葉が聞こえてきて、確かにソーダと思った。
Wednesday, October 24, 2012
『ライク・サムワン・イン・ラブ』
もう随分前だけれど、アッバス・キアロスタミの映画に救われた経験がある。それは「ジグザグ3部作」と呼ばれている1980年代から90年代にかけての代表作の中の一本『そして人生は続く』だ。当時、いろんなことが一挙に悪い方へ向かってしまい、かなりマイッテイタ時期だったこともあり、僕は、この映画に強く反応した。それ以来、キアロスタミの映画はほとんど観ているが、やはりこれにかなうものはなかった。ところが最近『ライク・サムワン・イン・ラブ』を観た。前作『トスカーナの贋作』で初めてイラン以外を舞台にした彼の次回作が、日本で撮られると聞いたのは去年。とても興奮してしまい、その主役(元大学教授の老人)のオーディションを受けてみようかと血迷いかけたほどだ(僕は一度だけだが民放のラジオドラマ、それも二人芝居のひとりとして出演したことがある)。でも、結局そんな勇気はなかったし、映画を観ながらそれがいかに無謀なことだったかを思い知った。それほどこの映画のインパクトは大きかった。ところは東京(のような所)。若いころのコン・リーに似た女性は、どうやら娼婦(といってもアルバイト)らしく、一人住まいの元大学教授のマンションへしぶしぶ出かけてゆく。ところが元教授は彼女のためにスープを作ったといい、話をしよう、と持ちかけ、二人の妙な関係が始まってしまう。で、真ん中はすべて端折ってしまうと、最後(といってもたった二日間の出来事なのだが)にはストーカーまがいの彼女の恋人(加瀬亮が好演)のバーストでいきなりのジ・エンド。『友達のうちはどこ』など、イラン時代の禁欲的作風から自由になったとはいえ、この変わり様には驚いた。それは「老いてますます盛ん」などという境地とは違う。答えのない世界をめぐって、めくるめく続いてゆくこの過激な映画は、明らかに観るものに投げられている。答えが得られなくても、最後まで付き合わなければならないのは人生も同じ。救いなど、映画にあるはずもないことを知るべきなのか。
Monday, October 8, 2012
刻々と変わるのは、天気だけじゃない。
「鳥取では晴れていても傘は手放せないんですよ」とOさん。確かにさっきまでサンサンと日が照っていたと思ったら、いつの間にか小雨が降りだした。俗に言う狐の嫁入り状態で、見上げると雲の動きが速い。日本海気候のために夏暑く、冬は時に豪雪に見舞われるらしい。なかなかハードな土地柄なのである。そんな話をするOさんは天草出身で、「何の因果か、ここに住み着いた」と語る県の観光課の人。ただし元々は作家さんであり、竹を使った作品がアメリカのギャラリーに展示されていたりする。したがって鳥取県に点在する様々な民具を始めとする「物や事」に対する関心が高い。つまり、彼と一緒に行動することで僕らの鳥取旅行が成り立っているといっていい。今回も、organで去年開催して好評だった鳥取物産展の続編をやることになり、お手伝いをしていただいた。
初めての「浦富焼(うらどめやき)」は「集(つれ)」という名前の民芸店で見ることができた。明治時代に姿を消した窯を1971年に再興した山下碩夫さんによる白磁や掻き落としの作品がモダンだ。前回も訪ねた「牧谷窯(まきたにがま)」は最近作陶が追いつかない状態とのこと。綺麗なストライプや市松模様は違う色の土を"練り上げ"て焼いたもの。手間がかかるのである。それでも1月までにはなんとかしてくれそうなのでホッとする。「きわい窯」ではヨーロッパの家を模した小さな陶器をセレクト[写真]。「国造焼(こくぞうやき)」のポッテリしたボウルにも捨てがたい魅力を覚えた。前回は民芸の影響が濃い窯元さんの作品が主だったけど、どうやら今回はその次世代のものに惹かれたようである。内外を問わず、いろいろな「物や事」に興味を持ちながら自分のスタイルを模索することは、とても大切なことなのだ。刻々と変わるのは、天気だけじゃない。
初めての「浦富焼(うらどめやき)」は「集(つれ)」という名前の民芸店で見ることができた。明治時代に姿を消した窯を1971年に再興した山下碩夫さんによる白磁や掻き落としの作品がモダンだ。前回も訪ねた「牧谷窯(まきたにがま)」は最近作陶が追いつかない状態とのこと。綺麗なストライプや市松模様は違う色の土を"練り上げ"て焼いたもの。手間がかかるのである。それでも1月までにはなんとかしてくれそうなのでホッとする。「きわい窯」ではヨーロッパの家を模した小さな陶器をセレクト[写真]。「国造焼(こくぞうやき)」のポッテリしたボウルにも捨てがたい魅力を覚えた。前回は民芸の影響が濃い窯元さんの作品が主だったけど、どうやら今回はその次世代のものに惹かれたようである。内外を問わず、いろいろな「物や事」に興味を持ちながら自分のスタイルを模索することは、とても大切なことなのだ。刻々と変わるのは、天気だけじゃない。
Sunday, September 23, 2012
それに比べれば4ヶ月なんて...。
スイス人のハンス・コレイが”Landi"という椅子を発表したのは1939年チューリッヒの博覧会。一見何処にでもありそうなアルミ椅子だけど、戸外用としてこれ以上に美しいものはない。僕は一脚だけ、コレクターの方から譲ってもらったが、いざ探すとなると案外苦労する。ところが今回パリで、しかもよく行くAnatomicaというセレクトショップの店先で突然遭遇した。店主ピエールさんが椅子好きであることは、店内に靴の試着用として置いてある柳宗理の黒いエレファント・スツール(もちオリジナル)で先刻承知だった。それにしても、このアノニマスな椅子を店先にドーンと置く心意気がイイ。そういえば80年代、初めてパリを訪れ、ビルケンシュトックでほぼ埋め尽くされた、オープンしたての彼の店をのぞいたことがある。まだ「ビルケン」が日本で市民権を得ていない頃だった。靴といえば去年だったか、ピエールさんは久留米の「ムーンスター」に足を運び、自分が納得できるスニーカー作りをしていたっけ。自分のお気に入りに出会うためには、広い地球もひとっ飛びというわけだ。ところで僕も最近ドイツでLandiを、それも4脚発見した。ところが予定していたコンテナに間に合わず、次のコンテナは多分12月、日本へ到着するのは来年の1月末くらい。少しがっかりしている。気を取り直すため、濱田庄司の『無盡蔵』に載っていた話を(ムリヤリ)思い出すことにした。昭和40年、彼は前年に買い付けたままついに日本へ届かなかったコンテナ一個分の荷物を確認するためバルセロナへ立ち寄った。すると倉庫に無事保管されていたらしく、目録と照らしても、1個の紛失もなかったとのこと。その間一年以上、随分ゆっくりした話しである。それに比べれば4ヶ月なんて...。
Saturday, September 8, 2012
「他者による親密な巣作り」を覗き見ることほど参考になるものはない。
"BELGIAN ARCHITECTS AND THEIR HOUSE"という本を買ったら、「どこに住むか、ではなく、どんなふうに住むか」という意味の言葉が載っていて、ベルギーらしい、と思った。もちろん「どんな環境に囲まれて住むか」ってことも大事だけれど、ガスも水道も来ていない山の中での生活は(あこがれはするものの)所詮ひ弱な都会生活者には考えにくい。となると、「コンクリートのビルで、いかに快適に住むか」ということになる。僕が実践している「靴のままの生活」もその一環にすぎないのだけれど、それはさて置き、ベルギー在住の建築家17名の自宅を紹介したこの本、彼らの生活に欠かせないモノやコトとの関係が見て取れるし、なによりもそれぞれのインテリアがとても気持ちがいい。ごく一般的な広さのアパートに、イームズやヤコブセン、ベルトイアに混じって、オランダのフリソ・クラマーや地元ベルギーのデザイナー、ヴァン・ダ・ミーレンなどの椅子が、しかるべき居場所をキチンと確保している。彼らのチョイスには地理的なことも関係しているのだろう。オランダのデ・ステイル、ドイツのバウハウス、そしてアメリカやフランスのモダニズムなどの影響を受けた選択は、静かでリベラル。安直なインテリア雑誌で提案される「オシャレな空間」とは違い、「自分の巣」のように居心地が良さそうなのだ。「他者による親密な巣作り」を覗き見ることほど参考になるものはない。
Sunday, September 2, 2012
市民実験。
ベルギーは、色々な言語と文化が混在するところ。フランス語、フラマン(オランダ)語、それにドイツ語や英語などが混ざり、地域によって話される言葉が異なっている。そんなわけで、「国民国家とは固有の言語を持つ」というテーゼに反して、ベルギーは独自の言語を持っていない。もともとあった王国が離合集散をくり返し、諸事情の中でベルギーという名前の国家になったのだろう。実際にはフランス語とフラマン語の「言語戦争」や、「カソリックとプロテスタントの違い」みたいなこともあり、国を幾つかに区分していて、そういう意味では小さな合衆国ともいえる。だからなのか、ブリュッセルがヨーロッパの首都と呼ばれ、そこにEUの諸機関があるのも頷ける気がする。ナイーブすぎるかもしれないけど、通貨を統合し、パスポートをなくすってのは、武力行使をしにくくする第一歩。そのことを、長い期間をかけて、話し合いで合意に至ったというところにEUの良い実験精神が現れていると思う。
写真はアントワープの小さな広場で毎週金曜日に行われているオークション。といっても、日用品や、使わなくなった家電、家具なんかを格安の値段で競り落とすという一種のリサイクル。参加しているのはご近所のオジサンやオバサンたちだが、いたって真剣。一部の好事家のものと思われがちなオークションを公道で無作為の人々を相手に展開する。これだって、立派な市民実験と言えないこともない。
写真はアントワープの小さな広場で毎週金曜日に行われているオークション。といっても、日用品や、使わなくなった家電、家具なんかを格安の値段で競り落とすという一種のリサイクル。参加しているのはご近所のオジサンやオバサンたちだが、いたって真剣。一部の好事家のものと思われがちなオークションを公道で無作為の人々を相手に展開する。これだって、立派な市民実験と言えないこともない。
Friday, August 31, 2012
『世界の車内から』
旅に出ると、いろいろな乗り物に乗ることになる。高度10000mをマッハに近い速度の飛行機は、出来れば乗らずに済ませたいところだが、こればかりは仕方がない。空港から乗るタクシーも「ボラれはしないか?」などと思うと落ち着かない。メトロは乗り換えが煩雑だったり、地下道がおしっこ臭かったり、何より真っ暗闇ひた走り、地上に出たら地図とにらめっこしなきゃ方向がわからない。その点、景色を見ながらのバスはいい。コミさんみたいに目的なしにとりあえず終点まで、なんていうのをやりたいけど、そうもいかない。路線図が複雑だったりと、ジモッチ並に乗りこなすのには時間がかかる。トラムはのんびりで好きだけど、走っている都市が限られる。そこでボクのおすすめは2時間くらいの列車の移動。今回もアントワープを起点にして、ブリュッセルまで1時間、おとなりオランダのアイントホーフェンまで1回乗り換えて2時間、たっぷり『世界の車窓から』を楽しんだ。ゆるやかな平地と緑。牛や羊が放牧され、小川が流れ、雲がたなびく様子を飽きることなく見ていると、ちょうどいい時間が過ぎてくれる。それに、TGVやThalysなどと違ってローカル線にはいろいろな車両が、それもちょい前の時代のものが走っている。今回のお気に入りは、まるでジャン・プルーヴェみたいな椅子を備えたもの。車内のデザインにはお国柄があらわれて楽しい。特にいろんな国をまたがるEU圏は面白いと思う。
Friday, August 24, 2012
美しいと思ったらそれが廃材だったんだ。
オランダ南部の街アイントホーフェンにあるピート・ヘイン・イークの2階ショールームからは、家具製作をしている「現場」が丸見えだ。というか「さあ、ドーゾ見てください」という感じ。フィリップスの昔の工場を使って、ショールーム、セレクトショップ、レストランを運営しているわけで、なにより広いし、それに古びたレンガとガラスの建物が抜群に良い感じ。もちろん、いくら器が良くったって使う人次第。しかし、そこはPHEさん、レディメードの良さをしっかり残しつつ、野暮な手は加えていない。ダイナミックで風通しがすこぶる良く、当然「売らんがため」の「可愛らしい」ディスプレーとは縁がない。工場の高い天井には”WE","HE","SHE"という大きなサインがぶら下がっている。労働者のためのスローガンにしては、なんと気が効いていることだろう。そんな環境で製作された家具は思っていた以上に種類が多く、彼が単なるワン・ヒット・ワンダラーじゃないことがうかがえる。値段もレンジが広く、(ボクも買ってしまった)スツールがEUR190から(ゴミ箱はもっと安い)、手間がかかったであろう大物はEUR3500ぐらいなど選択肢も多い。セレクトショップの方は、さながらジェネラル・ストア並の品揃えが楽しく(ボクはハーモニカを買った)、そして一角には(PHEと立ち位置が近い)トム・ディクソンの部屋があるという次第。ところで、彼の代表作である廃材を使った椅子や家具だが、ピートはインタビューで(だいたい)こんな風なことを言っていたっけ。
「廃材だから美しいと思ったわけじゃなく、美しいと思ったらそれが廃材だったんだ」。
Friday, August 17, 2012
河崎さんのトークショー ”LAにいた頃はサーフィンなんかしなかった”
河崎さんがLAに住み始めたのは2000年。そこを拠点に、世界中を駆けめぐってアーティストや財団と直接交渉をして200人を超える作家の作品をTシャツとして発表した。その中には、バウハウスやイームズ、ウォーホル、バスキア、奈良美智など、あなたがきっとどこかで目にしたものもあるはずだ。そんな彼のオフィスには山ほどの本資料があった。ダブってるのもあるからと、そのうちの幾冊かを分けてもらったことがある。そんな中で、ひと目で気に入ったのがマーガレット・キルガレンの作品集だった。とてもパーソナルなタッチで描かれた木や葉っぱやバンジョーとタイポグラフィ、そして彼女が住んでいたサンフランシスコ、ミッション地区のユーモラスでちょっと悲しげな人々。それは、巨大なアメリカにひっそりと息づくコミュニティに目を向けた彼女独自のフォーク・アートだった。そんな彼女が夫であるバリー・マッギーの個展のために来日した際、河崎さんは二人を由布院に誘い、最初で最後の九州の旅が実現した。その後、彼女は34歳という若さで癌のため亡くなっている。河崎さんの自宅の居間には、温泉でくつろぐマーガレットの素描が掛けられている。手術かお腹の子という選択に、迷わず子供を生むことを選んだ彼女は、作品に登場する女達のようにたくましい。
24日(金)「夜間学校in春吉」での河崎さんのトークショー ”LAにいた頃はサーフィンなんかしなかった” がとても楽しみだ。開場では、ストリート・アートなどの貴重な作品や資料なども展示される予定。その上、来場者にはジェフ・マクフェトリッジのマグカップをプレゼントするらしい(前回に続く、太っ腹なゲストである)。ご予約はorganまで。
24日(金)「夜間学校in春吉」での河崎さんのトークショー ”LAにいた頃はサーフィンなんかしなかった” がとても楽しみだ。開場では、ストリート・アートなどの貴重な作品や資料なども展示される予定。その上、来場者にはジェフ・マクフェトリッジのマグカップをプレゼントするらしい(前回に続く、太っ腹なゲストである)。ご予約はorganまで。
Wednesday, August 15, 2012
YABU ONE MAN SHOW @ THEO GALLERY IN ANTWERP
アントワープでの藪直樹の個展は、大交易時代からこの街のかなめだったスヘレデ河に面するTheo Galleryで開催された。去年初めて訪れ、とても気に入ったこともあり、藪さんのヨーロッパ・デビューがこの街になったと聞いて、俄然再訪することを決めたのだ。ブリュッセルを含め、ベネルクス3国には未知のデザイン・ソースもありそうだし、なにより大小様々な蚤の市があることも魅力のひとつだった。
日本から送った絵のうち、大きな号数のものが3点届かないというアクシデントもあったけれど、高い天井と白にペイントされたレンガ壁にハングアップされた作品はとてもヴィヴィットだった。いい場所を得たことで、なんだか絵達が幸福そうに見える。彼の絵は、思った通り、ヨーロッパにお似合いだ。日本から駆けつけた「蝉」の岡崎さんのギターがソフトでサイケデリックな音を奏で始め、ライブペインティングが始まった。と、やにわに床に敷いた3枚の大きなキャンバスをラフな円錐形(というか倉俣史朗のランプみたいな形)に折り始める藪さん。「オヤ、今回は立体かな」と思ったら、上から絵の具をドリッピングし始めた。そして描き終わり(垂らし終わり)、キャンバスを広げると、そこにはなんとも自由で偶発的な世界が拡がっているではないか。
最初からこういう感じでやろうと計画していたの?」と聞いてみた。「いや、直前になって今日は短時間で、まったく意図を持たずに、キャンバスの適度な硬さを利用して、しかもポロックみたいにたくさん垂らさずにやろうと。買ったばかりのブーツに絵の具が垂れないか気がかりだったし....」。まったく、この人は日本にいる時と同じテンションでこの街にいるってわけだ。アッパレ。もうすぐ風船画伯を追い越すぞ。
日本から送った絵のうち、大きな号数のものが3点届かないというアクシデントもあったけれど、高い天井と白にペイントされたレンガ壁にハングアップされた作品はとてもヴィヴィットだった。いい場所を得たことで、なんだか絵達が幸福そうに見える。彼の絵は、思った通り、ヨーロッパにお似合いだ。日本から駆けつけた「蝉」の岡崎さんのギターがソフトでサイケデリックな音を奏で始め、ライブペインティングが始まった。と、やにわに床に敷いた3枚の大きなキャンバスをラフな円錐形(というか倉俣史朗のランプみたいな形)に折り始める藪さん。「オヤ、今回は立体かな」と思ったら、上から絵の具をドリッピングし始めた。そして描き終わり(垂らし終わり)、キャンバスを広げると、そこにはなんとも自由で偶発的な世界が拡がっているではないか。
最初からこういう感じでやろうと計画していたの?」と聞いてみた。「いや、直前になって今日は短時間で、まったく意図を持たずに、キャンバスの適度な硬さを利用して、しかもポロックみたいにたくさん垂らさずにやろうと。買ったばかりのブーツに絵の具が垂れないか気がかりだったし....」。まったく、この人は日本にいる時と同じテンションでこの街にいるってわけだ。アッパレ。もうすぐ風船画伯を追い越すぞ。
Monday, July 23, 2012
人生はジェラートみたいなもの。
中庭には様々な植物や椅子、家具などが無造作に置かれていて、それがとてもいい雰囲気。応対してくれた女性マネージャーによると、サローネの時期にはここでイヴェントやパーティーも行われるとのこと。と、その時現れたのが、くだんのカナちゃんそっくりな女性。「ど〜も」と声をかけたら「さっき、歩いてましたよね」と、お互い認知のご挨拶。聞くと、ここの庭の手入れをしているとのこと。ガーデナーなのである。話しだしたらキリがないところや、ちょっと舌っ足らずの早口かげんはまさに「ミラノのカナちゃん」だった。なにより(モチロン)親切心からの「お節介さ」もそっくり。美味しくて気の置けないランチの店を教えてもらったりもした。昔に比べて、海外でウゴメク若人が少なくなったと思っていたのだけれど、そんなこともないようだ。人生はジェラートみたいなもの。溶けてしまう前に舐め尽くす時間は思っているより短い。
Friday, July 13, 2012
コルビュジエ眼鏡が入荷しました。
Wednesday, July 11, 2012
「ロカ岬」
バスを降り、カフェテリアでよく冷えたビールの小瓶を買って岬の突端へと歩いた。荒涼とした岩場は一面のお花畑で海からの強風が吹きまくっている。花々は見たこともないような種類で、低くへばりつくように様々な色が咲き誇っている。風で帽子が飛ばされないように気をつけながら、写真で見たことがある「ここに地果て、海始まる」と刻まれた例の大きな十字架の向こう側へ行ってみると、突然視界が 200 度くらいに広がった。
わずかにアールを描いた水平線と空との境界がうっすらと煙り、なんだかあの世の景色みたいに幻惑的。ここからそのまま西へ向かえば、確かニューヨークに到達するはずだ。この未知の海原を越えて新大陸を目指した男どもは、本当に向こう見ずで野心タップリだったに違いない。なにしろ彼らは喜望峰を周りインド洋からマラッカ海峡を抜けはるか種子島まで到達した。そう「黄金の国ジパング」にコンタクトした初の南蛮人となったわけだ。
なんとかこの景色をカメラにおさめようとアレコレしていると、突然オジサンが僕ら二人を撮ってあげようかと声をかけてきた。お言葉に甘えて i Phone のシャッター位置を教えてあげていたら「わかった、ここだね」と言った瞬間が残っている。レイバンのサングラスが似合う「良きバテレンさん」である。
Thursday, June 28, 2012
こりゃー気持ちいいい。
ガイド本によると、ペーナ城は 19 世紀にドイツのルードヴィッヒ 2 世のいとこが建築を命じたとある。イスラム、ゴシック、ルネッサンスなどの様式が混在した城らしい。ビスコンティの映画で見る限り、ルードヴィッヒの趣味はかなりビザールだった記憶があって、どんな具合なのかちょっと興味がある。
狭い山道を、猛烈な勢いで駆け登るバスのおかげで、あっという間に到着。傾斜のきつい庭園の坂を登り切ると、目の前に映画のセットみたいな風景が目に飛び込んできた。城の内部に入ってみると、中国趣味や、トルコ風、果てはトランプルイユまで、これまた各部屋がテーマ別にしつらえてある。もちろん調度品もいかにも手の込んだ工芸品ばかり。帝国主義に至る時代の王様達が、いかにエキゾティックな世界にハマっていたかを垣間見る思い。元祖 VIP によるプライベート・ディズニーランドを見る思いだった。唯一面白かったのは台所。もちろんかなり広いのだけれど、鍋、窯、バスケット、などの道具類には生活を感じた。ちょっとしたブロカントへ紛れ込んだような気分で「もし買い付けるとすれば、あの手作りっぽいテーブルかな ... 」などと妄想に耽る。
ふと気が付けば、閉館まであとわずか。文句言いつつ、結構な時間を過ごしてしまったようだ。この様子ではムーア人の砦は諦めるしかない。最後に城壁の上をグルっと回って帰ろうとしたら、見えるではありませんか、はるか眼下に大西洋を睥睨するかのような古城が!こりゃー気持ちいいい。
Sunday, June 24, 2012
オッと、これは、どう見てもイスラム世界である。
ムーア人のことで印象に残っているのは『トゥルー・ロマンス』という(またまた)映画。デニス・ホッパー扮する警官がクリストファー・ウォーケン扮するマフィアの親玉に向かって「その昔ムーア人達がお前の祖先とファックしたおかげでイタリア人は黒髪と黒い目になったんだ」と罵倒してあっさり撃ち殺されるシーンである。そしてもうひとつ、随分前に『モーリス』という映画がヒットした際、イギリスに多いモーリスという名前の語源がムーアであることも。
ムーア人がイベリア半島を席巻したのは 8 世紀くらい。イスラム化した北アフリカのベルベル人である彼らは、西欧に先駆けた様々な知恵を携えていたようだ。たとえば星々を観測して方角や位置を知る方法は、砂漠を交易する民として不可欠であり、それが航海術として地中海を帆船で自由に交通することを可能にしたはずで、ジブラルタル海峡を渡るなんてオチャノコサイサイだっただろう。その後、そんな先端技術を利用したポルトガルが世界に先駆けて、いわゆる大航海時代に乗り出す下地ともなったと考えられている。なにせ、ローマ帝国はまだガレー船という人力でオールを漕いでいた時代、イスラムのほうが断然進んでいたわけである。とまあ、ヨーロッパが好きな割には、西欧からの視点による歴史観に少々異議がある身として現場検証的な興味もあったのだ。
王侯貴族の城館や金持ちの別荘が点在する静かな山間の町シントラは、イギリスの詩人バイロンをして「この世のエデン」と言わしめたらしい。坂道をしばらく歩くと、「ムーアの泉」があった。オッと、これは、どう見てもイスラム世界である。
Friday, June 22, 2012
ドロボー市。
そんなわけで、リスボンのドロボー市にもあまり期待せずに出かけたのだけれど、予想以上に面白かった。キリスト教系のモノを始め、イスラム風手描きのアズレージョ、東洋を意識した陶器類、錫のコップなど、いずれもこの国の古い歴史と多様な文化を感じさせてくれる。値段も悪くない。それにしても日差しが強い。 1 時間も探索していると、手の甲がうっすら日焼けしているのが分かるほどだ。
そんな中で、いわくあり気な 5,6 個の土くれめいたものを置いた小さなテーブルに足が止まった。聞くと、どれもが大西洋に沈んだ船から引き上げられたローマ帝国時代の遺物だという。一生懸命英語で説明するおじさんは、いたって真面目そうである。自分で作ったという小さな冊子には、沈没船が見つかったイベリア半島沖の場所がたくさん載っている。僕が興味を持った塑像は、ちょっとリサ・ラーソンのスタジオものを思わせる風情があって、古いコインと一緒にいただくことにした。腰布をまとっただけの石の像はすっかり彩色も薄れ、少し湿り気があって、触るとひんやり、そして思った以上に持ち重みがした。
Thursday, June 21, 2012
リスボンの過ごし方。
焼いただけのイワシとフレッシュな白ワインがとても美味しかった。檀一雄が好きだったという ”Dao" というワインも良かったけど、昼間からやるには何と言っても冷えた白がいい。路地裏の大衆食堂で、小さなピシェ( 2.5 ユーロくらい)と白身魚のトマト味雑炊(パクチーが載ってる)をぱくつく。悪くないリスボンの過ごし方だ。
ただし、 28 番線の古ぼけたトラムにはご用心。僕はあっさりスリに遭いました。買付け旅を始めて 15 年、初の体験でした。アップダウンが激しく、眺めのいいところや旧市街を通る人気の路線が、スリの活躍の場であることはガイドブックで読んでいたのだけれど、まったくもって情けない。ただでさえ混んでいる車内で、年寄りを通すために道を開けてくれと強引に体を押し付ける男に気を取られている間に、別の男にズボンに入れていた現金を抜かれてしまったのです。どうやら、年寄りも含めた 3 人は一味だったようです。
だからと言って、この街が嫌いになることはなかったから不思議。次の日は、ケロッとして泥棒市へと向かいました。
Saturday, May 5, 2012
キム・ヘジョンさんの器
Wednesday, April 25, 2012
おとといポップス#8 ”ザ・バンドに肉薄したつもり”
Friday, March 30, 2012
aka ソーエツ。
Friday, March 23, 2012
”たれ”の2度漬けは厳禁。
Sunday, March 18, 2012
「ミンパク」
大阪出張の際、国立民族学博物館へ行ってみた。「ミンパク、面白い!」と、何人かの友人から聞いていたが、その半端ない数と量に驚いた。世界中から集めた、主に生活にまつわる道具や用具、衣服、装身具などがコレデモカという感じに集められている。地球誕生から現在までの46億年の歴史を1年365日のカレンダーで表わすとすれば、12月31日大晦日にホモ・サピエンスが現れ、午後11時59分58秒に産業革命が起こったことになるらしい。つまり、これらのモノたちが作られたのは一瞬前の出来事なのだということなのだ。そんなことを思いながら見るうちに、世界各地の「用の具」には、その土地の風土に根ざした独特の発展をしたモノもあるのだが、おしなべて言えば、やはり共通する形や機能が備わっていることがわかる。ところが、日本の展示室に入った途端、様子が一変した。それまでの石や鉄などから、一気に紙や竹の世界へガラリと変わってしまい、なんだか異空間に入ったような錯覚におちいった。それも祭祀なのに使うオーナメントが多い。「八百万の神々」とともに生きてきた人々の生活が色濃く反映されているのだろう。
Friday, February 17, 2012
「がっぷり四つ」
父はたしか少尉だったかで、実戦に参加したこともなく、どうやら彼の戦争はそれほど辛いものではなかったのだろう。そういえば、アルバムを見ながら聞いた話にも悲惨さはなく、どちらかと言えば懐かしむ様子すらうかがえた。もちろん愉快な話ばかりではなく、時には子供ながらもドキッとするようなこともあった。それは例えば、中国人のことを当時は「チャンコロ」などと蔑称で呼ぶ人がいたこともそうだったのだが、極めつけは日本兵による斬首というショッキングなことを聞かされたことだった。いくら東映のチャンバラ映画が好きでも、それとこれとは話が別である。それに父は日本刀が好きで(もちろんライセンスをもらって)、正月などには庭で竹にわらを巻いたものを居合い抜きのように試し切りしたりするような人である。幼い僕は、てっきり父もそんなことをやったんだと思い込んでしまったようだ。
そんな疑問が解けたのは、ずっと後になってからだ。どちらかといえば気難しかった父も老年となり、僕のファーザー・コンプレックスも薄らいだ頃、何かの話のきっかけもあってその事を尋ねてみたことがある。すると彼は、目撃はしたが自分はやっていないこと。また、そのような行為は肝試しにやらされるか、みずから昇進をねらってやるものであり、自分にはその気はまったくなかったことを語ってくれた。
中国ツアー最後の夜、僕は小雨降る南京東路の雑踏を歩いていた。そして気まぐれに一軒の土産物屋へ入ったものの欲しいと思うものもなく、出口へ向かおうとしていた。すると、親子三人連れが狭い通路を塞ぐようにして品物に熱中して、特に小学生くらいの、明らかに肥満した男の子の体が両親から締め出された感じでほぼ通路を遮断している。この国の作法に従ったわけではないが、僕はつい黙ってその子の脇を割って前へ進もうとした。その瞬間、その子は後ろを振り向きざま僕を見上げた。そして口から溢れ出るお菓子をくわえたまま、きかん気に燃えたぎった目をして、力まかせに押し返してくるではないか。僕はかなり本気で押し戻した。小さな朝青龍と老いた魁皇との一番だ。大人気ないことをしてしまった。しかし、おそらく「一人っ子政策」の落とし子である朝青龍は、決して側にいる両親に助けを求めることをしなかったナー、とそこのところは感心した。そんなふうにして「近くて遠い隣人」への旅は終わった。
広大な国土にたくさんの異民族が貧富の差をかかえながら同居している様は、もはや裏アメリカの様相を呈している。 2 つの大国はそのうちきっと「がっぷり四つ」になって勝負をするのだろうか。そしてその昔、中国から圧倒的な影響を受けながら、明治維新以降はアメリカに範を求めた日本。さて、これから何処へ向かってさまよい続ければよいのだろう。
「がっぷり四つ」
父はたしか少尉だったかで、実戦に参加したこともなく、どうやら彼の戦争はそれほど辛いものではなかったのだろう。そういえば、アルバムを見ながら聞いた話にも悲惨さはなく、どちらかと言えば懐かしむ様子すらうかがえた。もちろん愉快な話ばかりではなく、時には子供ながらもドキッとするようなこともあった。それは例えば、中国人のことを当時は「チャンコロ」などと蔑称で呼ぶ人がいたこともそうだったのだが、極めつけは日本兵による斬首というショッキングなことを聞かされたことだった。いくら東映のチャンバラ映画が好きでも、それとこれとは話が別である。しかも父は日本刀が好きで(もちろんライセンスをもらって)、正月などには庭で竹にわらを巻いたものを居合い抜きのように試し切りしたりするような人である。幼い僕は、てっきり父もそんなことをやったんだと思い込んでしまったようだ。
そんな疑惑が晴れたのは、ずっと後になってからだ。どちらかといえば気難しかった父も老年となり、僕のファーザー・コンプレックスも薄らいだ頃、何かの話のきっかけもあってその事を尋ねてみたことがある。すると彼は、目撃はしたが自分はやっていないこと。また、そのような行為は肝試しにやらされるか、みずから昇進をねらってやるものであり、自分にはその気はまったくなかったことを語ってくれた。
中国ツアー最後の夜、僕は小雨降る南京東路の雑踏を歩き、気まぐれに一軒の土産物屋へ入った。しかし欲しいと思うものもなく、出口へ向かおうとしていた。すると、親子三人連れが狭い通路を塞ぐようにして品物に熱中して、特に小学生くらいの、明らかに肥満した男の子の体が両親から締め出された感じでほぼ通路を遮断している。この国の作法に従ったわけでもないが、僕はつい黙ってその子の脇を割って前へ進もうとした。その瞬間、その子は後ろを振り向きざま僕を見上げた。そして口から溢れ出るお菓子をくわえたまま、きかん気に燃えたぎった目をして力まかせに押し返してきた。僕は大人気ないことは百も承知だったが、かなり本気で押し戻した。まるで朝青龍と老いた魁皇との一番だ。しかし、おそらく「一人っ子政策」の落とし子である朝青龍は、決して側にいる両親に助けを求めることをしなかったのである。そんなふうにして中国への初めての旅は終わった。「近くて遠い隣人」であることだけは思い知ったのだが、もちろん、そこから何らかの結論を引き出すことは、とてもできそうにない。ただ直感の上なのだが、この国がなんだかアメリカに似ているような気がしたことは確かである。2つの大国はいつかきっと「がっぷり四つ」になって勝負をするに違いない。
Thursday, February 2, 2012
「魯迅は日本で言えば夏目漱石です」
買ったものは少ない。紹興酒と茶、それに蘇州で見つけた小さな陶器を二個だけ。欲望の対象となるモノがほとんど見あたらなかった。ゴダール映画の影響なのか、密かに「毛沢東語録」を狙っていたのだが、中国人ガイドのKさんから「そんなもの今ダレも読まないヨ。骨董屋にでも行けばあるかも」と言われた。時間があれば、案外面白いモノがあったかもしれない。そういえば2,3年前だったか、U君が杭州へ古い中国建築を調査研究のため訪れたことがあった。そこで、かの魯迅も被っていたという、その地方独特の帽子をおみやげにプレゼントしてくれたことがあった。もともと農民が”雨にも負けず、風にも負けない”為に使った、恐ろしく分厚いフェルトで出来た三角錐をした帽子は、見ようによっては高等ルンペンみたいで面白い(なので、U君が杭州を再訪する際に10個ほど買ってきてもらい、店で販売したことがあった)。そんなこともあって、魯迅博物館へ行った。
博物館の人から「魯迅は日本で言えば夏目漱石です」と教えられた。そーか、二人は文語体ではなく初めて口語体で小説を書き、二つの国の精神的近代化に寄与した作家なのだ! そのうえ、ほぼ同時期に魯迅は日本へ、漱石はイギリスへと留学している。ただし、ひとあし先に近代化の歩みを始めた日本で知己を得た魯迅と逆に、漱石は西洋文化へ失望し、神経衰弱となり帰国、のちにアジア回帰ともとれる境地に至ることになる(というか、西洋と東洋、もしくは日本との価値観のハザマで自問自答を続けたのだと思う)。もともと中国思想に傾倒していた漱石の中国観は、老荘思想や禅、漢詩などから掴みとった彼独自の悩めるイデアだったんじゃないか。いわゆる「和魂洋才」とは違うような気がする。まあ『阿Q正伝』すらちゃんと読んでない僕にはよくわからないのだが。
ところで 蘇州へ向かうバスの中で、前述した同行の老人が突然Kさんに言った。「中国にはカラスが見あたらないけど、全部食ってしまったんだろ」。これにはさすがのKさんも閉口して、一瞬車内に気まずい空気が流れると思いきや、案外ケロッとしていた。彼は生粋の上海人、都会ッ子である。様々な地方から来た人々で今や人口2400万人にふくれあがった経済都市に生きている。まるで戦前の日本人のような発言にいまさら驚くだろうか。中国は多様性と他者性にあふれた一大集合体なのだ。誰かさんのようにウェットではない。
Wednesday, January 25, 2012
「蘇州と上海の旅5日間」
一日目、170kmをひたすら走って着いたのは無錫という街。大昔は錫(スズ)の産出で栄えたらしいのだが、ある時パッタリ採れなくなった為にそう呼ばれているとのこと、寂れてしまったあとの名前というのがなんだか哀しい。 規模としては久留米よりちょっと大きいくらいかと思ったら、とんでもない。人口600万人と聞き唖然。夕食は江南料理。いかにも団体ツアー御用達といったガランとした酒店で円卓を囲む。内容は一応日本人好み的中華料理コースで味は濃いめ&甘め。ぼくは早速紹興酒を頼む。老人はちゃっかり手持ちの麦焼酎を飲むばかりで一向料理に手を付けない。どの料理も油がテカテカしてダメだといいながら、やはり手持ちの”振りかけ”を配給してくれる。社長さんたちは青島ビールを飲みながら、色も味も薄いですなー、といいつつ努めて陽気に冗談を飛ばしている。食後、街中にある高層ホテルへ。買付の旅では泊まることのない立派なバスタブも完備した部屋は申し分あるわけがなく、早めの就寝。明けて二日目は朝から淡水真珠の店を見学。その後なんとかという新造の公園へ。江南と呼ばれるこの地方独特の湿地を利用した大型の大濠公園といった風情。続いて三国志で有名だという太湖で15分間(!)の遊覧船。その脇にある「三国城」は映画『レッドクリフ』の撮影に使われ、その後観光施設になったものらしいが映画も観ていないのでピンと来ない。唯一、諸葛孔明という賢人の名前だけはピンポーン。昼食は「ところ変われどナントカ」で、さむーい感じのレストランにて5,6品を取り分ける中華コース。多分鯉なのだろう、スライスした魚の煮付けが妙に油っぽい。午後は木涜(モクトク)という古い水郷の村へ行く。細い水路沿いを歩きながら、これぞイメージしていた江南の景色とばかりに気分を鼓舞するがしかし寒い。冷気が大地からしみ出るようにジワジワと足に来るが、せっかくの自由時間なので動画を撮りながら『世界ふれあい街歩き』ごっこをする。
とまあ、そんな具合に3日目以降も決められたスケジュールをこなしつつ、と言いたいところだが、さすがにワガママ心がむくむくと。蘇州最終日は、Kさんにどうしても行きたいところがあると単独行動を申し出ると、今回人数も少ないことだし、いいでしょう、ということになり友人から薦められた平江路という地区のカフェを探訪。そして最終日の上海では、夕食を僕ら2人で早めに済ませ(というかその時点で他の3人もどこかへエスケープ)、その昔に高杉晋作や大杉栄、金子光晴たちも闊歩したであろう南京東路をそぞろ歩いて和平飯店へ。目指すは、イギリスとアメリカが租借した共同租界と呼ばれる地域最古のホテル。1908年に完成した当時には、そのモダンさで人々の度肝を抜いたであろうそのホテル1階にあるバーで、老年ジャズバンドの演奏を聴きながら、「魔都」と呼ばれたこの街の事を思ってみた。
Tuesday, January 10, 2012
60〜70年代フランス映画で活躍した作曲家の話と聞いて嬉しくなった。
最初に知ったのはフランシス・レイ。もちろん映画『男と女』のダバダバ・スキャットだ。1966年ということは高校生だったはず。大ヒットした映画だが、封切りではなく、「センターシネマ」という今のソラリアの場所にあった二番館で親友のN君と一緒に学割80円くらいで観たのだと思う。スタイリッシュな映像に見入り、いかにも大人なアヌーク・エーメのベッド・シーンにドギマギするしかないハナタレ小僧だったのだけれど、おかげでピエール・バルーという不出世のヴァガボンドを知ることになる。
次に出会ったのはフランソワ・ド・ルーベ。といっても、それとは知らず親しんでいたのが1967年の『冒険者たち』で流れる哀愁の口笛メロディー。日本でも人気スターだったアラン・ドロンがリノ・ヴァンチュラと共演、ジョアンナ・シムカス演じるレティシアという儚げな女性をめぐる男の友情を描いた映画の中で印象的に使われていた。その曲が、同じくリノ・ヴァンチュラとブリジット・バルドーが共演した『ラムの大通り』のサントラと同じ作者によるものだと知ったのはずっと後のこと。そして、若くしてスキューバ・ダイビング中に事故死したド・ルーベと、『冒険者たち』で水中に没してゆくレティシアのシーンを勝手にオーヴァーラップさせ、グッと来ていたものだ。どこか懐かしいメロディーと、いきなり急展開する独特のスコアを残し海に消えた彼は、その後の『グランブルー』を持ち出すまでもなく、とてもフランス的なイコンだったのだろう。
ミシェル・ルグランとジョルジュ・ドルリューは大学生時代、新宿の名画座あたりでヌーヴェル・ヴァーグへの関心もあって、それぞれアニエス・ヴァルダの『5時から7時までのクレオ』と、フランソワ・トリュフォーの一連の映画で知ることになる。もちろん、ルグランに関してはそれ以前に『シェルブールの雨傘』の素晴らしいサントラにノックアウトされていたのだが、映画の中でピアノを弾く彼は才気走った音楽家の役を軽々と演じていて驚いた。実際に彼はアメリカに渡りマイルス・デイヴィスをはじめ、いろんな実力派のジャズメンと交流をするなど、フランスのミュージシャンとしては異例ともいっていい活躍をした国際派。ドルリューに関しては重厚でセンチメンタルな楽曲という印象で、トリュフォーの映画に欠かせない人なのだが、ゴダールの『軽蔑』にもマーラーを思わせる素晴らしいスコアを提供したことを忘れることが出来ない。そんなことを思い出すと、帝さんの話がますます楽しみになった。
Subscribe to:
Posts (Atom)