9歳で我が家にテレビがやってきたが、音楽はもっぱらラジオを通して楽しんでいた。三橋美智也からニール・セダカ、そしてビートルズが登場するくらいまで、ドーナツ盤を買うきっかけは、ほぼラジオだった。全国ネットのアメリカン・ヒットチャートはもちろん、地元のAM局も日課のようにチェックしていた。そんななかで、なぜか記憶に残っているのが前田武彦がやっていた東芝の洋楽番組。たしか夜の10時くらいだったか。マエタケさんの音楽ネタはイマイチだったけど、トークが面白かった。ソフトだけど社会の矛盾を突くようなジョークと、相手の女性アナを困らせるやり口に、青年はいたく刺激されたのだ。その彼は、テレビに進出して『ゲバゲバ90分』で人気を獲得するのだが、フジテレビの番組で「共産党バンザイ」をさけんで降板させられ、芸能界からフェードアウトしていった。ちなみに、彼はもともとタレントではなく、番組の構成や台本を手がける「放送作家」。そして、戦争中は海軍で「特攻」の訓練を受けた経験の持ち主だ。
その『ゲバゲバ90分』といえば、大橋巨泉だろう。彼もスタートは放送作家で、ボクが初めて遭遇したのは、やはりラジオのパーソナリティとしてだった。タイトルは忘れたけど、深夜帯だったか、ジャズを紹介する番組だった。カーメン・マクレエの唱法がサラ・ヴォーンと如何に違うかってことや、落語や賭け事の話を熱心に語っていた。自分の趣味やスタイルを持っている”いい加減な大人”という感じがリアルだった。その後の彼は、ある時期芸能界に君臨し、数々の名物番組をモノするようになるのだが、やはり『イレブンPM』が忘れがたい。ぼくも、葡萄畑というバンドで、一度だけ出演したことがある。東京をはじめ、各地にライブハウスが登場し始めた頃だ。ぼくらがそんなシーンで「最も注目されているバンド」というコメントに、当日夜の放送を観てびっくり。僕らの演奏は事前に収録されてその日の夜に放映されたのだった。スタジオに朝から入り、楽器をセッテイングしたものの、その後はひたすら待機。ようやくビデオ撮りが終わったのは夕方近く。入れ替わるように、氏は例の笑いを響かせてスタジオに入ってきた。まるでオーソン・ウェルズの登場みたいに、周りのスタッフに緊張感が走った。話しかけたかったけど、できなかった。
バンクーバーへ行くことを決めた時、巨泉氏が59歳で「セミリタイア」をして日本脱出した先がそこだったことを思い出した。彼は今、病と戦っている。社会や政治にコミットするタレントが、また日本からいなくなってしまうのだろうか。
その『ゲバゲバ90分』といえば、大橋巨泉だろう。
バンクーバーへ行くことを決めた時、巨泉氏が59歳で「