久しぶりにチェンマイへ行き、以前と同じホテルの同じ部屋に泊まり、ほぼ同じ店で買い付け、同じ食堂で食べてきた。ホテルは、建物や部屋にそれなりの経年変化はあるもののいたって清潔で、スタッフの自然な応対も良かった。フォークロアな店やアンティック屋も健在で(一軒は、郊外の古い農家に移転していたけど、それは店主の自主的な決断であり、正解)気に入ったものをじっくり選ぶことができた。
そして、なにしろメシである。前回は岡本仁さんと一緒だったから、チェンマイ中の美味しい食堂を食べ歩く、めくるめく初体験ずくしだったから、今回はおさらい旅というわけだ。
まずは「カオソーイ」。いわばカレーラーメンといったところだが、日本のそれとはかなり違う。カレー+ココナツミルク・スープ+卵麺&高菜の漬物+ライムたっぷり絞りというエキゾチックなしろもの。インドや中国、それに南国がミックスした、この地やラオス北部ならではのローカルな食べ物なのだ。久しぶりだったので、最初口にした時には「えっ、こんな味だっけ?」と思ったが、食べ進むにつれて夢中になってしまい、スープも全部飲み干してしまった。この複雑な味わいは、一体なんなんだろう?きっと、いろいろな民族が交錯したあげくの、国境を超えた味わいにちがいない。
タイ料理は「辛さ、甘さ、酸っぱさ」のミックスといわれているけど、それに加えて、チェンマイや北部では「独特の香りと苦味」つまりハーブを多用した家庭料理が味わえる店がある。ただし、外観は思いっきり普通の国道沿いドライブインっぽかったり、何の変哲もない食堂だったりしてオシャレとは無縁。でも、そこで味わう料理はまさに医食同源、ハーブ(というか野草)も一緒に、自然の恩恵を体に取り込む感じがする。お馴染みになったパクチーやレモングラスはもちろん、コブみかんや、クミン、それにドクダミだって豚肉と一緒に食べると不思議に清涼感が増してイケる。おかげで、6日間の滞在中は日本にいる時と違い、朝のルーティーンもどっさり快調だった。
前回訪れて、今ひとつピンとこなかったのがベジタリアン食堂。ホテルから歩いて10分とあって、相棒はホテルの朝食を無視ってイソイソと出かけ、感無量で戻ってきた。あまりにも幸せそうな彼女にほだされて、翌朝は僕も同行することに。で、結果はというと、野菜や豆腐、それにキノコなどを使った、とてもバラエティに富んだスパイシーな味は、とても良く工夫されていて、あらためてビックリ。ただ、どれも煮込み系なので見た目は似通っていて「甘いか辛いか、食べてみらんと分からん」というスリルが苦手なのかも。昨夜食べたコブ牛のステーキの噛めば噛むほど味が増す赤身が忘れられない自分は修行が足りない肉食老人なのか。
そこにいくと、カオニャオ・マムアンは老若男女を問わずおすすめできるスウィーツといえる。ただし、熟したマンゴーとお米という組み合わせに、まずはドン引きする。我が日本人にとって、神聖なる主食であるコメと甘い果物を一緒くたに食するのは、どうにも腰が引けるのである。ところがドーシテ、これが美味しい。まず、コメと言っても少し塩味を利かせたもち米、それにお好みでココナツミルクを掛け、完熟の甘いマンゴーと一緒に口へ放り込む。すると予想だにしなかった至福の口内融和がはかられ、一気に完食へとひた走るはめになってしまうのだ。ぜひとも、ワルロット市場内でお試しあれ。やみつきになります。
とまあ、コウ・ケンテツさんじゃないけど、試すとやみつきになるタイ北部の家庭料理ですが、これもひとえに”ヴァナキュラー”、つまり「土着」の精神から生まれたものじゃないかと思ったわけです。一方、「ローカル」というと、ややもすると「中心」から離れた地域の特性を利用した経済活動に起因する言葉のような気がする。そうではなく、”土着”って、そこにいる人達が自分らしく自立して生活をしてきたスタイル(様式)なのではないか、と思い知らされたチェンマイ旅だったわけです。
Thursday, April 6, 2017
Friday, January 13, 2017
ささやかな選択。
さんは、一つ返事で「いいね」と答えてくれた。
オーストリアからチェコを抜けポーランドの高速に入ったら、制限スピードが130から140kmへと変わる。気が付かなければ、いつ国境を超えたのかまるでわからない、ここはEUなのだ。しかし、難民やテロ問題のせいで、このシステムも将来的にはなくなってしまうかもしれない。パスポート・コントロール無しで国境を行き来できることが、一瞬の間だけ、地球上で実験されたことがある、なんて将来歴史の教科書に載るのかもしれない。ナチス・ドイツが突然ここポーランドに侵攻したのは1939年だったか。無論パスポート無しだった。
11月の東欧の地面は堅く冷たく、どんよりと重い雲の間から時おりお情けのように陽が差していた。目の前の広大な敷地に残る数個のバラック建ての小屋にびゅーびゅー寒風が吹きつける。ここは、ビルケナウ。隣接するアウシュヴィッツが手狭になり、「選別」された人々が限られた時間を過ごした絶滅収容所。虚無の光景。
家畜用の列車で運ばれてきた人々のうち、まず労働力と見なされない子供や老人、衰弱した人などはガス室へ直行。その割合は到着した人の70%ともいわれる。残った人々はユダヤ人、ロマ、政治思想犯、同性愛者などに仕分けされ、劣悪な環境の施設へ押し込まれる。その後も選別は定期的に行われた。素裸にされ、SSや医師の前を走らされるのだ。だれを選ぶのか。基準はあいまい。セレクターの気分次第。誰もが精一杯元気なふりをして走り抜けるしかない。人間は、選別されることに慣れていない(どちらかといえば、選別することを好んでいる)。そして「死のオーディション」をスルーした人にとっても、その後に「生活」が待っているわけでもない。
アウシュヴィッツの展示室には、到着した収容者の所持品が展示されている。名前と住所が書かれたトランク、皿やコップ、入れ歯、眼鏡、靴、ブラシ。どれも、ひとりひとりの生活に密着したものばかりだ。
大江健三郎だったか、「生活とは習慣をつづけること」と言ったのは。朝起きると、いつも通り、顔を洗い、歯を磨き、トーストにバターを塗り、砂糖を少し入れた紅茶を飲み、新聞を開いて「あ~、やっぱり今日も総理大臣が変わってない」とため息をついてトイレに入る。そんなルーティーンは、思っている以上に大切なもので、案外「自由」というものに近い。それらは老いや病によって次第に変化し、制限を受け、最後には手放さざるをえない。ところが、ここでは列車から降りた瞬間から、剥奪されてしまう。山と積まれた色とりどりのホーローのコップやジャグには、今も、ひとつづつのささやかな選択が残されたままである。
Tuesday, December 13, 2016
ウィーン世紀末の試み。
「装飾は犯罪である」と言ってのけたアドルフ・ロースに対し、同時代のヨーゼフ・ホフマンは装飾そのものは否定せずに、装飾にヴィジョンを持ち込もうとした。そのために設立したのが「ウィーン工房」。といっても個人アトリエではなく、正式名称は「ウィーン工芸美術家生産協同組合」。建築、インテリア、家具、照明、器など、それまでは富裕層しか買えなかったスグレモノを、さまざまなデザイナーと職人が協力して、安価で洗練された作品として生産することを模索した社会主義実験ともいえる。しかも、その製品を自分たち自身で販売するという、当時としては画期的な試みだったのだ。
その母体となったのは1897年世紀末ウィーンの画家として有名なグスタフ・クリムトらが結成した「ウィーン分離派」と呼ばれる芸術家グループ。その立ち上げに参加したホフマンは「セセッション館」と呼ばれる、世界初のインディペンデントなギャラリーを開設する。制作から、販売、プロモーションまでを統一したいというヴィジョンだ。これは、同じくイギリスの「アーツ&クラフツ」から影響を受け、同じようなヴィジョンを持ったバウハウスが登場する以前だから驚く。
「セセッション館」の比較的広い1階スペースは、あいにく何かの展示の準備の真っ最中らしく、資材があちこちに散らばっていた。ぼくらは地下にあるクリムトの壁画や、2階の企画展を観てしまうと、このこじんまりした通称”黄金のキャベツ”をあとにしようかと1階のエントランスに向かった。そして、準備中とおぼしき広いスペースの向こう側をドアのガラス越しにもう一度覗いてみた。すると、入り口から真正面、距離にして30メートルほど先にスッポリと開口部が見え、そこから庭の木々と明るい陽光が差し込んでいて、まるで写真だ。
「やられた、これは作品なんだ!」
「準備中」に見せかけたスペースはまるごとマルセル・デュシャンのレディメイドやクルト・シュヴィッタースのメルツ芸術やダダイスム、そうそう、ドナルド・ジャッドのミニマリズムに大竹伸朗も紛れ込んだようなインスタレーションだったのだ。
作者はベルリン在住でグルジア出身の女性アーティスト、テア・ジョルジャッツェ。彼女によって発見された日用品や廃棄物と、彼女が制作した作品が静かに再構成され、ジャストな位置に配置されている。しかし、どれが「ファウンド・オブジェクト」で、どれが「制作物」なのか判然としない。これは、さまざまな緊張関係の中で生きていかざるをえない現代生活への「気づかせ」なのか、それとも直感的で個人的なスタイルか?ネットで見つけたインタビューでのテアは、黒髪と黒い瞳にハッキリとした眉毛が印象的な美人(アッバス・キアロスタミが生きていたら、きっと映画に起用したに違いない)。ヨーゼフ・ホフマンが模索した「ヴィジョンとしての装飾」は、形を変えながらも、このセセッション館で今もなお「続行中」なのだ。ウィーンに行く機会があれば、ぜひ覗いてみてください。
ところで、日本に帰ってきてふとルーシー・リーを思い出したのは、彼女がウィーン出身だったから。急いで作品集を引っ張りだして拾い読みしてみた。すると、ルーシーがウィーンの美術工芸学校で初めて陶芸を学んでいたころ、その学校と関係の深かったヨーゼフ・ホフマンが彼女の作品を高く評価していたくだりが見つかった(実はアンダーラインを引いていたくせに、すっかり忘れていたのだけど)。そればかりか、彼が設計したブリュッセルのストックレー邸に、クリムトの壁画とともにルーシーの作品を配置し、もちろんウィーン工房でも販売し(ほとんど売れなかったらしいが)、その後ヨーロッパ各地の展覧会に出品して賞も得ている。つまり、ホフマンはルーシー・リーのスタイルを最初に発見した人。なぜかエヘン、と言いたくなった。それ以来、エンドレスな陶芸への道を歩むことになるルーシーにとって、「世紀末ウィーン」こそがスタートラインだったのだ。
その母体となったのは1897年世紀末ウィーンの画家として有名なグスタフ・クリムトらが結成した「ウィーン分離派」と呼ばれる芸術家グループ。その立ち上げに参加したホフマンは「セセッション館」と呼ばれる、世界初のインディペンデントなギャラリーを開設する。制作から、販売、プロモーションまでを統一したいというヴィジョンだ。これは、同じくイギリスの「アーツ&クラフツ」から影響を受け、同じようなヴィジョンを持ったバウハウスが登場する以前だから驚く。
「セセッション館」の比較的広い1階スペースは、あいにく何かの展示の準備の真っ最中らしく、資材があちこちに散らばっていた。ぼくらは地下にあるクリムトの壁画や、2階の企画展を観てしまうと、このこじんまりした通称”黄金のキャベツ”をあとにしようかと1階のエントランスに向かった。そして、準備中とおぼしき広いスペースの向こう側をドアのガラス越しにもう一度覗いてみた。すると、入り口から真正面、距離にして30メートルほど先にスッポリと開口部が見え、そこから庭の木々と明るい陽光が差し込んでいて、まるで写真だ。
「やられた、これは作品なんだ!」
「準備中」に見せかけたスペースはまるごとマルセル・デュシャンのレディメイドやクルト・シュヴィッタースのメルツ芸術やダダイスム、そうそう、ドナルド・ジャッドのミニマリズムに大竹伸朗も紛れ込んだようなインスタレーションだったのだ。
作者はベルリン在住でグルジア出身の女性アーティスト、テア・ジョルジャッツェ。彼女によって発見された日用品や廃棄物と、彼女が制作した作品が静かに再構成され、ジャストな位置に配置されている。しかし、どれが「ファウンド・オブジェクト」で、どれが「制作物」なのか判然としない。これは、さまざまな緊張関係の中で生きていかざるをえない現代生活への「気づかせ」なのか、それとも直感的で個人的なスタイルか?ネットで見つけたインタビューでのテアは、黒髪と黒い瞳にハッキリとした眉毛が印象的な美人(アッバス・キアロスタミが生きていたら、きっと映画に起用したに違いない)。ヨーゼフ・ホフマンが模索した「ヴィジョンとしての装飾」は、形を変えながらも、このセセッション館で今もなお「続行中」なのだ。ウィーンに行く機会があれば、ぜひ覗いてみてください。
ところで、日本に帰ってきてふとルーシー・リーを思い出したのは、彼女がウィーン出身だったから。急いで作品集を引っ張りだして拾い読みしてみた。すると、ルーシーがウィーンの美術工芸学校で初めて陶芸を学んでいたころ、その学校と関係の深かったヨーゼフ・ホフマンが彼女の作品を高く評価していたくだりが見つかった(実はアンダーラインを引いていたくせに、すっかり忘れていたのだけど)。そればかりか、彼が設計したブリュッセルのストックレー邸に、クリムトの壁画とともにルーシーの作品を配置し、もちろんウィーン工房でも販売し(ほとんど売れなかったらしいが)、その後ヨーロッパ各地の展覧会に出品して賞も得ている。つまり、ホフマンはルーシー・リーのスタイルを最初に発見した人。なぜかエヘン、と言いたくなった。それ以来、エンドレスな陶芸への道を歩むことになるルーシーにとって、「世紀末ウィーン」こそがスタートラインだったのだ。
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