東京とは、意外にもローカルなんだと知ったのは学生時代、間借りしていた地下鉄丸ノ内線の新高円寺から国電の高円寺にあった<ムーヴィン>までふらふら歩くときのことだった。果てなく続く商店街は、焼き鳥屋、電気屋、古道具屋、薬屋、パチンコ屋、洋品店などなど、生活臭く垢抜けなかった。
ところが、いったん街へ繰り出しても事態はそう変わらなかった。たとえば自分のコースである原宿で降り<メロディハウス>で輸入盤をチェックする竹下通りも、当時はまだ普通の商店街にすぎなかった。たまに表参道側を明治通へとだらだら坂を下ってゆくと、<オリンピア>の前で青い目の子供がスケボーをしていたが、その高級アパートの住人の子供だった。ぼくの友人は東京でまだそこにしかないという地下のコインランドリーで一週間分の洗濯をするというプチ・ブルだったからたまに付き合ったのだ。なんだかアメリカの租界地みたいだった。<セントラルアパート>には大いに興味を抱いていたけど用事はなかったし、<同潤会アパート>はとても古びていた。原宿は垢抜けてはいたが、人もまばらでローカルな場所だった気がする。
原宿から渋谷へは、ポケットが寂しかったから、今で言う裏原宿をだいたい歩いた。途中に名前は忘れたけれど、ちょっとフランスっぽいけど、よく見ると日本製だったりする日用雑貨屋があってかならず立ち寄った。そうして宮下公園のガードを抜け左に曲がって西武百貨店地下の<Be-in>へ向かった。
そこは、言ってみればイギリスの出島だった。ポール・マッカートニーが映画『レットイットビー』で着ていたと思しきヘンリーネックの古着シャツを、なけなしをはたいて購入した。消防士が着るヒドく重いメルトンのコートも悩んだあげくの数週間後、工面して羽織った(でもヘヴィーすぎて結局着なかった)。”フール・オン・ザ・ヒル”だ。同じフロアにあった高橋幸宏のブティック<BRICKS>はとてもスノッブだった。隣には<COZO>という名のだぶだぶズボンを締めあげた飛び切りヒップなインディ・ブランドもあった。ある日など、加藤和彦がミカと連れ立って、ジョンとヨーコみたいにそぞろ歩いていて、そこだけは"突然ワンダーランド"だった。
西武百貨店を出て道玄坂方面へ向かうと、人通りは多いがまぎれもなく商店街っぽく、靴屋とか布地屋などもあり戦後の闇市的な痕跡があった。坂を登り<YAMAHA>へ入り、輸入盤を物色。しかし買わずチェックだけ。通りの向こうには遠藤賢司のカレー屋<ワルツ>があるけど入らない。その手前を右に曲がり、迷わず百軒店の路地のロック喫茶<Black Hawk>へ詣でるのだから。
ドアを開けるとすぐの場所に、松平さんがいつものように静かに座っている。ここはいわば音楽の寺子屋だったから、ひたすらカナダのSS&W達のレコードに耳を傾けるしかない。油断して友人とおしゃべりにかまけていると、女性スタッフが近づいてきて「お静かにお願いします」というボードを差し出されてしまう。退屈・渇望・焦燥が奇妙に同居していた。
現在、昔の渋谷村だった所が恐ろしい勢いの再開発真っ最中らしいことは、編集者の岡本さんからも聞いていた。彼はぼくより5歳年下だが、70年代のカウンターカルチャーに触発されたことでは同じだろう。沸き立つ政治の時代にシラケながら、東京の街なかを徘徊していたにちがいない。そこは適度に雑多で、他の場所とは違う”独自の癖”をもつ場所だったはずだ。セレクトショップが押し込まれたビル群は、「進化」でもない。それは繰り返される「変化」にすぎない。寿限無寿限無五劫の擦り切れは続く。