仏教にかぎらず、キリスト教やイスラム教もそうだけど、有名な宗教は、シッダールタや、ジーザス、マホメットたち、いわば予言者達が語った言葉に、死後、弟子たちが様々な解釈を加えて経典化していったもの。いわば「個」の発言が次第に強大化、組織化しながら分派を繰り返して広まり、いわゆる「世界宗教」となっていった。くわえて、その過程で、いつのまにか、一番大事な(だと僕は思う)「倫理」の代わりに、共同体や国の為の「道徳」みたいな役割を担わされることにもなってしまう。そうなると、最初にあった個的なモチベーションはだんだん変質せざるをえない。その上に「ご利益」という側面が反映され、人々の様々な欲望に応えるべく、たくさんの神様仏様が現れ、混交することにもなる。仏教も、次第に、何かのためのストーリーとして語られるようになってしまい、「自身の解脱」などは「高尚な哲学」として済まされてしまい、経済至上主義のポピュリズムに飲み込まれてしまう。
スリランカで出会った仏様は涅槃像、つまり”ゴロンとなられた姿”が多かった。僕には、なんだか「生まれ変わり=輪廻」を絶って、なるだけなら人様に迷惑をかけず、一生をなんとかやり過ごそうとするポーズに見えてしかたなかった。でも、目だけは見開いて、なんだか心配そうでもある。